最近、某女性タレントの「占い師」との同居をめぐって、久々に「洗脳」とか「カルト」といった言葉がメディアを飛び交いました。
ただ、おそらく多くの方が気づいておられるとおり、この言葉は注意深く使わなければなりません。つまり、「教育」や「指導」「宣伝」などと、どう違うかが微妙だからです。
根拠に乏しいことを信じ込まされて疑わずにいたという点では、原発の「安全神話」だって大差ありませんし、そもそも紙切れ一枚と食料を交換できる制度(貨幣経済)など、洗脳の最たるものです。
私が「洗脳」とか「カルト」という言葉を考える場合、着目するところは2点だけです。すなわち、ある考え方や行動様式を受け入れた場合、
一、それとはまったく逆の考え方や行動様式が、常にそれなりの根拠を持って成立しうるのであり、どちらが正しいかを断定しうる「客観的な」基準など存在しないことを、まるで認めない。
二、その考え方や行動の仕方を受け入れた結果、それまで築いてきた人間関係が急速に失われ、途絶え、貧しくなり、気づいたら周囲に同じ考え方の者しかいなくなっている。
私に言わせれば、この2点を結果として引き起こすことが「洗脳」であり、それを強いる組織が「カルト」です。教えの内容や組織の仕組み、さらには「信者」の人柄などは関係ありません。
思うに、いかに珍妙な「教え」や「信仰」を持とうが、この2点が無ければ、「洗脳」でも「カルト」でもありません。逆に、政治・経済・教育、あらゆる社会活動の領域において、この2点が見られる場合には、その活動は麻薬並みに要注意であり、「解毒剤」の準備が必要でしょう。
2に関しては、例えば若い頃にありがちなことですが、あるサブカルチャー(ダンスとかスケートボードなど)に「はまって」しまった結果、それまでの交友関係が一切失われてしまうことはよくあることです。
カルトと言った場合、ある特定の集団の影響によって、個人の性格(視野狭窄、熱狂、価値観の固定化など)が、通常であれば長期間かけて変化するべきはずであるのに、急激に変化し、かつその特定の集団が周囲の人間及びその集団が属する社会集団にとって有害である場合を指すことが多いように思います。
ただし、人間の性質の変化は、ある一人の人間が生きていく上でいつでも起こりうるものであり、仏教をはじめとした伝統宗教もまたそうした変化をもたらすためにこそあるのではないでしょうか。無論、それは「良い方向」への変化を目指すのではありますが。
そうしたことを思うにつけ、カルトの特異性を定義することはなかなか難しいと言わざるを得ないのでは。
遥か昔より、相対的な発想を持つことを提唱し実践しておられた釈尊・道元禅師は、本当に独創的な方だったのだな、と思います。アップルのスティーブ・ジョブズが禅から多大な影響を受けたことは有名な話ですが、あらゆるものを客観視することが出来たからこそ、今や世界を変えてしまった発想が生まれたのでしょう。
私たちのような一般人でさえ、釈尊の境地を実感出来る場が多く存在するのが、現代です。自分の中に持つ世界を信頼し、先のある未来を創り上げていきたいものだ、と思います。
むしろカルトは、人間関係が途絶えても、一時的なものに過ぎず、理解されれば元に戻るという論理を持っているように思います。というよりも悪いことが起きれば、良いことが起きる前兆であるだとか、悪い膿を出しきらないと良いことが起きないだとかで、正当化します。良いことが起きれば、信仰のおかげであるとします。カルトにハマり込んでしまって人に、どれだけ意味があるのかわかりません。彼らは、それを信じているわけですから。
解毒剤の必要性はわかりますが、解毒剤を用意できるのでしょうか?
神道や仏教やキリスト教などの伝統宗教の権威を利用し、それを意図的に歪曲させたものがカルト教義である。
よってそれは従来の教えよりも魅力的であり、同時に効果が大きいと謳われる。
反面その副作用も指摘され、依存症や強迫観念に悩む者が 多く発生している。
カルトは マルチ商法や詐欺の手口を集積させて、結果 人の脳を破壊し、組織に貢献させるロボットにしてしまう。
その手法を称してカルト ・マインドコントロールという。
その活動は以下の三つの実践に集約される。
A:集金 B:新たなメンバーの勧誘 C:グループの維持
そしてそれらを半端なく全うせねば永遠の命が貰えないなどと脅す。
カルト・マインドコントロールを仕掛けられたメンバーにとって、組織外で生命を維持することは ほとんど不可能に近い。
その醜悪さは、つまり聖なる神仏を装い、その実 中身は詐欺の集積であるところにある。
それに比べれば 一般の営利組織が持つ詐欺性は、カルト・マインドコントロールよりもはるかに清らかだと言えるだろう。
カルトは 一般社会や政界など あらゆるところにその菌糸を食い込ませ その病巣とし、また 法律も熟知しているので 追い詰めることは 困難を極める。
その実態を晒し 啓蒙し続けることこそが 社会健全化の一歩と成り得るだろう。
ご利益や利他や悟りというカルトの美しい罠に気を付けよう。
カルトとは、我々自身の心の、闇と欲望が生んだ、
汚物なのである。
最悪でした。。。
いやいまもって後遺症に苦しみ、いつ人生が終わってもおかしくない状態です。
和尚さんのお説はまさにそのとおりです。
少なくともわたしには…
このところ、電話や手紙での、脱会に関するこんな質問が急増している。
まるで、暴力団から足を洗うような、決死の覚悟で相談をしてくる会員も少なくない。
かつてのオウム真理教のように、簡単に退会もできない、そんなイメージが定着した会も不幸だが、まず憲法第二十条に、
「宗教を信じたり、信じない自由や、その信仰を変える自由は、誰に対しても保障される。……誰でも宗教上の祈祷、礼拝、祝祭、儀式、行事などに参加するように強制されることはない」
という条文がある。
わかりきったことだが、どんな宗教でも信じるのは自由だが、逆に、信じない自由も認め、さらに宗教行事等の参加も強制してはならないと、わが国の憲法で定めているのだ。
だから、もし、信じていた会を何らかの理由で嫌いになったり、あるいは「金ばかり取られていて、騙されていた」と思ったら、即刻、やめたらよい。不信感を持ちながら、だらだらと付き合っていても、精神上もよくないし、第一、貴重な人生の時間と金を浪費するだけだからである。
離れたいときは、
「もうやめた」
と、一言いえば、それで済むこと。じつに簡単なことだ。
それなのに、どうして冒頭のような、質問が多いのか。
会の場合、新入会員や、講・脱講者の入会手続きには、事細かい規定を設けているのに、脱会を希望する会員には、それがないこと。
したがって、会を脱会する際に、これといった決まった手続きがないため、戸惑いのほか、余計なトラブルが発生するケースも少なくないからだと思われる。
典型的な例では、会の幹部から脱会を強引に引き止められたり、脱会をすると嫌がらせを受けるのではないか、という恐怖感。事実、そうした被害者も全国にいる。
脱会を強引に阻止したり、嫌がらせする等は、憲法二十条に照らせば、信教の自由や人権を無視した唾棄すべき行為。もし、そうした被害が発生したら、宗教法人の監督官庁である文化庁宗務課なり、人権擁護委員会へ訴える、また自宅敷地内に不法侵入したら刑法で対応したらいい。
ともあれ、以下、ごく平均的な脱会の方法について紹介してみよう。
つい最近、会を脱会した、都内に住むAさん=壮年部所属=は、次のような手続きを用いた。
三十年間も会に所属していながら、最近、脱会を決断したA氏の動機とはまずこうである。
「アホらしくなった。もう、できもしない広宣流布などという口当たりのいい言葉に、さんざんだまされてきたんです。いま、会がやってることを冷静に見ると、賞取りと、票取り。あとは財務、財務ですよ。もはやこれは信仰というより、株式会社そのまま。月々の座談会に出ても、今度はどこぞの国から賞を貰ったとか、あとは宗門に対する悪口や憎悪です。こんな話を聞くために、信仰を求めたわけではない。だいたい、賞を貰ったところで、私の人生にどんなプラスになりますか。壮絶な金と時間の無駄使い。大幹部や本部職員は、それで給与やボーナスを貰っているからいいけど、そんな遊びにいつまでも付き合っていられない。会はもういいよ、という感じ。」
脱会の動機をこう語るAさんは、まず、毎月、近くの幹部宅で開かれている座談会などの諸行事に参加しなくなった。
最初のころは、電話連絡や、直属の幹部が自宅を訪ねてきたが、仕事が多忙とか、体の具合いがよくない等の詭弁を使って出席を拒否し続けたのである。
「それでも、幹部が何度も足を運ぶので、煩わしくなり、その幹部に口頭で、とうぶん会合の参加を休みます、と、きっぱりと断わりました。なぜ、とかなんとか言ってましたが、最終的にその幹部から、会合に出なくてもいいけど、新聞だけは購読してくれと言われた」
という。
毎朝、配達される新聞にしてもAさんは、脱会を決意する一年ほど前からすでに読まなくなっていた。
なぜ、読まなくなったか。この動機が面白い。暮れ、部屋の大掃除をしたとき、二十年ほど前の新聞が押し入からゴッソリと出てきた。
手にとってみると、二十年前と、今朝配達されてきたばかりの新聞の紙面がほとんど変わっていない。相変わらず、広宣流布、世界平和、文化祭、会館建設の紹介、法難話。二十年前から紙面も会もなんの進歩もないのだ。社説の中身も同じ。こうして同じ記事を何十年と読ませられたことで、Aさんは知らず知らずのうちにマインドコントロールにはまってしまった、と思ったという。
それで読みもしない新聞を購読契約することは、金銭的にも、また紙資源の無駄にもなると、Aさんは電話で購読の中止を申し入れた。
すると、地区の幹部が、
「脱会するのか」
と、言ってきたという。
その後、入れ替わり立ち代わり幹部たちが来訪したというが、脱会しようとするA氏の決意は変わらない。
「脅したり、すかしたり、こびをうったり、あの手この手で接触してきました。まともに対論しようにも、幹部の話は幼稚でお粗末。こんな教団に、三十年も所属していた自分が情けなくなった。」
Aさんは、会組織との関わりを完全に切るべく、会本部の会長宛に脱会届を郵送した。将来、何か問題が発生してはと、内容証明郵便にし、手元に複写一通を残したのである。
以来、本部からAさん所属の地区組織に連絡が入ったようで、会幹部による来訪者の足が途絶えた。同時にAさんは、会員を除く近隣の住民に、折りに触れて、自ら会を脱会したことを伝えたという。
すると、それまでAさんは選挙運動時以外に、近所付き合いがなかったのに、以後、近所の住民が一人、二人とAさん宅を訪ねてくるようになった。
「脱会して初めてわかったことですが、世間の人達が会をこれほど嫌っているとは思いませんでした。会の現役時代、私もオウム真理教や他の新興宗教をインチキ宗教とバカにしていましたが、世間の人は会をそのオウムなどの宗教と同じ目で見ているんですね。」
これが、脱会したAさんの手続き方法である。
脱会は簡単
会を脱会することは、べつに、勤めていた会社を退職するとか、暴力団から足を洗うといった、大それたことではない。所属する地区の責任者に口頭で、
「やめた」
と、伝えればよい。わざわざ手間暇かけて、文書にする必要もないのだ。しかし、気持ちのうえできっちりと会と決別したいときは、文書で、「脱会届け」を提出するのも一つの方法である。
この場合、提出先の郵送先が、会本部の会長でも、宗教法人の代表役員、理事長でもよいし、名誉会長でもかまわない。
「脱会届け」の文面は、これも決まりがないため、内容は自由である。一例では、
「 脱会届け
○年○月○日付けをもって会を脱会します。
所属組織名
氏名(家族がいたら家族名も)
○年○月○日
会
殿 」
また、脱会届けを郵送するとき、同文に一言付け加える脱会者も多い。たとえば、
「今後、私が了解しないかぎり、入会勧誘、及び、支援政党の票依頼等を目的にした、会員による自宅来訪を一切拒否します。貴殿も会責任者の義務として、非会員に余計な迷惑をかけないよう、地域周辺の会組織に指導徹底してください。」
ところで、脱会する上で肝要なのは、あいまいな態度を取らないこと。口頭にしても文書にしても、べつに理由など説明することもない。ただ簡潔にきっぱりと、
「やめた」
と、意志表示を鮮明にすることだ。
幸い、会が国内はもとより、巨額を出費してまで、世界に向けて人権の重要性を訴えている。個人が宗教を信じる、信じない、ということもまた大切な人権。脱会後、もし、会員が来訪するようなことがあったら、
「あなたたちは、先生が世界に向かって訴えている、せっかくの人権キャンペーンに、反発するのですか」
といった話をして玄関を閉めたらいい。人が勝手に信じている会の話など、実際、興味がなければ門前払いをすればいい。本人が価値を認めないものを、言葉巧みに押し付ける寝具やナベカマのセールスマンと変わりがないからだ。たちの悪い悪質な押し売りなら、一一〇番という方法もある。
ただし、少なくとも今までは貧しくなさそうですけど。。。。。。
海外の電力会社だけではなく、国内の電力会社からも村社会は指摘されている。志村によれば、『財界展望』1987年9月号では関西電力の社員が東京電力を評して下記の点を指摘し、東電人事部副部長安藤豪敏が同意しており、村社会を形成した点は自覚があったことが示されている。
関西電力に比較し規模が2倍であり、原子力部門の他、労務、営業、総務など各部門が村社会を形成している。
社長、会長は総務、企画畑出身者が多く、その理由は東電社内でゼネラリストを養成出来たのがこの2部門だけだからであるが、デメリットとして総花的な人物となる。
各部門内で上下関係が徹底化したのは24時間無停電で電力供給を継続するための責任感、当該分野の知識に深みを持たせたことも要因にある。
また、『財界展望』での電力会社社員の鼎談によれば「お客様本位」の経営に徹し、オフィスの冷暖房で東京ガスとの競争に勝つため、新設備を理解させるため建設工事を発注している建設会社を本社に「呼びつけて」説明したところ、お客本位の発想と正反対であるため当時会長職にあり、生え抜きの平岩外四が激怒したことがあったという。
東電経営陣から社内の原子力部門が遠ざけられる一方で、原子力部門は社外の原子力産業、関係官庁、研究者達とは親密な関係を築きあげていった。これが、1980年代以降に指摘されるようになった大きな意味での原子力村であるという。
カルトではないと、長々言い訳をしている。まあ自分の周り身近な仲間とも疎遠になってないし、宗教の話しは場所を考えて話す必要があると言うのが一番なのかな。
母親が病弱でよく病院に長期間入院中に新興宗教の勧誘を受けていたが、「私は、○○寺が菩提寺の檀家である」あるが口癖だった。母親の自己同一性の確立には、曹洞宗の檀家であるが、中心を成していたようです。私自身も母の考えに近い所があるようです。