この前、ある人からこう言われました。
「いやあ、あなたの書く本は、内容自体の良し悪しはともかく、どれもこれも抜けが悪いねえ」
これには思わず爆笑して、うまいことを言うなあと感心しました。この「抜けが悪い」というのは、単に書きぶりが難解でわかりにくいことを言っているだけではないでしょう。読んだとき、カタルシスと言うか、「なるほど!」というような、何かがわかる爽快感が無いということだと思います。
そのとおりでしょう。私自身がそもそも、「わかる」ということ自体を疑いながら書いているのですから、そうなるのも仕方のないところです。実際、私にとって「わかる」とは、「わからないことを隠す」ことにしか思えないのです。
ひとりで文章を書いているときは、それが強烈に意識されています。この厳然として存在する「わからなさ」の力が思考を引きずり、文章の抜けをずいぶん悪くしているのでしょう。
ところが、人前で話をしているときは、なんとか相手にわかってほしいという思いが先にたち、「わからなさ」の引力を勢いで振り切って、無理やり「わかる」話に裁断してしまいます。したがって、しばしば、
「あなたは話をすると面白いのに、どうして本を書くとあんなに面倒なことになるのですか?」
と言われる仕儀になるのでしょう。
・・・・・・・というようなことが最近「わかった」のは、ある編集者から来た「一度、語りおろしで本をつくりませんか。あなたが書くのではなくて」という依頼に乗ってみたからです。
録音から文章に起こされて出てきた原稿を見て、私は驚きました。原稿の出来が悪かったからではありません。実に見事な仕上がりでした。私が脈絡なくベランメエ調で喋った話に手際よく筋を通し、このブログや他で発表したエッセイやインタビューからも材料を拾って織り込み、すくなくとも私の書いたものの中では、段違いにわかりやすく、おそらく最もおもしろい本になっています。
ですが、どうも、「自分の本」という感じがしません。出てくる文章は、編集者が「どこをご指摘いただいても、すべて典拠はわかるようにしてあります」というもので、ほとんど全て、間違いなく私が書いたり話したりしたことなのですが、何か違う。
それはライターの手が私の元の話を変形したからではありません。他人を介在させて「著書」をつくるプロセスそのものが、結果として文章の中から「わからなさ」を消したのだと思います。かくして、一読した感じを正直に言えば、
「コイツ(本の「著者」です)、なんだか危ないな、大丈夫か」
私はこの本をつくる作業を通じて、自分にとって「わからなさ」が持つ力の大きさを痛感した次第です。これを抑圧すると、それなりに見通しはよいものの、なにか「危ない」感じになる。実に「わからなさ」こそが、私という存在の核心をなすものであることを、鮮烈に思い知る経験でした。
この本は来月20日以降に出版されます(講談社インターナショナル刊)。今回はあえて申し上げますが、読んでください。「おもしろい」です!
私は南さんのご本の文体は
言葉以前のものを言葉にしていく過程に近いように感じて
貴重というかネガティブには思っていませんでした。
そういう印象がありましたので
前々回のご講義では、ここでお書きのような切り替え様に
最初驚きましたが(もちろんたった2回のことですので一般論として言うつもりではないのですが)
昨日はご文体と前々回の中間というか
何か素直に伝わるところがあるように感じました。
昨日は言語論という言葉が出てきましたが
(以下、私の雑多な連想として)
認識論、認識によって規定の付与される存在論、そしてその相互性
特に、自分が他者から認識されることによってある性格を持った存在として立ち現れるとして
そのプロセスに対して、他者にとっての都合のよさを強要される感じなどから来る
拒否感を持たないためには相手に対する畏れというか敬いがキーなのかなあなど
ぷらぷら歩きながら連想を巡らしました。
お忙しい時期になりますが
お元気でよいお年をお迎え下さい。
ありがとうございました。
来月20日以降に出版される本はぜひ読ませていただきます。
最近は赤坂にも中々顔を出せずに申し訳ありません。
管理人さんの言う「おもしろい」本に期待しています。