その1
「どうして人は死ぬのですか?」
「生きているからです」
「何のために生きるのでしょう?」
「死ぬためです」
「だったら、なぜ人は人と関わるのでしょうか?」
「関わるのが人間というものだからです」
「見事なお答えです。ひどく馬鹿げていますが」
「人生はすばらしい、とでも言ってほしいのですか?」
その2
「やさしい悪魔、っていると思いませんか?」
「思います。残酷な天使もね」
「では、そういう天使と悪魔をあやつる神とは、どういう神ですかね?」
「無能でしょうね」
「無能?」
「何もしないほうがましだと、知っているんですよ」
その3
「つまらない、ささいな幸福があるだけで、人はどうして大変な不幸に耐えられるのでしょうか?」
「そうでもなかったら、誰も生きることを受け入れられませんからね」
「ほかに受け入れる術はありませんかね」
「あります。忘れることです」
「それは大変・・・・・」
「むずかしい。だから、ささいな幸福でなんとか耐えようとするのです」
その4
「この文章の真意はなんでしょうか?」
「そんなものはありません。書かれたもの、話されたものにあるのは、解釈だけです」
「真意はどこにもないのですか」
「書いているとき、話しているとき、その最中にだけあります。だから誰にも決してわかりません」
「書いている本人にもですか?」
「当たり前でしょう。彼はそのとき、まだ書いているんですから」
人生の実像をたったこれだけの言葉に圧縮してしまうなんて。
ただ本当に自分なりでしかありませんが、あるということの一端はもしかしたらこういう雰囲気なのかなと感じたりしました。
その時はひとつの事柄においてでしたが、何かしらの影響をうけたのか或いは自分で作っていたのか個人的に数十年ずっとそれを持ち続けていたことに愕然としました。
たくさんの言葉を目にしたり耳にしますが、世の中において、派生することを説明する時の重点の置き方によっては、またその時分の自らの選択にもよるのかと思いますが、個々に投影するものも大きいのかも知れないと思います。
一方で、カンボジアのポルポト時代についての映像を目にしつまるようでしたが、生きるということが繋がってゆくことの流れや(自然の樹々にしても)想いや様々なことを思ったりしました。
昨夜は星が鮮やかに見え今日も青空が広がっておりますが、各地で気温がさがり雪が降るとのことです。
どうぞ暖かくご自愛くださいますよう心よりお祈り申し上げます。
お体の回復具合はどうでしょうか?春ですね。
南さんっ お体は大丈夫ですか?[E:clover]
特にその4が好きです。
ええ、ただそう言ってみたかっただけです。
真意は無いですよ。
忘れることは大変ですよね。
そうですよね。
“忘れた”ことなら思い出すことだってありますものね。
“覚えられない”ことは思い出すことはありませんものね。
忘れる大変さと比較にならないほど方法は簡単なんですけどね。
ええ、真意は無いですよ。
このダイアローグは
どんな状況で交わされているんでしょうかね?
ええ、真意は無いですよ。
人生すばらしいって、どこかで言って欲しいんですよ。
それがささいな幸福に感じられる人もいるのだから。
無意識に大変な不幸を耐えるために・・・。
南さんがこの本を書いた真意はなんだろうなどと、ちょうど考えていたところで、このエントリーのその4を読んだので不思議な気持ちになりました。
フラットな感覚でいることで常に見極めていけるようでありたい、と思います。