今年も5月1日、恐山は開山しました。写真は前日4月30日のものです。参道には、多いところで2メートルに近い残雪がありました。宇曾利山湖の水面にも、まだ氷が溶けきらずに浮いています。お稲荷様の社から見た境内にも、あちらこちらに雪見えています。この雪は、ゴールデンウィークが明けても、まだかなり残っていました。
以下、今年の開山にあたって行った院代の挨拶です。
皆様、恐山開山の今日、ようこそお参りいただきました。この中には、昨年に引き続いてご参拝の方もおられることでしょうが、私が思うに、少なからぬ感慨がおありではないでしょうか。
何より、私に昨年来の思いが深くございます。それはもちろん、昨年の開山前、3月11日の大 震災です。あの震災の前と後では、日本の風景と日本人の有りようが根本的に変わってしまったと思います。
どう変わったのか、それは人によって、いろいろな思い、感じ方があるでしょう。また、人一人の中に、様々な考えもあるでしょう。
私が震災をきっかけにこの一年、つくづくと感じ入ったことの一つは、「別れる」ということの意味です。
「人生は出会い」だという人がいます。そして「一期一会」という言葉もあります。それほど人との出会いは大きな意味を持つということでしょう。
しかし、考えてみれば当たり前のことながら、ならばこそ、人生は別れであり、「一期一離」でしょう。
もし、人との出会いが重要だというならば、それは、出会いがお互いの存在の中に意味と価値を作り出すからです。言い方を換えれば、他者が自己として生きるようになったからです。そうなったなら、たとえその他者が目の前から物理的にいなくなっても、自己はその他者を「不在」という形式で、意味付け直さねばなりません。
「別れる」とはそういうことです。ただいなくなるなら、それこそ「行方不明」でしょう。「別れる」とは「不在」において、出会い直すことなのです。
本日ここで、皆様にご先祖様や懐かしい方のご供養をお勤めいただくのは、それぞれの「別れ」がそれなりに穏やかにすみ、懐かしい方との新しい出会いが落ち着いているということではないでしょうか。
膨大な被災地の犠牲者やご遺族のことを思うとき、私は、本日ここにお参り頂いた方々が、もし私の想像通り、穏やかな別れを経験したのだとするならば、それは本当によろしかったな、喜ぶべきことだったなと、心より思う次第です。
本日はお参り、まことにお疲れ様でした。 (以上)
ここでも定期的に坐禅道場に通い坐禅をさせていただいております。
ここは主義主張が多く、悟りとは何かと追求する人が多数です。
自身の中を追求するという事よりも外にも求める。いわゆる外の教えの人達と割り切るしかないのでしょうか。
『出会い直す』というお話に、心がとてもあたたかくなる思いが致しました。
「不在」という新たな在り方をしている故人に対し、「ご縁」を結び直すと考えれば、今後もずっとご縁が続いていくと思うと気持ちが穏やかになってきました。
また、ノンフィクション作家の石井光太氏によりますと、『春の恐山は僕が見た日本の光景でも指折りの超絶景。極楽浄土そのもの』とのこと。
いつか私もお参りさせていただきたく存じます。
追伸:
「恐山: 死者のいる場所」 (新潮新書)を、ありがたく拝読させていただきました。
思いや考えをまとめたい事が多すぎて、未だ整理がついておりません。いや、無理に整理などせずに、心の中に大切においておいた方が良いのかもしれません。
本当にありがとうございます。
【未読の方に】
もしかしたら電車や喫茶店などの自室外では、読まないほうが宜しいかもしれません。
私は自宅に持ち帰って読むのが待ち切れず、喫茶店で読みましたが、最後の方で、全くその兆候すら感じなかったのに、いきなり堰を切ったように目から溢れだしてきて困りました。
自分でもかなりびっくりしました(笑)
どうぞ、ご注意を。
自家移植:自己の組織を自己の他の場所に移し変えること。
他家移植:自己以外の組織を移し変えること。 同系移植:一卵性双生児や近交系動物の組織を用いる。
同種移植:人間の組織を用いる。
異種移植:人間以外の組織を用いる。
人工移植:形成術ともいい、人工材料を用いて臓器修復することをいう。主に人工血管や皮膚、心臓弁置換術において行われる。
ドナーの状態による分類
生体移植:生きているドナーから提供されること。
死体移植:死亡したドナーから提供されること 脳死移植:ドナーが脳死と判断された後に臓器等を取り出すこと。
心臓死移植:ドナーの心停止後に臓器等を取り出すこと。
対象
主に以下の臓器が施行対象である。
心臓移植
肺移植
腎移植
肝移植
膵移植
小腸移植
骨髄移植
造血幹細胞移植
角膜移植
治療法としては一般的ではないが、研究的に以下のような移植手術も実施された事例がある。
四肢移植(1998年にフランスで初めて腕の移植が行われ、世界で10数例の報告がある)
陰茎移植(中華人民共和国で1例が学会報告されている)
顔面移植(数例の報告がある)
子宮移植(数例の報告がある)
貴方の様な人間が居るから自殺者が減らない。自殺するぐらいなら臓器提供しろ。
ただただ「ありがとうございました」をお伝えいたします。
自殺は悪です。
自殺経験者が「自殺はすばらしい」「自殺したおかげで、これまでの苦しい重荷から逃れることができた」などと反論することはできない。
トートロジーとは、ある事柄を述べるのに、同義語または類語または同語を反復させる修辞技法のこと。同義語反復、類語反復、同語反復と訳される。関連した概念に冗語があり、しばしば同じ意味で使われることもある。また、撞着語法はトートロジーの反対の技法である。A Dictionary of Modern English Usageの定義では「同じ事を二度言う」とされ、スタイルの誤りと見なされることが多い。
自殺はなぜ悪なのか?
「自殺は悪だ」が、私たちの常識である。多くの常識がそうであるように、この常識も、根拠が問われることなく信じられている。はたして、私たちは、自殺が悪であることを根拠付けることができるだろうか。
不公平な多数決
生き続けることを選んでいる私たちが、いくら「生きることはすばらしいことだ」「自殺などもってのほかだ」と言っても、それは、オウム真理教の信者が「オウム真理教を信じることはすばらしいことだ」「脱会などもってのほかだ」と言う場合と同様に、トートロジカルで説得力がない。オウム真理教の信者は、まさにそう思っているからこそ教団に残っているのであり、「脱会は悪か」に対する答えは、尋ねる前からわかっている。教団脱会の是非を問う時、脱会を拒んで、教団を賞賛する信者の話だけでなく、脱会した元信者の話も聞かなければ、公平とは言いがたい。この方法は、しかしながら、自殺、すなわちこの世から脱退することの是非を判断する時には使えない。自殺経験者が「自殺はすばらしい」「自殺したおかげで、これまでの苦しい重荷から逃れることができた」などと反論することはできない。自殺の是非の決定は、反対する野党議員を全て議場から追放して行う多数決のようなもので、公平とは言いがたい。
もっとも、まだ自殺していないが、自殺したいと思っている人なら、話ができる状態で存在している。しかし、今私が問題にしているのは、自殺は悪か否かという規範のレベルの問題であって、自殺したいかどうかという欲望のレベルの問題ではない。もし、自殺に伴う苦痛よりも、生き延びて味わう苦痛の方がはるかに大きいのならば、自殺したいと思うのは自然なことである。だが、自殺したいから自殺してもよいと判断することには論理的な飛躍がある。したいことがしてはいけないことだということはよくある。規範は欲望と必ずしも一致しないし、必ずしも一致しないからこそ規範は規範なのである。多くの自殺志願者は、一方で自殺したいと思いながらも、他方で自殺は良くないことだと考えて、決断までに悩むものなのだ。
規範は、社会の多数派によって、そして多数派に有利なように形成される。生きている人間の集団の中では、当然生きていることに価値が置かれる。オウム真理教の信者が教祖の説教によって洗脳されているように、私たちは、幼い頃から「命の尊さ」を教え込まれている。オウムの信者にとって脱会がタブーであるように、私たちにとって自殺はタブーである。教団の内部で信者が脱退を呼びかければ、リンチの憂き目に会うように、私たちが「自殺は悪ではない」と言えば、社会的制裁を受ける。このため「自殺をしてはいけない」という規範は、自明な真理として受け入れられる。
自殺は、常に悪とされてきた。神風特攻隊の志願者を募集した大日本帝国の軍人たちは、一見自殺を奨励していたようにも見えるが、彼らは「帝国臣民全員が玉砕することがないように、戦争に勝たなければならない」と考えていたわけで、多数の生命を維持するために少数の生命を犠牲にしたと解釈できる。問題は、なぜ生命には一般に価値があるのかということである。
善悪の基準は何か?
生命に価値があるのか否か、自殺が悪か否かを論じる前に、そもそも善悪という価値は何によって決まるのかを考えてみよう。私たち生命体は、個人レベルであれ、社会レベルであれ、ネゲントロピーとしてのシステムであり、そしてすべての価値は私(たち)のネゲントロピーへの貢献によって決定される。私たちは、富や名声や権力といった低エントロピー資源を欲望するが、それらが価値を持つのは、それらが私たちのシステムのエントロピーを縮減する限りにおいてである。ものさしが長さの基準であるように、私たちのネゲントロピーは私たちの価値の基準である。
自殺は悪かと問うことは、私たちの生命に価値があるのかと問うことと同じである。そして私たちはここで困難にぶつかる。ちょうどものさしが自分自身の長さを測ることができないように、価値基準は価値基準自身の価値を決めることはできない。メートルの基準となる長さをメートル原器と言い、今日、光が真空中で1/299792458秒間に進む距離と定義されている。こう定義すると、「メートル原器の長さは、ちょうど1メートルだ」などと言っても、それは同語反復に過ぎない。同様に「生命には価値がある」という命題は「生き延びるという目的にとって生き延びることは価値がある」という意味であり、トートロジーである。
閉ざされたトートロジーのループ。
「自殺は悪だ」とするどのような説明も、最終的にはこのトートロジーのループを超えるものではない。生活に疲れて自殺しようとする母子家庭の母親に対して、「あなたが死んだら、子供たちの将来はどうなるの」と断念を促す時、この説得者は、子供という生命の存在が善であることを前提している。つまり、「生命は善である。ゆえに生命は善である」というトートロジーを繰り返しているのである。
トートロジーのループから抜け出すために、神のような超越的存在を想定し、「命は神から預かったものだから、自分勝手に捨ててはいけない」と説く人もいるかもしれない。しかし、ここでも同じような問題が起きてくる。神が全ての価値の基準であるとするならば、この価値基準自身の価値を保証するものは何なのかという問題である。神がいくら自分を絶対化しても、神という基準自体を否定すれば、神の全ての教えは無効になってしまう。
石原慎太郎が、戦争放棄を放棄するには、憲法を改正するよりも破棄しろと言ったことがある。日本国憲法は、自らを最高法規と規定し、憲法を改正するには、衆参両議院での2/3以上の賛成と国民投票での1/2以上の賛成が必要と定めている。もし、日本国憲法を最高法規として認め、それに従うなら、面倒な国会対策や世論操作が必要になる。しかし、クーデターを起こして憲法それ自体を否定するならば、憲法第98条に記されている最高法規の条項は、たんなる紙の上にあるインクのしみになってしまう。
「自殺は悪だ」という命題は、生きている人間にとって分析的に真であるが、トートロジーのループの外部に何も根拠を持たない。もし自殺してしまえば、自分の命とともに、自殺は悪か否かという問題も、善悪の彼岸に消えてしまう。重さとは、引力という物体間の相互関係であって、物体の総体には重さがないように、価値とは、目的に対する有用性という生の間の相互関係であって、生の総体には価値がない。
もし、誰かが「自殺したい」と言い出すなら、私は、あらゆる手段を尽くして、その人に断念するように説得するだろう。
しかし、それは、私が生きることを選んでいる人間だからであって、それ以上の理由はない。
私も、自殺者が多い社会は、不幸な社会だと思います。
「人生はすばらしい」と思って自殺する人なんていないでしょうから、自殺する人の多くはきっと、辛い思い、不幸を抱えながら命を絶たれるのだと思います。
だから、自殺者数が一人でも少なくなるように、社会制度を充実させたり、他者との縁や絆、さらにはその基底にあるべき「敬意」を大事にする社会風土を醸成することが大事だと思います。
ただ、目の前に自殺を図る人がいて、その人を放っておくことが害悪だとまでは、私には思えません。
親が悲しむから、友人が悲しむから、その生き難さを我慢しろ、その苦悩に絶えて生き抜け、というのは、人質をとって拷問を課するようなものではないのか、と思えるのです。(表現が過激で申し訳ありません。うまい例えが思いつかなかったです)
やはり、人の生き死には、最終的にはその人自身に委ねるしかなく、ただ、そういう生き難さを抱えてしまう人が一人でも少なくなるように、周囲や社会が心がけていくしかない、そんな風に思うのです。
卍のしるしは何を意味するのか。
力と愛とは本来別々の、しかも相反する働きのように思われている。
しかしこの相反する働きが調和、統一された状態こそが人間生活の思想や行動の中心でなければならないとする考え方である。
卍の字を分解すると、縦の線 | は天地を、横の線 - は陰陽を表している。
その対立するものが互いに交わり、影響を及ぼしあって、調和を保ちながら存在している状態+を表している。
そして+の先端から横に流れる線は、それぞれの存在が常に流動してやまない変化の姿を現している。
この究極の形が即ち円であり、平和でゆるぎない境地が円成されるのである。
卍と?
古代インドでは卍は慈悲と情を表し、?は理知と力を表している。
中国文字の力という漢字の古字はこの?から出来ている
このように一見相反し、対立すると見られるものが、それぞれの特性を生かしながら調和したときにこそ、絶対平和の理想郷が生まれるのだと仏教は教えている。
この卍と?が示す陰陽和合表裏一体の関係を力愛不二といい、すべての根源となる大調和の世界を人間の精進努力によってこの世に実現させるために道を行じているのである。
力の伴わない正義は無力である
正義を伴わない力は暴力にすぎないが、力を伴わない正義は無力である。
善は悪に、正義は不正に勝たなければならないのである。
しかし正義が不正に打ち勝つためには、正義を行うものに、不正に打ち勝つだけの力の裏づけがなくてはならない。
それでなくとも、不正や悪は本来、荒々しさ、図太さ、狡猾さなどの力を備えているのが普通なのであるから、これに打ち勝つためには、まず正邪を見定め、状況を把握する判断力と力の用い方についての熟慮と、正義のためにはあえて危険を回避しない勇気などが必要なのである。
午後3時5分ごろ、宇都宮市西原町の不動産会社大京ホームの事務室内で、男が刃物を持って暴れていると女性従業員から110番があった。
栃木県警宇都宮南署によると、刃渡り約70センチの日本刀のようなもので、男性社長が左腕を切断され、男性役員と男性従業員も腹を切られた。
いずれも重傷だが、命に別条はないという。
同署は殺人未遂容疑で、車で逃走した自称建築業桑田一二三容疑者=東京都府中市若松町=を逮捕。
同署によると、切りつけたことは間違いないと供述しているという。
同署によると、桑田容疑者は客として来社し、1階事務室内の応接室に通された。
同署は桑田容疑者と会社の間にトラブルがあったとみて、原因を詳しく調べている。
南さんは懇願でしかないと仰っていましたよ。
ちなみに先ほど、南さん生出演していましたが、「やりすごす」という提言をしていました。
コメント頂き、ありがとうございました。
私には、この「善」という概念が、どうにも頼りない気がするのです。
ある社会では「善」「正義」であるものが、別の社会や時代ではそうでもなくなったりする。
「誕生」という形でたまたまその社会に放り出されただけの人に、そういう特定の社会・特定の時代の行為基準に過ぎない「善」「正義」を押し付けてしまって、本当に大丈夫か、敬意に悖りはしないか、そんな風に思えます。
その社会の「善」「正義」に共感できない人でも、それに従わなければならないとなれば、それこそその人は「生き難さ」に直面してしまうのではないか、と。
この「善」「正義」という概念については、「みんな違ってみんないい。ただ『敬』の一字あるのみ」というのが、私の今の基本スタンスです。
そうすると、どうしようもない生き難さに直面している人には、その生き難さへの密かな共感とともに、
あとはもう、その人なりの生き方・死に方を尊重するしかないのではないか、と考えています。
我ながら、薄情な考え方という気もするのですが。
本当に難しい問題だと思います。書きながら、自分のコメントに自信が無くなってきています。
私も、「死にたくて死ぬ」人はほとんど居ないと思います。自殺に至るほとんどの方は、「生きたいけど死ぬ」人だと思います。
見方を変えれば、社会がその人を「死」に追いやった、という言い方もできると思います。
だから、生の促進要因を増やし、生の阻害要因を減らして、生き易い社会をつくろう、そういう考え方はよくわかります。
それは、たとえば社会保険を充実させるなど、社会制度の整備であったり、職業貴賎に関わらず互いの存在を敬い合う、そんな社会風土の醸成であったりすると思います。
ただ、自殺という行為そのものを防ぐ、ということには、どうしても抵抗があります。
どんなに客観的にみて「生き易い」社会であっても、生き難さを感じる人がゼロになることはないでしょう。
そして、薄情に聞こえるかも知れないのですが、「生きるのが苦しい人は、無理に生きなくてもいいではないか」と思えてしまうのです。
「死」という絶対未知の領域に踏み込ませるほどの生き難さに直面している人に、そんな生き難さに直面したこともない、だからこそのうのうと生きている「こちら側」の私が生半可な思いで引き止めてしまって、その人の生をさらに貧しくしてしまうことはないのか、そんな心理的抵抗です。
さんざん打ちのめされてきた人に、「人生は苦だ。それでも生きなさい」は、あまりに酷な気がします。
「そんなに苦しいなら、やめちゃってもいいのかもね」というスタンスの方がまだしも、優しさ(というのも変ですが)なのではないかと。
ただ、傍から見て「自分だったら死んでるかもな」というような状況にある人が、それでも必死に生きようとしている姿を見ると、とても美しいと思います。
この偏倚集団を特徴づける要因の一つに集団内部の親分子分の結合がある。
やくざ研究の古典的名著とされる岩井弘融の病理集団の構造の序説で親分乾分の関係は民俗学や社会学において説明されるところのオヤカタ・コカタの関係と共通の社会的基盤を持つと説明している。
戦後に来日したニューヨーク・ポストの特派員ダレル・ベリガンは、その著作で有名なやくざの社会の中で日本の家族は与太者の集まりであり、家族の長は与太者の長であるという文から始まる、日本社会の内部構造についての報告をまとめている。
また、かつて横浜の塚越一家に所属した右翼活動家の野村秋介は、やくざについて説明する際にやくざとは職業ではなく、実業家、ジャーナリスト、政治家にもやくざは存在すると発言したがこれも個人間の繫がりとして絶対的権威と追随者の関係が広く社会で見られる点を示唆するものである。
ただし、その上でやくざを特徴づけている別の内部要因として、集団の共通目的、成立の社会的条件、存続のための経済的活動、社会的価値基準から逸脱した副次文化等がある。
ジャーナリストの朝倉喬司は明治の自由民権運動とやくざの関連を指摘する一方で現代の制度的空間や価値基準との関連において暴力団と呼ばれるとしている。
宗教を信じて慈善活動やってる人なんて山のようにいる
他人の為に何かすることで満足する人間なんか宗教の世界じゃ珍しくもないのだが
元ヤクザなら塀の向こうの救済なんかより闇の暴力で泣いている人を救う大物は出ないものかな
それこそ一般人には無理なんだから(なめられて終わり)
悲しむ人を生み出すから
ヤクザは最低だよ。
義理・人情を盾に非合法に走るから。
自殺はいけないと言える自殺志願者。
ヤクザは最低と言えるヤクザ
その自覚ある者こそ信頼に値する。
いけないと認められる者、最低と言い切れる者、そいつらはホンモノだ。
私も、放っておいて欲しいと思った事も、思う事も有ります。
しかし、人は一人で生きているのではありません。
犯罪を犯せば、家族や親戚にも迷惑がかかり、被害者にはとんでもない苦痛を与えます。
また、病気で入院すれば健康保険が使われ、働けなくなれば、失業保険が使われ、生活が困窮すれば生活保護を受ける事になります。
日本は、色々と封建社会の悪習、名残を持ち、問題も有りますが、充実した社会福祉国家です。
だからこそ、自殺を放っておくという事は、社会に害悪なのです。
私は仏教徒ですが、尊敬している禅僧さんに聖書を読みなさいと言われ、聖書を貰いました。
そこには、仏教経典だけでは理解できない人間の本質が書かれています。
つまり、小説の様に解りやすく書かれているのです。
いわゆる支配性向・エゴの強さも、それが家庭、社会、国家、世界にとって善であれば、それが引き篭りや自殺願望者、犯罪を犯し逃げている者、元犯罪者といった人々に迷惑だと思われても、かまわないのだと思います。
最高の道である愛
たとえ人間の不思議な言葉
天使の不思議な言葉を話しても
愛がなければ私は鳴る銅鑼 響くシンバル
たとえ予言の賜物があり
あらゆる神秘 あらゆる知識に通じていても
愛がなければ私は何者でもない
たとえ全財産を貧しい人に分け与え
たとえ賞賛を受けるために自分の身を引き渡しても
愛がなければ私には何の益にもならない
愛は寛容なもの 慈悲深いものは愛
愛は妬まず昂ぶらず誇らない
見苦しい振る舞いをせず 自分の利益を求めず
怒らず 人の悪事を数えたてない
愛は決して滅びさることはない
予言の賜物ならば廃りもしよう
不思議な言葉ならばやみもしよう
知識ならば無用となりもしよう
我々が知るのは一部分
また預言するのも一部分であるゆえに
完全なものが到来するとき
部分的なものは廃れさる
私は幼い子供であったとき
幼い子供のように語り
幼い子供のように考え
幼い子供のように思いをめぐらした
ただ 一人前のものになった時 幼い子供のことはやめにした
我々が今見ているのは ぼんやりと鏡に写っているもの
そのときにみるのは 顔と顔をあわせてのもの
私が今知っているのは一部分
その時には自分がすでに完全に知られているように
私は完全に知るようになる
だから 引き続き残るのは 信仰 希望 愛 この3つ
このうち もっとも優れているのは 愛
お前はこんなセンテンスも知らない
あんな色欲と一緒に暮らしていたから
聖書のことですらちゃんと把握してない
わかる?
神様のことなんも知らないってことだよ!
生きていてほしいということの中に、支配なんてあるでしょうか。その中に、意味や根拠なんてものがあるでしょうか。
ブッダは言ったみたいです。死んではならないと。
しかし、修行が思うようにいかない弟子が自死を選んだ話しがあり、それは、否定しなかったみたいです。
リプ頂きありがとうございました。
自殺防止活動を志しておられるとのことで、私のような考え方にはかなり違和感を持たれたことと思います。真摯にお答え頂き、ありがとうございました。
藤藪牧師を始め、自殺防止活動に取り組んでおられる方たちの献身的な姿勢には頭が下がります。
その一方で、「その『生きて欲しい』という願いが、相手の重荷や苦痛になり、その生を貧しくしてしまうことはないのか」、という疑問も、やはり拭えません。
「生きてきてよかった。あのとき死を選ばなくて良かった」という感謝の言葉で人生を締め括ってもらえればまだしも、「ただただ苦しかった。あのとき死んでいたほうが良かった」という悔恨を胸に秘めたまま締め括られないとも限らない。言葉でどう言ってくれたとしても、本当のところはその人にしか分からないわけです。そういう他者の「わからなさ」を思うとき、うかつに他者の生き方・死に方に口を挟めない、挟むべきでない、そう私には思えるのです。それは、きわめて消極的であると自覚しつつ、私なりの他者への敬意の表現であるとも考えています。
これは一般論ですが、「~して欲しい」という思いは、その動機が利己的であれ利他的であれ、あるいは「生きて欲しい」という尊い願いですら、私はそこに「支配」の臭い、つまり「(自分の)思い通りにしよう」というエゴを感じてしまいます。
そして、南禅師の言葉をそのまま借りれば、「他者を支配しようとすれば、支配する者される者、いずれの人生をも貧しくする」のではないか、と感じています。(このような文脈で「支配」を使うことは、南禅師の本意ではなく、私の曲解かも知れませんが。)
私自身が、自分の支配性向・エゴの強さを自覚しているので、なおのこと、それに敏感なのだと思います。
繰り返しになりますが、一連の文章に、自殺防止の活動をされている方々を非難する意図は全くありません。自殺防止活動について、こんな考え方もあるんだ、と参考にして頂ければ幸いです。
もし読まれて不快に思われた方は、ごめんなさい。
関西電力大飯原発3、4号機の再稼働をめぐり、福井県おおい町会は12日、意見集約に向けた3回目の全員協議会を開き、判断のベースと位置付けている統一見解に対する国の回答結果などの検証作業を終えた。
14日に開く全協で再稼働の是非についての意見を取りまとめ、時岡忍町長に伝える方針。
検証内容に異論はほとんど出ず、再稼働容認の方向でまとまるとみられる。
11日の全協に続き、統一見解への国の回答結果や議会報告会での住民意見を最終検証した。
課題点として、関西圏など周辺自治体の理解が進まない現状に政府の責任で、引き続き国民に説明する必要があるとした。
また、原子力規制庁の早期発足を要請する必要性が指摘された。
持ち越していた住民説明会の町民意見と政府答弁の取り扱いは全議員が参加して内容を聞いているため、議員各自で検証するとし、町会として詳細な検証作業をせずに各議員の判断材料とすると確認した。
新谷欣也議長は統一見解や議会報告会、住民説明会の検証内容や日ごろの議会活動でくみ取った住民の意向も踏まえ、各議員が再稼働判断に関する意見を固め、次回全協で述べてもらいたいと呼び掛けた。
14日は各議員の意見を集約した後、検証で洗い出した課題の取り扱いなどを含め、町会の意思をどう示すかを検討する。
文言として取りまとめ、時岡町長に伝える方針。
時岡町長は、町会の意見や県原子力安全専門委員会の結論を踏まえて判断し、西川知事に町の意思を伝える見通し。
ただ、関西圏の理解がいまだ得られない政府の対応に不快感を示しており、国の覚悟が見えなければ同意できないとの姿勢を見せている。
直哉さんらしいご尤もな結びですが、死者と対峙する時のその思いや考えは、殺人を目的として出兵する者や殺人者として帰ってきた者、そして、敵味方に関せず帰らぬ者と如何に対峙するか?
つまりそれは、殺人をしない覚悟、出兵を拒否する行為がなされない者であれば、如何なる言葉で哀悼の意を表したところで、空の世界で弄ばれているだけのまやかしになりますね。
結論として、仏道を習えているかが表出しますね。
自利利他とは、ボランティアとは仏教の教えでは四摂事という四つの実践法、布施・愛語・利行・同事で解釈することができます。
布施は、ものでも心でも、惜しみなく他者に分け与えることです。
一切の見返りを求めずに、自分ができることを自然に行なうことです。
愛語は、やさしい愛のあることばをかけることです。
利行は、自分の身と口と心を使った実際的なエネルギーを発信するアクションのことです。
同事というのは、相手と同じ目線に立って、コラボレーション、協働すること、パートナーシップのことです。
仏教的には、同行二人です。
ボランティアの根本精神は自利利他です。
自らを生かし、他者を生かすということです。
自分のことは、さておき人のためになにかをしなさい、ではなく、自分を生かすボランティアをやっている人は、他者も生かすことができます。
本当の自利の精神があって、利他の心が機能するのです。
人は、自分がおぼれながら、おぼれた人を助けることは、できません。
ゆったりした中道の心で自分を活かし、相手を生かすのです。
これが、ボランティア活動にとって大切な生き方なのです。
こんばんわ。
私は、牧師さまの自殺対策活動を、この掲示板で紹介した者です。
今、風邪で高熱を出して倒れていますが、気力でパソコンに向かっています。
誤字脱字があるかも知れません。
その場合は、もうしわけありません。
私も、自殺は悪い事ではないと思います。
そして、私は親しい友人知人をこの約三年で三人自殺で亡くしています。
その時、感じたのは自分も死んだような気持ちになるという事です。
私は、それで自殺を辞めました。
そして将来、自殺を防ぐ活動をしていこうと決意したのです。(今は勉強中です)
それは、首吊り自殺で、目の前で、その遺体を見た遺族や友人、知人は大変な傷を抱くからです。
それは、大変に苦しいものです。
やはり、自死遺族を救う事も大切です。
自殺しなくても、いつか人は死にます。
自分で可能性を潰さず、誰かに殺されるか、病気や寿命で死んでしまうまで生きてみましょうよ。
武士の切腹と、現代人の自殺は全く意味が違います。
自分で死ぬわけですから、結果は同じですが。
しかし、それでも私は自殺を悪い事だと思いませんし言いません。
「ただ、できれば私と共に生きてください。私の為に。私が自殺しない為に、私と生きて、私を助けて下さい。」
と言いたいです。
NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』、私も拝見しました。ただ実は、私は少し違う意見を持っています。
自殺という行為を「善くないこと、悪いこと」と考え、その行為自体を防ぐことが、ほんとうに「善いこと」なのか?
想像を絶する生き難さを抱えた人に、「それでも生きなさい」ということが、はたして本当に、その人の生を、あるいはその死を、豊かなものにするのか?
好きで生まれてきたわけでもない人生、その幕引きくらい、その人の好きなやり方、好きなタイミングで死なせてあげるのが、むしろその人への敬意ではないのか?
そんなことを考えています。
もちろん、自殺者が多い世の中が「いい世の中」だなんてことは決してないと思います。
ライフリンクの清水康之さんの表現で言えば、「生への促進要因<生への阻害要因」という状態にあるのが、今の世の中なのだと思います。
だから、いわば「世の中の幸福度(?)」を表す指標として自殺者数を考え、それを減らすよう世の中の在り方を変えていく、生き易い世の中を作っていく、というのは分かります。
ただ、自殺行為そのものを「防ぐ」というのは、その人が選んだ死に方、すなわちその人の生き方を大切にしないこと、敬意を払わないことになってしまうのでは?
そういう疑問が拭えないのです。
藤藪牧師が、その活動にささげる情熱は立派だと思います。
それは「自殺はならぬ、ならぬものはならぬ」というキリスト教的な価値観・信念が背景があるからこその活動なのだろうな、とも思いました。
私のように、「自殺ってそもそも悪いことなの?死に方も、自分の生き方の一つとして、本人が選べばいいんじゃないの?」というような考え方の人間には、
なかなかその活動を手放しで賛成はしづらい、というのが正直なところです。
(こんな意見もありますよ、というコメントです。藤藪牧師の活動を非難したり、2012/05/11 00:58さんのコメントを悪く言うつもりはありません。
みんな違ってみんないいと思います。もし気分を害されたらごめんなさい。)
想いを持っていれば、なぜか意味のある人にであうようだなあ、と最近感じます。本当に不思議なのですが。やはり、「世界」は自分が創り上げた「意味」によって構築されている、ということでしょうか。ゆったりとした心持ちでいれは、自分で細かく目標を定めずとも、目指す方向に導かれていくようです。
このような気持ちで過ごすことが出来るのも、方丈様の著作に出会ったことがきっかけのように思います。私はまだ、大きな「不在」には出会ったことはありませんが、その時にも、導かれるように別れを受け止められると良いな、と思います。
恐山はまだ気温が低いことと存じますが、どうぞご自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
多方面で、さまざまな反響が寄せられているようです。
藤藪さん、すごすぎ!
あそこまでわたしはできません、という声があります。
そりゃぁそうだろうなぁ… と思います。
もちろん、わたしにもできません。
白浜での働きは、とっても特殊な例で、藤藪牧師のもっているもののすばらしさに負うところが大きいです。
実際には、藤藪牧師の奥様や新しく加わったスタッフの方、地域の方々の協力によるところも、非常に大きかったりします。
わたしには関係ないのか?
じゃぁ、私たちには関係がない、と思いがちですが、それもまた違うかな、と思います。
あるおじいちゃんが残した、ということば・・・あのとき死を選ばなくてよかった・・・
わたしたちは誰しも、そういう関わりを大切にすることが必要です。
形や行動はいろいろです。
でも、思いは同じ。
大切な人に、あきらめなくてよかったと言ってもらいたいですよね。
その根底には、神はあなたの人生をあきらめてはいない!
だから、わたしも・・・という思いがあります。
これが、藤藪牧師の活動の原動力のはずです。
赤の他人が寄り添い、親となり、兄となり、子となり、弟となり家族を形成していきます。
禅僧社会の精神的支柱にある 「義理と人情」、「弱きを助け、強気をくじく気風」、「仁義」は今なお私の心に息づいています。
つまり、私は寂しかったのだと思います。
娑婆では得られない、そういう絆が欲しかったのです。