恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

雪の思い出

2010年12月21日 | インポート

 本当に冬が来るのかと思うほど、長引いた猛暑でしたが、一転、このところずいぶん冷え込むようになりました。すでにあちこちで降雪があり、厳しい寒さを予想する人もいます。青森と福井を往復する身としては、正直、何度も列車がとまったり(私は移動はもっぱらJR。何か特典はないのか!)、何回も屋根の雪下ろしをしなければならないようなことだけは、なければいいなと思うばかりです。

 この時期、雪が積もりだすと、よく思い出す風景があります。

 永平寺に入門して、2年目。その年はたいそうな大雪でした。修行僧のリーダー役を務めていた私は、雪作務(雪掻きのこと)でも先頭に立たねばならず、連日、屋根に登るは、消化栓は掘り出すは、必要な小道は開けるはで、すっかり往生していました。

 そんなある日の朝、切れるよいうに寒い七堂伽藍を修行僧集団の勢いで掃除した後、私は用事があって、山門を通りかかりました。すると、ただえさえ参拝者の少ない真冬、しかも大雪の朝、若い男の人がたったひとり、山門に立って、目の前の雪景色を見上げていました。

 永平寺の伽藍は斜面に立てられているので、下の方に位置する山門からは、建物の全体は見えません。それでも若者は、カメラを胸に抱えているのを忘れたかのように、ただ見上げていました。

 なんとなく、邪魔をするのがはばかれるようで、私は彼から離れたあたりを通り過ぎようとしたら、彼はふいに私のほうに振り向いて言いました。

「きれいですねえ」

 まさに、感に堪えた、という言い方でした。相手がここの修行僧かどうかも関係なく、ただ誰かにそう言いたかった、それだけ、という感じがしました。

「どうです。上に登ってみますか」

 私は思わず、山門の楼上、2階を指差してしまいました。

「いいんですか?」

「いいですよ」

 よくありません。そこは通常、参拝はできない規則になっています。ですが私は、彼を待たせて鍵を借りてくると、二人で山門の上まで登りました。

 そこは、十分ではないにしろ、永平寺の伽藍の中で、全体を見渡せる唯一の場所です。

 伽藍はもう、厚い雪にすっかり沈んでいました。雪囲いされた仏殿も僧堂も庫院も、まるで今朝の真新しい雪に埋め込まれたようでした。

 その白一面のところどころが縦横に切れて、回廊がのぞいていました。朝とはいえ暗いので、何箇所か点々と電灯がともり、オレンジ色の光がにじんで見えました。

 はじめてここの冬を迎えたのであろう修行僧が二人、寒さに抵抗するように身をそり返して、雪の切れ目を歩いていきました。

 私たちは、白い息を交互に吐きながら、黙ってその景色を眺めていました。考えてみれば私も、自分のいる永平寺をつくづくと眺めたのは、これが初めてでした。

「写真を撮ろうと思ったんですが、やめました」

 彼はそう言いました。そして

「本当にありがとうございました」

 と、膝に顔がつくようなお辞儀をして、帰って行きました。

 私は写真を撮るという行為は、本質的に無礼な行為だと思っています。レンズの前では、人だろうが物だろうが、真剣な行為だろうが、ただの暇つぶしだろうが、被写体としては同じだからです。

 それを人間にとって価値ある行為として捉えるのは、レンズの向こうの、同じ人間の眼であり、対象に対する敬意の視線でしょう。

 私は、あの若者に写真を撮ってもらいたかったと、今でも思います。


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9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
本当に冬になったことを実感します。厳しい季節だ... (エリコ)
2010-12-21 08:01:20
本当に冬になったことを実感します。厳しい季節だからこそ、あたたかく心に残る体験を今でも思い出せるのですね。
私は毎朝、5時過ぎに犬と散歩をしています。冬は日の出前、霜が降りて路面が凍結しているときもあります。早起きが辛いことも多々ありますが、気合いが入る大事な時間。今日は月明かりが見事で、寒さを忘れて得した気分です。それは、携帯や写真で伝えられるものではなく、その瞬間でしか味わえないと思いました。
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 よいお話しをありがとうございます。 ()
2010-12-21 09:45:31
 よいお話しをありがとうございます。
年の瀬の慌ただしい中、落ち着きを取り戻せるおとぎ話しのようです。
その方は、心の中のシャッターを何回押し続けていたんでしょうか・・・。
きっと、かけがえのないものを心に残す事が出来たのですね。
方丈様とご一緒に。
私もいつか、永平寺に行きたいです。どんな場面が巡って来るのかは、分かりませんが。
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若者は伽藍と一体になることができたのでしょうね。 (はてな)
2010-12-21 19:51:17
若者は伽藍と一体になることができたのでしょうね。
ひとつになれる時、なった時の写真は無用の長物でしょう。
素人には難題ですが、プロの写真家が被写体と一体になった瞬間の写真も素晴らしきもの。
芸術家でなくても時折、一になれる瞬間を感じる時があるでしょう。
素晴らしき機会をお与えになりましたね。
若者も歳月を経た今、何処かで想い出しているかもしれませんね。
それにしても入門2年目。お坊さんとしての資質がありありとごく自然に表出されていますね。
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無礼、という感じは良くわかりませんが、写真を撮... (アンコール)
2010-12-22 18:38:34
無礼、という感じは良くわかりませんが、写真を撮ろうとすると、その場の現実感が薄らぐ感じが私はします。
なので、私はある時から旅行で写真を撮ることを止めました。
カメラを構えようとした途端に、景色が別物というか、その空間が違うものに感じられてしまうのです。
・・・が、しかし、写真によっては、見た人が匂いや温度や感情を動かされるような写真はあるんですよね。
それを撮った人は、どんな感覚でファインダーを覗いているんだろう。
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 段々と冬らしくなってきました。私が参禅してい... ()
2010-12-23 09:41:05
 段々と冬らしくなってきました。私が参禅している寺も、少々小高い場所にある関係で冬の間はお休みです。
 その寺の住職様より、座禅会の無い間、日常生活を生きる中で、真理が表れるのを感じるようにとのお話がありました。冬季閉山する寺は多いようですが、その厳しい季節の間も修行されている雲水の方々を想いながら、精進したいと思います。
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澄んだ空気の中、月の光の明るさに思わず眼差しを... (南京ハゼ)
2010-12-24 13:39:40
澄んだ空気の中、月の光の明るさに思わず眼差しを上げると、美しさに時を忘れるようです。えもいわれぬ空気感を振り返る度、なにかが氷解し、また何故か幼い子が抱きそうな勇気のようなものを感じたりします。

永平寺を訪れ、樹々から射し込む陽ざしが五色の光の帯のように地面を照らし、静寂と息づく暖かさに佇みながら、ただもうなにか嬉しい気持ちにさせて頂きました。

年の瀬となり様々のことを耳にしますが、日々の中で人の営みの素晴らしさを感じさせて頂いたり、また、身に染み入るような深い優しさを感じるにつけ、慈しみや想像もつかぬほどの奥深さというものを少しでも知ってゆきたいと思います。

こちらは数日秋のような日和りでしたが、北の方は雪や風が強くなるとのこと。どうぞお気をつけてご自愛くださいますよう心よりお祈り申し上げます。

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雪はやっかいなものだけど、余分なものを隠して、... (はっぴいあっぷ)
2010-12-26 19:33:27
雪はやっかいなものだけど、余分なものを隠して、静寂をもたらしますから。のちのちまで忘れられない記憶を残していくことも多い。辺鄙な場所に曹洞宗寺院。街とは異なった時間が流れているんでしょうね。
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雪が音を吸いこんで、肌に冷気を感じるような一文... (編集者Y・F)
2010-12-28 15:48:00
雪が音を吸いこんで、肌に冷気を感じるような一文でした。
素敵な体験をなさったんですね。

南先生のおっしゃること、なるほどと思いました。
写真は、有無を言わさず、被写体を同質のものにしてしまいますよね。

私は写真の、
対象を忠実に写しているように見せて、
実は切り取った人の主観が色濃いところが苦手です。

写メールが横行している昨今、
とても印象深い内容でした。
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父の遺品の一眼レフで、主にマクロ撮影をしていま... (acqua)
2010-12-29 16:56:44
父の遺品の一眼レフで、主にマクロ撮影をしています。父も私も同じ想いでファインダーを覗きました。
富士の山はその雄大さ、神々しさが、被写体として最も難しいものです。切り取って持ち帰らせていただいても「違う」のです。

一方マクロの世界は肉眼で見えない世界を見せてくれます。生き生きとしたいのちの営み、昆虫や、花の脈、肌も見られます。

私はマクロに惹かれて父のカメラを使っていますが、この若者が「撮影できなかった」想いは、少しだけ共有できそうに思います。
どんな腕をもっても、その空気までは写し込めない荘厳さがあったように思います。
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