恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

言い訳的身の上話

2010年10月10日 | インポート

 今まで私が何冊か本に書いたり、講演などで話したりしてきた内容の、基本的なアイデアや発想は、そのほとんどが10代終わりから20代の間に出てきたものです。

 当時は無知蒙昧の若造でしたから、自分が問題にしているテーマに、何かちょっと使えそうなアイデアを思いつくたび、こんなことを思いつくなんて、オレは天才ではないかと、ひとりで興奮していました。

 とはいえ、少々知恵がついてくれば、さすがに自分程度の人間が思いつくことは、ずっと昔に先賢がより鮮やかに、かつ徹底的に考え抜いていると、身にしみてわかってきますから、「天才」妄想は早々に醒めました。が、それでも、自分など及びもつかぬ賢人がかつて考えていたことと、つながるような考えに思い到ったことは、それはそれで嬉しい気持ちがしたものです。

 まあ、実際には、思いついたことにしても、それなりに使えたのは、百のうち二、三というところでしたが(特に夜中に思いついた「天才的アイデア」は、ほぼ例外なく、朝には愚にもつかぬタワゴトとわかる)、質はともかく数として、アイデアと問題設定の産出能力は、20代で抜群、以降は衰える一方でした。

 そのかわり、30代に入って身についてきたと思われるのは、一種の構想力であり、構成力です。つまり、思いついたアイデアに、あちこちから調達してきた道具を使ってアプローチし、それなりの言説に仕立て上げる力です。私が永平寺の機関誌や、曹洞宗内の刊行物に論考を発表し始めたのも、この頃からでした。

 ところが、そういった書き物や講演は、自分の思い入れを、ともかく力ずくでモノにしたような代物でしたから、読み手や聞き手に妙なインパクトを与えはするようなのですが、どうも話の本筋が通じなかったような気がしました。

 40代になって、書くにしても話すにしても、宗門の外に位置する不特定多数の人々に相対する機会が増えてきて、ようやく少しずつつ持ち合わせるようになったのが、いわばコミュニケーション能力だと思います。あるいは、話を通じるようにさせる、インサイドワーク的なテクニックです。

 今でも、自分自身に内発的なものを感じなければ、書いたり話したりできないことは同じですが、出版する際に編集者と行う共同作業や、講演等で出会う様々な経歴の人たちとの対話を通じて、40代以降、アイデアを伝達するという意味で、自分の言葉により意識的になったとは感じています(それにしては、相変わらずわかりにくいじゃないか! と叱られることが多いですが)。

 というわけで、ここまで、得たものあり失ったものありの30年でした。では、今、50代に突入して、如何!?

 正直言って、逆さにして振っても何も出ません。有り難いことに、最近でも、いくつかの出版社から、本のお誘いをいただいたり、ときおり方々から講演の申し込みをお聞きするのですが、突飛な発想力も勢いまかせの力技も、大向こうにアピールできるアレンジ能力も、完全にピークアウトしていて、ご意向にそえないことばかりです。

 しかし、そうであるにもかかわらず、今なお、何かしなければならない、何かできるという意識だけは、なおも頭の芯の部分をじりじり焼いている。これは、はて、どうしたものか?

 以上、このところ不義理を重ねている皆様に言い訳とお詫びです。すみません。

追記:「なおこ」さんからコメントをいただいたとおり、11月に『語る禅僧』の文庫版が出ます。単行本は古書店で一時期、驚くほど法外な値段で売買され、著者の私にも苦情がきたりしましたが、ようやく今後は、ご迷惑をおかけせずにすみそうです。興味ある方々には、よろしくお願いいたします。また、高額の古書を買っていただいた皆様、申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございました。


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9 コメント

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秋も日ごとに深まり、ようやく木々も色づく頃とな... (へいワ)
2010-10-19 22:46:19
秋も日ごとに深まり、ようやく木々も色づく頃となりました。ひさしぶりにコメントをさせていただきます。
まず、以前に性急にお答えを求めるようなコメントをいたしましたこと、気になっておりました。申し訳ございませんでした。こういう場で言えることは限られているはずなのに。。ただ、尊敬していない訳ではなく、崇拝だけで満足できないだけです、、また誤解される言い方かもしれませんけれども。
長い年月を要する問いを、いつ安定があるのかの保証もないに考えて、自分の考えを広く述べるようになれるのは容易なことではないと分かっているつもりです。年月をかけて手にされている手段を生かすことが、誰かの(厳しいものでも^^;)助けになる可能性は尊重されなければ、と思います。私も、今回のお話などは切実に…。もし身近にこんな変わり者(かもしれない、すみません)先輩がいたら、また少し心強かったろうと思います。
ひとつだけ思ったことは、「ひらめき」の機会は、すべてのものにとって平等に与えられているのではないでしょうか。(若い頃にアイディアをどのように生みだされたのかは詳しく知りたいのは最もなのですが…私には色々なことが向いていないと思っているので。書物を書く等の段階で、自分の位置や切り口を見つけるのは大変だとは思います。)でも「ひらめき」は誰もが持ちうる素朴な感覚で十分ではないのでしょうか。人によって差があるように見えるのは、「ひらめき」を現実的な形にする方法や進度が違うだけのように思えます。絵を描くとか、親であるとか、生活するとか私には簡単にできませんが、そういう何か持っているような人とも、素朴な感覚の部分で一緒に居ることができているので。
頭を使うものは、漠然として大きい「ひらめき」の感覚を、現実的で緻密な形にするための道具だし、、素朴で共通の感覚ほど現実的な形にするのは「難しい」と思います。でも、進歩や深遠化があるとすれば、頭を使う技術的な部分と感覚的な部分の行き来においてではないかとも…思います。(なので、世間を離れて独りで思考するのは、頭を使って社会的な表現として出す過程を欠いてしまいがちになる恐れはないのでしょうか。独りだけで考え続けられたら、その方がどんなにいいかと思いますけれど。)
確かに、歴史上たくさんの偉人が「難しい」事を考え抜いていますが、自分自身が自分の中を通して考えて「わかったと思う感覚」や満足だけは事実になると…思います(腹が減ったら自分がご飯を食べないといけないし、自分が食べたことは事実ではないですか?)「難しい」ことを完全にわかった人が本当にこれまでいたのかも、自分はその人ではないので判断できないはずです。もし、素朴な感覚だけど「難しい」事に関して深化がありうるとすれば、絶えず自分を通し続ける過程にではないかと感じます。だから「私」流?なのかと思っていました。
それに、年齢が離れていても、(また失礼なのですが、なんというか…)固くない方のときは世間話でも進みます。未熟な者と視点を合わせられる器の大きさにも原因はあるとは思います。その方に「難しい事を考えたって仕方ないよ」と言われても、私には考えを止めるには少し早すぎると思っています。止めたら多分、ぐ~たらして、自分の中は空っぽになる気がするので。でも、考えるのを続けられて何か持つことができたら、いつか全部譲ったり捨てたりしたいです。。
また内容のないことを書いてしまうので、これからも陰ながら拝読しています。
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南さんの教えはとても厳しいです。精神を覚醒する... (浅野)
2010-10-13 15:37:04
南さんの教えはとても厳しいです。精神を覚醒する力もあります。変わるとは一人一人の自覚が変わって全体が変わると思うのですが、奇跡に近いですね。けど、まず死なない工夫が先決ですかね。
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○○○○○○○○○ (虚空)
2010-10-13 12:53:50
○○○○○○○○○
南方丈様へ
空に秋茜舞い山々は衣更え心和む候…
こんにちは虚空です。
此度の南方丈様の問い…言い訳だろうが、無かろうが『体験し気づいたこと』に間違いはない!と、私は思います。
後…なぜか?ふと心に如浄禅師様の言葉がよぎりました。
浅学の私が、もの申すのも…お恥ずかしい限りですが何卒お許しのほど…。
◎道元様が如浄禅師様のもとで悟道し嗣法後、『宝慶由緒記』によれば…
そのころ如浄禅師様は病をえておられたが、道元様に日本に帰るよう厳命されたようです。
如浄禅師様の厳命
『私が教えることはもうない。あなたは一刻も早く日本に帰り正伝の仏法を広めなさい。
あなたが私に参じて…かろうじて間にあったように、少しの時間のズレでも取り返しのつかない事がおこる。
あなたとの巡り合いを待つ人がいるのだ。遅れてはならぬ。』

如浄禅師様の厳命に師僧の安否を気遣いながらも帰国を決意し出発の前夜、如浄禅師様に別れの挨拶をするために入室すると…
如浄禅師様は…
芙蓉道楷の法衣と、
洞山良イ介の「宝鏡三昧」「五位顕訣」と、
如浄禅師様の頂相=肖像画を道元様に授け…『帰朝したら(日本に帰ったら)、国王大臣に近づかず、都会に住まず、深山に住みなさい。
多くの門人を得ようとせず、真実の道人を育てなさい(一箇半箇を接得せよ)。
もし一人でも真箇の弟子を育てれば、法が後世に伝わる。それが古仏の家風をおこすことだ。』
と、{一箇半箇の接得}をして正法を断絶させるな!と道元様に再度厳命し委嘱されたそうです。
昨今の世の中…
道元様が生きておられた時代のように、暗い世相の中で、悩み、救われる何かを求めている人々が大勢います。

日本を百人の村とすれば70名の人々が救われる何かを求めています!

そのうちの35名は、その救われる何かに出合えず自殺してしまいます!

そのうちの35名は救われる何かに出合いました。

後の30名は救われる何かを必要としていない人々であり、権力と富と名声を持っています。

迷い苦しむ人々の多くは真実の道を求め!寺社仏閣に足をはこびます。

そこで南方丈様が出来ることをなされるは如何でしょうか?

例えば{仏縁を繋ぐ}
①在家の方々には坐禅会と悩み事相談と傾聴等々~
②出家悟道を選択する人々には出家の道を繋ぎ真実の道人が育つようにする。
南方丈様なら一箇半箇の接得をして正法を繋ぐと信じ!
金剛合掌 虚空 拝
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私の勝手な要望を述べさせていただきますと、世間... (tron岬)
2010-10-11 22:37:08
私の勝手な要望を述べさせていただきますと、世間と寺との垣根を少しでも低くするような、活動をしていただきたいです。
青空説法でも、市井に道場を開くのでも何でもいいのですが、・・・仏教がどれだけ役に立つ教えだとしても、寺院の中だけ、メディアの中だけでしか説法しない今のお坊さんのあり方に、寂しいものを感じます。

布教活動のようなことは、和尚さんの考えとそぐわないのかもしれませんが・・・。あまりにも、弱者に厳しい(おまけになんとも面白くもない)世の中ですから。


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 「語る禅僧」文庫化おめでとうございます。私も... ()
2010-10-11 06:21:43
 「語る禅僧」文庫化おめでとうございます。私も読めていなかったので、とても嬉しいです。
 先日、初めて日本を訪れ、日本文化を理解しようとされている海外の旅行者の方と、長時間お話をする機会がありました。彼らは敬虔なクリスチャンでありながら、日本の風景や茶道、芭蕉の英訳の俳句に感銘を受け、禅のスピリットに触れたい、と思ったようです。
 私たちがこの日本で、何気なく身につける(明らかに欧米の方とは違う)感覚を「美しい」と思う人たちがいます。道元禅師の言葉の本質を伝えてくださっている、方丈様の著作が英訳されると嬉しいな、と思います。
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今年も残り3ヵ月となり、月日が流れることの早さを... (南京ハゼ)
2010-10-10 13:50:54
今年も残り3ヵ月となり、月日が流れることの早さを感じます。
ふと、原因と結果というしくみを考えた時、勿論原因を明らかにすることは大切なのですが、ことによっては原因に縛られたまま(或いは結果に)になってしまうことがあるように思います。
因がつづいていく…というような考え方を最近知りましたが、何故か心強く温かく感じました。

日々様々のニュースを耳にし、また自分の中でも葛藤を感じますが、そのような中で…千手観音の手は余すことなく救うという泰然としたものというより、手を尽くそうとしているんだという感覚を知り、あぁと深く胸に響き、そのような仏教の世界に触れたとき、未熟ながらも今まで歩いてきて、さぁこれからも歩いて行こう…という温かさを頂きます。

仏教でいう慈悲や、キリストのいう愛は、全く詳しくはありませんが、そのようなものなのかなと思ったります。

秋になり、歩いていると、どこからともなく金木犀の薫りがしてきたり、月が間近に映ったりします。そのようなことどものかけらが、自分の有りようの断片として染みこんでいってくれたら素敵だなぁ…などと思いつつ、若干不審者の体で秋夜の散歩をしております。
全く門外漢でありますが、南さんのお話をいつも楽しみにさせて頂いております。
どうぞ心地よい秋の日をお過ごしになられますよう心よりお祈り申し上げます。

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Unknown (風蓮)
2010-10-10 11:45:09
>しかし、そうであるにもかかわらず、今なお、何かしなければならない、
>何かできるという意識だけは、なおも頭の芯の部分をじりじり焼いている。
>これは、はて、どうしたものか?


↑方丈様は、「不立文字」という禅宗の根幹を捨てておしまいになったのですね。
(とっくに捨てているようですが。)
衆生を救うという大義名分の本質は、「自分を世にアピールするため」なんですねぇ。
その自我を消滅させることは不可能ですから、ならば、その燃え盛る自我を
とことん追求する姿勢を貫かれた方が潔いですよ。


徹底して「自我に生きる」か、徹底して「無我に生きる」か。


中途半端な物書き人がこねくり回す仏教解説を読むより、
永平寺の名も無き修行僧の後姿を見ている方が「!」と感じた瞬間でした。




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Unknown (商魂)
2010-10-10 10:51:20
<投稿先を間違えた>

コメントにコメントしない南氏が、コメントを返したかとおもったら、内省に見せかけたコマーシャルか。
なんと商魂逞しい。

地獄の沙汰も、、、。

なんまんえん陀仏。
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なんていうんでしょうか。こういった「人間につい... (浅野)
2010-10-10 08:55:14
なんていうんでしょうか。こういった「人間について」の話しを聞くと、とても引きこまれます。そして率直な話しにはなおも聞き入ってしまいます。それは自分の問題でもあるからです。
不義理だなんて。私は南さんによって人生を揺さぶられました。一番揺さぶられました。こんな体験はそうそうないと思います。合掌。
語る禅僧。もう一度、本質はなにか、読み返してみようと思います。
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