「あなたは、仏教の思想は、根本的に言語の問題だと言ってますが、どういうことですか」
「私は、仏教においては『「空』という考え方が、もっともオリジナルでユニークだと考えています。その場合、『空』とは、
一、存在するすべてのものには、それがそのようにあるいかなる根拠もないこと、つまり、そのものがそのままであり続けること(同一性)を保証するもの、すなわち『実体』とか『本質』と呼ばれるようなものを想定しないことであり、
二、にもかかわらず我々が『存在する』と言表できるのは、『存在している』とされるものが、その ものではないものとの関係において成立していて、その関係性が暫時維持されて いる(縁起)からだ、
と考えることです。
たとえば、『机』は、机そのものに『机』である根拠が『本質』として内在しているのではなく、我々が『机』として使うという関係性が、そのものを『机』にしているにすぎません。
にもかかわらず、この関係性を言語によって『机』と命名し、以後、常にその物体に『机』としてしか関係しなければ、関係は『意味』として固定し、むしろ物体に内在する『本質』のように思われるでしょう。つまり、言語は、非実体的で関係性によって構成される存在を、そのもの自体で存在する『実体』と錯視させるのです(私の『無明』の定義)」
「では、いわゆる『アビダルマ』思想の考え方は認めないのですね」
「俗に言われる要素分割主義的な『空』の考え方は採用しません。『アビダルマ』的存在論も結局は同じことです。
自動車は部品でできていて、自動車としての『実体』は無い、という言い方をしても、では『部品』はどうか、となります。部品はさらなる部品、その部品は原材料、原材料は分子、分子は原子・・・・、最後はクォーク、などと、いつまで言っても結局は同じです。なぜなら、ことは結局、そのような分割の仕方、ものの考え方、つまり言語の使い方の正しさを保証する根拠はあるのか、という話になるからです(ある上座部の和尚さんから、アビダルマについて『あれほど考え抜かれた思想が他にありますか』と言われましたが、いくら考えてもその考え方それ自体に根拠があるわけではありません)。
人間の思考、言語の作用・機能が(思考や作用の)対象と完全に一致するといういかなる根拠も保証もありません。なぜなら、その根拠と保証も考えて言葉で表現するしかないからです。この視点をもって、私は「空」という考え方の核心が、言語機能の相対化と批判にあると思うわけです。そして、これが竜樹の『中論』から私が学んだことなのです」
「あなたが『真理』を認めないのもそのためですね」
「そうです。人間が『考える』行為と別に『真理』などありませんし、あっても無意味です(考えられないから)。だとすると、人間の思考に無条件的な絶対性や普遍性など想定のしようもありませんから、人の口から出る『真理』などは、ファンタジーとして聞いておくしかありません」
「ほおお・・・」
「最近、『これ以上短いものは無い、最短の時間を発見した』という学者の話を聞きましたが、笑ってしまいました」
「どうして?」
「だって『短い』とい言葉は、比較においてしか意味を持たないのですから、何かを『短い』と言えるなら、それより『短い』ものがあるに決まっています。『最短の時間』とは、人間に理論的に考えることが可能で、計測できる限界において、『最短の時間と想定できる物理量がある』ということにすぎません」
「なるほど」
「だいたい、そんなことを言い出すのは、直線か円環かしりませんが、線状に均質に『流れる』、時計がイメージさせるような時間が、それ自体として存在すると考えるからです。その微分の果てに出る物理量を『最短』と考えるのでしょう。これは時間認識の一例にすぎず、『本質』でも『実体』でもありません。イヤなことは長く感じ、楽しいことはアッという間に過ぎる体験も、まちがいなく時間です」
「時間そのものは無いと?」
「無いとは断言できませんが(無いと証明する方法が無い)、あると断定するのは間違いです。だって、一秒でも一時間でも、それ自体として認識できますか? できるのは現象の変化や推移の観測から割り出される数字だけですよ」
「考えること自体から離れてみないといけないわけですね」
「非常にむずかしいですが、それを必須条件として要求するのが仏教です」
『「空」という考え方が、もっともオリジナルでユニーク』
こちらの言葉や、この度のお話がわかりにくい方には、キリスト教における「普遍論争」などを参照し、これを前提として考えていくと、理解が深まるのではないかと思われます。
苦しみの所在がわからないまま、「普遍論争」などを辿っていたときに、なぜあれほど気落ちしたのかが、今更ながらわかりました。
(今でもキリスト教自体は、好きなのですが・笑)
そしてなにより、やはり「座禅」になりますよね...。
空性には濃淡があると思われますか?
たとえば関係性によって、
「机」は「椅子」だったり「薪」だったり、
猫にとっては「爪とぎ」だったり、色々ですよね。
ですが、「机」が関係性によって、
「小麦」だったり「キリン」だったり「親」だったりは
あんまりしないと思うんですね。
空というからには、すっぱり全部に対して空だと気持ちいいのですが、
実際には、現実の用途のグルーピングに対する「にじみ」のような気もしないでもなく・・・・。
「机」と「爪とぎ」は空でも、「机」と「キリン」は空じゃない、みたいな濃淡はあるのでしょうか。
思い直せば、
空=śūnya=欠いてる、っていうわけだから、
濃淡はともかく本質なんかないという
消極的な定義でいいのかもしれませんが…。
自己の在り方を正すことにより、悠久の世界に存在するような「この自己という事態」を感じる時、その先を考えることは無用ですから「言語の制約」も受けませんし、お金もその行為において、結果的に発生するのですから「思考外の産物」でしょう。
何を言いたいのか? 「他者に請われる存在」で在ること! と力んでは全くダメだけれど、極々普通に直哉さんのように在ることでしょうかね。
大乗でもテーラワーダでも、「思考」、「感情」、所謂「煩悩」の濃度が下がったとき、もしくは消滅したときに、現れる「もの」とした方が良い、と私は思います(これも定義ですが(笑))。
「思考」で理解しようとすると、「それ」に触れられません。
瞑想やらで「思考」を落とす実験をされた方が早いと思います。
南さんの「空観」は面白いですが、言語面しかみていないと思うんです。
「空」=「縁起」を観るのが如来である『中論』より。
それから、道元『正法眼蔵』の、身心脱落したのち、尽世界に満ちているのが「空」、という表記から、これは普遍的エネルギーだと私は観ますが、その言語では捉えきれない、無数のエネルギーの流れを「覚知、覚触」するのが「覚者、仏陀」だと思います。
これが「サティ」とも「マインドフルネス」とも呼ばれるもの、とは私の理解ですが…。
そのエネルギーを100%受け入れつつ、しかしながら「観照」しているから、「坐禅は大安楽の法門」なのではないでしょうか?
「諸縁を放捨し、万事を休息すべし」
エネルギーの覚知のブロックになる思考、感情を手放し、完全にやすらうこと。
臨済が『臨済録』で、暴力的なまでに(笑)「あっちこっちにフラフラしないで、今のありのままに気づけよ!お前らそのままで仏なんだってば!」
っ散々叫んでるのもそのことじゃないでしょうか。
要は完全に自分を「空っぽ」にすれば、それで「空」は自然に現成するはずです。
その「空っぽさ」に「やすらう」のが道元の「禅」だと思いますが、南さんからはそれが感じられません。
道元のことを語ってるのに、どこが「大安楽」なの?って思います。
「無常に耐えて」、「自意識を解体する技法」なんて…それこそ南さんの「思考」じゃないかなと。
どこが「非思量」なの?って。
その「思考」を「脱落」させるのが禅で、それは「大安楽」で、それが「空」だよ、ってどう読んでも道元はそう言ってると思うんですが。
「技法」って…それも「思考」ですからね。
そう思ってると「空」には触れられないと思うんです。
そういう「思考」、「感情」も手放し、手放し。
その前に浄化が必要ですが。
そうなると当然「空」はアイディアではありえない。
あるがまま…の強いて言えばただの「状態」でしょう。
Here /Nowに自然に絶対的に現れてくるものじゃないでしょうか、少なくとも道元はそう書いてます。
龍樹もそれが言いたいが為に、くだくだしい議論を積み重ねましたが、肝腎なのは、その「言語では捉えきれない現象を観ろよ」って所じゃないかなと。
皆さん、『中論』のくどい(笑)議論の所がお好きなようですが、私は、「縁起を観照せよ」の所の方が大切だと思いますがどうでしょう。
だからお釈迦様も、戯論を離れて瞑想せい、と言われたんじゃないですかね。
ちなみに、古来からの表記は「坐禅」です。
長々えっらそーにすみませーんm(__)m
自分の書いたものと、このブログに書かれていることをもう少し読み比べてみるといいかもしれませんね。
では、臨済の「今あるがまま」に気が付くためには、どうしたらいいと思いますか?
ヒント:
手っ取り早く「重力」に気が付くためには、「無重力」を体感すればいいとは思うのですが、案外、体感した「無重力」を別のものと結び付けて解釈してしまう恐れもありそうですね。
それから「重力」について学ぶのなら、少なくともニュートン力学ぐらいは習得し、さらにその先があることを知るべきですよね。
・・・と、ここまで書いてきて、私自身が「戯論」から離れるべきことを自覚しました(笑)
それって、・・・電磁気力とか?(笑)
では戯論を楽しみましょう(笑)
重力のお話はよくわかりませんが、要は南さん批判がしたかったんです(笑)
私の恩人でもあり、非常に感謝してるんですが、おかしいなぁ…と思う所もあるので。
南さんの坐禅、道元理解だと、「活發發地」の坐禅にどうしてもならないので(私は)。
南流で「生き生きとした」、「大安楽」の坐禅になんてなるのかなぁ、と私は思います。
やすらいでないと、そもそも身体の感度って鈍くなりますよね。
「今あるがまま」に気づくには、感情の浄化から始めればいいんじゃないでしょうか。
最近の外国の覚者の方の方法が参考になります。
OSHO のダイナミックメディテーションとか、ガンガジやレナード・ジェイコブソンの方法等、有効と思います。
結局、ネガティブな「思考」や「感情」が身体にブロックとしてあるので、坐禅や~瞑想を直接やると、しんどいし、非常に時間がかかります。
ネガティブなものをかかえていると、身体や心が、今、ここにいるのを非常に嫌がります。
常に、過去か未来か別の場所に飛んで行こうとする。
それを「解除」してあげないと、「身体感度」が鈍く、瞑想もなにもありません。
「あるがまま」なんて絵空事でしたが、今はなんとなく分かります。
禅やヴィパッサナーにすぐ入れます、というか「入る」とか「入らない」とかの「境目」が無くなりました。
レナード・ジェイコブソンのワークショップに参加して劇的な効果がありました。
私の場合は、それで「なんとなく」分かりました。
その気になってるだけやろ!!
…と言われればそれまでですが(^^)
多分(私みたいな(^^))ストレスの多い現代人は、「あるがまま」とかすぐ「覚知」できないと思います、勿論、一部の天才や素質のある方は別ですが。
だから私もそうですが、いわゆる「悟り」を求めて、禅寺やテーラワーダの門を叩く人は、挫折するか非常に時間がかかるので、まず、浄化として身心をほぐした方がよい、と勝手に思うのです。
外国の方のアプローチの仕方も馬鹿にできません。
臨済や道元もこれくらい丁寧に教えてくれればいいのに(^o^)
だから、「思考」、「感情」の浄化~瞑想というコースがまあいいのかな、と今は思っております。
南さんもいつぞやの「仏教私流」で「空なんだからマジになんなよ」と仰られていたそうなので(^^)多少の表現の御無礼も、笑って戯論とお取りくださいませ。
檀家数十件、寺の月収は5万。けど実に前向きに、檀家さんの今年の田畑の出来を心配しながら、坊さんとして過疎地域の中で何が出来るのか真剣に考えてた。
喫茶店でも文化人講演会でも「正しい仏教」でもなく、ただ「地域の中の寺」の話をしてた。
こういう、貧しくとも実直に、葬送や法事を中心核にしながら地域の人々とともに生きる「葬式仏教」の寺こそが、「寺を開く」などと抜かして文化人ゴッコしてる肉山のボンボンの何百倍もえらいのである。
「爪の垢を飲ませたい」という言葉があるが、もったいなくて垢だってあげたくないね。