先日、住職している寺のある地元の町で、住職22年目にして初めて、講演をしました。ようやくこの機会が!
「他国坊主、地侍」ということわざがあるそうです。坊さんは他所から来た人がありがたく見える、侍は地元で目を光らせている者が怖い、くらいの意味でしょうか。
やっぱり、常日ごろご近所をうろうろしている住職の話を改めて聞こうという気には、なかなかならないのかもしれません。
逆張りの言い方では「預言者故郷に容れられず」という言葉もありますし、中国唐代の高名な禅師には「君に勧む、帰郷すること莫れ」という一句で始まる偈があります。
故郷では君の子ども時代を知っている人が大勢いるから、大事な教えを説いたとしても、バイアスがかかって軽んじられてしまう、というようなことを言っているのでしょう。
実際、自分をよく知っている人たちの前で、偉そうな話をするのは気が引けるものです。私も、親・親族、修行僧時代の同期、檀家さんなどの前では実にやりにくい。要するに、みな私の過去の失敗や恥、欠点弱点をよく知っているからです。
ところが、そういう人達に限って、最前列にいて含み笑いをしていたりします(ひょっとして、いやがらせか!?)。
この日も、会場の公民館に100人くらいお越しいただきましたが、檀家さんも沢山おられました(前列にも!)
ただ、意外にも、翌日から月のお参りに回ると、そこそこ好評でした。「方丈さんのまとまった話を始めて聞いた」と言うのです。確かに、寺の法要でする説教や各家の法事での話などは、数分から20分というところでしょうから、90分の講演は印象が違うのでしょう。
私が嫌がるので、父や母は息子の講演に一度しか来たことがありません。その父が生前、そのときのことを母に言ったそうです。
「ちゃんと、堂々とした坊さんに見えたな」
ちょっと嬉しかったことを今も覚えています。檀家さんにも、「住所不定住職(と、言われたことがある)」でも「方丈」らしく見えたなら、嬉しいです。
「他国坊主、地侍」ということわざがあるそうです。坊さんは他所から来た人がありがたく見える、侍は地元で目を光らせている者が怖い、くらいの意味でしょうか。
やっぱり、常日ごろご近所をうろうろしている住職の話を改めて聞こうという気には、なかなかならないのかもしれません。
逆張りの言い方では「預言者故郷に容れられず」という言葉もありますし、中国唐代の高名な禅師には「君に勧む、帰郷すること莫れ」という一句で始まる偈があります。
故郷では君の子ども時代を知っている人が大勢いるから、大事な教えを説いたとしても、バイアスがかかって軽んじられてしまう、というようなことを言っているのでしょう。
実際、自分をよく知っている人たちの前で、偉そうな話をするのは気が引けるものです。私も、親・親族、修行僧時代の同期、檀家さんなどの前では実にやりにくい。要するに、みな私の過去の失敗や恥、欠点弱点をよく知っているからです。
ところが、そういう人達に限って、最前列にいて含み笑いをしていたりします(ひょっとして、いやがらせか!?)。
この日も、会場の公民館に100人くらいお越しいただきましたが、檀家さんも沢山おられました(前列にも!)
ただ、意外にも、翌日から月のお参りに回ると、そこそこ好評でした。「方丈さんのまとまった話を始めて聞いた」と言うのです。確かに、寺の法要でする説教や各家の法事での話などは、数分から20分というところでしょうから、90分の講演は印象が違うのでしょう。
私が嫌がるので、父や母は息子の講演に一度しか来たことがありません。その父が生前、そのときのことを母に言ったそうです。
「ちゃんと、堂々とした坊さんに見えたな」
ちょっと嬉しかったことを今も覚えています。檀家さんにも、「住所不定住職(と、言われたことがある)」でも「方丈」らしく見えたなら、嬉しいです。
悪戦苦闘です。
がんばります。
でなければそれは仏教ではない、か、
①このブログ管理者はブログ人気度は気にかけない
②ブログアクセスや人気ランキングも関係させない
③仏教知識の量を言っているのない
④議論と討論を弁えている
⑤ある理論について賛反する目的はなく
その賛成や反対に対する思考様式を
改めて考察する
⑥差別感:Aの人がその他の人に対し優越を生じさせるコメントは相応しくない
⑦不愉快感:書き手が読み手に対し不愉快にさせることを目的としたコメントはその連動性を持ってはいけない
⑧頭でっかちは年齢の高低に関係なく好まない傾向である
あくまでも以上の8項目は私個人の見方ですが、コメント削除件についてコメントがあったので私の意見を添えておきます。
権力のある人間から、理不尽な言語様式を言われた。
傷ついた心のような脳が、必死に反転させて、相対でしかない社会の場だが、これは楽しい出会いなのだ、と、脳に思い込ませる努力をした。
それで、一時はうまく、自己を納めることができた。暴れなかった。無我だから。
しかし、暴れた。涙が出た。
人間って、さまざま。優しさを選んでも、その反対と対立する。
うまくいかない。
心を師とする事なかれ。・・・○
ご指摘、ありがとうございます。
心の師とする事なかれ
って、能動 受動 みたいなことなのかな。
仏教は関係ありません。
不満なのは察しますが、一度はその不満を投稿したわけですから、そこまでになさりませ。
それ以上あなたの想いを云々しても、それよりもブログ運営者がルールです。
何故なら、ここはあなたが作った場所でも、あなたがここの運営者でもないからです。
仏教以前の社会に生きる分別の問題です。
あなたがご自身の言説を展開するのにご自身の場所を設けず、人の場所に投稿することに甘んじているわけですから。
心の師とする事なかれ
仏教を前提に話をしているのです。わざわざ成長の定義をしなければいけない状況ではないのです。問題点が浮き彫りになっている以上、どう成長すればいいのか分からないということはないはずです。
仏教徒としての成長を期待します、ということです。
お坊さんらしさだって色々だし。
月さんにとっては不満であっても、他の誰かにとっては文句なしのとっても良いもので、さらなる成長を要求するなんてどういうつもりなんだ、って思う人がいたりすることだってあるでしょ。
月さんのやってることが「悪い」とか「正しくない」とか言いたいわけじゃなく。
「不当削除だ」と言ってみたところで、何を削除するかは南さんが決めるんだから。それだけのことだよ。
南さんが管理してるブログだから。
基準が「気に入るか入らないか」だとしても、南さんが管理しているブログだから。
逆に、「気に入るか入らないか」が基準になっているのだとしたら、それを基準にする人に何を求めようっていうの?
自我が大切かどうか?少なくとも自分のことを聖人君子に見積もっているつもりはないですね。それは南和尚も同じことでしょう。あくまで一人の人間であることを受け入れざるを得ないのではないですか。輪廻に関する自説の穴を指摘されることも気に入らない訳でしょう。そこは人間ですから。しかし余計なことをすれば波風が立つってことではないでしょうか。やっぱりお坊さんらしさがあるのではないかという話になるのです。
ここのコメでいわれているのは、正法眼蔵の「行持」の巻
西嶋先生(愚道和夫老師…曹洞宗宗寿寺僧侶1919-2014)に師事し、
嗣書(教えの正当性の証明書)を受けた幽村芳春師のブログ、
honjoutarou.blog107.fc2.com/archives.htlm(全エントリー一覧ー正法眼蔵=坐禅―正法眼蔵=坐禅ーfc2で易しい現代語解説(読み解き)がでている。
役に立つところでなら役に立つ。
ある条件下でならそうなるし、そうでなければそうならないし。
コンパス自体がそういうものでしょ。
コンパスはいつも正しく北を指す、わけではない。
コンパスは常なる正しさを保証しない。
南さん、暇じゃない、多忙。たぶん。
コメントが削除されてグチグチ言わないでよ月のような者さん。結局自己、自我が大切なんだ、って思ってしまう。
私は行持から読もうか。行持って何?中国語?から勉強しないと…
今回のお題は「行持」である。
修行の本質を説いた眼蔵の教えである。
コンパスの針がまともに北を指せないようでは自慢の持ち物が役に立つとは思えない。
仏教徒であることの自覚、つまり人間の愚かさの自覚があればこそ、適切に自分を律することもできるのではないかと自重を提案するニュアンスがあったことは明らかなはずなんです。
背景が全く異なりますが、政治家も遊説などしますが、彼らは、自分の気持ちを把握しきれていない、観ていない印象を受けますね(だから時の流れに迎合)(当初の理念の忘却)。その中で、小泉さんはそうではないような印象です(いまのところ)。
「懺悔」といって、過去を切り、新しく生きる、手段もありますが、政治家などになり、偉そうに語るお人もいますが、自己批判能力や客観的な視点を確保して欲しいところですね最低限(その後、相手の党などを批判)。
月さんが書いたことによって変わるものは変わり、残るものは残る。
月さんの思うところとは違うかもしれないけど、ある意味、大丈夫だったりもするかも。
コンパスは何処へ行こうとも北を指す。
私は基本的に記事の内容に配慮しつつ仏教のことを書いています。書くに当たっては様々な配慮があり、客観的に見てその配慮が破綻しないように努めているのです。もちろんクリエイティブでもあり仏教的でもありたいと思っているのです。仏教を云々するのなら、この世に苦しみがあり希望があるというシンプルで重大なリアルに直接触れるようないい加減ではない作業でありたいと思っているのです。
御迷惑をお掛けして、すいませんでした。
読んでいただけた上での削除だったと勝手に期待しています。
私にとって斬新な南さんの言説が、道元禅師に影響されたものなのだろうか、と思っていましたが、どうもそうじゃない、道元禅師をしてもそのモデルとしていない、という感触が得られつつあります。それは私にとって収穫でした。
再度、ネットにある南さんの講演を聴いてみようと思います。また違った印象を受けるかも、なんて思っています。
コメントは記事に関連したものに限るという管理人さんの意向に、これまでよりは沿えるんじゃないか、なんて思っています。
議論は仏教ではない、と暗にいわれているのかもね。
仏教ブログだけにもっと洒脱な現象が起きればいいなと思っています。
仏教について突っ込んだ事を書かれるとまずい訳でしょうか。しかし仏教は仏教だと思います。文化人タレントのブログに書き込んでいたつもりではないのです。僧侶の姿をした哲学者とも呼ばれていますがあくまで本物志向の仏教徒のブログに書き込んでいるつもりでおります。自分には単純に仏教のエッセンスを表現したい衝動があるようです。健全な理想主義的な衝動であるとの自覚があります。おそらくあまり難しく考える必要もない自然な行動なのでは、と思っています。
院代の言う『気が引ける』状況では
ジョークを言う
失敗談を面白く暴露するなど
間接的な話の回り道(裏側検索)をなさるのだと思いましたね。
一度、その回りくどい道連れに入っていけない素振りを見せた時がありましたが、(わざと実験的に)
1000ミリメートルの1ミリメートルくらい反作用がありましたね。
反応でコメントした励みになりました。
あの吸引力はワームホール並みでしたね。
(ちっと大袈裟に言って)
それが同じ生き方かどうかも判定できない、ということにならない?
の誤り。
テーラワーダのサイトから引用。
Aさん:私の父が脳梗塞で倒れ、一年寝たきりになったのですが、見舞いに行ったとき、父の調子が悪いと「お前は誰だ」と言われるのです。父の為になんとかしてあげたいと思っている時に、「お前は誰だ」と言われると根底からがっくりくるのです。自分の娘だと認めてくれさえすれば、どんなに幸福かと思いました。
長老:せっかく見舞いにいったのに自分の親にそう言われると、子供としてはすごくショックを受けるのです。でも、そこは仏教による見方をしたらいいのです。誰かの親であるとか、子供であるとかいっても、それはただの記憶なのです。だから脳が壊れていったらその記憶も落ちてゆき、社会的な関係もなりたたなくなるのです。「お父さんは病気だから、もう思い出せないんだ」と理解してあげてください。
その場合私でしたら、「お前は誰だ」と聞かれたら「こちらのお世話係ですよ」とか冗談いって、その人を喜ばせて笑わせてあげます。普通それが出来ないでショックを受けてしまうというのは、何か見返りを考えているからなのです。面倒をみている自分のことを親がわかっているかどうか探ったり、感謝ぐらいしてほしいと思ったり。そうした気持ちが入ると介護ができなくなるのです。何かを期待するというのは「執着」なのです。何も期待しないで、その場その場で二人の人間の関わりとして、楽しく喜んで介護すればいいのです。例えば、逆に「そちらさまはどなたでしょうか」とか「どうしてここにいるのですか」とか尋ねたりすれば、その人の記憶を開発するのに役にたちますから、実際そういうことはやるべきなのです。とにかく愛情をもって、いつでも明るく楽しく何とか冗談を言うことです。
以上、引用終わり。
それができたら誰も苦労しないさ、ですよね。
仏教、宗教というのは、難しいことを、簡単に言いますね。
https://info.ninchisho.net/care/c50
>介護を楽にするコツがあるとすれば、それは、「一人でがんばりすぎないこと」です。
使える相談窓口は、全部使う、何度でも相談する。恥ずかしさは覚悟する、隠さない。
そんなふうにできたら、少しは軽減されるでしょうか。
辛いですね。わたしだったら耐えられるかどうか…。
わたしごときが何もいえる立場ではないけれど、今日が最高の死に日和と思って、一歩ずつ歩いていく他ないですよね…。
僭越ながら…。
母親早死。父親若年性認知症。頼りっぱなしの友も、頼りすぎて離れて行った。
私は35歳。
死んだ母に相談したい。些細な愚痴をどのように受け止めるのかな。認めて誉めてくれるといいけど。父はボケてるが、何か伝わっているのかな。
睡眠夢では両親健全で楽しく暮らしている。
しかし、目覚めて、現実を思い知る。
実存が…辛い。
どうしようか。
夢と現実をぐちゃぐちゃにして脳に思い込ませたら、少し自己が喜んでいるようで、束の間楽しい。
『要するに、みな私の過去の失敗や恥、欠点弱点をよく知っているからです。』
加えて、方丈様が自ら進んでお話されたりしますので、「幻想」越しに方丈様を見る方は少ないものと思われます(笑)
それでも「聞きたい」と思っていただけるのならば、それは間違いなく「リアル」であると思われます。
(「リアル」ではなくて「本物」と書こうかと思いましたが、方丈様の前では小難しい話に繋がりそうなので止めました・笑)
ここ最近、政治・経済などの根幹部分の「神話」、「思い込み」などの幻想が剥ぎ落され続けており、どのように収まっていくのか予測することは容易なことではありません。
今後とも「空気」に左右され続けることになりますが、それでも「リアル」を一つ一つ積み上げて「空気の流れ」が少しでも良い方向になることを願っております。
なんともまとまらない話となりまして申し訳ありません。
思わず吸引力に笑ってしまった。掃除機みたいだね。
私は、檀家さんたちが羨ましいですが、著書「老師と少年」に書いていたように、魅力的な人のそばにいてはだめだ、、とあるように私はこの距離がいいんだと思います。
上記の意見は誰が言ったかによって
言葉の威力が生じるでしょうね。
私も実際、院代の講談や講話を聞いて
威風堂々な気性
根拠を示すデータ引用力
自然な説得力
話の世界に引き込まれる吸引力
設問に対する解答の明確さなどを感じ取りましたが、
私が言ったからといって
それに影響力はないと思います。
誰が言ったかが肝要でしょうね。
それに満足されているとしたらば、少し残念な気持ちになりました。
両親がいてマトモな家庭があったからこそとなると、そうでない人達の共感を得るのは難しいでしょうから。
南さん、実存を生きておられるな。色々ある自己が認められて嬉しかったからこのような記事を書かれたのかな。
偉大な人というのは、他の偉大な人の考えを理解しないし、自らの関心を引く程度に他人に興味があるといえるのかな。
緊張されてたんだろうなあ。
あれじゃ、国民も混乱します。
最近、中学二年生の自殺があったところですね。
無礼な投稿をしたこと、ご容赦ください。
いつか南さんのご講演を拝聴してみたいものです。
また、一部には微笑ましい話でも、若い時より闘病生活の方などには共感の難しい話かな、なんて思いました。
そのような職種があったとは!
世間に流布されている情報から計算すると住職22年目では未来の日付になってしまいませんでしょうか。
他所から来た坊さんの方が、ありがたく見えるというのは、なるほどそうですね。
ただ、ある程度の評判とか事前の情報が無いと、他所の坊さんの講演会にまでわざわざ行く気にならないかなあ、とも思います。
葬式などでの法話で好印象を受けていたなら、聴きに行くかなあ、なんて思います。
我が家が檀家になってる寺の住職の場合だと、興味は少しあるけど、長時間の講演は、ちょっと勘弁してほしいかなあ、自己紹介の後は全部質疑応答の時間にしてくれたら行きたいかなあ、なんて思います。40歳ぐらいでとても感じの良い住職なんですけど。ちなみに曹洞宗です。
葬式の時に住職と話す機会があって、勉強会よろしく、と私が言ったら、でへへ、と笑って誤魔化されたことがあります。こいつは意地悪な質問をするような厄介な奴、と察知されたのでしょうね。
なんかダルくて、どうでもよくなることが多くて困ります。
1秒だって説法しませんよ!
読経や行事だけが
住職の仕事と思ってるみたいで
実に残念無念です。
本音は
檀家やめたい!!
ですが
簡単にはいかない‥‥
お釈迦様は、
近親者を意識せずに説法をなされていたようですが、どうなのでしょうね。
過去を引き摺る自分も近親者も、実に鬱陶しいものを感じる時があります。
ただ、今はもう過去の自分とは確実に違う訳で、それも近親者が認めているから、最前列にも座れるのではないでしょうか。
方丈様の自意識過剰な部分もあるとほいえ、嬉しいと思われる気持ちが、ここまで続けてこられた糧にもなられているのでしょうね。