我々は「自己決定」で生まれてきません。身体も名前も他人の作物であり、言語も他人から植え込まれました。すなわち、「自己」は最初から、そしてその根底から、生物的にも社会的にも、他者に侵食されています。
「自己」とは、いわば、他者の用意した「器」であり、他人から課された「形式」です(「内容」ではない)。この器と形式に記憶を盛り、整序していくわけです。
したがって、たとえば人物Aが突如記憶喪失となり、その後人物Bとして生きている内に、急に記憶が蘇って「自分はAだと」気がつたとき、仮に、彼が出会う人すべてが、彼の「Aである」ことを認めず、「B」として扱い続けたら、
その人物は「B」として振る舞い続けないかぎり、ということは「B」であることを受け容れないかぎり、つまり「B」にならないかぎり、いずれ生きることができなくなるでしょう。
「Bである」ことを断固拒否するなら、彼は「A]の記憶を保持したまま、全他者からの「Bであること」の強制に耐えつつ、「AでもBでもない誰か」、あるいは「AでもBでもある誰か」としてしか生きられず、自己同一性は崩壊して社会関係を結べなくなってしまいます。
つまり、ある人物が「Aである」こと、すなわち自己同一性は、自分が「Aである」ことの思い込みの持続と、他者による「彼はAである」という承認によって確定し、維持されるのであり、そのどちらか、あるいはその両方を失えば、自己同一性は維持できません。(本ブログ記事「アンパンマンの哲学」参照)
「自己」とは、いわば、他者の用意した「器」であり、他人から課された「形式」です(「内容」ではない)。この器と形式に記憶を盛り、整序していくわけです。
したがって、たとえば人物Aが突如記憶喪失となり、その後人物Bとして生きている内に、急に記憶が蘇って「自分はAだと」気がつたとき、仮に、彼が出会う人すべてが、彼の「Aである」ことを認めず、「B」として扱い続けたら、
その人物は「B」として振る舞い続けないかぎり、ということは「B」であることを受け容れないかぎり、つまり「B」にならないかぎり、いずれ生きることができなくなるでしょう。
「Bである」ことを断固拒否するなら、彼は「A]の記憶を保持したまま、全他者からの「Bであること」の強制に耐えつつ、「AでもBでもない誰か」、あるいは「AでもBでもある誰か」としてしか生きられず、自己同一性は崩壊して社会関係を結べなくなってしまいます。
つまり、ある人物が「Aである」こと、すなわち自己同一性は、自分が「Aである」ことの思い込みの持続と、他者による「彼はAである」という承認によって確定し、維持されるのであり、そのどちらか、あるいはその両方を失えば、自己同一性は維持できません。(本ブログ記事「アンパンマンの哲学」参照)
補足ありがとうございます。
これは、少年A君の立場に置き換えて観ると、切実な問題となりますね。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/1006e0eceebac5ee628c96540abbd172
アンパンマンのテーマソングも哲学的で、ある哲学者が孫が歌を口ずさんでるのを聴いて驚いたというエピソードもありますね。
日本のアニメーションは、今や世界に誇れる文化でもありますが、侮るどころか奥深い作品が多いですよね。
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3423/1.html
その実存に同一性の問題意識がなく、特に損傷も受けていないとすると、アンパンマンのように他者に承認されているから、ということになるのでしょうね。
自分の時もそうでしたが、久し振りに会う親類の顔がガラっと変わっていた時に戸惑うこともあります。
だからといって、それを証明できるのが、確かな身分証という法的なものであろうと、身分証の提示まではお互い要求しません。
なぜか?
とりあえず、「そういうこと」として、周りや会話の中で記憶が一致したりしているからなんでしょうね。
幼い時からの関係性が途絶えたとしても、AでもBでもない無我という実存を、誰かに受け入れられ承認されるのであれば、それもそう悪くはないのではないでしょうか。
実際には、自己というような他と隔絶された独立のものなどなく、全てが互いに外在的ではなく相互に浸透的であるように在るとしても、
他者性の余地がない存在のみがあるとしても、それならば、それはもはや、自身が存在することにすら気づかないだろうと思う。なぜなら他者性の余地などないのだから。それならば有といおうが無といおうが大して差はないだろうと思う。
それでも世界が瞬間に消えてなくなるわけじゃない。諸法無我というだけなら、その理解とともに世界も身体も消えて摩訶不思議に文字通り雲散霧消することだって別に珍奇な論理とは思えない。
諸法は無我であるとしても、存在が存在することを止めることはない。仏教の無記は、本当にわからないということなのか?それともそれは単に人間的な論理の範疇にないということなのか?
南さん、わからない。目的や意味など、一切合切が根拠も持たないならば、なぜ生活は続くのですか。
私はアンパンマンだけど、ホントはカレーパンマンになりたかった。アンパンマンは正義の味方だけどカレーパンマンの方が魅力的でしょう?
もし、親でなくなった親が、いつまでもお母さんとかお父さんと呼ばれる、それより一人の人間に戻る方がいいでしょう?部長だった人が退職したら何になるのでしょう?
確か、アイデンティティとはちょっと違うと南さんはおっしゃっていた気がしますが。
輪廻があるとしたら、したいか、したくないか、選べるといいな。私はしたくないです。
どうでも良いのですが、
輪廻論者の論理(言い分)では
実体であるとする『アートマン』(=自己同一性を保つ不滅の魂)を否定したとしても、
『識』(結生識、乃至、阿頼耶識)は自己同一性を保って輪廻すると考えているのだと思います(私の理解に誤解が無ければ・・・)。
その場合、どちらにしたところで、
純粋に自己申告制で、
他者の承認は一切不要(一切無用)であるとする立場をとっていると考えられます。
だから和尚さんの論理は、輪廻に対して無記ではなく、断滅の立場を表明しておられると私には見えるのですが、
それでいいわけですよね。
正解:
輪廻は選べます。
釈迦もしたくなかったので、
切実に修行して輪廻をしなかったようですね。(=輪廻からの解脱)
仏教では修行によって避けられる・・・
としているんだとかですよね、確か。