新刊で、無常・無我・縁起の教えを標榜する「仏教に輪廻説は不要であり、捨てるべきだ」と公言したところ、あちこちから反論や批判が聞こえてきました。
そのほとんどは、拙著の中で言及した「無我輪廻説」の類で輪廻のアイデアを擁護しようというものでしたが、それとは別に、上座部・大乗、様々な経典・論書を引いて無我説と輪廻説の矛盾を解消しようとする主張がありましたので、これについて私の意見を述べておきます。
その主張は大よそ以下のようなものです。すなわち、
人間は、仏教で言う五つの存在要素(五蘊)で構成されていて、そこに霊魂のような実体はない。その彼が死ぬと、彼の五要素は捨てられ、「中有の五蘊」なる状態に転移し、その後次の母胎に入って、来世に生まれるのである。だから、「霊魂」などは存在せず、無我説と輪廻説はなんら矛盾しない。
以上の考え方のナイーブさは、一目でわかるでしょう。すなわち、
人間が何で構成されていようと、死ぬ前の彼と「中有の五蘊」状態と来世に出てきた者が、それぞれ全く別の存在なら、そもそも「輪廻」など言うも愚かで、単に生前の彼と「中有の五蘊」と来世の者が時間差で別々にいるだけです。
姿形は違えども、彼と「中有の五蘊」状態と来世に生まれた者の間に、同一性を担保する「何か」を設定して初めて、「輪廻」を言う意味があるのです。そもそも「五蘊は捨てられる」と言うなら、捨てる「何か」がいると考えざるを得ないでしょうし、「中有の五蘊」に転移して母胎に入ると言う以上は、転移したり入ったりする「何か」が存在するわけでしょう。
この同一性を担保する「何か」こそが、私が拙著で言う「霊魂みたいな」ものなのであり、無常・無我・縁起説と背反するアイデアなのです。
その「何か」を暗黙の裡に(あるいは無自覚に)設定しながら、無我説と輪廻説の両立を安直に言い募るのは、考えの是非を言う以前に、理屈の立て方が拙劣です。
多くの宗教は天国・地獄・来世・生まれ変わりなどを説きますが、これは要するに死の消去であり、「永遠の命」への欲望が要求するものでしょう。「輪廻」への強いこだわりも、その欲望の一種です。
「永遠の命」を峻拒して、「完全なる消滅」としてのニルヴァーナを理想として説く仏教が、いかにユニークな教説であるかは、この一事を見ても明らかです。
追記:
新著『仏教入門』の61ページに誤字がありました。ページ中ほどの「(無自性)」は「(自性)」の誤りです。お詫びして訂正します。申し訳ありませんでした。
そのほとんどは、拙著の中で言及した「無我輪廻説」の類で輪廻のアイデアを擁護しようというものでしたが、それとは別に、上座部・大乗、様々な経典・論書を引いて無我説と輪廻説の矛盾を解消しようとする主張がありましたので、これについて私の意見を述べておきます。
その主張は大よそ以下のようなものです。すなわち、
人間は、仏教で言う五つの存在要素(五蘊)で構成されていて、そこに霊魂のような実体はない。その彼が死ぬと、彼の五要素は捨てられ、「中有の五蘊」なる状態に転移し、その後次の母胎に入って、来世に生まれるのである。だから、「霊魂」などは存在せず、無我説と輪廻説はなんら矛盾しない。
以上の考え方のナイーブさは、一目でわかるでしょう。すなわち、
人間が何で構成されていようと、死ぬ前の彼と「中有の五蘊」状態と来世に出てきた者が、それぞれ全く別の存在なら、そもそも「輪廻」など言うも愚かで、単に生前の彼と「中有の五蘊」と来世の者が時間差で別々にいるだけです。
姿形は違えども、彼と「中有の五蘊」状態と来世に生まれた者の間に、同一性を担保する「何か」を設定して初めて、「輪廻」を言う意味があるのです。そもそも「五蘊は捨てられる」と言うなら、捨てる「何か」がいると考えざるを得ないでしょうし、「中有の五蘊」に転移して母胎に入ると言う以上は、転移したり入ったりする「何か」が存在するわけでしょう。
この同一性を担保する「何か」こそが、私が拙著で言う「霊魂みたいな」ものなのであり、無常・無我・縁起説と背反するアイデアなのです。
その「何か」を暗黙の裡に(あるいは無自覚に)設定しながら、無我説と輪廻説の両立を安直に言い募るのは、考えの是非を言う以前に、理屈の立て方が拙劣です。
多くの宗教は天国・地獄・来世・生まれ変わりなどを説きますが、これは要するに死の消去であり、「永遠の命」への欲望が要求するものでしょう。「輪廻」への強いこだわりも、その欲望の一種です。
「永遠の命」を峻拒して、「完全なる消滅」としてのニルヴァーナを理想として説く仏教が、いかにユニークな教説であるかは、この一事を見ても明らかです。
追記:
新著『仏教入門』の61ページに誤字がありました。ページ中ほどの「(無自性)」は「(自性)」の誤りです。お詫びして訂正します。申し訳ありませんでした。
なぜ精子が卵子に突入を果たすと細胞分裂がはじまるのかって、現時点でわかってるの?
なぜそれが起こるのか?と考えてみたらそんなところに行きついた、それが輪廻説の原型、みたいな。
死の消去って、じゃあ死はあるのか?
あるじゃないか、だから母は娘に手紙をそなえ、返信用の便箋とシャープペンをそなえる、って?
死後の魂に?
いや、母の中では娘は生きていて?
死の消去?
輪廻への強いこだわりって、南さんも強くこだわってるよね。
輪廻説を仏教から削除したら理論的にスッキリすんのかな?スッキリしたらどうなるの?
理論的整合性で涅槃が近づくわけじゃなし(知らないけど断言)。
中有のなんちゃらってそういうもの(なんかのエネルギー)のこと?って思った。
同一性って、輪廻説に欠かせないものなの?生まれ変わりがどうだこうだっていうのが輪廻説なの?
あたしゃ、ある種の「エネルギー保存の法則」かと思ってたよ。
輪廻説は霊魂みたいなものの同一性を欠くべからざる要件としているのか?
なんか、記事読むと、それを言ってるのは南さんじゃないの?って気がする。
改めて輪廻と言い直す必要はないでしょう。
しかし「死とは何か」という問いは、異なります。
死とはAであり、AとはBであり、BとはCであり、CとはDであり・・・と際限なく続くことになります。
(際限なく続くことに気が付かなければ、無常、無我、無記、縁起なども不要です)
「輪廻」を仏教に無理やり合わせるならば、このような状態を表すことになるのかもしれません。
そして「輪廻からの解脱」とは、「死とは何か」という問いの消滅(存在苦の消滅)を表すことになるのかもしれません。
死についての悲しみや問いなどは、存在する限り、消えることは難しいでしょう。
でもその悲しみなどを軽減し、癒すことはできるものと思われます。
「ある手紙」(2019年07月30日 )
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/d21971f65e979256365a78232f0b3595
必要とする人にこのように提供できるならば、仏教でしょう。
これに対し、存在苦を増やすようなこと(甘水や塩水を与えてさらに喉の渇きを増大させるようなこと)をするならば、仏教とは言えないのかもしれません。
追伸:
適切に言い表すことができないのですが、坐禅は、「存在を停止する」ということにもなるのでしょうか。
僕も無常・無我で生きてますが、自己と他者を切り分けることが難しく、自己が他者に流れてしまい、それでも、自己同一性を保つような、一貫した行動をしています。
超越か無我か、こればっかりは個人の趣味や肌に合っているか、、なんでしょうかね。
輪廻か、、僕は死んだら、永遠の無になりたいですねぇ。
僕のようなタイプの自意識は過剰なんだと思いますね多分。
改めて輪廻と言い直す必要はないでしょう
その「同一性」は霊魂みたいなものの同一性のことでしょう?
エネルギーを「霊魂みたいなもの」って、言う?
でも、そういうものがある、と思わず思ってるうえで成り立ってる物事を抱えている人もいる(7月30日の記事の母はそういうことでしょ)。
そして南さんは「そういう人」がいることで恐山院代南直哉でいられるんでしょ。
「そういう人」に勝義諦の話なんかしたって意味ないでしょ、って?
>「勝義諦」と「世俗諦」を区別しただけで事が片付くと考えるのは誤解の元であり、大切なのは二諦の関係を定義すること
っていうのは?
でないと何がいいたいのかわかんないよ。