恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

仏教的な人

2023年03月01日 | 日記
 先月、ある出版社の企画で、養老孟司先生と対談しました。大変勉強になり、有り難い時間でした。
 
 実は、養老先生とのご縁は、今回が初めてではありません。

 最初は、先生の著作が文庫化された際に、末尾の解説を依頼されて執筆した時です。

 原稿を読んだ私は、高名な科学者が、自分の研究に使う「方法」に対して、これほどまでに意識的であるのに驚き、同じ科学者がほとんど当たり前に使っている方法の意味を、かくも自覚的かつ反省的に思索しているとなると、業界(「学会」)では「浮く」だろうし、出世しないだろうなあ、と思ったものです。

 と、同時に、間もなく日本では類まれな、傑出した思想家になるのではないかと思いました(当時すでになっていたのかもしれません)。この予想は、かなりの線で当たっていたと言えるのではないでしょうか。失礼ながら、このことを先生に申し上げると、頬をゆるめて笑っておられました。

 二回目は、私の著書がとある賞を受けた時の、受賞パーティーの席で、直接お目にかかりました。先生は選考委員のお一人だったのです。当時は十分なご挨拶さえできなかったので、本格的にお話したのは、今回が初めてです。

 印象的だったお話を少し。

 先生は幼少期から80歳を超える今もなお、昆虫採集をなさっているそうです。それも東南アジアの山奥まで出かけると言うのです。これは、ただの「趣味」ではありますまい。

「先生の昆虫採集はただの趣味ではないでしょう。あえて言えば、何なのですか?」

「まあ、修行かな・・・」

 なるほどなあ、と思いました。

 先生は著作の中で繰り返し、「自然は切れていない、つながっている」と主張されています。つながっているものを切るのは、言語を持つ人間の意識と思考、すなわち「判断」や「区別」、つまり概念化です。これが物理的には脳内で行われるので、先生は「脳化」と呼ぶわけです。

 近代以降、人間による「脳化」は著しく進んで、自然から生活圏を切断する都市化は、著しく大規模・複雑化しますが、人間が生物であることに変わりはなく、根本的に自然とつながっていることにはかわりはありません。その事実を忘れることは、人間の存在を深く広く蝕んでいくに違いありません。
 
 私が思うに、先生の昆虫採集は、この自然とのつながりを具体的に維持する行為であり、先生の思想のリアリティを保証しているのだと思います。昆虫採集は、確かに虫を殺す行為でしょう。しかし、その行為を通じて、先生は自然に対して敬虔であり続けているのだと思います。

 先生は今、昆虫の絶滅が急速に進んでいることを危惧しておられました。しかもそれは、大規模な保護区でも同様なのだと。これは人間による「環境破壊」とは別な、地球上の生物の在り方自体の危機ではないかと、先生は思われているようでした。

 他方、先生はいわゆる「SDGs」に批判的でした。それは「脳化」した人間の都合に過ぎないというわけです。自然とのつながりを尊重することではなく、現在の人間の「都会的な暮らし」を今後も持続させたいだけだと。

 私も以前から思うところがありました。「環境保護」というのは、傲慢な考え方だと。

「環境」とは、人間に都合よく加工された自然のことです。加工されている以上、場合によっては、その「環境」は「破壊」されるでしょう。

 しかし、自然は「破壊」されることは決してありません。言うならば、物理的な組成が変わるだけです。人間のせいで山が崩れようが、海が干上がろうが、生物が絶滅しようが、そういうものとして「自然」なままです。

 つまり、「脳化」した人間は「環境破壊」をしきりに心配するかもしれないが、もっと問題なのは、生物としての実存のレベルから、自然との回路をどのように維持するか、という発想ではないかと思うのです。その視点が無いと、結局、人間は文字通り「命脈を断たれて」「自然的に」消滅するでしょう。

 対談を終えた後、出版社の編集者が言いました。

「何だかお二人は、シンクロしているところが多かったですねえ」

 先生は「仏教信者」ではありません。「仏教者」でもありません。しかし、とても「仏教的な人」でした。

 この対談は後日、先生の対談集の一部として出版されます。



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