恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

欲望される「神」

2014年04月20日 | インポート

 人はなぜ、自分が死ぬ、と「わかる」のでしょう。我々が経験するのは、他の「人間」が、いつか動かなくなり、放っておくと腐り、分解されて消滅するという現象だけです。これと同じことがなぜ自分にも起きると「わかる」のでしょう。

  「同じ人間だから」。では、なぜ「同じ」だとわかるのでしょう。

 もうひとつ。「死」が何であるか、誰にも何もわかりません。誰にも何もわからないことが自分に起きると、なぜ「わかる」のでしょう。

 まったく別の個体に起きる「わけのわからないこと」が自分に起きるということは、実際には「わかる」のではなくて、そう「信じている」のでしょう。

  なぜ、そう「信じる」ことができるのか。それは「自己」が「他者」のコピーで始まるからです。「他者」を写し取るとき、「死」も写し取るのです。というよりも、「自己」に写し取られた「他者の消滅」を自覚したとき、我々は「死」を獲得します。 逆に言えば、「他者」が「自己」に「死」を書き込み、「自己」はそれを読むということです。

 したがって、「自己」の存在の「自明さ」程度に、人は自分の「死」を「自明のこと」と思っているのであり、それを「信じている」などと考えません。実際は信じているのに、「自分は死ぬ」と「わかっている」、と言うのです。

 この認識構造が土台にあるから、人は「絶対神」や「絶対の真理」を「信じ」たり、「わかった」りできるわけです。

 自分とはまるで別の存在の仕方をしている、それ自体わけのわからないもの(「絶対」は、人間には「絶対」にわからない)が「ある」と考えられるのは、我々が「死ぬ」と確信しているからです。

  しかし、考えてみれば、人は自分が「死ぬ」と「わかる」ほど、つまりそう「確信」するほど、「絶対神」や「絶対の真理」を「わかる」わけでも、「確信」してるわけでもないでしょう。この強度の差異は、どういうことでしょう。

  我々は「死」同様、「絶対神」も「絶対の真理」もそれが何であるか、決してわかりません。つまり、それらは本来、「死」のごとく空虚な観念、「無意味」な言葉です。

  にもかかわらず、「絶対神」や「絶対の真理」が、それこそ「絶対的な意味」を持つように思われているのは、我々人間がそれらに「意味」を与え続けているからです。その「意味」と何か。それはすなわち、「死」が何であるか説明することです。「死」に「意味」を与えることが「神」と「真理」の「意味」なのです。

  かくのごとく、我々が「死」の「意味」を欲望することが、「神」と「真理」を存在させるとすれば、「神」と「真理」は我々人間の持つ欲望の影にすぎないということでしょう。

 だとしたら、「決してわからない死」を完全に満たす「意味」を与えられるわけがありません。人々の欲望の度合いや性質によって、様々な「意味」が案出され、「神」の教えや「真理」として語られるに過ぎないからです。

 したがって、「死」の「無意味」の「絶対性」に対して、「神」や「真理」の「意味」は常に相対的であらざるをえません。人が「死」に与えようのない「意味」を、「神」や「真理」に与えたとき、つまり、「神」と「真理」が「無意味」でなくなったとき、それらは「絶対性」を喪失してしまうのです。

 一方が、「無意味さ」において「絶対的」に現前するとき、「意味」を持たされた他方の現前は、はるかに強度が低くなる、ということでしょう。

追記:次回「仏教・私流」は5月30日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。

 


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34 コメント

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「私」は「死ぬ」、と思っているか。 (浅野)
2014-04-20 07:17:54
「私」は「死ぬ」、と思っているか。
最後の文の意味は、死の無意味さを自覚した者が、「絶対的」な強度があがり、他方、神を信じている者が、強度が低くなる、ということでしょうか。
ということは、戦争や自爆テロなどは、神を信じていながら(絶対性が低い)、敵に侵入し、破壊していることになります。これは、一見矛盾しているように思います。ということは、神は存在している(絶対性が低い)という強い欲望から現実的な力、行為になっているのではないでしょうか。
しかし、これは、侵入していながら、無意味さを自覚しきれていない者の、自己破壊的行為ということになるのでしょうか。
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テレビで北朝鮮脱北者(強制収容所労働者)の証言... (浅野)
2014-04-20 10:47:05
テレビで北朝鮮脱北者(強制収容所労働者)の証言を聞いて、根源的には「死」を他者からコピーしますが、その上に様々なコピーをすると改めて思いました(南さんも著書に書いておりました)。
その脱北者は、労働者として生み落とされ、それ以降、労働者としてずっと生きてきたらしいのです。
なので、家族や性愛や食物の美味しさがわからないようなのです。これは、何も珍しいことではないように思います。なぜなら、家族と思えなかったり、恋人を欲しいという若者も現代日本には多くないようです。私も上の2点は十分心あたりありますし、美味しいと感じて食べたこともないように思います(慣れ過ぎて無意識で感じているのかな)。だから私は、体を腐らせないために食べるなどの仏教の言説に親和性を抱くのです。
精神分析的には、まず自己の存在の感覚をもつのは、美味しさらしいです。これは、私自身も指摘されました。
なので、やはり鏡となって、自己の欲望を教えてくれる存在が必要なのだと思いました。それ美味しい?と聞かれなければ、美味しいとわからないわけですから。正確にいうと、それは美味しいものなんだよ、かな。
となると、「絶対的なもの」や「自己存在」を考えるということは無謀なことですよね。
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しかし、なんで私は、無意味な「自己存在」を考え... (浅野)
2014-04-20 11:08:08
しかし、なんで私は、無意味な「自己存在」を考えてきたのだろう、。母は明朗で天真爛漫な人ですが、子の実存を本当の意味で尊重していたとは思えないようになりました。父は、親からのコピーを教わってこなかった人ですね。だから、不安を仕事で解消しようと、今でも不安を抱えているように感じます(団塊世代)(家に真っ直ぐ帰ってこれない)。
私自身の欲望の希薄さは、この両親を出発点とし、友人などと対等に関われずにいたのかな。
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究極のキリスト狂批判ですね。こ俺からもインチキ... (Unknown)
2014-04-20 11:19:14
究極のキリスト狂批判ですね。こ俺からもインチキ宗教撲滅運動をお願いします。
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人が人を人として見ると生も死も分かりませんが、... (秋冬春夏、何時まであるの?)
2014-04-20 11:48:37
人が人を人として見ると生も死も分かりませんが、量子コンピュータの次々世代の文明になれば、現代人の意識レベルでは想像がまったく及ばない生命の定義が生じるでしょうから、人類の意識状態も現代人と異なるであろうことは想像の範疇にありますね。 
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死を知ったとき、おそらく人は論理と言語を知った... (苦しい人)
2014-04-20 17:01:41
死を知ったとき、おそらく人は論理と言語を知ったのでしょう。ない、かつ、また、ならば。他者が死ぬ、ならば、私も死ぬ。この推論の跳躍、論理の破綻の向こうにある、有の反転としてしか存在し得ない無の無限の暗黒。自意識を有するものならば必ず持たざるを得ない、また、信仰と自覚することすらできない死の存在への絶対的な信仰。
この恐怖に拮抗するために人は祈りという行為により神を要請し続け、言葉だけの神の空虚さに存在を充填させるのでしょうね。
「神よ、仏よ」と叫び、現前させ続けなければ消えてしまうこの絶対者の頼りなさ。死の絶対的な存在感に比べ、絶対者の存在感のなんと軽いことでしょう。祈りとは悲鳴であると私は考えます。
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何を言ってるか全然わからないわ。 (youtobu)
2014-04-20 20:51:27
何を言ってるか全然わからないわ。
なんとなく、やらなくていい割り算をしてるにおいがする。
と思って読み返してみよっと。

それはそうと、絶対神が出てきたのは、人間が「死」を意識してずいぶん経ってからではないのだろうか?
で、死の意味というより生の意味付けじゃないのだろうか。
ド素人としては、不老不死のクスリをやったらどうとか、身体があったら戻ってこれるとか、あっちで不便の無いように家具調度召使いも用意しておくとか、そういうことを考えている方が「死」を考えている気がする。
南さんは「ふっ…、それじゃ生きてるのと同じじゃないか」とか言いそうだけど、同じじゃだめっていう理由もなさそう。
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南さんが最初クリスチャンになりかけたのって、な... (youtobu)
2014-04-20 21:14:51
南さんが最初クリスチャンになりかけたのって、なるほどな感じ。回りくどさが似てる。
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親鸞の『念仏成仏』の件ですが、 (イエスちゃん)
2014-04-20 21:28:30
親鸞の『念仏成仏』の件ですが、
この念仏と成仏の関係は不明です。

<大無量寿経の意>の和讃で
『念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ要門・・・』
『成仏させようとした念仏が、真の宗』との現代語訳であり、
「念仏・即・成仏」は、意味しない感じがします。

かつ、この出典は、法照の『五会法事讃』です。
「念仏成仏是真宗」

更に「念仏すれば往生し、往生すれば弥陀の教えを聞いて成仏する」の短縮形とも考えれます。

親鸞の他の記述を確認し、整合性を取る必要があります。
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 何かを信じることの出来ない私にとって、方丈様... (ride)
2014-04-20 21:58:37
 何かを信じることの出来ない私にとって、方丈様のいつもの思考スタイルは、心安らぐものです。
 そしてまた、特定の何かを信じなくても、否応なく、生きる中で宇宙の不可思議を感じる日常もあるのです。
 世界には全てが存在し、そして何も無い。うまく言えないのですが、最近自分が宇宙そのものである、ということを実感として感じるようになりました。意味を想わず只生きる時こそ、真実が見えてくるのでしょうか。
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