「問う。如何なるか是れ幸福」
「今日と同じ明日がくることを信じていて、しかも信じていることを忘れている状態」
「如何なるか是れ真理」
「アクセサリーみたいなもんだ。無くても構わんが、無いと寂しい」
「如何なるか是れ死」
「後ろの正面と同じ。見えたらただの正面で、後ろではない。誰も見たことがないのに、その話はできる」
「如何なるか是れ生」
「空気だな。感じることはできるが、つかめない」
「如何なるか是れ希望」
「蛍光灯。明るい時にはいらない。いちおう予備もあったほうがいいけど」
「如何なるか是れ絶望」
「落とし穴。落ちても底無しということはない。ただ、底抜けしないうちに出る算段がいる」
「今日と同じ明日がくることを信じていて、しかも信じていることを忘れている状態」
「如何なるか是れ真理」
「アクセサリーみたいなもんだ。無くても構わんが、無いと寂しい」
「如何なるか是れ死」
「後ろの正面と同じ。見えたらただの正面で、後ろではない。誰も見たことがないのに、その話はできる」
「如何なるか是れ生」
「空気だな。感じることはできるが、つかめない」
「如何なるか是れ希望」
「蛍光灯。明るい時にはいらない。いちおう予備もあったほうがいいけど」
「如何なるか是れ絶望」
「落とし穴。落ちても底無しということはない。ただ、底抜けしないうちに出る算段がいる」
春は牡丹でボタモチ
秋は萩でオハギ
是れ
御供えしたら渡った気になる。
人間入試。
わかりにくい
傾向と対策。
合格率○%
・・・・・・反省以前の酩酊的気分状態
「如何なるか是れ真理」
・・・・・・負荷軽減の為の妄想形成
「如何なるか是れ死」
・・・・・・現状維持の飽くなき補填
「如何なるか是れ生」
・・・・・・可能性喪失に対する活動的執着
「如何なるか是れ希望」
・・・・・・一部上場の為の自己証券化
「如何なるか是れ絶望」
・・・・・・感情調整失敗の責任転嫁
「問いがなければ答えもありません。
漠然とした不安に対応する方法の1つは、『適切な問題設定』とその問題に対する試行錯誤ではないでしょうか。
それから問題設定の前に身の回りを整理整頓すると良いかもしれません」
「風化の意味がわからない。事件は昨日のことのように覚えている。現在進行形が続いている」
高橋シズヱさん
「多くの人はそっとしておいてほしい」
もちろん、遺族や被害者の思いはひとつではない。事件を語り継ぐこと、胸の内を明かすことに意義を見出す人もいれば、「早く忘れたい」「なかったことにしたい」という人もいる。
教団や死刑囚、信者に対する気持ちも一様に語れるものではないだろう。伊藤弁護士によると「多くの人々はそっとしておいてほしい」という。
高橋さんは、遺族会の代表世話人になった際「一人の遺族として発言できないのが悩みだった」と明かしている。
遺族会の代表としての立場と、一個人としての思いの間で時に悩み、葛藤を続けてきたに違いない。
中村弁護士に聞くと、こんな答えが返ってきた。
「肉親や近しい人を亡くした悲しみが人ぞれぞれなのと同じです。表向きは明るくても心の中でひきずっている人もいれば、悲しんでいるように見えて実はしっかりしている人もいる。つまり心の問題だから難しいんです」
その中村弁護士は、一連の事件を説明した後「事件をどう受け止めたのか、皆さんに考えてほしい」と呼びかけた。固定観念にとらわれることなく過去を振り返り、また反省し、遺族や被害者、関係者の「今」に謙虚に耳を傾け、理解を深めることが大切だということだろう。
サリン事件が発生した時には生まれていなかった学生が目に涙を浮かべつつ、参加者の話を必死になってメモしていたのが印象的だった。
「地下鉄サリン事件の集い」より。
「汝の質問を変更せよ。記憶せよ、ここはそこにあらず
すべては大いなる未動のなかにありて、汝の問に
釣り合う言葉の鍵のいまだあらざることを・・・」
文学は、言葉の幻術、その夢見させる力によって
視覚的触覚的なイメージを抱かせる、ひょっとしたら・・と
今日のこちらの記事には、感動いたしました。印刷して手帳に張り付けて、折に触れて何度も読み返そうと思います。
答えがあったとしても、
問いが無ければ、問答にならない。
ならば、
問題は答えに先立つ?
ただ、このコメントにもあったように、題名がわかりません。グーグルで調べても灼庵というレストランの名前がでてくるだけでした。
もしよければ、教えて下さい。
「坐禅前のようだな。
アレコレ考えないと無意味。」
「たぶん造語だな。破けたスラングを使いたいだけだろ。春は荒れ模様いうしな。」
👤「如何なるか是れ幸福」
😽「猫に鰹節。」
👤「如何なるか是れ真理」
😽「猫の尻尾。」
👤「如何なるか是れ生」
😽「猫が手水を使うよう。」
👤「如何なるか是れ死」
😽「猫に紙袋で後退り。」
👤「如何なるか是れ希望」
😽「猫に木天蓼。」
👤「如何なるか是れ絶望」
😽「猫も杓子も。」
昨日と同じメニューでも幸福わいね。忘れとるわいね。
せやろ?
坐禅すればな、忘れることも忘れとるわい。文句ないやろ。
せやろ?
<女子生徒に“スラックス”制服多様化のワケ>
生徒指導部・百枝貴志教諭「今年度初めに提案してですね。固定観念を払って、女子にもズボンをはいてもらおうと。多様な制服の選択ができるようにというのが第一ですね。あとは防寒対策と、性的被害の未然防止、自転車通学者がいるのでそれの配慮」
男子がスカート可の中学校も
まあ、そこまでしなくても・・・
スカート無くしてスラックス1本化でよくない?痴漢も減るでしょに。
希望と絶望のせめぎ合いか。
諸々の存在である,三界であるが故に、
山海・国土・日月星辰である。
つまり仏教というは森羅万象である。
仏教とは「無限」を悟るという事である。
南流では・・・
終わりの無い事を知りながら、
終わりの無い「問い」を
延々と問い続ける・・・
となるらしい案(庵)。
悟りには決して至らない。
永遠に問い続けるのが
禅僧の矜持であり知性である!!
正解を見つけてしまった釈迦は
禅僧ではない、
禅僧も又、釈迦では無いので
しょうがないしょうがない!!
釈尊は、無限か有限を「無記」とされた。問いは、生きている間の無期限問答。正解はない。もし正解を設定するなら、問いは発生することがない故、つまり無明を問わない故、バカまっしぐらとなる。
蛍光灯の中にいて、暗闇にいるようなものだ。覚者には蛍光灯が要らない。予備も不要。
覚者は、明暗の間にいる。
「如何なるか是れ曹洞宗」
嘗て、1万寺と豪語してきたが、
今は、誰も問題にしない。
諸行無常、
必要とされていないものは、社会から消える。
「道元和尚の仏教」は、
道元和尚と「同じ問題」を持っている者だけが、
必要とする。
曹洞宗の僧侶自身が、「同じ問題」を持っているのか?
南師は『正法眼蔵』の解釈が、バラバラである、
と現状を述べていらした。
なぜ「正法」でなく、「密教」に変質するのか?
それは、人間は「無明」だから。
「言語」認識ものを、批判しなければならない。
身体訓練「坐禅」で、「言語」認識の虚構を、解体できる。
そこにこそ『正法眼蔵』全87巻が位置する。
問いは、生きている間の無期限問答。
正解はない。』
違います。
「観念論」「空論」であり、
「死苦」の解決に役に立たないからです。
八正道、こそが「死苦」から、解放する手段・道。
目の前の「現実の世界」は、
「諸行無常」
「諸法無我」
これは、心で学び、身で学ぶことができるもの。
わかるために、意味化する。意味化のために分別する。分別するために、言葉にする。
問われたのは、言葉では表わし切れないもの。
真理は、分別を働かせたり、自分の考えを差し挟む余地などないもの。
『マタイによる福音書』の冒頭、「始めにロゴスがあった」。この「ロゴス」、邦訳では「言葉」とされることが多いが、「真理」のほうが適切であろうか。
他は、縁によって起こるもの。
「縁によりて得る者は始終成壊す」(『無門関』 自序)。
幸福、希望、絶望なんて「主観」から生じるもの。無常でせう。
だが、わかってもらうために、言葉で表せないものを言語化しようとする営為もまた、「功夫」なのであろう。
・・・・・「行に常識は通用しない」
諸法無我
・・・・・「法に自我が入り込む余地など無い」
涅槃寂静
・・・・・「涅槃は寂静だから行は進む」
一切皆苦
・・・・・「この世での行には苦が伴う」
即ち、生きている時だけで済む話では決してない、ということです。
でなければ信仰にはならないでしょう。
実体がない幸福
実体がない真理
実体がない死
実体がない生
実体がない希望
実体がない絶望
何も掴めはしない。
誤:『マタイによる福音書』の冒頭
↓
正:『ヨハネによる福音書』の冒頭
失礼いたしました。
「イエス自身の信仰」とは、無縁なものです。
「釈尊の仏教」と「インド密教」が無縁なのと同じです。
『ヨハネによる福音書』は、一番の問題点は、「善人・悪人の二元論」で世界を観る点にある。
自分達は善人で、その他の人々は悪人である。
敵も自分たちも灰色とは考えない。
悪人が善人に変るとも考えない。
だから、愛を説くが、自分達の中だけの愛です。
敵は愛の対象にはならない。
西暦100年頃に著作され、当時、キリスト教は弾圧されていた。
だから、味方か敵かで考える。
著者の信仰は「イエス自身の信仰」とは、無縁です。
人生が何がしかのものでなければならない理由など
どこにもなかったのに
まるでそれが何がしかのものでないことなどあり得ないかのように
人がそれに対応してしまうのはどのような惑わしによるのか
在ることの非意味、その退屈に愕然とした自殺者こそが
この人生の逆説を最も尖鋭的に生きたことになるだろ
眠ったまま死ぬのが幸福といえようか。本人が実感していないことなら、そうなるだろう。
「今日と同じ明日がくることを疑っていて、しかも疑ていることを忘れている状態」
どこもかしこもLEDわい。トップランナー制度ゆうわいね。水銀を使わんようにしてな、寿命も長がるわいね。予備も当分いらんわい。
せやろ?
やがな、わいの寿命が長なてもな、予備はないわいね。坐禅は明るい時こそやろ。
せやろ?
「鶏口となるも牛後となるなかれ」
けいこうー希望的
ぎゅうごー絶望的
<個々の論証における誤謬を認識することは難しい。というのも、修辞技法的パターンによって表明間の論理的つながりが分かりにくくなっていることが多いためである。
誤謬は、対話者の感情や知性や心理的弱さにつけこむ。論理的誤謬をよく知ることで、そのような状況に陥る可能性が減るのである。誤謬は相手に影響を与えたり信念を変えさせたりすることを目的としてコミュニケーションの技法として利用されることが多い(詭弁)>
真理の対義語を調べてみた。
https://mayonez.jp/topic/1030530
警告ですかね。
宗教家の口から真理はアクセサリーと断言してしまうのですか?
いやはやあきれた。
そういえば南さんて中学生の時分から真理に対して云々いってましたね。
私からいえばそれは脱中二病という中二病なのです。
おませな中二病。
「真理なんてイラネ」とクールなフリをしてる典型的中二病患者です
仏道を選んだ以上死ぬまで真性いや神聖な中二病で貫き通すべきだ。
はずかしがらずに真理とはなにかを問うべきだ。
なにが悪いか中二病で。せやろ?せやろって。
還暦というなら中二に還るんだ!
中二は多感なお年頃なんだよ。中二なめんな中二!
確かに「真理とは」ということ自体面映い。
なんか大げさではずかしい。
行き交う人に「真理」をテーマに話すなんてできん。
頭おかしい人って言われそうだ。
言葉だけが先行してしまう厄介な言葉。
それが真理という言葉である。
だがわかった上であえて中二病で押し通すのだ。
宗教ってそういうもんでしょ。
課せられた中二。中二的実存に賭ける。これどう?
不安ビジネスとして真理を利用しようとする輩は問題外だ。
信者という金づるを真理という言葉で釣る。
オウム事件でもう十分おなかいっぱい。吐きそうだ。
不誠実な偽善者ばかりだ。本物がいないじゃないか。
どこにいる?本物が
仰々しくもったいぶった借り物の言葉で上辺だけを飾ったメッキのような真理のまがいものはお断りだ。
すぐハゲてしまうようなものはいらん。
安物パチモノバッタモン。コピペでおk程度の真理などいらん。
真理っぽく見える偽物なんかいらん。
なにかに利用できるような真理などいらん。
なににも利用できない役たたずな真理でいい。
使えない真理でいい。
もしかすると異常なのかもしれません。
私の問題は置いとくとして宗教家という衆生を導く立場にありながら真理をアクセサリー呼ばわりするのは正気なんでしょうか?
真理とは装飾の価値ほどにしかない。
あってもなくても構わないようななにかと言っているに等しい
哲学者にしても真理にどれだけ注力してきたか考えれば簡単にいえてしまうのがわかりませんね。
聖職者は真理探求者ともいっていい。真理を探し求めるのが目的です。
装飾のようなあってもなくても構わないもの=目的にならないほどのものならなぜ探求するのでしょうか?
真理をそう簡単にアクセサリーといった装飾の類に貶める表現は正気の沙汰ではない。
何も問題はないです。
気に入らなければ、無理に覗く必要もないでしょう。
死のアプローチに有効な問いだけが南さんにとっては使えるものであって
真理という言葉は死の問題には全く使えないという点で装飾といった。
ならわからんでもないですが
真理その言葉自体がよくわからない曖昧至極であり具体性に欠けますから
死そのものの問題への具体的アプローチの手段を提供しない
という意味でならある程度納得はしますけどね
宗教は真理もそうだけど死の問題も重大なテーマなわけで
だからこそ死の問題を超えるために真理の絶対性やら不滅性を説くわけじゃないですか?
真理とはなにかを知ることによって生死の問題解決が同時に起こりうるなら問いへの使える使えないもないんじゃないの?って話なんだけど
つまり死と生を包摂するのが真理だとすれば、その真理を自覚するってことで生の問題死の問題も同時に解決するんじゃないのっていいたいんですけどわからんですか?
それを子供っぽく意固地になって拒絶するんじゃなしに(そのように映る)
どうせだったら子供になったらどう?っていいたかったわけ。
帰巣本能ってありますやん。
あれ。
真理を拒絶するんだったら黙っときゃいいじゃない。
わざわざ煽るような表現で真理をアクセサリーみたいに言わなでいいから。
真剣に求めてる人もいるんだから。
「求めたところでどうせ徒労だろう」って小馬鹿にしてるのか嘲笑してるのかわかりませんけどね。
穿った見方ですけど
時間を超えた 時間制限をうけない
永遠であるとかその類です
生まれるそして死ぬことは時間に関するため
死ぬことを解決するには時間を超越するもしくは時間そのものを否定するものに限られるでしょう
時間制限をうけないもの=生死を超えるといってもいいでしょう
死という時限爆弾の問題を解決するには時間がキーワードになると思われる
全然わかんないだけど?
否定した時点で否定した主体は時間を超越したといえる。
私が時間を否定した時点で生年月日(これも時間)の否定に繋がり
出生原因の不在=因果律の否定(時間連鎖そのものの否定)
時間を否定した場合、原因と結果の時間の前提が崩れるため因果律は採用不可。偶然などとしてしか言えなくなる。
時間を否定するだけなら簡単ですが付随的にどういったことが言えなくなるのかわかって言ってない場合がほとんどです。
時間超越の例;不生不滅。作られざるもの。堅固なるもの。
死なないもの。生まれも死にもしないもの
作られたものは破壊される。時間に影響され劣化してしまう運命を辿る
作られていないものはどうやっても破壊されない。時間に左右されない。
生まれも死にもしないってこと。
それが永遠性であり時間の超越を示唆するのであり
常住常在論の根拠ってこと。
その永遠性は今にあり今にのみ在る。
それが死の問題解決のアプローチになりうるんじゃないの?
生死中無佛則無生死
これってどう解釈してんの?
すべては生起するもの
不生不滅なら因に縁らないものがあることの示唆でしょう。
生じたり滅したりしないもの。
因に縁らないものこそが大事なんじゃないの?
観無常なら無常ではないなにものかが観ているといっているようなものだ
観無常っていったら発心の根拠付であって
観無常それ自体の重要性よりも観るものがなにものかが主たる問題になるってことだ
私と同じ問いの場合として、人類全体の「真理」は取り出せないのでは?
南さんは、真理があるとすれば、複数だ、と仰っていましたよ(同感)。
しかし、真理を求める気持ち、わかりますよ。
南さんは(仏教者)相対論者ですからある意味(相対主義者ではない)。
真理がなにかもわからない状況で、あなたは一体何をどう言おうとするつもりなのか、俺にはさっぱりわからない。
とりあえずあなたはHNをつけろ。
あんたと絡むのは俺には時間の無駄だ。
真理はタケノコゆうのと同じやろ。そんなもんわいね。
せやろ?
予備の無い人生を生きる
我が仏道。
>人の味覚は千差万別が当然であり、『万人に合う料理』などは考えるだけ無意味な事である。こう言えると思います。
ですからね、「誰が食べても美味しい料理を作りたい」
これは料理ビトの性ではありますけども、根本的に正しくない考え方なんです。
https://temaeitamae.jp/top/t1/f/1.html
自分を出すのではなく、人間の「秘密」を引き出してあげるのが僧侶の最後の仕事なんです。
これは、「仏教」から観ると「邪見」である。
「諸行は、無常である」
「因に縁らない」ものは、ない。
「常」という性質のものは、ない。
問題は、こんあにハッキリ示しているのに、読まない。
学ばない。
「自己」は、「実体」でないから
「過去から、起こってくる・生まれる」ではない。
「この世から、死んでいく・滅する」ではない。」
「自己」は「言語認識機能」で「実体」と虚構したもの。
「自己」は「或る現象」につけた「記号」である。
「自己・人体」は、60兆の「細胞」が生きている。
「日本人の社会」は生きている、
同時にそれが、
1億2千万の「個人」人が生きている。
ここで「何が」生きているのか?
曹洞宗は臨済宗とは視点が異なる。
「自己・実存」と「超越」との関係を問題にする。
曹洞宗の僧侶は、毎日、唱える。
ただ今、「仏・彼」は「自己・我」だ。
しかし、
「自己・我」は「仏・彼」ではない。
他方、密教は、
「梵我一如」
「仏」と「我」とは「ひとつ」。
つまり「非仏教」である。
「本地・垂迹」の世界観である。
「仏が本質で、神様として現れる」
「梵・仏」と「我・自己」とが、ひとつ」
この考えは間違いつまり否定するだけで残ったものが真理だ。
そういった真理もありうるってことは考えられませんかね?
新たに獲得するような真理であれば喪失する可能性もでてくる
ここらは本覚思想の最初から悟ってるんだ系で考えたらどうだろうか?
真理そのものを直接表現したり直接理解できるような表現方法はありえないとしたら?真理は否定といった間接的にしか接近できないものだったら?
否定で輪郭を浮き彫りにさせる程度でしかありえないとしたら?
わたしはその可能性を考慮していったまでです。
>時間の無駄
だったらHNで識別する必要もなかろう
無視を決め込むならわざわざ指示する必要もないし単に無視すればいいだけ
コメントする必要もない
時間かけてコメントするのも無駄だろ?
そして私はZIPさんあんたの指示に従う義理もない
なにを苛立ってるんだい?
存在=これいっちゃうと実体視になるから安直にいえず
実存=変化を前提にし、実体回避として使える言葉。
いや使えるというより消去法として残るは実存のみって感じ?
だから実存実存いうとるんだわ。
はっきりいって実存という事自体ナンセンスですわ
「無明」とは「言語で世界を認識すること」が原因という、この事実!
「自己」が消滅する恐怖が「死苦」である。
人間は「言語」で「自己」を「実体」と観て、宗教に「永遠のいのち」を求める。
「天国」「極楽浄土」「復活による永遠のいのち」…
「自己・自生・実体」が「永遠に生きる」、という構造である。
「仏教」だけが、「永遠に生きる」を保証するのではなく、
そもそも「自己」は「実体」でなく、「現象」へ「名付けたもの」「シンボル」「言語認識」である。
「自己」は言語の虚構である。
「自己は不生不滅」だから、
「永遠のいのち」を保証する必要がない。
日本人は「日本教」だから、
この「仏教」が理解できない。
「天台本覚思想」「天台の密教」「空海の密教」「創価学会」…
つまり「日本教」である。
道元和尚は「見性成仏」を批判した!
「見性して、成仏する」を否定した!
今までの哲学者は、言語によって騙されてきた。
ヨーガ派・唯識思想は、「仏教」の退化である。
「如来蔵思想」も退行である。
「道元和尚」は、釈尊の仏教に戻した。
「親鸞聖人」も最晩年には、
「自然法爾」に到達し、
「自己」を解体し、
「阿弥陀仏」を「非神話化」した。
この日本では、13世紀に既に到達した。
道元和尚は、「一切経」と格闘した。
檀家に「一切経」を用意してもらった。
親鸞聖人は、関東の弟子たちを捨て去り、
「一切経」を読むために「京都」に戻った。
「一切経」とは、思想家の集団である。
それと格闘した。
それで、
「自分の仏教」を検証していった。
だから、親鸞聖人の『教行信証』は、
同じお経なのに、「様々な中国語翻訳」を「比較して」、思考を深化させている。
キリスト教では、20世紀でようやく「非神話化」に到達したのに。
或るものをその同一のものとして
なにか他のものから表白するのは
正しいことではない
何かひとつ偉いことを
考えてやろうと思って
ものを考え始めることなど
できようはずもないものを
「AはBである」と言うが
そう言えるのはなぜなのか・・
この単純な問いの途方もなさに
「気がつく」ということに
裸の思念はある
すべて主張は偽りとも言えそうだ
そう言えるのはなぜなのか・・
この単純な問いの「途方もなさ」に…』
「言語」は、人類が、進化で「創り出した」。
頭脳の「物理構造」に、支配されている。
ニューロンのネットワーク構造!
個々の「ニューロン細胞」の、「活性・非活性の二価」値の、膨大な伝達構造体。
これに掬い取られないものは、言語空間には存在しない。
そして「言語空間」には「兎の角」まで存在する。
古代から「言語に魔力を抱いた」!
空海の「真言密教」がその典型である!
しかし、釈尊は「真言・マンダラ」を禁止した!
当時、「真言」が蔓延していた。
インド「ベーダの哲学」の核心である。
南師は、「無明」とは「言語」である、
とお示しになる。
※ 唯識思想を「深層心理学」のようには考えません。我々の認識の構造を説明し批判する方法として利用しています。
※ すべての存在の発生元のように考えられる「阿頼耶識」を、私は言語のことだと考えています。
※ 実際には関係において存在するものを、「実体」と錯視して執着することを「遍計所執性」と言いますが、
これぞ言語の機能です。関係性において存在する事態は「依他起性」、
さらに「遍計所執性」的認識を脱して、存在の「依他起性」を確実に認識することを「円成実性」と説明するわけですが、
この整理の仕方は実に見事です・・・・とありました。
何時もの御方の 偏った見方 自己主張だけでは いかがなものでしょうか
偏見とはこの御方のことのようにも感じます
説明内容が酷似してるっていってますね。
言葉悪いですがパクリです
ヨーガ学派から持ってきたものをうまく折衷して独自理論の装いをもたせた
言葉わるいですが唯識は「なんちゃってサーンキヤ」といっても差し支えないでしょう。唯識は誤訳がおおく元ネタみたほうが正確といってる方いましたね。
梵我一如の対抗思想といいながら裏では引用し、取り入れ独自理論にしてしまうあたり実に狡猾。
こんなんやってるからインドで消滅したんですよ。
仏教も消えたんですよね?
今は観光地ですかね。
実質「阿頼耶識」が「自己」の根拠になって、しまう!
(人間の欲望「無明」によって「捏造」される)
南師は、「諸行無常」なのだから、
「根拠などあるはずがない」と示す。
「唯識思想」でなく、「中観思想」の方が相応しいのです。
「仏教」はパトロン階級の没落によって、
民衆に布教する必要が生じて、「ヒンドゥー教」を大量に取り込み「インド密教」に変質した。
しかし、ヒンドゥー教と
「ヒンドゥー教もどきのインド密教」とでは、
当然、後者は不要です。
だから、インドでは「仏教」は自滅した。
民衆に布教する必要が生じて、「ヒンドゥー教」を大量に取り込み「インド密教」に変質した。
没落までは、民衆に布教する必要は無かったということ?
今は観光地ですかね。』
20世紀になって、「仏教」は、インドに「逆」布教されています。
カースト制度の、
「その下の差別されている階層」の人々が集団で、
「人間平等の仏教の教え」に入信しています。
でも、人口比率は、微々たるものです。
ここで吼えてもどうにもならんのじゃない?
これは仏教これは非仏教とわけたところでさ
非仏教にどういう問題があるの?
分離不可能ほど溶け込んでるじゃん。
それを今更分離なんてできんよ
できないこといって虚しくならないのかな?
じゃ高野山にでもいって「おまえらは仏教徒ではない」
と僧侶を目の前にしていってみてよ。
その度胸があるならさ。
ブログでいうより何倍も負荷あるよ
今の状態は味方がいる中で吠える犬だフェンスごしにね
全員敵の中でフェンスなしの丸裸で吠える犬になれよ
まあそんな勇気ないよね。
「イチャモン客みたいなもんだ。来なくても構わんが、来ないと寂しい」
「仏教以外。正面から言わず後ろから言うのと同じ。バレたらただの正面で、後ろではない。誰も話したことがないのに、その話はできる」
(1)「諸行無常」、
(2)「諸法無我」
と
「空海の真言密教」
とが、「両立できない」という事実の前で!
「仏教」と「非仏教」と、キチンと分けることは、
お互いの本質を「深く理解する」事に繋がる事です。
道元和尚が文字通り、身を削って
『正法眼蔵』全87巻を執筆なさった、
これは「日本達磨宗」の洗脳から解放させるためだった。
釈尊が「正見」を重視している意味は何故なのか?
周りは「バラモン教、後のヒンドゥー教」の世界なのに。
釈尊は、それまで信じていた「バラモン教」を捨てた。
道元和尚も「密教化した天台宗」を捨てた。
「無明」の力、「人間の根源的欲望」、「自己、我、アートマン」、
「仏教」とは、「これ」と対峙するものである。
「死苦」が何故に生まれてくるのか?
「自己」を「実体、自性、…」と観るからである。
この「自己」の虚構の束縛からの解放が、
(3)「涅槃(インドの言葉)、意味は寂静」なのです。
これが、「仏教」の「三つの法印」なのです。
これ以外が「非仏教」なのです。
南師の著作『超越と実存』も、
「仏教」と「非仏教」とキチンと区別している、
と「私は」理解しています。
自己の「来世」「天国での幸福」を信じているから行う。
(そして、同時に「自分の信仰以外の人間は、殺しても良い」とセットで)
チベット仏教の「焼身自殺」での弾圧抗議も、
自己の「輪廻転生」を信じているからできる。
もしもそれがなかったならば、
それでも実行したのであろうか?
もしも「仏教」を信じていたならば、しないだろう。
と思う。
あるとないとの「中」の構造こそが実在なすと
「中」に着目するところでこそ「無化の思考」が
「空の思想」を存在や時間などを含む一切のものは
他との相関・相依の関係(縁起)の上に成り立ち
その相関関係はいずれも独立するものはない(空である)と
この、転換に、あるいはここに気づくことで外側の視界が僅かに望める
不可知的なものが可知的なものとして虚構される
その虚構の本源をみきわめることによって
迷いの世界から悟りの世界に到るというのが唯識観で
その悟りの世界は迷いの世界の外にあるわけではないと説く
主観 ━ 客観構成の虚構性をそのままにして
対象分析し、あるいは観測者と対象の両者を観測しても
無限遡及となり
そこに三性説が、漢訳でいうと偏計所執性、依他起性、円成実性が
偏計所執性というのは、ものを間違って解釈しているというか
ないものをあるとし、あるものをないとする、そういう見方で
依他起性とは関係性の世界のことを言う
意識がないものをあるとか、あるものをないとかいうふうに
対象化し、実体化して考え、それによってこの世の惑業苦というのが
現出していることを譬えている
そこでこの苦の根本は偏計所執性でその構造は三性であり
これを唯識観によって転換していくことによって意識の
対象性、能取所取というものの無というか
そういう世界に入った時にそこに智慧の世界が現れてくると
また、聡明な哲学者ならば…
「ヨーガ行・唯識派」は、
「ただ「識」のみが存在する」と主張している、を認めるだろう。
これは、その本質において、
「識、つまり心、つまり自己」が存在するという主張と「同値」である。
つまり「自己」の存在根拠を主張しているのである。
本質において、これは、
「釈尊の仏教」の退行でしかない。
「自己」の存在根拠を主張する事こそが、
人間の欲望そのものであり、
「無明」である。
と考える。
人間というものは、直ぐに、退行する習性がある。
そして「仏教」が日本人に理解が困難な原因である。
柔軟な思考、そんな考えもあるよな〜とか、無いの
独居老人の悲哀、ヤキモチ、自練磨???
いつもボヤキでしかない、と思わない
自分だけが正論なのか
偏見の塊なのか 問うことは無いのか
せやろ
それらは異なるのか同じか。
異なる場合はどうなにがちがうのか。
同じ場合その根拠はなにか
同じならなぜ言葉が2つあるのか?1つでいいではないか
真理はアクセサリーなら仏法はなにに該当するのか。
付録か?オプションか?
仏法はアクセサリー
説明を踏みとどまる!!ですよねー
なら仏法は?
どうでもいい
踏みとどまる!!
仏法てなに?
鋭利な論理 無記!!ですよねー
春ですね。春は本当に嬉しいです。
「如何なるか是れセヤロ」
「アンティーク。坐禅時にはいらない。いちおう一筋もあったほうがいいけど」
南京ハゼさんのコメントがない
如何なるか是実存
毎日の生を支えるもの
「無常だな。感じることはできるが、つかめない」
「如何なるか是れ高橋」
https://blog.goo.ne.jp/karazima/e/063b3f16db534b83afff5a86c500c485
「侘助みたいなもんだ。有ってもも構わんが、有ると侘しい」
それまで信じていた「バラモン教」では、解決できなかった。
「自己」が「死ぬ」。
しかし、事実は連続していて区切りなどない世界である。
それを「言葉」で無理矢理「区切って」「近似世界」を「脳内に構成」する。
つまり「仮想世界」をリアル世界と錯覚するようになる。
「真理」も「仮想世界」「言語空間」にだけ存在する。
「自己」が生きている。
いや、生きているのは「頭脳」「心臓」肺蔵、肝臓…「個々の部分」である。
いやいや、身体の「60兆個」のひとつひとつの「細胞」自身である。
しかし、この「細胞」は「全部」ひとつ残らず物理的には「入れ替わる」。何度も。
父のいのちと母のいのちと連続して「自己」がある。子供のいのち、孫のいのちと連続する。
家族、親族、生活共同体、日本民族、人類、生物世界、地球まるごと…
全て連続している。
「自己」とは、言葉が切り出した「概念」である。
「死」も「言葉」である。
「死の瞬間」などはない。
脳死?心臓停止?全細胞の腐敗?
心臓が停止しても、髪は生きていて伸び、爪も伸びる。それは酸素も栄養も十分に存在するから生きている。
実際の、所謂、「死」とは、「いのち」と「物質、無生物」との間で連続している。
ただ「言葉」で区切っているのである。
「諸行無常」「諸法無我」
「言葉で認識する」のを止めれば、
皆連続して「境界」がない世界に生きることができる。
そこには「自己」も「死」もない。
これが本当の、実際の、世界である。
人類史上、釈尊が初めて発見した。
だから「ヨーガ行・唯識派」は、退行である。
南師は、そのことを説く。
「無明」とは「言葉」のことである。
所謂小乗仏教は「説一切有部の思想」になり、
大乗も、「中観」から「ヨーガ行・唯識派」になってしまった。
それが「インド密教」へと橋渡しをする。
「梵「我」一如」…つまり「識」とはほとんど、実質「我」である。
どうしても人間の習性がそのようにさせてしまう。
道元和尚はそれを問題にした。
弟子集団が「日本達磨宗」だったので。
結局「中国にいって臨済禅と密教儀式を取り入れた」。
これも退行である。
三祖義介禅師が、高齢で、中国に行った。
弟子集団が「日本達磨宗」だったので、
結局「中国にいって臨済禅と密教儀式を取り入れた」。
この「日本達磨宗」は「中国の臨済禅の印可状」を代々大切に引き継いでいった。
そして、葬式仏教は日本で初めて、曹洞宗がおこなった。
死者に受戒し、戒名を与え、僧侶に準じた「丁寧な葬儀」を行った。
目に見える仏教布教であり、多くの民衆に喜ばれた。
他の宗派も、これを真似るようになった。
龍樹の後継者とされているアーリャ・デーヴァは
認識作用と認識対象は同時に生滅するから
対象は二瞬間以上と持続せず
従って固定的実体はあり得ないとした
唯識仏教の時間論は、経量部の現在実有
過去無体説、種子と所依、転変の思想
中観哲学等を踏まえ
しかも既に龍樹等によって時の実体化の
批判は終わっていて、唯識仏教の時間論の
問題構制は心相続ということ
存在の、あるいは意識の連続と非連続ということになる
非連続というのは刹那滅であり
連続というのは過去から現在、未来へと心意識が流れていくと
物理学では、一般相対性理論になってようやく
時間・空間・質量を相互浸透の相で統一態として
把えるようになった
インドでは虚空の観念は梵我一如を説いた
シャーンデェルヤに既にあるが
これを根本原理として立てたのはジャイナ教
仏教の虚空理論はジャイナ教の影響であろう
しかし、龍樹になると虚空も仮説だとする
ここでざっくりとインド哲学について
紀元五世紀後半に文法学派のバルトリハリは
「語 = ブラフマン」説を唱えた。
インド人の信念でもある言葉(ロゴス)を
インド哲学をよむ留意点として考えることとなる
厳密な意味での哲学が生まれなかった中国や日本
生まれたのは中国思想であり日本思想である
哲学とは知りたいという以外のいかなる動機もなく
純粋に知ることを切望する営みのことである
論理は誰もが展開できる、正しく展開しようと
歪めて展開しようと、それはどうでもよい
論理を用いるということは人にとって自然の営みかも知れない
道元は「観無常」によって釈尊に帰還した
時間過程を経た原因結果ではなく
原因結果が同時発動
これが生滅ってことか?
これなら時間なしで因果は成立するけど。
生死ってつなげて表現するのは同時ってことだよね。
生死と生死の間が刹那という時間の最小単位ってこと?
超越因縁ってのは生死から次の生死へ飛ぶ因縁ってことか?
この刹那ってのがわからん
時間という実体はないといいながら時間の最小単位を設定するってのが
まったく腑におちないんですけど
時と時の間隔という意味の時間か??
今から次の今への間隔すきま。
前後裁断ってことは分離してるってことだし
間隔だよね?
ん?なんか気持ち悪いわあ
違う?
「有時」修行とか悟りとかいう体験とその表現
尤も存在と切り離された時間などは仏教にはない
諸行無常だから
しかしその説き方には、いろいろとある
存在と時間のどっちを基本に考えるかについては
東西を通じて異説が岐れるのだが
アビダルマの時間論を前提にして
有部にしても経部にしても
生住異滅という四相がダルマとして考えられている
龍樹はこれを「中論」で、生という実体があるなら
その生自体に生住滅という三相があり
更にその生等にも三相があり
無限遡及の誤りが生ずると批判する
少なくとも存在と時間とをストレートに結びつけている
ヨーロッパでいうとハイデッガーがやっと辿りついたところまで
仏教では紀元後、二、三世紀の時点ですでに行っている
もし過去が現在・未来と関係して存在するなら
現在も未来も過去の中に入ってしまう
時が存在に依ってあるなら
存在を離れて時がどこにあるのか
と龍樹は問う
<宗教の人類史的意義を問い、「空」の思想を更新する。
思考の集大成!
仏教とは何か、いま仏教に何ができるかを問う完全版!>
「如何なるか是れ否定の手」
「魚の目。痛い。以下略。」
無常なんだし。
「後ろの正面と同じ。見えたらただの正面で、後ろではない。誰も見たことがないのに、その話はできる」
もし死んで見えたとしても、当人は死んでるから、話が出来ないでしょうからね。
龍樹の後継者とされているアーリャ・デーヴァは
認識作用と認識対象は同時に生滅するから
対象は二瞬間以上と持続せず
従って固定的実体はあり得ないとした
裏返すと対象は1瞬間は固定して持続するということですよね
1瞬間の単位がわからないので仮に刹那としたら
すべての寿命は刹那しかないといえるでしょう
すべての対象は刹那ごとに死んでいる。
刹那の数字は固定で無常ではないのでしょうか?
肝心な「認識主体」には言及がないのはなぜでしょうか
認識主体はどこまでもつのですか
認識主体とはいったい誰なのか。
となると榮久さん
私にとってはあなたは対象になるので
「榮久おまえはもう死んでいる」となってしまいますよ
ケンシロウか
お葬式あげてもらわないとですね
だが榮久さんの立場になって考えるとわたしは・・・
死にたくないです
よってアーリャ・デーヴァの説はお断りします。
例えばTVは1秒間に30枚の画面を点いたり消えたりして
実体的に持続してはいない
しかし、一見したところ、画面に登場する人物や事物は
まるで実体的に持続しているように見え
しかも因果的な作用を及ぼし合っているように見える
だが、そう見えるだけで実際には、刹那刹那に断滅しながら
相続しているというのが刹那滅
あー自分もFPSの事考えていたところでした。
刹那は秒間20ちょいでしたっけ?
映画の観察者とスクリーン場とバックライトの光などで例示するのが
インドでは有名ですけども
場と光、観察者が不動っていいますね
なぞなのがフィルムであり光であり、観察者が実際になんに該当するのか
イメージできないんですよ
映画を意識にみたてて考えるとわかったようなわからんような
観察者がわからない。
動画にしても秒間何コマという時間が前提なんですよね。
時間軸なしで考えられない。
動画だと画像を順番にタイムテーブルにならべる必要がある。
なにが並べて再生しているのかまったくわからない。
ストーリ製作者はだれ?意識の再生ボタンなんて押した覚えはない。
なにも答えがない。
今という不動なる場で全くあたらしい画像が生成消去されている
それくらいはイメージできるんですが詳細がわからない。
聞いたことによるとインクにあたるのが記憶っていってましたね
記憶で光をさえぎることで色を生成とかなんとか
例はあくまで例なので実際のところが知りたいですね。
心相続
阿頼耶識の問題になる、唯識思想全体としては
八識、三性、三無性などと続けて言われる
八識説、この第八番目が阿頼耶識で前五識といのが
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識(触覚)
意識が第六識・第七識の末那識・第八番目に阿頼耶識(種子識)がある
このうち意識までは顕在意識になり得るが
末那識、阿頼耶識は顕在意識になり得ない
自我意識つまり末那識は、必ず前六識と一緒に生起する
また、第六識である意識と区別するために自我意識は
識をつけないでマナスと呼ぶ
唯識仏教では阿頼耶識の中で時間が二重に流れるような
パラダイムになっているようですね
ゲーム用モニタとかリフレッシュレート240HZとかあるんですよね
秒間240回更新ってことです。
144Hzと240hzの差は体感可能。
若い人は余裕でわかり老眼になったら無理らしい
1刹那の長さを1/75秒として(wiki参照)
刹那よりはるかに超えた更新レートでの比較で差がでるってのはおかしい。
認識作用と認識対象の最小単位以上の更新レートは体感できないはず。
なぜなんでしょうか。
そもそもクオーツやら原子時計のない鎌倉時代や古代インドにそんな大層な精度がだせるはずもないのできにしないでいいんすかね。
ん?そもそも今の時間の単位とちがってたり?
文献に間違いがあったり諸説いろいろあったり?
刹那は1/75って今日しらべたらあったんですけど
以前調べたときは1/25くらいだった記憶があるんですけどね
この数字自体にやっつけ仕事感ありますね
きにすると病気になりそうなんで無執着の境地にいるように努めたいとおもいます
75、75、75、、、
「時代だな。感じることはできるが、不安しかない。」
「呼吸みたいなもんだ。無くても構わんが、無いと死ぬ。」
「破杓庵問答みたいなもんだ。無くても構わんが、無いと超越になるらしい。」
<間違えて牛肉を食べちゃったヒンドゥー教徒の男性
補償を求めているのは、ニュージーランド・ブレナム在住のジャスウィンダー・ポールさん。
彼は近くにあるスーパー”Countdown”で子羊のローストを購入し、家で調理して食べたという。しかし、あとあと裏をみると・・・そこには「牛肉」と記されたラベルが。羊肉ではなく、実際は牛肉だったのである。
牛を食べてしまったことからポールさんはパニックに陥り、すぐさまスーパーマーケットに戻って説明を求めた。これを受け、スーパーの店員はすぐさま謝罪し、200ドル分のギフト券をプレゼントしたというが、ポールさんの怒りは収まらない。彼はそのギフト券を拒否し、魂を清めるための旅をするため補償金を要求。現地メディア”News.com.au”の取材で、ポールさんは
「これは些細な問題のように思われがちですが、私にとっては大問題です。私の宗教では、間違って牛肉を食べてしまった場合、インドへ戻り、4〜6週間にわたって司祭による神聖な儀式を行わなければならないのです。こうすることで信仰し続けることが許されるのです。非常に長いプロセスが必要です。」と主張していた。
また、スーパー”Countdown”側の担当者は、商品の表示エラーを認め、彼の宗教的信念を尊重し謝罪。しかし浄化の旅の費用に関しては支払いを拒否している。これに対してポール氏は不満を示しており、本社を相手取り訴訟を起こす姿勢を示しているという。 >
仏教徒なら、こんなことにはならない、はず。
「如何なるか是れ真理」
アサハラーみたいなもんだ。死刑でも構わんが、何だか悔しい。」
「問う。如何なるか是れ自己。」
「今日と同じ自己が明日くることを信じていて、しかも信じていることを忘れている状態」
羊肉は食べても良くて、牛肉は駄目な宗教って何?と思う。
生命科学の発見がどんどん進む!
「自我認識機能」はどのようにして、人間に、できたのか?
他の動物との分岐点を、比較しながら、その仕組みが解ってきた。
「自我」「自己」「こころ」は、受動的なものであり、
「膨大な、複雑な、階層的、「問題分割・並列処理」ネットワーク構造の演算結果、活動結果」を、「事象のシリアルな因果関係の連結」で近似的に表現したものであり、
「大脳皮質のダイナミックな活動」の「モニター」であり、
この「モニター情報」だけが「海馬」を経由して記憶される。
要は、「頭脳」と「こころ」との関係とは、
「実際の心臓の活動」と「その心電図」との関係である。
だから、
「実際に手を動かす行動開始を、筋肉に発令」後に、
「手を動かそうという、こころ・意思」が起こる。
「こころ・意思・自己…」は受動的なものである。
アメーバが「外部の食物」を感知し、
移動して近づき、食物を体内に取り込み、
「自己の物質」とする。
知覚し、体を移動し、摂取する。
この基本構造の中に、行動の連鎖の中に、「自己」の本質が存在する。
外部の刺激、「入力」と、体内をいろいろ経由して、摂取する行動を起こし、
「出力」、外部に作用する。
この基本構造の中間において、「大脳皮質が出現・形成されて、
そこにおいて「こころ・自我意識」が出現する。
大脳皮質が、
「同じ構造の2重化・重複の繰り返し」という体内に残った進化の痕跡から、
本来の機能は、元祖側で行いながら、
今までにない新しい機能は、「おまけで重複した方」を「無理やりに再利用する戦略」で実現した。
「釈尊の仏教」は
「諸行無常」「諸法無我」だから、
生命科学の発見を、教義を変更せずに、
「そのままで採り入れる」ことができる。
ますます、物理的な、「人類の体」としての
「こころ、自我、…」正体が明確になると、
それまでの「空論」「けろん」「虚構」が止む。
「ヨーガ行・唯識派」の「け論」も、止む。刹那滅などは「け論」である。
「生命科学」を「明晰に理解する」だけで「け論」を止めることができる。
「自己・こころ」が「受動的なもの」だから、主役ではないのだから、
当然、所謂「クオリア」の説明などは、どうでもよくなる。
「赤色」とは「赤色に反応する脳細胞」の活性化のことである。
「色、波長、電磁波」は連続的に変化し、脳細胞もそれに対応して連続的に配置される。
このような頭脳を要素として持つ、「膨大な数」の「大脳皮質のネットワーク」によって、文明や文化が創造された。
「自己、こころ、…」は、それの一部だということも発見された。
「仏教」の「死苦」もこの中で、解決する。
「鰻」の蒲焼が、駄目な宗教はユダヤ教。
(「鱗のない魚」は食べてはいけないから)
食物の禁忌・タブーには、生物学的には根拠がない。
日本でも「五穀」を断った。
タブーの「合理的な」根拠はない。
しかし、それらが無ければ脳はどうするの・・・脳が全てを制御しているの??
イエスチャンは真摯に学という時期が無かったのか少なかったのか
学にたいする追及が足りず己に固執し醜い、広く和かな思考を受け入れる度量は無いのですか
老醜だけ??
奈落のクイズマスター
非連続の連続は西田幾多郎さんや鈴木大拙さんのご著書ではでてくる表現で
その際に刹那は頻出しますよ。
禅を代表する学者さんで刹那は使用しています。
この学者さんの話は戯論になるのでしょうか?
ところで南さんは時間を否定されているようです。
刹那ふくめ時間を否定ということで間違いないのでしょうか?
たしかに禅は無で、一方は有ですからね。水と油のよう
特定の宗派を擁護したり正当化するのは信仰上やむを得ないとは思いますが
いくらなんでも寛容性に欠けるんじゃないですかね?
イデオロギーや宗教で対立するのは今時流行らないと思いますよ。
時間は認めず今は認めるのか?
今の永遠性は認めるのか?
刹那の時間は認めるのか?
この3つよければ教えてください^^
時間も刹那も無常、ですかね?