恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「同じ」と「違い」

2007年05月18日 | インポート

 先日、市内でヨガの実践をしているグループが、坐禅の指導を受けたいと、恐山まで来られました。ざっと40名ばかり。全員女性。年齢は様々。実際に坐って頂くと、さすがはヨガの実践者、皆さん見事な坐相(坐禅の姿)でした。

 ヨガは、仏教成立以前からインドに伝わる瞑想法です。お釈迦様をはじめ、当時のあらゆる修行者が用いた行法と言えましょう。したがって、坐禅とヨガには、姿勢のつくり方、呼吸法、精神の調え方など、共通するところが沢山あります。

 ここで困るのが、「共通するところが沢山あります」と言ったとたん、「ああ、坐禅とヨガは同じなんだ」と短絡的に結論付ける人が世に少なくないことなのです。

 敢えて極端な言い方をすれば、「同じである」ことには、大した意味はありません。それは「ああ、そうですか」と言っていればいいだけの話で、それだけのことです。意味が生み出せれるのは「違うこと」からです。同じように見えるものでも、一方の文脈では「A」と語られ、他方では「B」と語られること、この違いが意味なのです。何がどう違うのかが語られることが、即ち意味の発生です。「同じであること」それ自体は意味を生みません。「同じであること」の意味は「違うこと」の否定、つまり「違うこと」との「違い」からのみ生じるのです。

 したがって、性急に「違い」を否定したり、安直に「同じであること」を言い立てたりするのは、愚の骨頂です。「意味あること」とは、「違うこと」に感受性と想像力を動員することなのです。つまり、知的であるためには、「違い」に対する忍耐力が求められるということでしょう。

「自分と他人は違う」ことの意味、違うこと自体ではなく、その意味、これが「自己であるということ」です。我々は「自己であること」に耐えねばなりません。


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