恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

開山しました

2012年05月10日 | インポート

 F1000058 今年も5月1日、恐山は開山しました。写真は前日4月30日のものです。参道には、多いところで2メートルに近い残雪がありました。宇曾利山湖の水面にも、まだ氷が溶けきらずに浮いています。お稲荷様の社から見た境内にも、あちらこちらに雪見えています。この雪は、ゴールデンウィークが明けても、まだかなり残っていました。

 以下、今年の開山にあたって行った院代の挨拶です。

 皆様、恐山開山の今日、ようこそお参りいただきました。この中には、昨年に引き続いてご参拝の方もおられることでしょうが、私が思うに、少なからぬ感慨がおありではないでしょうか。

 何より、私に昨年来の思いが深くございます。それはもちろん、昨年の開山前、3月11日の大F1000055 震災です。あの震災の前と後では、日本の風景と日本人の有りようが根本的に変わってしまったと思います。

 どう変わったのか、それは人によって、いろいろな思い、感じ方があるでしょう。また、人一人の中に、様々な考えもあるでしょう。

 私が震災をきっかけにこの一年、つくづくと感じ入ったことの一つは、「別れる」ということの意味です。

F1000056 「人生は出会い」だという人がいます。そして「一期一会」という言葉もあります。それほど人との出会いは大きな意味を持つということでしょう。

 しかし、考えてみれば当たり前のことながら、ならばこそ、人生は別れであり、「一期一離」でしょう。

 もし、人との出会いが重要だというならば、それは、出会いがお互いの存在の中に意味と価値を作り出すからです。言い方を換えれば、他者が自己として生きるようになったからです。そうなったなら、たとえその他者が目の前から物理的にいなくなっても、自己はその他者を「不在」という形式で、意味付け直さねばなりません。

「別れる」とはそういうことです。ただいなくなるなら、それこそ「行方不明」でしょう。「別れる」とは「不在」において、出会い直すことなのです。

 本日ここで、皆様にご先祖様や懐かしい方のご供養をお勤めいただくのは、それぞれの「別れ」がそれなりに穏やかにすみ、懐かしい方との新しい出会いが落ち着いているということではないでしょうか。

 膨大な被災地の犠牲者やご遺族のことを思うとき、私は、本日ここにお参り頂いた方々が、もし私の想像通り、穏やかな別れを経験したのだとするならば、それは本当によろしかったな、喜ぶべきことだったなと、心より思う次第です。

 本日はお参り、まことにお疲れ様でした。 (以上)


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34 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
キリスト教徒も兄弟姉妹と言うように、禅僧の世界... (Unknown)
2012-05-11 00:30:30
キリスト教徒も兄弟姉妹と言うように、禅僧の世界も兄弟と呼び合います。
赤の他人が寄り添い、親となり、兄となり、子となり、弟となり家族を形成していきます。
禅僧社会の精神的支柱にある 「義理と人情」、「弱きを助け、強気をくじく気風」、「仁義」は今なお私の心に息づいています。
つまり、私は寂しかったのだと思います。
娑婆では得られない、そういう絆が欲しかったのです。
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NHKのプロフェッショナル 仕事の流儀で藤藪庸一牧... (Unknown)
2012-05-11 00:58:52
NHKのプロフェッショナル 仕事の流儀で藤藪庸一牧師の自殺防止の働きが取り上げられました。
多方面で、さまざまな反響が寄せられているようです。
藤藪さん、すごすぎ!
あそこまでわたしはできません、という声があります。
そりゃぁそうだろうなぁ… と思います。
もちろん、わたしにもできません。
白浜での働きは、とっても特殊な例で、藤藪牧師のもっているもののすばらしさに負うところが大きいです。
実際には、藤藪牧師の奥様や新しく加わったスタッフの方、地域の方々の協力によるところも、非常に大きかったりします。
わたしには関係ないのか?
じゃぁ、私たちには関係がない、と思いがちですが、それもまた違うかな、と思います。
あるおじいちゃんが残した、ということば・・・あのとき死を選ばなくてよかった・・・
わたしたちは誰しも、そういう関わりを大切にすることが必要です。
形や行動はいろいろです。
でも、思いは同じ。
大切な人に、あきらめなくてよかったと言ってもらいたいですよね。
その根底には、神はあなたの人生をあきらめてはいない!
だから、わたしも・・・という思いがあります。
これが、藤藪牧師の活動の原動力のはずです。
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言葉が見つからないままに暖かさを想います。 (南京ハゼ)
2012-05-11 01:39:24
言葉が見つからないままに暖かさを想います。
恐山はまだ気温が低いことと存じますが、どうぞご自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
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 意味もなく生まれてくる私たちですが、やはり意... (ride)
2012-05-11 06:30:08
 意味もなく生まれてくる私たちですが、やはり意味もなく出会う人たちに、何かしら意味を感じずにはいられません。
 想いを持っていれば、なぜか意味のある人にであうようだなあ、と最近感じます。本当に不思議なのですが。やはり、「世界」は自分が創り上げた「意味」によって構築されている、ということでしょうか。ゆったりとした心持ちでいれは、自分で細かく目標を定めずとも、目指す方向に導かれていくようです。
 このような気持ちで過ごすことが出来るのも、方丈様の著作に出会ったことがきっかけのように思います。私はまだ、大きな「不在」には出会ったことはありませんが、その時にも、導かれるように別れを受け止められると良いな、と思います。
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>2012/05/11 00:58 さん (ばろん)
2012-05-11 14:59:08
>2012/05/11 00:58 さん

NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』、私も拝見しました。ただ実は、私は少し違う意見を持っています。

自殺という行為を「善くないこと、悪いこと」と考え、その行為自体を防ぐことが、ほんとうに「善いこと」なのか?
想像を絶する生き難さを抱えた人に、「それでも生きなさい」ということが、はたして本当に、その人の生を、あるいはその死を、豊かなものにするのか?
好きで生まれてきたわけでもない人生、その幕引きくらい、その人の好きなやり方、好きなタイミングで死なせてあげるのが、むしろその人への敬意ではないのか?

そんなことを考えています。

もちろん、自殺者が多い世の中が「いい世の中」だなんてことは決してないと思います。
ライフリンクの清水康之さんの表現で言えば、「生への促進要因<生への阻害要因」という状態にあるのが、今の世の中なのだと思います。
だから、いわば「世の中の幸福度(?)」を表す指標として自殺者数を考え、それを減らすよう世の中の在り方を変えていく、生き易い世の中を作っていく、というのは分かります。
ただ、自殺行為そのものを「防ぐ」というのは、その人が選んだ死に方、すなわちその人の生き方を大切にしないこと、敬意を払わないことになってしまうのでは?
そういう疑問が拭えないのです。

藤藪牧師が、その活動にささげる情熱は立派だと思います。
それは「自殺はならぬ、ならぬものはならぬ」というキリスト教的な価値観・信念が背景があるからこその活動なのだろうな、とも思いました。
私のように、「自殺ってそもそも悪いことなの?死に方も、自分の生き方の一つとして、本人が選べばいいんじゃないの?」というような考え方の人間には、
なかなかその活動を手放しで賛成はしづらい、というのが正直なところです。

(こんな意見もありますよ、というコメントです。藤藪牧師の活動を非難したり、2012/05/11 00:58さんのコメントを悪く言うつもりはありません。
みんな違ってみんないいと思います。もし気分を害されたらごめんなさい。)
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昨日、恐山の本を購入し読んでいる途中です。死者... (syuko)
2012-05-11 19:28:51
昨日、恐山の本を購入し読んでいる途中です。死者を抱えなおす社会。医療従事者であることから人の死に直面することはしばしばで尊厳死や安楽死に対する問題点は、団塊の世代が死に直面した時自分らしい死を要求することが考えられることから、多面的になるのかもしれない。
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>>投稿 ばろん | 2012/05/11 14:59 (Unknown)
2012-05-11 23:36:58
>>投稿 ばろん | 2012/05/11 14:59

こんばんわ。
私は、牧師さまの自殺対策活動を、この掲示板で紹介した者です。
今、風邪で高熱を出して倒れていますが、気力でパソコンに向かっています。
誤字脱字があるかも知れません。
その場合は、もうしわけありません。
私も、自殺は悪い事ではないと思います。
そして、私は親しい友人知人をこの約三年で三人自殺で亡くしています。
その時、感じたのは自分も死んだような気持ちになるという事です。
私は、それで自殺を辞めました。
そして将来、自殺を防ぐ活動をしていこうと決意したのです。(今は勉強中です)
それは、首吊り自殺で、目の前で、その遺体を見た遺族や友人、知人は大変な傷を抱くからです。
それは、大変に苦しいものです。
やはり、自死遺族を救う事も大切です。
自殺しなくても、いつか人は死にます。
自分で可能性を潰さず、誰かに殺されるか、病気や寿命で死んでしまうまで生きてみましょうよ。
武士の切腹と、現代人の自殺は全く意味が違います。
自分で死ぬわけですから、結果は同じですが。
しかし、それでも私は自殺を悪い事だと思いませんし言いません。
「ただ、できれば私と共に生きてください。私の為に。私が自殺しない為に、私と生きて、私を助けて下さい。」
と言いたいです。
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>>・・・続き (Unknown)
2012-05-11 23:43:48
>>・・・続き

自利利他とは、ボランティアとは仏教の教えでは四摂事という四つの実践法、布施・愛語・利行・同事で解釈することができます。
布施は、ものでも心でも、惜しみなく他者に分け与えることです。
一切の見返りを求めずに、自分ができることを自然に行なうことです。
愛語は、やさしい愛のあることばをかけることです。
利行は、自分の身と口と心を使った実際的なエネルギーを発信するアクションのことです。
同事というのは、相手と同じ目線に立って、コラボレーション、協働すること、パートナーシップのことです。
仏教的には、同行二人です。
ボランティアの根本精神は自利利他です。
自らを生かし、他者を生かすということです。
自分のことは、さておき人のためになにかをしなさい、ではなく、自分を生かすボランティアをやっている人は、他者も生かすことができます。
本当の自利の精神があって、利他の心が機能するのです。
人は、自分がおぼれながら、おぼれた人を助けることは、できません。
ゆったりした中道の心で自分を活かし、相手を生かすのです。
これが、ボランティア活動にとって大切な生き方なのです。
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>膨大な ~ 思う次第です。 (はてな)
2012-05-12 11:02:38
>膨大な ~ 思う次第です。

直哉さんらしいご尤もな結びですが、死者と対峙する時のその思いや考えは、殺人を目的として出兵する者や殺人者として帰ってきた者、そして、敵味方に関せず帰らぬ者と如何に対峙するか?

つまりそれは、殺人をしない覚悟、出兵を拒否する行為がなされない者であれば、如何なる言葉で哀悼の意を表したところで、空の世界で弄ばれているだけのまやかしになりますね。

結論として、仏道を習えているかが表出しますね。
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おおい町会、再稼働14日容認へ 全員協議会、検... (Unknown)
2012-05-13 14:13:46
おおい町会、再稼働14日容認へ 全員協議会、検証作業終える

関西電力大飯原発3、4号機の再稼働をめぐり、福井県おおい町会は12日、意見集約に向けた3回目の全員協議会を開き、判断のベースと位置付けている統一見解に対する国の回答結果などの検証作業を終えた。
14日に開く全協で再稼働の是非についての意見を取りまとめ、時岡忍町長に伝える方針。
検証内容に異論はほとんど出ず、再稼働容認の方向でまとまるとみられる。
11日の全協に続き、統一見解への国の回答結果や議会報告会での住民意見を最終検証した。
課題点として、関西圏など周辺自治体の理解が進まない現状に政府の責任で、引き続き国民に説明する必要があるとした。
また、原子力規制庁の早期発足を要請する必要性が指摘された。
持ち越していた住民説明会の町民意見と政府答弁の取り扱いは全議員が参加して内容を聞いているため、議員各自で検証するとし、町会として詳細な検証作業をせずに各議員の判断材料とすると確認した。
新谷欣也議長は統一見解や議会報告会、住民説明会の検証内容や日ごろの議会活動でくみ取った住民の意向も踏まえ、各議員が再稼働判断に関する意見を固め、次回全協で述べてもらいたいと呼び掛けた。
14日は各議員の意見を集約した後、検証で洗い出した課題の取り扱いなどを含め、町会の意思をどう示すかを検討する。
文言として取りまとめ、時岡町長に伝える方針。
時岡町長は、町会の意見や県原子力安全専門委員会の結論を踏まえて判断し、西川知事に町の意思を伝える見通し。
ただ、関西圏の理解がいまだ得られない政府の対応に不快感を示しており、国の覚悟が見えなければ同意できないとの姿勢を見せている。
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