恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

恐山の円空仏

2007年06月08日 | インポート

Photo_62 Photo_60   写真は恐山の開山堂に奉安してある円空和尚の作になる観音像です。左が十一面観音、右は腰掛けて片足を上げている、観音像ではあまり多くない半跏思惟像です。

 円空はすでによくj知られている僧侶にして彫刻家。江戸時代のはじめに今の岐阜県に生まれました。中部地方を中心に全国各地を遍歴して、「円空仏」と呼ばれる、鑿(のみ)跡も荒々しい、素朴で独特の仏像を数多く遺しました。

 恐山のものは、研究では初期に属するとされ、鉈で叩き割って作ったのかいう感さえある後期の作品にくらべれば、仕上げは丁寧です。

 円空仏などは典型的でしょうが、すぐれた芸術家の作品を年代順に並べてみると、彼が試行錯誤を続けながら、自分自身の表現様式を完成させていく過程が、ときに劇的に見えてくることがあります。

 以前、老僧にある画家の話をして、

「何ですね、人間、年をとってくるとだんだん余計なものが落ちていって、その人に必要なものだけが残り、表現として完成するんですかね」

 すると、老僧

「年をとるとくたびれるから、若い頃のようにイロイロ手間ひまかけてやってみる気がせんのじゃろ」 

 これには参りましたが、そう言えば小学生の頃、作文の宿題を父親に見せたら、

「お前、自分で一番良いと思うところを全部削って書き直してみろ」

と言われたことがありました。驚きましたが、そのように書き直した作品が、確か何かの賞に当選したはずです。 

 若い頃は何が余計なものなのか中々わからず、案外余計なものの方に力瘤をつくっているのかもしれません。そして、余計なものと必要なものを、あれこれ悩まずとも自然に区別できることを円熟といい、その知恵を持つ人を「長老」というのかもしれません。


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