人が死んで物理的に消滅したとしても、その人をめぐる人間関係とその枠組みが一挙に消滅するわけではありません。関係と枠組みは、記憶とともに残存し、生きている者に具体的な影響を与え続けます。
ということはつまり、遺された者は、物理的に消滅した存在を、残っている関係の中に、一定期間(関係の残存期間)、位置付け直さなければばりません。つまり、「死者」という存在として、再構成しなければならないのです。それによって、関係性をもう一度安定させる必要があるわけです。
私は、このことが弔いという行為のもっとも重要な意味だと思います。
単なる「死体」と「遺体」の違いは、まさにここです。死によって、すべての社会的な関係性を喪失して、一度ただの「物体」になった存在を、「誰かの遺した」体として人格を呼び戻し、社会的に位置づけ直したものが「遺体」なのです。弔いの最初の仕事は、まさに「死体」を「遺体」にすることでしょう。
とすると、関係性の安定を「安心」と言い換えられるとすれば、我々は人の死に臨んで、十分に悲しむ必要と同時に、心から安心する必要があるでしょう。形式は様々であっても、弔いとは、この生者の喪失という悲しみから死者の受容という安心にいたるまでの、決して短くない過程なのだと思います。
その意味で、昨今の弔われることのない「無縁死」「孤独死」の増加は、残存するような人間関係が、もはや生前に失われてしまい、人間が生きているうちから「物体」化し、そう扱われている証拠だと思います。
追記:次回の講義「仏教・私流」は、5月20日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。
死者と良好な関係性を保つには「自灯明 法灯明」こそがピッタシカンカン、さすが釈尊だと思えます。
私の机の片隅にある亡くなる4ヶ月前に写されたクラス一同の「写真」の中にいる冨美子に時折、話しかけつつ悠々自適?に生きております。
今でも、ずっと?お前さんが一番だな。でもな、お前さんがいないから今の俺があるよな。クラス一同の写真だから、それに託けて机の上に置けるよな。冨美子は、あの時の微笑で私を見つめています。
それのどこが自灯明 法灯明なんだ!
その言葉自体にあるのではなく、それ以前にあるんだよ。ひとり、笑っています。
もうすぐ、没後50年。死者と生きている人の違いをいろいろと考えもしました。結論は、違いはないということです。物体云々は別として、自身の心に生きていない人は死者同様なんだと。
没後50年と題して、クラス会やろうかな。
ところで、故人が死後に受戒・引導を受け、仏弟子になるスタイルをとっている曹洞宗の葬儀は、少々無記と矛盾しているような気がするところもあるのですが、昔から慣れ親しんだお寺で、親族の方達と故人を偲ぶ事は自分のルーツを再確認させます。時代はすばやく流れていきますが、伝統的に大切な、シンプルな祈りは忘れたくないものです。そこには理屈を越えた大切なフィールドがあると思えるからです。
無理。
だとか。孤独死や無縁死は生前から
物質として扱われているとか。
とても傲慢に響いて聞こえる。
どんな環境にあろうと自己中心的で、自業自得だと非難されてもこれが自分に与えられた課題なら一生懸命に一人で孤独死
するまで生きて行く。!!
勝手な価値観を善人ぶって押し付けるな。
善人ではなく悪人なのですよ。仏教はヒューマニズムではないと。かなり残酷な厳しい教えなのだと思います。孤独死を覚悟で生きたなら、それは私は尊敬するな。
家族という他者、兄という他者が失われたとき、失われたのだと自然に思えるようになるまで、つまり「ない」というあり方をする他者との関係を築くまで、数年を要しました。
今回の震災では、数多くの僧侶の方が東北地方へ赴き、亡くなった被災者の方々を弔っていると聞きます。状況がもう少し落ち着いたら、きっと合同慰霊祭も大々的に行われることでしょう。
それは死者との関係を築くためのファーストステップなのでしょうけれども、しかし使者との死を隔てた関係性を築くことで悲しみが薄らぐかというと、必ずしもそうとは言えないと思います。
30年前に亡くなった兄の事を思うといまだに悲しみを感じますし、母もやはり我が子を失った悲しみを完全には整理できていないようです。
ましていまだご遺体が見つかっていないご遺族の方の場合は、葬儀や慰霊祭によって「ない」というあり方をする他者との関係を築く方向へと歩き始めることが出来るでしょうか?それは到底出来ないことなのではないだろうかと私には感じられます。
それは人間としては当然のことであって、我々は親しい家族への関心を失いたくないからこそ、死者を死者として忘れ去ることを拒否するのだろうと思います。
それを受け入れなければならないと現実は常に要求してくるから、我々は苦しむのでしょう。
そうして苦しむ人に、一言言い得てこその仏教ではないでしょうか。
ゆえに葬式仏教たり。現代社会が抱える葬式仏教への批判と致命的な誤解は、上の視点を欠けたるものなり。しかしながら、社会に誤解を与えた要因は我々の側にもある。
「あと一日早く帰ってきてくれれば、お布団のうえで安らかに眠る故人と対面できたのに…」
正直私には、その意味が理解できませんでした。なぜ、すでに「死」した者に「生」を与えようとするのか。なぜ、新たな旅立ちの準備をしている死者の邪魔をするのか。まさに、死者との関係を整理している真っ最中だったのだなと、今になってわかったような気がします。
「また、来世でも一緒に…」
と言う近親者の弔辞を聞いて、僕だったらこんな風に思われたいだろうか。そもそも、来世にまで腐れ縁とやらを持ち込みたいだろうか。持ち込まなければならないのなら、来世なんてない方がいい。ワケのわからないことばかり考えながら、母国をあとにしました。