恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

言葉をなめるな。

2023年02月01日 | 日記
 先の大戦末期、敗色濃いナチスドイツは、戦場で自軍が包囲されると、「要塞が築かれた」と発表したと言う。同様にわが国では、当時の大本営が、部隊が敗北して撤退を余儀なくされると、「部隊が転進した」と言い張った。姑息で欺瞞に満ちた言い換えである。

 こんなことを思い出したのは、昨今突如登場した「敵基地攻撃能力」という物騒な言葉を見たからである。これを政府はたちまち「反撃能力」と言い換えた。そう言うからには、当方が攻撃された後の反撃の話かと思えば、向こうが攻撃「しそうになったら」、「反撃」するのだと言う。これは普通、「先制攻撃」である。

 だいたい、「反撃能力」を行使したら、相手が黙って降参するならともかく、どう考えても「反撃」してくるだろう。逆に、当方が攻撃されれば、少なくとも自衛隊は「自衛」の反撃をするはずだ。ということは、どちらが先に「手を出しても」、必ず戦争、少なくとも交戦状態になる。

 一度そうなれば、勝敗はもちろん重要だが、場合によってはそれ以上に重要なのは、どちらの戦いに「大義」があるか、ということである。これは自軍の「士気」、さらに第三国・国際社会の「支持」にかかわって、多大な影響を与えることになる。今のウクライナとロシアを見よ。

 この時、「大義」は普通、先制攻撃「された側」に傾くだろう。実際の事情はどうあれ、先に攻撃された側は「何もしていないうちにやられたから、万事止む終えず、やり返した」と主張するに違いないし、第三者にも、そう見えるに違いない。

 今回政府が持ちだして来た「反撃能力」は、相手がこちらを攻撃することが「確実だとわかった」時に行使すると言う。これはどう見ても馬鹿げた考えである。

「殴る気が確実にある」とわかるのは、殴った後だけである。その前は、いかに殴る準備を「緻密・完璧に」しても、それと「気が確実にあるか」は、直接関係ない。その関係を証明できない。どんな状況でも人の「気は変わり得る」からである。

 戦争と喧嘩は違うと言うかもしれないが、論理は同じであり、「大義」の宣伝と説得は、基本的に論理と情念の戦いである。論理的に負けていては、情念の支えも危うい。

 私は、この種の「言い換え」を行うような馬鹿げた考えで、この政府が国の将来に関わる決定をしていることに、非常な危惧を覚える。そして、この程度の浅知恵で、使途の有効性がよくわからぬ巨額の防衛予算を計上する者達に、不信の念を禁じ得ない。

 その上、アメリカが戦争を始めたら、我が国がまだ攻められないのに一緒に「反撃」する(それはただの攻撃である)がごとき約束をしているようでは、ますます不安が募る。

 さらにもう一つ喫緊の危機は、私に言わせれば、この国の少子化と高齢化である。その少子化について、同じ政権は「異次元」の取り組みを行うと言う。

 そこまで言うからには、少なくとも、防衛予算の倍くらいの金を用意するつもりだろうと、私は思う。なにせ「異次元」なのだから。まさか、「何かの手当てを割り増します」程度の、「小手先」の話ではあるまい。

 たとえば、保育園から大学まで、少なくとも国公立は全額無償にして、保育士や教員の待遇と定員を倍増するとか。父母を問わず育休を法律で義務付け、それを実現し得る社会体制を整備したり、「結婚」の形態を同性婚を含んで大幅に拡大して、「家族」の自由度を上げるとか。なにせ「異次元」である。常識的には無理だろうということをやってみせて、はじめて人は「異次元だ」と納得する。

 そもそも、「出生率」を上げよう、などという発想がダメだ。これは相変わらずの昭和オヤジの「経済成長」前提の物言いである。大事なのは、「率」や「数」ではなく、何より個々の子供を大切にし、親が子供を育てやすいようにすることだろう。このオヤジ的発想を「異次元」に転換してから、「政策」と呼ばれるものを出すべきなのである。

  防衛政策にしろ少子化対策にしろ、膨大な金がかかる問題である。国債だろうと税だろうと、その調達は困難を極めるに違いない。それを国民に求める「異次元」の説得力を、今の政治家の誰が持つのか?

 と、思っていたら、つい最近、「異次元」を言い出した当の首相の与党議員が、「産休中にリスキリング」などという、およそ昭和オヤジ丸出しの阿呆なことを言い出した。「リスキリング」なる耳障りなカタカナを国会で使う政治家のセンスも駄目だが、これを「後押しする」と無邪気に言う首相に、およそ「異次元」はあり得ないだろう。

 これで知れる。言葉をなめてはいけない。

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