新刊で、無常・無我・縁起の教えを標榜する「仏教に輪廻説は不要であり、捨てるべきだ」と公言したところ、あちこちから反論や批判が聞こえてきました。
そのほとんどは、拙著の中で言及した「無我輪廻説」の類で輪廻のアイデアを擁護しようというものでしたが、それとは別に、上座部・大乗、様々な経典・論書を引いて無我説と輪廻説の矛盾を解消しようとする主張がありましたので、これについて私の意見を述べておきます。
その主張は大よそ以下のようなものです。すなわち、
人間は、仏教で言う五つの存在要素(五蘊)で構成されていて、そこに霊魂のような実体はない。その彼が死ぬと、彼の五要素は捨てられ、「中有の五蘊」なる状態に転移し、その後次の母胎に入って、来世に生まれるのである。だから、「霊魂」などは存在せず、無我説と輪廻説はなんら矛盾しない。
以上の考え方のナイーブさは、一目でわかるでしょう。すなわち、
人間が何で構成されていようと、死ぬ前の彼と「中有の五蘊」状態と来世に出てきた者が、それぞれ全く別の存在なら、そもそも「輪廻」など言うも愚かで、単に生前の彼と「中有の五蘊」と来世の者が時間差で別々にいるだけです。
姿形は違えども、彼と「中有の五蘊」状態と来世に生まれた者の間に、同一性を担保する「何か」を設定して初めて、「輪廻」を言う意味があるのです。そもそも「五蘊は捨てられる」と言うなら、捨てる「何か」がいると考えざるを得ないでしょうし、「中有の五蘊」に転移して母胎に入ると言う以上は、転移したり入ったりする「何か」が存在するわけでしょう。
この同一性を担保する「何か」こそが、私が拙著で言う「霊魂みたいな」ものなのであり、無常・無我・縁起説と背反するアイデアなのです。
その「何か」を暗黙の裡に(あるいは無自覚に)設定しながら、無我説と輪廻説の両立を安直に言い募るのは、考えの是非を言う以前に、理屈の立て方が拙劣です。
多くの宗教は天国・地獄・来世・生まれ変わりなどを説きますが、これは要するに死の消去であり、「永遠の命」への欲望が要求するものでしょう。「輪廻」への強いこだわりも、その欲望の一種です。
「永遠の命」を峻拒して、「完全なる消滅」としてのニルヴァーナを理想として説く仏教が、いかにユニークな教説であるかは、この一事を見ても明らかです。
追記:
新著『仏教入門』の61ページに誤字がありました。ページ中ほどの「(無自性)」は「(自性)」の誤りです。お詫びして訂正します。申し訳ありませんでした。
そのほとんどは、拙著の中で言及した「無我輪廻説」の類で輪廻のアイデアを擁護しようというものでしたが、それとは別に、上座部・大乗、様々な経典・論書を引いて無我説と輪廻説の矛盾を解消しようとする主張がありましたので、これについて私の意見を述べておきます。
その主張は大よそ以下のようなものです。すなわち、
人間は、仏教で言う五つの存在要素(五蘊)で構成されていて、そこに霊魂のような実体はない。その彼が死ぬと、彼の五要素は捨てられ、「中有の五蘊」なる状態に転移し、その後次の母胎に入って、来世に生まれるのである。だから、「霊魂」などは存在せず、無我説と輪廻説はなんら矛盾しない。
以上の考え方のナイーブさは、一目でわかるでしょう。すなわち、
人間が何で構成されていようと、死ぬ前の彼と「中有の五蘊」状態と来世に出てきた者が、それぞれ全く別の存在なら、そもそも「輪廻」など言うも愚かで、単に生前の彼と「中有の五蘊」と来世の者が時間差で別々にいるだけです。
姿形は違えども、彼と「中有の五蘊」状態と来世に生まれた者の間に、同一性を担保する「何か」を設定して初めて、「輪廻」を言う意味があるのです。そもそも「五蘊は捨てられる」と言うなら、捨てる「何か」がいると考えざるを得ないでしょうし、「中有の五蘊」に転移して母胎に入ると言う以上は、転移したり入ったりする「何か」が存在するわけでしょう。
この同一性を担保する「何か」こそが、私が拙著で言う「霊魂みたいな」ものなのであり、無常・無我・縁起説と背反するアイデアなのです。
その「何か」を暗黙の裡に(あるいは無自覚に)設定しながら、無我説と輪廻説の両立を安直に言い募るのは、考えの是非を言う以前に、理屈の立て方が拙劣です。
多くの宗教は天国・地獄・来世・生まれ変わりなどを説きますが、これは要するに死の消去であり、「永遠の命」への欲望が要求するものでしょう。「輪廻」への強いこだわりも、その欲望の一種です。
「永遠の命」を峻拒して、「完全なる消滅」としてのニルヴァーナを理想として説く仏教が、いかにユニークな教説であるかは、この一事を見ても明らかです。
追記:
新著『仏教入門』の61ページに誤字がありました。ページ中ほどの「(無自性)」は「(自性)」の誤りです。お詫びして訂正します。申し訳ありませんでした。
質問のみのコメントはただ答えが欲しいだけ
疑問に思ったらすぐに人に訊くまえに調べればいい
自分で考えることを面倒くさがって即席の答えを欲しがるから結局わからない
自分で考えているというのなら輪廻が不要ということと無記がなぜ背反するのか教えてくれないか
目の前のことから
輪廻なんか逃げるやつの言い訳だ
やるんだったらやれよ。
そんなに答えが欲しいの?
答えなんかないっつーの
何度同じこといわすんだ
興味があるだけの人は結局なんにもならないよ
無駄
死活問題にならない限りはすべて無駄
輪廻信じてればいーんじゃない?
自分から奴隷になりたいんでしょ
「自称」ではなく、他人からの「蔑称」です。
『先ず普通の老人が「救世主」を恥ずかしくもなく「自称」できるだろうか??』
「救世主」ではありません。
「救世主」は「キリスト」のことです。
(これは普通名詞)
「イエス」は、固有名詞であり、
日本で言えば「一郎」「太郎」のようなものです。
だから『ユダヤ古代史』には、300人ぐらいも「イエス」という人がいます。
貴方は何も解っていない。だけ。
特に頭脳明晰で非凡欲求が強い人?は、特別感や安心感を得たいがゆえに、超越を思うようにコントロールしたいが故に、輪廻必要説を主張する、と思うわけです。
>盆踊りや運動会、「除夜の鐘」
これらは自然発生的な音ではなく、余興・人工音なので、「どうにかできる音」と、主張したいのかもしれないね。
盆踊り関係者は、イヤホン付きの携帯音を渡され、踊ったり見ているらしい。
永遠のサイレントでも望んでるかのような輩がいるらしいが、無音では生活できないことを知らないのだろう。
季節の風物詩的なものが、いよいよ遠退いていくようだ。
だがセミやカエル、災害音は?
赤ん坊は?
ご教授ありがとうございました。
それは、判定は神のみが知る
民主主義も、人権も信用していないし
悪魔は迷信ではなく現実に存在するものと
日曜日に懺悔すれば月曜から土曜までの行為は全てOK!
個人しかない、神との関係のみ
イエスちゃんのコメントが空虚なのは非仏教的な感覚、先ず普通の老人が救世主を恥ずかしくもなく自称できるだろうか??
蝉みたいに煩く、自分にはストレスが少ないのだろう
「神のために働く」人にはストレスが少ない。それは自分への執着がない。そこが強いところである。(引用おわり)。
超越を信じられない人は、自分以外に頼るものがなく、他者から力を借りることもできず、かといって自分に対して自信もないので、
自分の存在不安に七転八倒をして永遠に問い続けなければならない。
自業自得的に苦の世界をさまよう宿命にある。
まあ、こればかりはなんともやむを得ないところであろう。
ストレス多く、生きることに疲れてしまう人のタイプである。
でもそうなんだから、しょうがないじゃん!!、
これが自分が持って生まれた性分なんだから・・・
一体、著者は何をいいたいんだ・・・心の休ませ方とは??
不毛なのに、毛があるという話?
あっ、
諦めなきゃいけないんだっけ?
有時経歴のみ
先ほど言及されていた中論も、説一切有部との討論集であると考えるならば、26章の十二支の考察も「相手の土俵で闘う」、つまり彼らの否定した「刹那縁起」についての説明と解釈することはできないでしょうか。
とすれば、「輪廻」は今生のみにあるのかと。
南さんなら方便として二つの言い方をするのでしょうか(待機説法)?
1.悟りは開けないまでも、
ただひたすら修行して(=努力して)、
悟りを得ずして死ぬとても
その過程こそに大切な意味あるのだ。
相撲取りはいくら努力しても常に勝てるなんてことはない。
自分が努力して遣り切ったという事に
自分自身が納得するのだ
・・・もはや一切、後悔はないみたいな。
2.努力なんていっさい無駄じゃね。
そんなのしなくたっていいよ。
十分、後ろ向きに消極的に生きたって、
それが悪いことだという根拠なんかないんだね!!
まあユックリ、なるがままで生きたらいいよね、ね、ね!!
・・・とか。
「自己」を「実体」と考えて、
それの「消滅する」のを恐怖する。
そのために、消滅しない、
それは「輪廻して転生する」という話を
捏造して、飛びつく。
だから「仏教」は「輪廻転生」にしがみつかずに、
それを、捨て去る。
「輪廻転生」を用いて、死なないで残るものを、
死んでも連続して残るものを、
捏造してはならない!
実質「死」を消去してはならない。
そうでない者は不安に怯えながら緊張して生きる。ただ生きているだけでエネルギーを消耗する。
生きることに疲れた人は(往々にして)このタイプである。
時間の使い方、行為の仕方
輪廻を考えるヒマは無いのだ!
万事休息せねば!
本当に努力した人は、本当の自信を持つ。
(心の休ませ方42頁)。
(逆境の中にあって)死んで当たり前の人が生きているのと、
(順境に育って)生きているのが当たり前の人が生きているのとはわけが違う。
死んで当たり前の人は、生きていることだけで価値がある。いま自分が社会的にまともに生きていること、それ自身がとてつもない価値がある奇跡なのだと自負していいのだ。
他方、非抑制型の人で親から愛された人は、生きているということは当たり前のことであり、偉大なことでもなんでもない。
社会の為に尽くし、人のために働き、自分のことを後にして、人のことから先にしても、それは或る視点からみれば大したことではない。当たり前のことである。
同じ生きていてもその価値は、天と地ほどの違いがあるのだ。
南さんが提案する「他者への開け」であるが(=縁起とは他者への開けで縁起する)、
自己育成期に、
自己がいびつにいじくられた人は
他者への開けもいびつな形をとるようだ。
そして他者にいいようにいじくられて、
やがて自らは生きることに疲れてしまう。
仏道を倣うという事の第一ステップは
自己を倣うという事である。
自己をしっかり倣い終えたら
次のステップとして自己を忘れる事なのだ。
自己をしっかり倣い終えずに
いきなり自己を忘れれば、
人は他者から搾取されるだけになる。
その結果、人は生きることに疲れてしまうのである。
生きることに疲れた気味だけど、
今日はあれをやってみようか、
あそこへいってみようか、
なにそれをやって時間をすごそうかとか、
いろいろな引き出しがあれば
何とか今日一日を無事元気で
過ごせそうな感じはあるけどね・・・
でもそれもこれも疲れた時は
その時には座禅すれば
心の原風景(原点)に戻って、
あらたかな生命エネルギーが
湧いてくるかしら??
でもまあ、いつポックリ逝っても
わたしゃ、後悔なんかしてやりませんぞ!!
消極的に、後ろ向きに人生を終わらせるの(も芸のうちか?・・・)。
まあこれは
生きることに疲れた状態、
死ぬことに憑かれた状態ですね。
『心の休ませ方』(つらい時をやり過ごす心理学)をこれから読んでみます。
これを説く輪廻説(生まれ変わり思想)はインドのみならず
古代ギリシアの宗教思想にも認められる
saṃsāra 輪廻は元々インドのヒンドゥー教(バラモン教)の思想であり釈迦以前から存在していた、
ヒンドゥー教から派生した仏教やジャイナ教にも引き継がれている。
唯一神を持たない社会で倫理に、
その根拠付ける理論であった
龍樹においても倫理的根拠である
「輪廻思想」は世俗諦の範囲として受け流し、
「空の論理」
『不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去』
因果関係だけでなく、主体と客体、認識と対象
相依性までもを縁起に含めて論理展開をなし
ものはそれ自体からも生じないし
それと他なるものからも生じないと
因果関係一般を否定した。
今日でも倫理学の先生が倫理的かといえば疑問だが
まじめに生きている人はみな気づかずに倫理的だ
倫理は講壇にあるのではなく、生活にある
ここで繰り返しにはなるが
意味 ≒ ことばの世界
ことばや命題がそれに対応する実体をもつ
あるいは実体と同一であると思いこんでいるのが
世間であり迷いの根本だと言うことを再考してみてほしい
生きるに賭けることが、
「善の根拠」だからであるらしい、たぶんね。
207頁「僧侶の生活が【好き】でもなんでもないことは当たり前で、【嫌】でなかったから、やってきただけです(=継続することで見えてくる世界というものもある。)
212頁「夢や希望はあってもよいが、いりません…
夢をみるから、(かえって)見えなくなってしまう大切なものもあるのです(205頁)」。
これらの言葉に救われる人が出る。
他者から無条件の受容・許しを与えられるると、
人は救われて、自らに内蔵する自性の生命力が復活するようだ(心塵脱落/自灯明)。
かくて夢と希望と志へと自らを再生する。
杉良太郎歌『すきま風』
ココロをくじく、すきま風に傷ついて、
夢に破れ、つまずいて・・・ふと死を思うとき・・・・
「いいさそれでも
生きてさえいれば
いつか野菊のように
道のほとりに咲くだろう。」
一輪の花に飼いならされて、
あなたはすべてを知るだろう
・・・生きてさえいれば。。。
大体の人が、目の前の、いや目の後ろ?のことに取り組まず、社会や欲望に流されて、生きているのではないですかね。
せっせと前向きに且つ積極的に修行に励めと釈迦はおっしゃった・・・とかな筈だけど、
ここの和尚さん曰く(『悟りは開けない』)
191頁「前向きで積極的に生きなければならない理由は毛頭ない。前向きだろうと後ろ向きだろうと生きていればそれでよい」。「消極的に、後ろ向きに一生を全う出来たら、それ自体、大したものだ・・・」。
206頁「僧侶になってからもよく、お前は一体何をやりたいんだ、といわれました(が)、やりたいことは何もない。どうやって、今日1日を終わらせようか、うれしかったことや、ああいいな、と思ったことがあれば、幸運ですが、ただそれだけです。」(ただ目の前の問題をどう扱うか・・・に終始してきたにすぎない)。
あるともないとも言えない主体、いや無体?を相手にしてるんだしね
セミの命は1週間か
生まれ変わりを考えるヒマもないんだろうな
どちらにしても断定することは「欲望」であるかららしいですよ
ただ生きているというだけで、それ以上の性格を帯びない生のこと。
「無常・無我」の正確な意味は、
それ自体で存在する実体は存在しないという否定ではなくて、実体が存在するかどうかは判断しないということだ。
存在すると言っても、存在しないと言っても間違う。どちらのの断定も否定しているのだ。
???、これがなぜ、
無常・無我の正確な意味となるのか
どなたか解説してくだされ。
「無常」とは
日本の風土に合致しているのだろう
大地震、大津波、台風、水害等々が
繰り返し、繰り返し襲う風土が
自然の中で挙らうすべがないと
「無常」が体に滲みているからなのだろう
インド、中国、ではなく仏教が根付いている
日本の特異性の源があるようにも思える。
五千体以上のご遺体は未だに・・・
イエスちん・・・が??
こんな名前で仏教と言われても
ますます嘘っぽくなると感じますね
「仏教に共感することはあっても信仰することはない」と記されている
院代が迷惑されているだろうな、詐欺師みたいな輩に
著名人にも、「生まれてきてすみません」というものがありますが、なぜ謝るのでしょうか?
どう返信すればよいものか、返信しなくてもよいのですが、何か違うと思うのは私だけでしょうか?
人が二人以上いる限り、輪廻が無くなることは無いと思う。
無我や縁起は無くならないけどね。
失礼しました。
座禅の仕方も知らない,俄か「禅」ファンです。
さて、今回の「輪廻」ですが、これは末期以降のものだと決まっているのでしょうか。
無明から老死に至る十二因縁が、順序良く、然も同時に、且つ瞬間的に起こり、各相が其々六道を示す、「生存中」のモノだとばかり思ってましたので。
彼岸は、どんなところかわからない。
だからこその今生での「解脱」、苦しみからの解放が目標なのかと勝手に解釈していた次第です。
「日本教」が機能不全であり問題を解決できず苦しんでいる人には、
まさに、
「仏教」の布教をする必要があります。
釈尊が、「かつて一緒に修行した仲間」の5人に対して、
「初転法輪」を行ったのは、それです。
理解してもらうために何日も討論を行った。
そして、とうとう理解してもらった。
それは、コンダーニャであった。
お経の記録に残っている。
その結果、「仏」が6人に増えた。
「仏教」が「言葉で伝わり」「客観的なもの」となった。
それまでは、釈尊の主観のままだった。
「死苦」がない人・・・
例えば、「ヒンドゥー教」で「死苦」を解決している人には「仏教」は不要です。
普通の日本人「日本教」の人には、
「仏教」は不要です。
残りは「習俗としての葬式仏教・死者儀礼」だけとなる。
要は、自分が「仏教」を必要としているのかどうか?なのです。
だから「仏教」「非仏教」が重要になる。
「家族を捨てて」「父親失格」「蒸発した」
「インド社会から出た」「束縛を脱した」!
先ず、これが、基本です!
だから「サンガ」の内部には、
「カースト」は存在しない!
釈尊は、インド社会を変更・改革しようとはしなかった。
つまり、「カースト廃止運動はしなかった」!
そんな気分でこの世を斜め上から見る・・・まあ一見、ひねくれもんなんかねェ~????
でもまあ、いくら、この世を捨てたといっても
腹はすくしなァ~、困ったもんだよ!!
(慢性)存在不安症って
要するに心配性にガチガチに凝り固まった人の事であって
心配性の人って、この世に生きることに窮屈を感じてて、
ああ早く永遠に死んじゃいたい(=涅槃する)と思って、
でも自死は犬死になるからと思い直して、ただひたすらに仏教に飛びつく???
…とまあこんな解釈でいいですか??
修行あり、生あり死あり、諸佛あり衆生あり』
という大乗仏教のテーゼが
ご承知の『現成公案』の冒頭の第一行にある
続く第二行の句では
『萬法ともに、我にあらざる時節・・・』と逆のことが
暗黙に前提されている了解的地平が
その都度たえず採り出され
言語が重層的に進行している
仏教において認識が倒錯するのは
認識の孤立化、実体化においてで
その一つは、自我の実体化であり
もう一つは認識内容(法)の実体化である
この自我の実体化は仏教では単に論理的に
問題にされているのではなく
この実体化に付託して様々な欲望や意志や
想念を一緒にもつようになると
これが煩悩障といい、
また欲望等の付託のもとは人我、法我の
実体化であり、これは認識が論理的に
より根源的に有する倒錯で、これを仏教では所知障という
仏教においては、妄分別と智慧との関係は
妄分別とは別に智慧があるのではなく
妄分別の否定あるいは妄分別の自覚が
智慧であると説いている。
科学的認識は自己の認識の構造を
自覚していないように思える
今も、仏教は「輪廻する」ものではなく「縁起する」ものであり、意見は「公開処刑的に」言うものであって、「沈黙」するものではない。
「仏陀」「覚者」「悟った人」であり、普通名詞です。
だから、複数人が存在する。
「初転法輪」で「仏」が6人になったと言っています。
「諸行無常」「諸法無我」は昔からなのだから、
過去にも「悟った人」は存在したであろうと、捏造したのが、7人の佛、
「過去7佛」です。
輪廻とは、全く関係がない。
「ただし、輪廻に関しては、この世で悟れなかった人が輪廻すること、悟った人が輪廻しないことは、一貫している。」
ただし、釈迦が過去仏の元、悟って現仏となったのなら、未来仏として「輪廻する」という可能性も秘めている訳です。
これはホント疑問。
南さん的には、これをどう解釈されてるの?
特殊「常住」論』
「常住」する「もの」は、存在しない。
「実体」「魂」「霊魂」「精神・ガイスト」…など存在しないしない。
すべては「現象」である。
宇宙の進化も「現象」である。
それが「諸行無常」
「行」とは「つくられたもの」という意味です。
事物はすべて流転するはずで、
完全な消滅(=ニルバーナ)という特殊常住論の否定されるべきなのではないのか??
肉体的な死はあっても、
その後も個人の自己同一性を担保する何かがズッと継続するとすれば、それは「死」を消去したことに等しい…という意味のようだ。
それは(或る個人の)身心の完全な消滅というニルバーナの論理と合わない・・・わけであろう(per南流論理)
完全に消滅するとはそういう状態に「常在」しつずける訳で、諸行無常を超えた境地と言わざるを得ない(ニルバーナ常在論)
これは「空」とは違う「無」の領域ということであろうか?
すなわちニルバーナは諸行無常を超越するといえる・・・らしい??
→ 「意味」は現実を指します。に
これが仏教の存在観あるいは無の哲学の中枢だと思う
また、「我 ≒ 実体」に対する規定からいえば
「常一主宰」としての「我」はないとの
「無我説」であろう
◯ 意識作用
「主体」(Subjekt)から「客体」(Objekt)
ー 「対象」ー へ向かう働き
ー 志向(intentio) ー の働きがあるのみで
この働きの出立点に焦点としての「主体」が考えられ
この働きの志向方向に「客体」が、立てられて
あるものとして考えられているというだけのことである
実体は、対象化されたときに、もはや、実体ではなくなる。
むしろ、主体こそ実体である
ー といったのは、ヘーゲルであった。
意識が「規定させられている」と
ギリシャ人は、それを「運命」といった
キリスト教徒ならば「神の摂理」というであろう。
「形而上学」は、このような事態から発する。
我々が生きるのは、何のためであるか。
この世は何のために在るのであるか
このような、問いと共に開けてくるのは
「意味」(meaning ; Bedeutung)の世界である
「意味」は現実に存在するものではない。
「意味」は現実をしますが、現実でないものをも指し示す
何が「現実」(das Wirklich)であるべきか
何が「実在」(das Reelle)であるべきかも
意味によって、きまってくる
ことばや命題がそれに対応する実体をもつ
あるいは実体と同一であると思いこんでいる
ここに迷いの根本があると
悟りの世界は無説、無戯論だということになる。
中国の南部の農村の、広い水田地帯では、
水牛に引かせて、田圃を耕している。
また、童子が水牛に乗って、笛を吹きながら、夕に帰ってくる。
人間の時に犯した罪を、水牛に生まれ変わって、苦役で解消していく。
人間には、「働け」とばかりに、縄で叩かれる。
中国の禅宗での「輪廻転生説」である。
「自分」と「水牛」とは、同じ「自分」なのか?
生まれ代わりを「為山」と呼んでもいいのか?
「水牛」は罪を犯すのか?
いい加減、聞き飽きた。
アッチでやってよ。
輪廻だって!?
勝手にぐるぐる回ってろ!!
まわる〜まわる〜おれーたーちー(輪廻スランプ ランナー)
今や、輪廻は「仏教」ではなく「ムダ」であり、意見は「無我的に」言うものであって、「我が」言うものではない。
皆で輪廻しよう!、と声高に言う人間が、輪廻の結果一番矛盾する場合が多い。
正しいと思った無我説を繰り返し言う人より、往々にして、繰り返し言えば輪廻説のが正しいと思っている人の方が、強い影響力を持つ。
根本的に輪廻説人間は、自分が言う場合も言われる場合も、批判と誹謗の区別がつかない。
玉の大きい人とは、仕事を他人に任せることができて、結果の責任を自分で取る人であり、玉の小さい人はその真逆である。
無我と輪廻の区別をつけずに論じる人は、あの世に人が住めると考える人と変わらない。
生と死に馴染むこと、他人を無条件に裁かないこと。それを少しずつできるようにしていくことが、死ぬる練習なのだ。
恐らく、ブーブー教になっていたに違いない。
ブーブーp(`ε´q)
「永遠は私にとって、とても窮屈です。」
これは、もし「永遠な楽」だとしても、同じことが言えるのでしょうか?
住職代理を知りました。
色々疑問に思っていたことから解放され
とても楽になりました。
この輪廻説もまた私を楽にしてくれました。
永遠は私にとって、とても窮屈です。
いつまでこの苦しみが続くのかと訳が分からなくなった時期もありました。
その苦しみから抜け出しつつあるときに
住職代理を知れたことがとても嬉しいです!
また読みに来ます!
死ぬ練習をしている者とは、やはり土俵が違うようですよね。
「あちこちから」
「反論や批判が聞こえて」きました。』
これへの回答です。
「あちこち」だから、無視できない人々が「存在する」。
昔、秋月老師も「輪廻説」を捨てるべきと主張し、著作した場合に、
『「あちこちから」
「反論や批判が聞こえて」きました。』
それだけ多いのです。
「ご先祖様の供養で、食っている人」は、
「輪廻説」でその行為を正当化させているから。
南師は、今後の仏教は、檀家制度ではなく、
一人ひとり「個人」を救う、という方向になる。
だから「多くのお寺は、倒産する」を正視する。
これに関心がなければ、読むだけ無駄!
ましてや、何を主張するのやら!
犬の遠吠え、に聞こえる。
朝の3時に思いつく
今朝の目覚めのご宣託‼
(あれれ、なんだっけ、なんだっけ?、
あっ、そ~だった、そうだった‼)
『諸行無常、諸法無我
われ、心底、体得すれば
われは無明を突き破り,
この世の苦なんぞもはや無し。。。』
ハイ、
このアイデアに賛成する人、
手をあげて・・・
で、
ハイ、ハイ、ハイ、と
S長老あんどイエスちゃん・・・
ノン、ノン、ノンと
人差し指を横に振る
ここの先生なる南ちゃん・・・
さような形而上学には
一切無記して答えない
お釈迦様みたいな方もおわします・・・
(なんかそんな感じじゃね・・・)
お高いところにとどまって
斜め上から規制を発する。
しかしここのオショさんは
存在不安の苦闘の中にとどまって
自ら悟りを開くことを諦めて
無明の実存を演じて見せれば
その著作に共感し救われる人も現れる。
蟻が問う。
これぞ「じみとくどせんどた」なるや?
医学部に入学しました。白衣は僕の決意であり、自分の在り方を示す何かしらの敬意として頑張ります。
いや、膨大な数の「細胞」たちで生きている。
「人体」が生きているのに、それが同時に、「細胞」が生まれ、死んでいくことだった。
同様に、「個人」がこの「細胞」に対応する階層に移すと、
個々の、膨大な、「個人」は生まれ、死んでいくが、
「人類」が生き続けて行く。
そして、個人の「頭脳」は生まれ、死んでいくが、
「人類」の全体の「頭脳のネットワーク」が生き続けて行く。
「こころ」は、この個人の「頭脳」と、
この人類の「膨大な頭脳のネットワーク」の上に
「縁起している」。
所謂「こころ」も、人類の進化と、並行して、
進化する。
表裏の関係だから当然である。
「独我論」「唯識思想」「梵我一如」…
の妄想に陥らないためのガードラインである。
「無駄な思想」を、切り捨てる為の
「オッカムの剃刀」である。
「諸行無常」
「諸法無我」
「涅槃寂静」
「一切皆苦」
「死」の消去、である…「輪廻・転生・説」
これは
「オッカムの剃刀」で切り捨てられる。
自己中でしかない、長く観察してみても改善の余地は無いようだ、思考回路が固定化して錆びついてしまっている。
理解力等無い、自説を騙る講釈師。
まあ理解されなくても仕方のない事ではあると思います。
ー死の側から生を逆に照らしだすという論法も、極めて数多く見受けられる。だが、そこで死とは、生の不在であるがゆえに、それもまた実質的には何でも入れ込めることのできるブラックボックスのような対象でしかない。つまりそれは死そのものがもつ不在の強さ(脅し)を利用して、そこに〈私〉の中心性を投影するものにしかなりえない。ー
ードゥルーズー解けない問いを生きるー檜垣立哉ーP98
「この世」で死んでも、「天国」で永遠に生きる。
が「約束されている」が基盤となる。
この世の死は「消去」できる。
「無視」できる。
自爆しても「自分は「あの世で」生きる」から。
「仏教」徒には、「死を手段とした」抗議は成立しない。
チベット仏教は「輪廻論」だから、「自死」の抗議が起こっている。
(中国政府の過酷な宗教弾圧に対して)
私自身、生死を超えた生命なるもの(院代はそれを死というわけですが)の存在は、自身の自殺未遂の根拠だと今は思えるのです。
自殺をしようとしてまで自分であろうとすることの意味は、単なる欲望ということではどうしても片がつけれられないわけです。
「仏教」とは両立できない。
「輪廻説」にしがみつくと、逆に「仏教」の方が歪む!
「非仏教」に変質してしまう。
「無常・無我・縁起」が「仏教」でありこれで「全て」である。「十分」である。
他は何も必要がない。
「無常・無我・縁起」が真に納得できれば、腑に落ちれば、
根本から「死・苦」「老・苦」は消えてしまう。
(勿論「死」も「老」も歴然として存在する。その点では、何も変わっていない。
だから、「無常観」であり、発見であり、
「昔からその様であった事実」である。
だから、「過去・七佛」という話も生まれる。)
この「結果」「状態」「欲望が消える」…が「涅槃であり、寂静である」
「仏教」である印の「三つの法印」
「諸行は無常である」
「諸法は無我である」
「涅槃とは寂静である」
更に「四・法印」は、
「一切は皆な苦である」
様々な学派がその教説,ドグマ
そういうものが、
自分の教説こそは真理で
あちらは真理じゃないと、
両者は対立して
真理というものが限界づけられてしまう
そういうのを離れるというのが無戯論だと
釈尊の最初の立場であると説かれている
* ことばや命題がそれに対応する実体をもつ
あるいは実体と同一であると思いこんでいるのが
世間であり、迷いの根本だと
* 五蘊
仏陀はアートマン(我 ≒ 実体)と思っているのは
五蘊の集まりに過ぎないではないか、
色蘊、受蘊等のどこにアートマンがあるのかというふうに
弟子たちに問いかけていった。
そこではアートマンの実体化を否定しているが
そうかといって五蘊を実体化しているわけではない。
* 考える ≒ ことば
何かしら、思わしくない結果、事柄が起きた際に、自分の魂は次元の低い魂から生まれたのかな、とか、逆に、おれはきっと選ばれた魂だから、現世で他人を支配して、世の中を良くしよう、。
涅槃について個人的に気になる点が3つ程あります
①
涅槃は有余涅槃と無余涅槃に分けられるというお話がありますが、
涅槃を死に結びつける(無余涅槃)のは後世に付与された考え方で本来的には涅槃は生きている間に得られる安穏の境地のことなのだという説が初期仏教の研究書などで散見されるのですが仏教研究ではそのような考え方が一般的なのでしょうか?
②
大乗仏教において無住処涅槃(衆生救済の為に生死の世界にも涅槃の世界にもとどまらない自在の境地)という概念があり、有余と無余の涅槃より高い境地として賞揚されることがありますが、これも一種の死の消去なのでしょうか?
③
正法眼蔵に「大般涅槃、これ無常なるがゆえに仏性なり」とい記述がありますが
涅槃もまた無常=縁起=空なるものに含まれるのでしょうか?
それとも涅槃においては無常=縁起=空もないのでしょうか?
考えてもしょうがないことなのかも知れませんが、
どうしても気になってしまって…もしよろければご教授ください…
そうかもしれないですね。
なので、お客さんは玄関だけからしか入れないわけではない感じじゃないでしょうか。窓や煙突から入らなくても。
いろんな付き合いがあるわけですから。
輪廻「説」が消えても、「神がいると知られているから神がいる」のなら。
輪廻は、欲望と不安の「現れ」わいね。「作り話に乗るな」ゆうことわいね。
せやろ?
もし輪廻説が「本当に」無くなると、困る人は、さらに困る訳です。
「家にあがるのに
玄関もあれば勝手口もあれば縁側もあるってことですね。」
泥棒なら窓もありますね。
輪廻を消去されると、立場的に?「困る」からではないですかね。
「何か」ないと困る人なんでしょう。
つまり、不安の言い替えに過ぎませんが。
わたしは、今いるところでは地球と呼ばれている惑星に住んでいて、その惑星は45億年だか46億年だかって昔に原型ができたと、まあ、信じているわけです。
できたばかりのころは灼熱「地獄」のような状態だったらしい。それからだんだん冷えてって何億年か後に生命と呼ばれるものがでてきた、と。で、ずーっと経って人類がでてきた、と。
輪廻する魂っていつできたの?
輪廻が機能するためには「苦しみ」とか「善悪」とかを知ってないとだめじゃないですか。
輪廻する魂っていつどうやってできたの?
初期の地球(地獄のようだった頃)に、わざわざ他に地獄いるか?とか。おまけにそこにはまだ人類はいない、と。
そいで、地球ではいろいろな生命(種)が発生しては絶滅していっている、と。人類がいつか絶滅するのも全然不思議じゃない、というか、当たり前。
で、その後も輪廻はあるのか?
いや、無理すぎでしょ。地球誕生の歴史とか人類誕生の歴史とかを信じているわたしにとっては。
反論や批判をする人は、自分で考えることがないから南さんのいわれてることが理解できないんじゃないか?
諸法無我という言葉からして、おのずから導かれることを南さんは主張しているだけ。
そもそも、輪廻するには「時間」が必要だろう。
「時間」と「自己」とは「疎外するもの」と「疎外されるもの」として相補的なものだ、と思う。
「時間」があって「自己」はない、ということはありえない。
玄関もあれば勝手口もあれば縁側もあるってことですね。
輪廻やろうが、輪廻説やろうが、欲望満載わいね。欲望がある限りな、死の消去は「死んでも」できんわい。
せやろ?
いやいや、未だにバラモン?
よくここまで来たもんだ。
先も長い、とな。
「何か」の消去は、原発廃棄物より困難かもね。
あーあ。
恐山に、三途の川が流れてるらしいよ。
極楽浜とかもあるらしいよ。
地獄もあるらしい。
仏教の教義から輪廻「説」が削除されたとしましょう。
恐山の三途の川とか極楽浜とかって名前、変えるんでしょうか?(もっといろいろあるみたいですけど。)
まあ、変えるって手もあるでしょうし、それはそれっていう手もあるでしょう。
そいで、地獄だの極楽だのってネーミングに囲まれたところから、輪廻「説」不要という「論」が発せられているわけです。
ということは。
お坊さん方がどのくらい「霊魂が輪廻する」ということを当たり前に受け止めているのかは分かりませんが。
そして、風のうわさで聞いたぐらいで間違っていたらごめんなさいだけど、お釈迦さんの生きていたころは、輪廻する霊魂は当たり前だったらしく、お釈迦さんは「そんなものはない」とは言っていないらしい?
とか、このブログの主さんが以前記事で扱ってらしたようですが、「神はいるのか?」と問われたお釈迦さんは「神はいる、なぜならば神がいると知られているから」と答えたとか?
であるならば。ってことですわね。
未だに輪廻か、まだまだだな、って、誰が誰に言ってるのかわからないけど、選民意識を感じます。それこそ、やれやれ って思います。
実体的自己同一性を持たないことが
わかれば涅槃静寂
輪廻は無い
転依 アーラヤ識の転換
断捨離のように、とは?
モノを捨てても思いは残る。
思いを捨てようとしても残るものは残る。
ああ、仕方がない、どうしょもない。
私的には、あまりに思いが強い場合は、消えない消せない消したくないを前提に、それなら、モノでどうこうできることやない、として只ひたすらに坐禅する。
その後、ふわふわ🍧かき氷を食べる。
そして、食べ終えたかき氷の皿を見て、無常三昧する。氷は氷。水は水。実体はないのだ、と感じる。
>「説」の問題
なるほど。
「説」の問題なんですね。
仏教の僧侶は輪廻「説」を捨てる。
けれど輪廻の発想が深く根付いた人はいるからそれはそれとして対応する。
ということは、それ相応の対応力があることが前提にある。
南さんとして「なぜそうしたいか」も「説」の問題ということだ。
わかった気がする。
ありがとう。
死ぬって、全然怖くない
こちらの間から、襖を開けて、次の間にいくようなもの
こんな教えでは、
考えることも感じる事も、今のまんま。
何も変わらない。
正に、完全な『「死」の消去』である。
瀬戸内寂聴は、比叡山の天台宗で出家し修行を行った。
天台座主は、今東光だった。
でも、これが「仏教」なのか?
「日本教」そのものである。
プロの僧侶が「仏教」が解らなくなっている。
ましてや、瀬戸内寂聴の弟子や信者たちには無理。
「仏教」もどき。
アリスの「ウミガメもどき」を今読んでいますが…
「小坊主」さんを雇ってほしいな。
皆さん今日も御疲れサマーでした。(。*・д・。)ノ
が付いていたことがあったのですが…。
私的にはマルが付いていたほうが可愛らしいと思って微笑ましく思ったのですが、あれも間違いなく南さんが書かれたのですよねえ。
つまらない事で、失礼しました。
過去の行いによってプラスマイナスのポイントが付与される
不幸に見舞われたりいわれのない差別を受けるのは
魂のポイントが低く前世で悪事を働いたから
生まれてすぐ死んだあの赤子も
女房子供をいっぺんに無くして悲しんでいるあの男も
前世につんだ悪徳ゆえなのだ
と説教する坊さんは本当にいるのかなと
見直ししないで、見直される!
さらに「師」とか「先生」とかが付く人ならおさらね。
君子の過まちや、日月の食の如し。
小人の過まちや、必ず文る。
「飾り立てられ、誇張された発言のことである。」ですかね。
私的には、「写真」しか見ていませんでした。
私的にも反省します。
(´-ω-)人
反省です。
南さんの写真集のごとく、斜めに(難しい過ぎて)読んでいました。これから、読み直します。
それにしても暑いですね。皆さま、どうぞお気をつけて!
そんなに慌てた出版だったのですかね?
でもドンマイですよヽ(´・∀・`)ノ
人間だもの。
ご指摘ありがとうございます。
そのとおりです。
182頁は、「飾り立てられ誇張されたものではない発言」が正しいです。
面目ありません。今回はいかんなあ。
輪廻を捨てるベキという事ではなくても、輪廻「説」を捨てるベキだ、ということでしょうかね。
断捨離みたいに。
反論ありき。
これぞ道元門下というものでしょう。
私的には、南さんの教義に、お粗末ながら共感しています。
このように、味方もいますので、諦めないで下さいね。
いえ、諦めて下さい、、、カナ?
「死の抹消」いえ、「死の全滅」は困難でしょうから。。
次の「自分の後継者」は、「生まれ変わり」「輪廻転生」を止める、とおっしゃっている。
これで「チベット仏教」は根本的に変容するのだろうか?
「生き仏」崇拝は、「仏教」の教えに反していると考えるのだが。
そして、
毎年、お盆には、
「あの世」から「この世」に、
「迎え火」で自分の「子孫」に招かれて、
奉げられた「自分の好物」を、共食する。
「ご先祖様」とその「子孫」とが交わる。
そして、「送り火」で「あの世」に帰っていく。
いつも「ご先祖様」はその「子孫」を見ていてくださっている。
ここでは「自己」は、死んでも「消滅しない」。
永久に生き続ける。
これは、これ、完結している世界である。
ここには「仏教」は、必要がない。
出番はない。
勿論、インド人が生み出した「輪廻論」も必要はない。
輪廻説は「不要」であり、
「捨てるべき」だ」と公言した』
「仏教」と「輪廻説」とは、両立できないのです。
「輪廻説」を「残している・すがっている」ということは、
「仏教」が理解できていないからです。
つまり「無常・無我・縁起の教え」が理解できていない。
だから、本質的な問題なのです。
問題は「私の滅亡はいやだ」という「欲望」に呪縛されているのです。
「エネルギー保存の法則」を持ち出すのも「自分は消えたくない」という「欲望」なのです。
この「欲望」が「苦を生み出す」のです。
これの根本的解決が「無常・無我・縁起の教え」なのです。
「無常・無我・縁起の教え」で「苦から解放される」のです。
ニーチェが神は死んだ、、と言った時点で、すでに世の中で死んでたわけで、南さんの輪廻不要のタイミングも現代性があるんじゃないかな。輪廻が有効に使用できるなら、南さんも別に否定しないと思いますよ。
だって、生まれ変わりの話してる人の話を皆さん真面目に聞けますかね、。
>必要となれば、苦し紛れに輪廻も使う
>自己責任
>ハサミは使いよう
捨てなくていい、というか、捨てると困っちゃったりするんじゃないですか?
>「仏教に輪廻説は不要であり、捨てるべきだ」
何が、誰が、輪廻説を捨てるのか。
仏教が輪廻説を捨てる、というのは「ない」よね。
宗教集団が捨てる?仏教界全体だか曹洞宗だかが公式見解でそう述べるのが重要ってこと?理解できん。
わたしは、捨てるのは僧侶それぞれってことだよね、と思う。
南さんは僧侶?
僧侶だとして、南さんは輪廻説を捨ててる?南さんの仏教の中に輪廻説は存在してない?
「オレにとっては存在してない」として、でも「恐山院代南直哉」が発動する要件の一つである「参拝者」にはいろんな感じで存在してるでしょ。
だから恐山院代南直哉と輪廻説(輪廻思想)は切り離せないと思う。
捨てるべき、ったって実際南さん捨てられてないでしょ、って思う。
自分がこう考えていても、必要となれば、苦し紛れに輪廻も使う場合もあります。
まぁ、これは仏教が信頼されないとこというか、わけがわからいというか、恣意的にも見えるところはあります。そこで、自己責任が出てくるんです。
ハサミは使いよう、、といいますか。
相対的に観る思想です。
でないと何がいいたいのかわかんないよ。
でも、そういうものがある、と思わず思ってるうえで成り立ってる物事を抱えている人もいる(7月30日の記事の母はそういうことでしょ)。
そして南さんは「そういう人」がいることで恐山院代南直哉でいられるんでしょ。
「そういう人」に勝義諦の話なんかしたって意味ないでしょ、って?
>「勝義諦」と「世俗諦」を区別しただけで事が片付くと考えるのは誤解の元であり、大切なのは二諦の関係を定義すること
っていうのは?
改めて輪廻と言い直す必要はないでしょう
その「同一性」は霊魂みたいなものの同一性のことでしょう?
エネルギーを「霊魂みたいなもの」って、言う?
僕も無常・無我で生きてますが、自己と他者を切り分けることが難しく、自己が他者に流れてしまい、それでも、自己同一性を保つような、一貫した行動をしています。
超越か無我か、こればっかりは個人の趣味や肌に合っているか、、なんでしょうかね。
輪廻か、、僕は死んだら、永遠の無になりたいですねぇ。
僕のようなタイプの自意識は過剰なんだと思いますね多分。
しかし「死とは何か」という問いは、異なります。
死とはAであり、AとはBであり、BとはCであり、CとはDであり・・・と際限なく続くことになります。
(際限なく続くことに気が付かなければ、無常、無我、無記、縁起なども不要です)
「輪廻」を仏教に無理やり合わせるならば、このような状態を表すことになるのかもしれません。
そして「輪廻からの解脱」とは、「死とは何か」という問いの消滅(存在苦の消滅)を表すことになるのかもしれません。
死についての悲しみや問いなどは、存在する限り、消えることは難しいでしょう。
でもその悲しみなどを軽減し、癒すことはできるものと思われます。
「ある手紙」(2019年07月30日 )
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/d21971f65e979256365a78232f0b3595
必要とする人にこのように提供できるならば、仏教でしょう。
これに対し、存在苦を増やすようなこと(甘水や塩水を与えてさらに喉の渇きを増大させるようなこと)をするならば、仏教とは言えないのかもしれません。
追伸:
適切に言い表すことができないのですが、坐禅は、「存在を停止する」ということにもなるのでしょうか。
改めて輪廻と言い直す必要はないでしょう。
輪廻説は霊魂みたいなものの同一性を欠くべからざる要件としているのか?
なんか、記事読むと、それを言ってるのは南さんじゃないの?って気がする。
中有のなんちゃらってそういうもの(なんかのエネルギー)のこと?って思った。
同一性って、輪廻説に欠かせないものなの?生まれ変わりがどうだこうだっていうのが輪廻説なの?
あたしゃ、ある種の「エネルギー保存の法則」かと思ってたよ。
なぜ精子が卵子に突入を果たすと細胞分裂がはじまるのかって、現時点でわかってるの?
なぜそれが起こるのか?と考えてみたらそんなところに行きついた、それが輪廻説の原型、みたいな。
死の消去って、じゃあ死はあるのか?
あるじゃないか、だから母は娘に手紙をそなえ、返信用の便箋とシャープペンをそなえる、って?
死後の魂に?
いや、母の中では娘は生きていて?
死の消去?
輪廻への強いこだわりって、南さんも強くこだわってるよね。
輪廻説を仏教から削除したら理論的にスッキリすんのかな?スッキリしたらどうなるの?
理論的整合性で涅槃が近づくわけじゃなし(知らないけど断言)。