「君も講演で言っていたが、坊さんが霊だの前世だの来世だの、はたまた輪廻だのという話をすると、俄然、聴衆は盛り上がるよな」
「そのとおり。みんな大好き。それまで浮かない顔で退屈そうに聞いていた人たちが、この話になると一斉に顔を上げ、ギラギラした目で話し手を見るもん」
「考えてみれば、梅雨が明けごろから、テレビ局だってヒュードロドロ系の『スペシャル』番組を定番で打つしな」
「以前、某テレビ局からすごい依頼をされたことがある」
「どんな?」
「幽霊の実況中継をしたいんだとさ」
「はあ?」
「ADらしき者いわく、いままでの心霊系番組はほとんど再現フィルムか、あるいは写真がせいぜいです。しかし、今回のウチは違います。恐山の岩場の奥にテントを張らせていただいて、霊が出るまで待ちます、だとさ。爆笑だぜ」
「本気で言ってるのか?」
「番組作る程度には本気だったんだろ」
「なにか、そのテレビ局大丈夫か、って気分になるな」
「ただね、ぼくはね、幽霊が本当にいるかいないかはどうでもいい話なの。そうでなくて、ぼくが興味深く思うのは、なぜ人はみなこの話がこれほど好きなのか、ってこと」
「なるほど」
「こういう番組、飽きずに繰り返されるでしょ。またそれを見ている人も半信半疑だけど、見るでしょ。見る人いるから、作るんでしょ」
「つまり需要があるから供給がある」
「だから『霊感商法』も成り立つ。まさに需要と供給」
「そうだな」
「となると、ぼくはその需要の正体が気になるの」
「どう思うんだ?」
「まあ、簡単だな。誕生と死という大イベントを超えて、自意識の連続性と同一性を根拠づけるものへの欲望だな」
「で、仏教の核心的教えはそれを設定しない」
「というより、『無明』と呼んで肯定しない」
「そんな根拠がないとすると、ないものを欲望できるのか?」
「ないとは断定しない。だから、欲望は消えずに、対象を喪失したまま無限大に膨らんで、裏口から『根拠』を引き込もうとするんだろ」
「根拠は仮説か?」
「当たり前だ。自意識の同一性は本人の記憶と周辺他者の承認だけで構成されている。よしんば記憶が現世を超えて連続しても、他人の承認は連続しない。同一性が維持できるはずがない。あるいは本人の錯覚や妄想と区別できない」
「前世や来世、あるいは輪廻は自意識の問題なのか?」
「あのねえ、自意識の連続性や同一性と無関係なら、そもそも、こんな話をしなきゃいけない理由があるの?」
「ないだろうなあ」
「そう。だから、こういう話から解脱しなきゃいけないの、仏教は」
「幽霊がいても?」
「いても、いなくても」
追記:
この度の大阪・京都方面の地震によりお亡くなりなった方々に、心よりお悔やみを申し上げ、被災した皆様が一日も早く平穏な毎日を取り戻されることを、深く祈念いたします。
「そのとおり。みんな大好き。それまで浮かない顔で退屈そうに聞いていた人たちが、この話になると一斉に顔を上げ、ギラギラした目で話し手を見るもん」
「考えてみれば、梅雨が明けごろから、テレビ局だってヒュードロドロ系の『スペシャル』番組を定番で打つしな」
「以前、某テレビ局からすごい依頼をされたことがある」
「どんな?」
「幽霊の実況中継をしたいんだとさ」
「はあ?」
「ADらしき者いわく、いままでの心霊系番組はほとんど再現フィルムか、あるいは写真がせいぜいです。しかし、今回のウチは違います。恐山の岩場の奥にテントを張らせていただいて、霊が出るまで待ちます、だとさ。爆笑だぜ」
「本気で言ってるのか?」
「番組作る程度には本気だったんだろ」
「なにか、そのテレビ局大丈夫か、って気分になるな」
「ただね、ぼくはね、幽霊が本当にいるかいないかはどうでもいい話なの。そうでなくて、ぼくが興味深く思うのは、なぜ人はみなこの話がこれほど好きなのか、ってこと」
「なるほど」
「こういう番組、飽きずに繰り返されるでしょ。またそれを見ている人も半信半疑だけど、見るでしょ。見る人いるから、作るんでしょ」
「つまり需要があるから供給がある」
「だから『霊感商法』も成り立つ。まさに需要と供給」
「そうだな」
「となると、ぼくはその需要の正体が気になるの」
「どう思うんだ?」
「まあ、簡単だな。誕生と死という大イベントを超えて、自意識の連続性と同一性を根拠づけるものへの欲望だな」
「で、仏教の核心的教えはそれを設定しない」
「というより、『無明』と呼んで肯定しない」
「そんな根拠がないとすると、ないものを欲望できるのか?」
「ないとは断定しない。だから、欲望は消えずに、対象を喪失したまま無限大に膨らんで、裏口から『根拠』を引き込もうとするんだろ」
「根拠は仮説か?」
「当たり前だ。自意識の同一性は本人の記憶と周辺他者の承認だけで構成されている。よしんば記憶が現世を超えて連続しても、他人の承認は連続しない。同一性が維持できるはずがない。あるいは本人の錯覚や妄想と区別できない」
「前世や来世、あるいは輪廻は自意識の問題なのか?」
「あのねえ、自意識の連続性や同一性と無関係なら、そもそも、こんな話をしなきゃいけない理由があるの?」
「ないだろうなあ」
「そう。だから、こういう話から解脱しなきゃいけないの、仏教は」
「幽霊がいても?」
「いても、いなくても」
追記:
この度の大阪・京都方面の地震によりお亡くなりなった方々に、心よりお悔やみを申し上げ、被災した皆様が一日も早く平穏な毎日を取り戻されることを、深く祈念いたします。
心霊写真ではないですよね。
こちらでは、たかはしさんしか大好きな人はいないような?御話ですね。
被災地の方々、収束するまで不安でしょうが、御見舞い申し上げます。
みんなの中に「私」を入れないで下さい!
消費者と呼ばれる民衆、購買対象者を洗脳し無駄に買わせるように仕向ける。
新製品、新機能等と煽られて皆が持っているとも騙り惑わすCM放送。
掲載写真の波紋がイメージするように欲望が伝搬し欲望拡大病に感染する。
魚を捕っても飼い主に取られる「飼い馴らされた鵜たち」労働者と重なるようだ
「吾唯足知」を忘れずに暮らしたい。
水面に姿を映して佇む水鳥。旅の合間には、そういう時も大切なのかもしれません。
入り浸っていました。
入室者の一人が「私は3ヶ月間幽霊に呪われた」と
言い出したので、真っ向から否定したものです(笑)
「じゃあ私の苦しんだ3ヶ月は何だっていうの!?」
「お前がそう思い込んでるだけだろ」
今の私なら、どう受け流すかなあ。
自分は1年前の自分も今日の自分も同じ自分と思っている。それが錯覚だといわれても、自分の自意識の記憶、他者との関係性から別人にはなり得ない。がこの事を「無明」と仏教は言う
「無明」の理解、なかなか難しい
お釈迦様は死後の世界や霊魂などに対しては無記という態度をとっている。これに対し凡俗のわれらは非常に不安定な心持になる。元々、空を標榜する仏教ならば自意識の連続性や同一性を認めること自体が矛盾である。
科学的にもわれらの体の細胞は概ね一ヶ月程度で全て入れ替わり新陳代謝で細胞レベルでは別人になっているらしい。精神的にもバイオリズムで周期的な波の影響を受けているようだ。
つまりお釈迦様はわれらに柔な救いなどを言い残したのではなく、現実を見据えどんなに辛い苦しいことでも、またどんなにうれしい有頂天な事にも平常心を失うことのない強い心を求めている。死後の事など考えずに今を全力で生き切る覚悟したものが救われるのだろう。
同一性、連続性や可分性を仏教が原理的に肯定しないのはわかるが、なら記憶ってなんだ?
知覚も認識も理性も感情も欲望もすべて過去であり、すなわち記憶ならば、この記憶とはなんだ?
記憶は過去であり想像しうる未来であり、あらゆるものを促すものか?
記憶もまた持続しえないものなのか?刹那に、全く別様に、あり得るものなのか?
人間という概念が終わるとき、記憶もまた終わるのか?
南さん、教えて下さい。わたしにはどうしてもわからない。記憶とはなんでしょうか?