アンパンマンと言えば、今やドラえもんと並ぶ国民的アニメ・キャラクターでしょうが、恥ずかしながら私は、つい最近まで、アニメーションそのものを見たことがありませんでした。
先日、はじめてストーリーを通しで見て、大変面白かったです。とりわけ、毎回のエピソードの見せ場、敵役との対決の最中、危機に陥ったアンパンマンが、汚れた顔を新しい顔に取り替えるというアイデアには、自分が常日ごろ考えてきたことと重ね合わせ、少し大げさに言うと、衝撃をうけるほど、興味深く思いました。
おそらく、すでに多くの方が気づかれているのでしょうが、私が刺激されたのは、「自分が自分であることの根拠」、すなわち自己同一性の問題を考える上で、あのシーンは実に格好の事例だと思ったからです。
顔を新しく取り替えたのに、なぜアンパンマンは以前と変わらず同じアンパンマンであり続けることができるのか?
その最大の理由は、アンパンマン自身にあるのではありません。それはジャムおじさんが「新しい顔を焼くよ!」と言って、まさに新しい「アンパンマンの顔」を焼くからです。取り替える前と後の同一性を保証しているのは、先ず誰よりも、アンパンマンではない、ジャムおじさんなのです。
ここには、「自分が自分であること」は自己決定されるのではなく、他者から課せられるという事実が、これ以上考えようがないほど、単純明快に示されています。
二つ目の理由は、アンパンマンを除く周りの全員が、「新しい顔のアンパンマン」を「古い顔のアンパンマンと同じだ」と認め続け、そのとおり振舞うからです。ここでも、問題は顔を取り替える前後のアンパンマン自身の意識と記憶の連続性ではありません。
仮に意識と記憶が本人において連続していても、本人以外の全員が「同じアンパンマン」と認めなければ、その連続はいずれ破綻します。たとえば、もし、ジャムおじさんが気まぐれを起こして、顔をカレーパンマンに替えてしまい、その後全員が一致・一貫して彼をカレーパンマンとして待遇し続ければ、結局最終的には、アンパンマンはカレーパンマンになることを受け容れるか、そうでなければ精神的に異常をきたして崩壊するか、どちらかでしょう。
いや、今後の法話に使える実に好材料です。これまでも子供番組は侮りがたいと思ってはいましたが、正直、驚きました。
追記1: 師匠の急逝に多くのお悔やみを賜り、心より深く感謝申し上げます。ありがとうございました。
追記2: 脳科学者・茂木健一郎氏との対談本『人は死ぬから生きられる』(新潮新書)が15日に発売になるそうです。関心がおありの方、よろしくお願いいたします。
最近、論文執筆のため閉じこもっていますが、
「ああっ鏡が欲しい!」という気持ちに駆られます。
自分を映す鏡です。
自分が自分である根拠が他人に依存している以上、誰にも会わないこの状態が苦しいのは仕方ないのかもしれませんね・・・。
侮れませんな。
明日は私流ですね。お伺いするの楽しみにしています。
クリスチャンである「やなせ」氏にとって、こうしたレヴィナス的な哲学を実践するアンパンマンは、キリスト的精神の象徴であったことは明白でしょう。また、1975年から始まる第二バージョンにおいては、アンパンマンを描く作者の分身が登場し、アンパンマンの聖性に比して、作者の人間的弱さがせつせつと語られています。つまり、アンパンマンの物語はやなせ氏の宗教観や宗教体験が色濃く反映されているのであり、大衆化した第三バージョン(現行)にも、その残滓が見られるということなのだと思います。
やなせ氏は「ぼくらはみんな生きている」の作者でもあり「ぼくらはみんな 生きている 生きているから かなしいんだ」という歌詞には、仏教的な匂いを感じないでもありません。
それでは明日の講演を楽しみにしています。
≪死ぬから生きていけない≫が、リアルなんですよね。そうですよね。≪死ぬのに生まれてきてしまった≫という困った感に、みんな苦労してるんですよね。南さんのテーゼですよね。死ぬのに生まれたことのショック、は癒されません。時間的生き物がもつ治療不能のショック。必死でだから永遠を憧れます。必死で永遠を憧れるむなしく切ない努力を、明日からもします。するしか仕方が、道がない。アンパンマンの勇気の歌が耳鳴りしてきます。
今日は、途中からになりましたが講義を聞かさせていただきました。(空海のお話を全部聞けなかったのは残念でした。わたしは四国の歩き遍路をしたりして、野山をかけ巡っていたという空海には親近感がありますが、どうしても納得できない彼の考え方もあるからです。)さらに、質問にも答えていただきありがとうございました。実はわたしはアンパンマンのアニメというのを未だに見たことがなく、ここでブログとコメントを読んで少し理解した次第です。
ところで、最近までアメリカに戻っていましたが、戻っている間ものすごい混乱をしていました。最初の2週間くらいは通りを歩いていても、頭の中がくらくらしてました。それは、自分の「現実」がなにか分らなくなったからです。
わたしは、全く違う文化の国々の間を行き来しています。そして、名前もいくつかあり(マクタはアフリカ名)、自分のアイデンティティはあるようでないものだと結論して生きてきました。しかし、今回の渡米はなぜか衝撃が大きく、大混乱していました。
日本に戻ってきて、これまで持った名前をレポート用紙に書き並べ、その横に「わたしはわたし」と書いたくらいです。
そんなときに、この話題だったので、頭の中でベルがなったのでした。本当は前回参加させていただいた講義からもっと質問があったのですが、今日の質問は今日しなくっちゃ!と急いでしてしまったのです。お応えくださってありがとうございました。
それから、恩師が亡くなられたこと、すでに読んでいたのですが、あまりにも気持が察せられてコメントを書くことができませんでした。本当に風の吹く暗い原野に直哉さんが立っていらっしゃるようで・・わたしのこころにまでぴゅ~ぴゅ~風が吹いてしまいました。
自分を叱ってくれたり諭してくれたりする人を亡くすというのは、本当に辛いものだと思います。幸いわたしの師たちは存命で、今でも叱ってくれ、そのたびに嬉しいものです。彼らがいなくなったらどれだけ心細いことか、とよく想像してはぞっとしています。とくに、人を教えたり、導いたりする立場の人間にとっては、師は重要な存在だと思います。
でも・・開き直りのペシミストだとおっしゃる直哉さん。直哉さんはひとりきりではありません。師や親には比較できないと思いますが、同じように哀しみと孤独を抱えたひとたちが、直哉さんを思っていると思います。わたしも、思っています。ブログを読んだとき、本当にわたしも悲しくなりましたもの。そして、息苦しくて仕方ないこの祖国で、生きている実際の人物で、人間として親近感というか、誠実さを感じられた初めてのひとが直哉さんでした。とても感謝しています。存在を知ってすぐに、この講義のことも知り、幸運に感じています。きっと、もう叱る人がいつも傍にいなくてもやってゆける、ひとを導くことができる、と天がこんな状況を直哉さんに授けたのだろうとわたしは勝手に想像しています。
そして、ちょっと時間がたってから少し笑いました。初めてテレビで直哉さんを拝見したとき、「この方は体の動きが不器用でなんだか愛嬌のある方だな~」と思ったからです。新しい壁に傷をつけたのは・・正直、笑えました。さもありなん・・・と。きっと、直哉さんも笑える日がくることと信じています。
また長くなってしまいましたが、今日は本当にありがとうございました。
季節の変わり目ですが、元気でお過ごしください。
「多分・・開き直りのオプティミスト」のマクタより
さて、アンパンマン話は絶対なさるなと思っていま
した。
さて私が「自己犠牲」と書いたのは南さんとは違
いブルーパスタさんのご指摘の最初アンパンマン
しか知らなかったからです。
何れにしても、私もこの「自己同一性」がいつも頭から離れないので、新たな発見とても嬉しく思いました。御二方に謝辞。
ちなみに、今回は南さんからみて右すぐ前方にすわってお話聞かせていただきました。
次回は名乗ってご挨拶させていただければ幸いです。失礼いたします。
(引用開始)
子どもたちとおんなじに、ぼくもスーパーマンや仮面ものが大好きなのですが、いつもふしぎにおもうのは、大格闘しても着ているものが破れないし汚れない、だれのためにたたかっているのか、よくわからないということです。
ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくしては正義は行えませんし、また、私たちが現在、ほんとうに困っていることといえば物価高や、公害、飢えということで、正義の超人はそのためにこそ、たたかわねばならないのです。
あんぱんまんは、やけこげだらけのボロボロの、こげ茶色のマントを着て、ひっそりと、はずかしそうに登場します。自分を食べさせることによって、飢える人を救います。それでも顔は、気楽そうに笑っているのです。
さて、こんな、あんぱんまんを子どもたちは、好きになってくれるでしょうか。それとも、やはり、テレビの人気者のほうがいいですか。
(引用終了)
つまり、アンパンマンは、「正義の実践は、必然的に自己破壊を伴う」というメッセージを体現した存在ということになります。
しかし、上の引用文においてはなぜ正義が行われなければならないかについて、何も述べられていません。「なんのために 生まれて なにをして 生きるのか こたえられない なんて そんなのは いやだ!」(アンパンマンの主題歌より)という思いにとらわれているアンパンマンにとって、それより他に生きる道がなかったのではないかと、個人的には思います。「アンパンマン」という、死者から課せられた公案。
問題になっている『自己同一性』の問題とは少しかけ離れるかもしれませんが、顔といえば、ずーっと前(女子高生の頃)上半身と顔にやけどを負った事がありました。鏡の中に包帯でぐるぐる巻の自分の姿を見た瞬間、自分の顔はいったいどうなっているのか。不安と恐怖から入院している間中ずっとあれこれ考えながら屋上に行っては下の道路を眺める日が続きました。「友達は去るだろうか」「顔がぐじゃぐじゃだったらきっとみんな自分を嫌うだろうなあ」
幸いな事に顔の傷はほとんど残りませんでした。
退院後、学校でその時の気持ちを話したら『ばっかだなー』と一言。げらげら笑って気にも留めないようでした。
衝撃でした。友達にとって、私という入れ物(容姿)なんてどうでもいいんだ。どう生きてどういう関係を築いたかが問題だったんだ。
そんな考え方をしている人間が自分の周りには大勢いるんだ。
自分はなさけないなーと思いました。
こんな人間が周りにいるから苦しくても死を選ぶ事が出来ないのかもしれません。
初めて講義参加させていただきました。
私流だからこそ私には意味のある時間でした。
外に出てビルを眺め、自分の生きている場所はここなんだなーと思うとなんか切ない感じでした。
次回から時間には間に合いませんがまた参加できたらと思います。
ありがとうございました。
≪今の自分は過去にもいたし未来にもいるだろう≫
自己同一性とは、どの自分の歴史にもフィーリングで繋がっていてピュッとその当時の自分の気分に帰れること、と習いました。アンパンマンからカレーパンマンになったとしても、その同一性の破綻の気分を、自分の歴史の中に組み込めたら、川は蛇行するように、道は曲がり角となるように、さらにねばりある同一性になれる気がしました。説明へたぴですいません。うまくいえませんY。