恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ぶっちゃいました。

2016年01月10日 | 日記
 新年早々、思いつき禅問答シリーズ。


 昔の中国で、雲門という禅師が旅の雲水に訊ねました。

「どこからやって来たんだね?」

「西禅老師の道場からです」

「老師は最近、どんなことを言ってるんだ?」

 すると、雲水は両手を開いて差し出しました。

 とたんに、雲門禅師は雲水に平手打ち一発!

 雲水、あわてて

「自分にはまだ言うことがあるんです!」

 雲門禅師、すかさず両手を開いて差し出す。

 雲水、びっくりして無言。

 ここで、雲門禅師また雲水の横っ面に一発!!


 この話を、私はこのように考えています。

 雲門禅師の「どんなことを言ってるんだ?」という問いは、「西禅老師は悟っているのか? その悟りをどう語っているのか?」という意味です。

 これに対して、雲水が両手を差し出したのは、悟りは体験として把握されるもので、言語化はできないということを表しているのでしょう。ですから、行為としては何でもよかったのであって、手を差し出そうが逆立ちしようが、構わない話です。

 これに対する雲門禅師の平手打ち一発は、悟りだろうが何だろうが、体験それ自体は無意味だと言っているのです。問題はある「体験」をどのような文脈に乗せて語るかなのです。その語りによってのみ「意味ある」事象になるわけです。

 「悟り」として語られる経験は、心理学などの文脈で語られれば「変性意識」とでも呼ばれるでしょうし、禅や仏教に興味も関心も無い人に言わせれば、「馬鹿じゃないの」ですませる話でしょう。つまり、「意味ある」何かになるためには、語られなければならないのです。

 そこで雲水は「まだ言うことがあるんです」と弁明します。

 すかさず雲門禅師が手を差し出したのは、体験は語られなければ無意味だが、どう語ってもそれは、体験そのものを「正しく」言語化することはできないと教示するためです。

 事ここに至って、雲水は進退窮まって言う言葉を無くします。

 雲門禅師の平手打ち二発目は、「言語化できない」でとどまってはいけないことを示しているます。とどまれば、それは「言葉にできない真理」として概念化され言語に固定されてしまいます。

 したがって、「言語化できない」事象を言語化し続け、かつ言語化に失敗し続ける行為以外に、「悟り」体験を語る方法はないということになるでしょう。


 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願いいたします。


 

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306 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2016-02-02 23:25:37
シマウマじゃないから
わかんないよぉ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-28 02:05:17
シマウマにどうしたら雑草が美味しくなるかときいても
結局は青汁のむしかないし
人間はサラダを料理したり、言葉を使えるからもうそれでいいじゃんとなる
シマウマは特に幸せでもないですといいたいのでは?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 18:15:36
誤解が厄介。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 18:09:58
龍樹の言う事は、やっぱ正しいなあ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 17:38:37
気を配って、傷つける場合もあるから、言葉ってホントに難しい…。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 17:24:50
言葉に気を配って書き込みをしたいものですね。その人がどれほど傷ついているかは、くみとり切れないのだから。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 17:23:01
同事というは、不違なり。自にも不違なり、他にも不違なり。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 17:06:05
いま
生きる責任とってるよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 17:02:58
歯がゆいけど
「同時」の教えもあるからね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 16:59:01
ひとそれぞれ、感覚も違う。伝えたいこともそのまま伝わってないことも多いかと思います。文字で伝える事はとても難しいですね。

どれ程配慮しても、伝わりきらない事は必ずあるのだから。

返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 16:51:03
まさにしるべし、悉有中に衆生快便難逢なり。悉有を会取することかくのごとくなれば、悉有それ透体脱落なり。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 16:39:30
結構です。

人の心配ご無用。
書き込みは、もうしません。

では。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 16:37:03
こちらは
ガタガタいう場所じゃないんですかー?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 16:34:48
うまくいってるように
見えてるだけでしょ。

答えがわかれば
苦労しないのか、問題ないのかどうかも、凡夫にはわかんないよね。


強がってる場合では
ありませんよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 16:34:38
自分で考え。
私は、自分で考えて生きてきた。責任もとってきた。悪いか?え!悪いのか!
どなたさんに、ガタガタ言われる覚えはない。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 16:24:48
ええかげんにせーよ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 16:23:03
なんで、そうやって問題ありにしたがるの?うまくいって、いけないの?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 16:13:42
なってるってことは
問題大アリってことでしょうね。

心配するに決まってるでしょ。

ね、方丈様。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 15:58:37
わたしは、なってるけど?ご心配なく!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 14:57:13
別に問いかけるまでもなく、おバカの自覚はあります!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 10:50:15
あなたが、何故ここにコメントをしているのか、静かに心に問いかけてみるといいよ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 09:48:13
え?
なんも問題なければ
どうにもならないって、思わないんじゃない?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 07:09:08
まず、自分をよく見直してみることが大事だろうね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 06:14:04
どうにもならない
って
なんの問題もない
ってことの別名じゃん

なんか
あーあ
気の持ちようとか
そっちとかこっちとか
ややこしいのう
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 02:13:00
そちらには、どうにもならないって事が、
こちらには、どうにかなってる事かもしれないよ。

逆もまた然り。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 02:01:36
和顔愛語。

忘れたの?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 01:59:56
投げやりに って

それ、わたしにかなぁ

あああああ
わたしが投げやりになったところで
なにもどうもならないって

ならないの
あーあ
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 01:23:00
投げやりにならないようにね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 01:15:17
わたしは死んだ人を喰って生きているんだけど
曹洞宗だとお食事前にはなんか読みあげるんだっけ
感謝して修行のための身を保つためにいただきます的な
それで行くとまあ、わたしったら酷いもので
死んだ人は犬死だなって感じだけど
だから坐禅とかいったら、死んだ人やっぱり浮かばれないような気がする
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 01:00:14
昨日まで生きていた人が死んじゃっても
わたしは生きてて
そう変わりなく生きていると言えば言える
私が死んでもきっと同じだろうなと思うと
私の世界の一つや二つどうってことないんだろうなとは思う
誰にとってのどういう問題なんだっていう
だって、わたしなんていなかった時間のほうがずっと長いのに
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 00:51:52
いいことが言えると世界が良くなる


………あり?
………いやぁ………
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 00:50:39
いいことが言えるようになる修行?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 00:41:55
ここには言葉しかないじゃない

ここって、それだけじゃない

返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-20 00:30:05
えー?
言葉からは自分の内面にあるものしか拾えない ?
でも言葉だとか認識だとかが世界だとかいうんでしょ
内面にあるものしか拾わないことにしてるんでしょ

知ってたけど

返信する
Unknown (アメ知ろう途)
2016-01-20 00:07:29
苦言者の方は、より深い思考を引き出すために意図的にああいう表現をなさっている事を感じていました。言ってみれば学問追求の観点からすれば妥協を許さない真摯な学徒の精神です。それゆえに(そば見させて頂いて)アメも真剣に取り組みたいとエネルギーを与えられた次第です。
また「諸法実相である世界」とか「フッサール現象学」「実相の自己」とかのアメにとって初めて聞く言葉に触発されて、真意を追求する愉しさを与えて下さったコメンテーターの方にもお礼申し上げたいです。
宝の山に立ち入ったのか、パワーポイントに立っているのか、何か人から放射されてくるエネルギーを感じます。
皆様有難うございます。
アメ言だと誤解された方、そこまで
買いかぶって頂けた事光栄に感じています。ご心配なく・・・・。そのうちアメも本物になりますから、今の処のトンチンカン問答はご容赦ください。
返信する
アメ知ろう途さんへ (Unknown)
2016-01-19 18:18:27
ごめんなさい。
18日23:06のコメント私の勘違いです
22:07のコメント、アメ知ろう途さんの
コメントと勘違いしてました。
申し訳ございません。
返信する
Unknown (アメ知ろう途)
2016-01-19 16:07:11
「世界を正確に把握する」「問い方を間違えない」をめぐってのやり取りを読ませて頂いて、猛烈な刺激をうけました。

よ~し、私も絶対勉強するぞ~って意欲を掻き立てられました。有難うございます。

皆様に追いつきたいとあっちこっちをあたふたとひっかき回す形にはなりますが、あす、あさってに懸けて南師の「『正法眼蔵』を読む」の第5章ー1「坐禅、縁起への身投げ」の部分をじっくりよむ目標ができました。
ホントに生きがいになります。感謝いたします。
このサイト参加させて頂いて素人冥利に尽きます。有意義な日々を送れそうです。有難うございます。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 15:57:14
いいやりとりであった。
フッサール現象学の凝縮版のようである
お二人もお見事。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 15:14:57
お気持ち、大変よく分かります。自分も以前、仕事上のことなどで、同じように深く悩みましたから。

自分も凡夫にすぎませんので、日常生活の中では、悩みながら過ごしているのです。あなたが「実相の中の自己」と書かれていたので便宜上そのように書いているだけで、坐禅から覚めた時や、時々にふってくる発想が「実相の中の自己」からであるかどうかなど、確信がある訳ではありません。

ただ、自分の場合、坐禅中、真っ白になる体験をきっかけに、かなり意識が変わったことは確かです。この感覚は意図して訪れるわけではないので、このようにしたら確実になる、とは言いづらいです。意図しない時に突然体験するものなのだと思います。

しかし、その体験をしていなくても、道元禅師に学ぶ事で、少しずつ冷静に物事を受け止められるようになったことは確かです。智慧と坐禅、これを重ねて行けば、確実に楽になると思います。そうしているうちに、きっと感覚的に体感する時が訪れるのだと思います。きちんと学び行じれば、
、誰にでも起きることだと思います。私でも、楽になれたのですから。
返信する
追加 (Unknown)
2016-01-19 14:16:08
実相の自己がみえない私のような凡夫は自我の産物である言葉、思考に頼る。
そしてどうしても迷ってしまいます。
情報量を多くすればよいかといえばそうでもなく、かえって迷います。
いろいろな意見を聞くと、なにも信じることができなくなります。

そして自我は自己中心性がつよく、つい自己正当化をしてしまう。
その偏りさえ自覚できないのが現状ではないですか。
凡夫が自我の激流を逆行し偏りを補正可能であるとは思えません。
利害が絡むと絶望的。
痛みに耐え、嫌な意見も尊重するような客観らしきものをもつことが可能なのでしょうか。第3者目線と口ではいうけれどもけしてよそ事、他人事では済ませないゆらぎを感じます。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 13:57:33
返信ありがとう。時間かかったでしょ。
あなたは実相の自己を拠り所にできます。
実相の自己の存在が前提になっているのが問題だといってます。
つまりあなたのいう主張は実相の自己に依拠できる前提があってはじめて成立する。
間違えるなと言われても間違ってしまう実相の自己のみえない凡夫は対象になってない。
間違えない実相の自己に間違うなといってるようなもんです。
そこが問題。
>仏教における限定的な世界
不明瞭でごめんなさい。実相の自己が投影する世界とでも申しましょうか。とすれば客観、主観の対立もないということになり客観を不用意に使えないともおもったのですが。
返信する
苦言をくださった方へ 2 (Unknown)
2016-01-19 12:03:03
時間が取れましたので、考えてみました。
自分は在家の人間ですので、基本的に自分が存在する現代日本の環境の中で、生きやすくなるために禅を学んでいます。出家者の方とはスタンスが違うとは思いますが、このように禅の思想を応用している、というふうに理解いただくといいのかもしれません。


1.世界を正確に把握すること
2.問い方を間違えないこと
隠れた主語は自我?実相の自己?

「世界を正確に把握すること」
の時の世界を把握する時の主体は、当然自分ですので、自我をもった凡夫である自分です。坐禅をしていない時の自分は当然自我を持っています。しかし、自我を持ちながらも、極力情報を多く収集し、さらに客観性を保つ努力を意識的にしています。そのようにすることが、世界をより広く受け止めることにつながるからです。

しかし

「2.問い方を間違えないこと」
の時の主体は、自分の場合、坐禅をしている場合が多いので、実相の自己となることが理想かと思っています。そのために坐禅をしています。

>実相の自己から導き出された答えは当然、正誤の判断をする必要もない。真理を目の当たりにする人間ならそもそも問うことさえ必要ない。

自分の場合、生活の中の判断に禅の思想を利用させていただいていますので、自我で判断しないテクニックの一つ、として坐禅を通しての実相の自己からの答えを待っているのだと思います。

>1でいうところの「正確に把握すること」とは通常の分別によるものか実相の自己に依るものかわからない。

1の場合は、先程書かせていたように通常の分別です。現時点の自分の境地では、坐禅を離れては自我なしでは存在出来ません。しかし、智慧を深め、坐禅を重ねるごとに、意識を維持した状態でも、実相の自己に近づいている、と感じています。

>実相がみえない凡夫は把握できないことになる。「間違えない」というならそもそも正誤の基準とはなにかを明示しなければわからない。

自分の場合、意識のある時(つまり1の時)の正誤の基準は「可能な限りの客観性」です。
坐禅中(つまり2の時)は基本的に意識がない状態に近い、と思います。真っ白の状態です。
(真っ白の状態にならなかった坐禅の場合、すっきりと答えが出たことがありません。)

>誰も間違いたくて間違ってるわけではない。なぜ間違うのか等。

自分の場合、自我に引きずられ、分別に引きずられるからだと、思っています。そのことで随分苦労したので、禅を学び始めたのです。

>世界といってもあなたの見ている世界なのか自分の世界なのか一般にいう世界、仏教における限定的な世界、なのか多数あります。

基本的に世界の把握は、自分の見ている世界のみしか出来ません。当たり前ですが。それを、より広く広げ、全体を捉える努力が、禅の姿勢のひとつだと思っています。また、個人的には「仏教における限定的な世界」の意味は掴みかねました。仏教は基本的に世界を限定しないことを指向していると思っています。

突然客観と出るあたり。今一度検証してみてはどうでしょう

>自分としては、「自我に囚われないで、すべて均一的に状況を把握すること」を「客観」とここでは表現しています。かといって、自我は存在しますので、完璧な均一的な状況把握は難しいとは、思います。でもその努力をしながら、より多くの情報収集をし、脳内にインプットすることは、実相の自己から答えを得るためには必要なことだと思っています。

的外れな部分も多々あるかと思いますが、これが現時点での、自分のリアルな禅への係り方です。ごく個人的な利用法に過ぎず、まだまだ利用しながらも勉強中です。また、アドバイスお願いします。
返信する
Unknown (アメ知ろう途)
2016-01-19 10:52:13
仏教では家族を持ち子孫を作る事は尊い事であると教えて居るはずです。

仏教の言うポイントは;
管理しない性欲は依存症になる。性欲に溺れると知恵が全く成長しない。知恵を開発しないで動物と同じ精神状態でいるなら仏教を語る意味はない。
シャカ時代の王家の弟子は釈迦の正法をしっかりと守り、妃・後宮も何人も持っていたと言われていますよね。今の一夫一妻制は西洋文化の故であって、仏教で規定された法ではない、という事のようです。
仏教ではあくまで、智慧の成長に対する影響という事がポイントのようです。

私見ですから皆様のご意見はいかがでしょう???
返信する
Unknown (アメ知ろう途)
2016-01-19 10:21:00
>血液のビートを感じているうちに真っ白になれる>
とおっしゃった方は2014年だかのブログ記事の南師ご自身の坐禅体験の生き証人なのだと思います。
南師の言葉では確か呼吸の波動に感覚の全てが共鳴した時に~~、とか書かれていたと思いますが、本質的には血液のビートも同じだと思えます。板橋師曰くの心の叫び声が聞こえるにも通じていますよね。そう言う時の声は正解だと言うのが板橋師の見解ですよね。
結局サンスカーラから解き放たれて
ありうべき真のものが浮上した・・・という解釈で良いのではないのでしょうか。
返信する
Unknown (アメ知ろう途)
2016-01-19 09:55:40
>体験談を書くのは簡単ですが・・・>

問う(問い続ける)という意味は、試行錯誤し続けるという意味ではないでしょうか。初めっから絶対的正解があるなら
問い続けるは成立しません。縁起の流れの中では無常していくものでしょう。

南師の「愚者の定義」の時にも思考をやめてしまった人を指しており、今回も言葉の不備をおしてなおかつ語り続ける大切さを指摘しておられるのですから、誤解させる事を恐れて無言でいたら一切生きた言葉のないサイトになるでしょう。

此処のサイトを、語り合って指摘しあって、次には少しでもより高い境地に上っていく重要な場として利用させて頂く、でよいのではないでしょうか。自分だって次にはもうすこしましな言い方が出来るかもしれない、という処に希望をみるべきだと思っています。
返信する
アメ知ろう途さんへ (Unknown)
2016-01-19 08:27:57
体験を書くのは簡単ですが、問題は体験を言葉に移し変える難しさ、です。禅の場合、特に一定の境地を理解していない人にとって誤解しやすい部分が多くあります。これから禅を知る人に誤解をさせては、大変です。

なんとか配慮し誤解のないように、言葉を選ぶしかないのでしょうね。
返信する
Unknown (アメ知ろう途)
2016-01-19 07:56:59
パソコンエラーで全文送信あり、でその続き

南師が問い続け、このサイトに書き続ける為の生のエネルギーはどこから来るのか、を考える時、生きた人間同士の心の交流が基本になっていると思います。さもなければ生きた言葉は発せられないと思います。

このサイトにわざわざコメント欄があるのは、そういう今生きている仏教者の皆様の心の声が南師にエネルギーを与え得るものであると信じています。
自分の心の声を封じたら、全てが死に絶えます。感動も生まれず、つまらないサイトになるのではないでしょうか。
返信する
Unknown (アメ知ろう途)
2016-01-19 07:45:15
「皆様へ。自分の体験談より~~」の方へ私の考え方。
返信する
アメ知ろう途さんへ (Unknown)
2016-01-19 07:19:26
道元禅師の思想は、繊細な日本文化を創り上げた基礎であり、東洋思想の頂点の形のひとつでもあると思います。アメリカに住みつつ、南師のブログから、道元禅師の思想そのものを学ばれるのは、素晴らしいことだと思うます。自分も配慮しながら、コメントしたいと思います。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 07:17:42
仏道をならうたる者
嘘つき呼ばわりは
よろしくありませんね。

本当か?

で、充分かと思います。

返信する
Unknown (アメ知ろう途)
2016-01-19 07:02:05
アメ玄人(は)嘘つき!コメ、嬉しく拝受仕ります。

でもまあ、「この世界について仮説」のアメのコメ「(光速度不変の原理が)絶対座標軸の原点を自由に移動させて、多時空の歪の中に埋没させればなりたってしまう」と言ったとき、
どなたかが「それこそが禅の世界だ」と指摘して頂いた時は、心底禅の感覚が理解できた気になりした。深く感動です。
移動する原点の上に乗っかって、多時空の歪の中を漂う自分の姿が瞼の裏に浮かびます。
これはホントです。あとは多少おせいじを方便として使わして頂きましたが・・
返信する
皆さまへ (Unknown)
2016-01-19 06:50:23
自分の体験談より、南師が以前ブログ内で書かれていた坐禅のコツの方が、わかりやすいかと思います。読んでみられたらいかがでしょうか。
可能であれば、直接どなたかから文字からは学べない真髄を学ばれることをお勧めします。真剣に必要であれば、縁は出来るものです。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 06:29:32
どしたの?
勝手にムカついちゃダメだよ!

(≧×≦;)


迷いのドツボに
ハマっちゃったのかなぁ。
返信する
苦言をくださった方へ (Unknown)
2016-01-19 06:18:11
コメントありがとうございます。自分の感覚をつらつらと書き連ね、安易だったと思います。

自分の場合は、曹洞宗の尊敬できる老師と直接お話しをする機会もありますし、道筋を違えないよう、自分なりに配慮し学んでいるのですが、完全に独学の方には誤解を招く表現だったと思います。また、自分の未熟さは記載させていただきましたが、未熟な他人の体験は参考程度にしかならないことを、再度書かせていただきます。

自分の経験上、やはり、尊敬出来る老師から直接話を聞く臨場感は必要かな、と思っています。感覚を掴めば、文字から拾える世界は広がります。結局、言葉からは、自分の内面にあるものしか拾えません。

坐禅に興味を持つ人が、直接師家のかたから、学ぶことの出来る機会が多くあれば、と思います。もちろん、今でもその人に必要があれば、縁は必ず出来るものだと思いますが。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 03:53:30
アメリカっちへ。

嘘つき!返す。
(笑)
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 03:38:32
旅路だよ、生の旅路、文字文字だけじゃ文字文字にしかならない。
だから、説得力感じなかったんだな、うん、うん。
返信する
アメ玄人さんへ (Unknown)
2016-01-19 03:29:57
嘘つき!
でも楽しませてもらった。
いい旅を!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 03:13:29
思うに、やっぱ旅、旅シナイト。
返信する
Unknown (アメ知ろう途)
2016-01-19 03:02:25
アメリカと日本は時間帯がほぼ逆だから
今起きた処です。こちらで寝てる最中、この公開討論会場、生きている仏教者の生身の声が聴けて素晴らしいです。これこそが私が望んでいたことです。新たに考えるべき価値あるポイントも出て来てるようです(後で詳しく読みます。)

誰かが「無我か・・・」をアメが納得しないだろうと、書いていましたがアメは大いに納得ですね。「決めるのではなく縁起によって構成された世界から示される」というのが只管打坐の「ただただ坐る」=「頭を空っぽにする」の感覚に繋がってるなら、あとは縁起の川の流れに身を鎮める=無我、で皆繋がってくると思います。

元曹洞宗貫主の板橋師は著書「息身佛」中に、
「もう60年も坐っていますから無心の境地になるかと聞かれれば、ふふふ、そうではありません。坐禅中に居眠りもします。余計な考えがいつでも浮かんできます・・・、そのまま(ありのままに)受け流しておればよい」・・・

(座禅中)「脳が休まりながら、同時に感覚は研ぎ済まされた状態になる。そして、坐禅をしている時の脳波は眠っている状態に近いのに、知覚神経は敏感になるのです。だから、何か刺激があればすぐに反応できる、宮本武蔵みたいにね。」・・・

「今日どうしようかと秘策を練るときも、静かに坐禅していると、パッといい
着想が湧いてきます。そのときに出た考えは、心の叫びから出てきますから納得できる。重大なことを決断するときは、坐禅をすると自分にもっとも自然な答えが出てきます・・・・・私は手帳を置いといて、すぐ書き留めておくの。ふふふ・・・、これは私の内緒ごと」・・・

こういうのをアメは、「生身の生きてる
仏教者のココロの声」として尊敬できる由縁です。上っ面のきれいごとばっかし述べたてる啓蒙家ではない真に生きてる人の声!!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 02:30:57
性交NGって、釈迦は言ってたのかな
しらないけど、そういうとここだわっていた人いたけど、
でも、やっちゃってて、でも仏道とか仏教とか、言うわけだけど。
やっちゃ駄目な理由って私は知らないけど、やってもいい理由も知らないんだよな。
ま、釈迦が、やっちゃ駄目って言ってたとしたら、ね。
できる分だけやって楽になれたらよし
ということなのか
色欲つーのは無問題ということなのか
坐禅が全てをちゃらにするから無問題なのか
そもそも問題などはどこにもないのですとか言い出すのか

どうでもいいか
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 02:14:34
雪 かなあ
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 02:11:11
おれは楽になったからこれでいい

まあ、そりゃあよかったね 的な
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 02:09:40
それに尽きる
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 02:07:40
ぶっちゃけ

いやしくもプロなら説明するべきだろ

と言う人がはたして実際説明したんだろうか、という疑問はある。

どんなに論や説を駆使してても、それ、やったのかなあって疑問はある。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 01:59:35
いいこと思いついた!

以上。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 01:01:46
いあ野暮なこととは十分承知してるんだが彼にいうべきだったか今でも迷ってる。
観念概念思考経験すべて無用で邪魔な世界。
だからこそ彼は実相の世界をみれたのではないかとも思う。
観念的な世界に引きずり込むのもだめな気がする。
しかし言語を使って伝える以上はどうしてもこの邪魔な世界を知らねばならんとも考える。
詩的でストレートに直感的芸術的世界を表現してもらったほうが活きる気はする。
どうするべきなんだろうか。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-19 00:14:53
話は変わりますが
各地で暴風、雪のようですね。

いつもより
早起きされる方も、多いことでしょう。
足元お気をつけ下さい!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-18 23:28:06
無我か・・・・・
アメ知ろう途さん納得しねえだろうな。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-18 23:06:20
話しに割って入るようで申し訳ないが
アメ知ろう途さんへ、そこは大目に見てあげられる余裕はないのか?
せっかくのいいやりとりにわざわざミソつけることはあるまいに。
年配者の意地は無用と思われるが・・・
確かに自分もそこに引っかかりはあったのだが・・・
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Unknown (Unknown)
2016-01-18 22:55:36
無我、なので主語があってはおかしいのでは、ないでしょうか。
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Unknown (Unknown)
2016-01-18 22:07:56
いろいろとありがとう。
あなたの体の挙動表現はとても臨場感があります。すばらしい。
しかしいくつか苦言をいいたい。
1.世界を正確に把握すること
2.問い方を間違えないこと
(可能な限りの客観性を保つこと)
あなたのいわんとすることはわかります。一見正論のようにみえます。しかしこの表現方法はいただけません。欠点は主語がない、言葉が多義的なことです。(主語がなくても通じるのはシンプルな反面欠点でもある。)隠れた主語は自我?実相の自己?実相の自己から導き出された答えは当然、正誤の判断をする必要もない。真理を目の当たりにする人間ならそもそも問うことさえ必要ない。1でいうところの「正確に把握すること」とは通常の分別によるものか実相の自己に依るものかわからない。実相がみえない凡夫は把握できないことになる。「間違えない」というならそもそも正誤の基準とはなにかを明示しなければわからない。誰も間違いたくて間違ってるわけではない。なぜ間違うのか等。世界といってもあなたの見ている世界なのか自分の世界なのか一般にいう世界、仏教における限定的な世界、なのか多数あります。突然客観と出るあたり。今一度検証してみてはどうでしょう
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Unknown (Unknown)
2016-01-18 17:53:30
心音が聞こえる訳ではありません。なので、聴診器で心音を聞く事には、あんまり意味がないんじゃないかと思います。音ではなくて、血液の流れが波のように体を揺らしているように感じます。そうなってくると、体の表面に薄くざわめくような感触を感じます。この時にうまくビートに乗ると、ほんの少し息苦しさを感じた後に、真っ白な状態になります。

一度コツを覚えると、わりと簡単にその状態に入る事ができるようになると思います。1柱が短く感じるようになりますよ。未熟な自分の個人的な体験にすぎませんので、聞ける方がおられたら、他にも意見を聞いてみてくださいね。
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Unknown (Unknown)
2016-01-18 15:03:18
ありがとう。がんばってみます(がんばるってのがもうすでにアウトっぽい)血液のビートいい表現ですね。震えました。
聴診器で自分の心音を聞こうとおもってやってみたんですけど耳痛くなってやめました。
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Unknown (Unknown)
2016-01-18 14:59:14
自己を観察する、ということは坐禅では行いません。何も考えない、ということすら意識しないようにするのが理想的ですが、なかなかそうもいかないので何か浮かんで来ても、囚われないようにします。分別を無くすのが、禅の理想の姿でしょうから。

自分の場合、真っ白になるには20分以上かかります。坐っているうちに、深くなってくると自分の場合、体に流れる血液のビートを感じ始めます。そのビートを感じているうちに、真っ白になってきます。その状態になれると、殆ど何も考えることはありません。

ご参考までに。
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Unknown (Unknown)
2016-01-18 14:51:11
勉強になります。ありがとう。
真っ白になりたいんですがならないんですよね。どこでも聞く言葉に無為とかからっぽとか作為をやめるとか聞くんですけどね。どれも理想化がすでにあってそうなろうという作為をしてしまうんですよね。無為であろうと努めればもうすでに無為でないように。いあ自己をわするるって難しい。
>自意識で物事を決めることは、自我に囚われることになります。
私もそう考えてます。この自己を観察するという事自体が分離してるからすでに思考のトリックなんだろうって。でもまっしろにならないんです。
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Unknown (Unknown)
2016-01-18 14:36:14
坐禅から覚めると、ひらめきがあり、決めかねていたことの判断がついていることが多いです。坐禅がうまくいっている時は真っ白の状態ですので、考えて決めている訳ではありません。

自意識で物事を決めることは、自我に囚われることになります。そのようにしないために、自分は坐っています。

事前に世界を正確に捉える、つまり、現状の情報や係る人のこと等をより多くインプットしておくことは、大切なことなのではないかな、と思っています。
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Unknown (Unknown)
2016-01-18 14:10:20
>決めるのではなく、縁起によって構成された世界から示される
ありがとう。あなたがいわんとすることはとても納得できます。私も自分が決めてる感じがしません。瞑想してても自分の判断プロセスが早すぎて捉えられないんですよね。ボケーっとすぎてしまう。いつの間にか飲まれてしまう。もうちょっと前で捉えたいんですけどね。この判断を捉える自分は誰なんだと新たな疑問が。なんか最近一人相撲してる気がしてなりません。
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答えになってるか分かりませんが… (Unknown)
2016-01-18 13:58:28
自分の感覚が、誰にとっても正しい、という訳ではありませんが、お答えさせていただきます。

>他人がつくった正誤基準を受け入れ模倣しなんとなく判断しているということで解釈していいのですか

についてですが、まず、
>他人がつくった正誤基準

というものについて、あなたがどのようなイメージを持っているのか分からないので、少々答えにくいです。ですので、回答として、あなたが納得できるものには、ならない可能性が高いことをご容赦ください。

また、
>模倣しなんとなく判断している
という部分については、明確に(自分の感覚としては)異なっています。
答えは、はっきりと示される、と感じています。

ポイントは
1.世界を正確に把握すること
2.問い方を間違えないこと
(可能な限りの客観性を保つこと)
この2点です。

決めるのではなく、縁起によって構成された世界から示される、というように自分は感じています。

言葉足らずですいません。

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Unknown (Unknown)
2016-01-18 13:42:57
正解、というより、道筋、位の方が適切かも。
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Unknown (Unknown)
2016-01-18 13:35:20
他者より立ち上げられた無我である諸法実相の中の自己
よくわかりません。言い換えとか例えとかないですか?

他人がつくった正誤基準を受け入れ模倣しなんとなく判断しているということで解釈していいのですか
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Unknown (Unknown)
2016-01-18 13:34:31
言葉からは、自分の内面にあるもの以上を読み取ることは出来ない。
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付記 (Unknown)
2016-01-18 13:21:50
なお、言葉である限り、表現には限界があります。文字であらわすことが出来る部分は限られています。先ほど質問をされた人が違和感を感じる部分は、書き手とその人との世界感の違いにあります。

そこに気づくことが、禅の大切なファクターのひとつといえるでしょう。
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Unknown (Unknown)
2016-01-18 13:15:30
決めるのは、縁起によって他者より立ち上げられた、無我である諸法実相の中の自己、でしょうか。

この質問をした、あなたの心の中を見つめてみてください。質問をした理由は貴方の中にあるかと、思います。
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Unknown (Unknown)
2016-01-18 12:55:32
>真理は問う中で時折姿を現し、その時々の正解を示す
正解という言葉をつかえば誤解という概念が立ち上がる。
正解と誤解の判断基準はなんですか?その判断をするのは誰ですか?明記してください。
真理とはいっても偽理とは聞かないのはなぜだろうね
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Unknown (Unknown)
2016-01-18 09:06:18
>「禅は正解を捜す事ではなく、問う(問い続ける)事である。真理そのものの答えが提示されている訳ではない、絶対的な正解を求める事には意味は無い」

というのには、少し誤解があるかと思います。

>「禅の思想には問い方が提示されている。真理そのものの答えが提示されている訳ではない。真理は問う中で時折姿を現し、その時々の正解を示す。」

といった感じの方が、フィーリングとしては近いと思います。

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アメ知ろう途さんへ (Unknown)
2016-01-18 08:51:12
「座標軸の原点を自由に移動させ、多時空の歪のなかに埋没させれば成り立ってしまう」という感覚は、禅の世界の感覚に近いところもあるかもしれません。

そのような感覚を掴めるまでは、煙に巻かれるように、誤解してしまうのです。原点を自由に移動させる、ということは絶対的でない、とも言えますからね。感覚を転換させないとならない訳です。そのきっかけづくりが「禅問答」だったりします。

量子力学の世界感は、本当に空の世界感と似ていると思います。
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Unknown (アメ。)
2016-01-18 07:17:56
もう一つ誤解を溶いて置きたい事があります。「この世界についての仮説」感想文についてです。
私は日本では機械技術者で古典力学の絶対座標系で世界を見て来ました。
在る時NHKのアインシュタインロマンという番組を見て、「光速度不変の法則」何て在りえないと思っていました。
実際、物理学教授連も絶対座標系では彼の理論は破たんすると言ってたのに、NHKの番組では絶対座標軸を使って説明していたからです。
それが数十年後吉田氏の「この世界についての仮説」で多時空の世界での概念が物理学者の支持を受けている(=現実社会の出来事として容認されている)事を
今回初めて知り、「光速度不変の原理」と名を変えてその中で生きている事を知り疑問が解けたわけです。座標軸の原点を自由に移動させ、多時空の歪のなかに埋没させれば成り立ってしまうわけです。
これは私にとって実に数十年がかりの目から鱗の体験談なわけです。それを表現しただけで、「驕りがあった」とかないとかという事ではありません。自分が死ぬ前にこれを知りえた事は私にとっては何と幸せなことであるかご理解頂きたいです。
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Unknown (アメ。)
2016-01-18 06:13:43
早速で申訳ないのですが・・・・、
「禅は正解を捜す事ではなく、問う(問い続ける)事である。真理そのものの答えが提示されている訳ではない、絶対的な正解を求める事には意味は無い」、と言うのは心情的に解ります。私的には賛成できます。

しかし、かたや「坐禅とは~~唯これ安楽の法門なり、菩提を究尽するの修証なり」。

安楽=心が穏やかで満ち足りている事。
法門=悟りにいたる門、即ち仏の教え
菩提=悟りの智慧、完全に煩悩の絶たれ
た涅槃の境地。
究尽=極め尽くす=只管打坐する。
修証=修行と悟り

更に「仏祖の正法を参学する」

のが禅の本質で在るとすると、
ただ単に「問う」(=疑問し続ける)がポイントで済ませられるのか、
道元禅師の教え方とどう繋がるのかの疑問はのこりる気がします。
研究してみたいです。

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アメ知ろう途さんへ (Unknown)
2016-01-18 05:21:06
自分が気をつけているのは、真理は言葉ではあらわせない、ということを忘れてはならない、ということです。真理は比喩的にしか、語ることは出来ません。

誰かが真理として語っていたとしたら、厳密にいえば、それは真理そのものでは無いのです。本質的に真理を知りたいのなら、自分でそこへ向かうしか有りません。その道程で垣間見ることでしょう。

また、言葉は語る人以上に、受け取る側が意味付けをしてしまいます。自分をよく知り、客観視することが、相手の意図を知る助けになります。

楽しんで学んでください。
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Unknown (アメ)
2016-01-18 05:16:46
余談ながら、アメリカの医学校に入る前の二年間ラテン語・ギリシャ語を自習しました。医学用語はそれらを知っていると非常に理解しやすいからです。

初学年では毎日2~300の医学単語を
を覚えさせられます。
アメリカ人の医学生はその原語的意味も理解しないままただただその医学用語を丸暗記します。
私は医学用語の原義を知って論理的・系統的に覚えられます。それは漢字の解字辞典と同じです。
それが私がアメリカ人の医学生と伍して
行けた理由です。
アメリカ人はどんなに拙い英語会話力でも理路整然とした説明は尊敬を持って受け入れてくれます。彼らはあまり感情的にはなりません。
これが私の生き残り戦法でした。
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Unknown (アメ知ろう途老人)
2016-01-18 04:41:49
海外で現地語で喋り、個人事業で現地人と対等に生き残りを成し遂げる為には、自分自身の頭をつかい自分なりの論理に立脚して実務で勝ち抜く以外在りません。他の事を考える余裕は一切ありません。甘えは一切許されないのです。自灯明!!!

それが成し遂げられて、自在の生活に見通しが出来て、初めて自分の知的好奇心を追求する三昧が生れるというものでしょう。

今やっとその余裕の中にわが身を置けるようになった、という事です。
皆様を意図的に扇動した部分はあります。すいません。
しかしそこから引き出された色々なヒントと情報、心底感謝しております。
南師の引導渡し、皆様のコメントから日々新しい事が発見出来る事は素晴らしい事です。法灯明!!!
ありがとうございます。

もしご迷惑でなければ、今後も疑問を率直に表現させて頂きたいですが、今まで学んだ事を消化する時間が必要な事は確かです。読みたい書物・ネット記事の中におぼれそうです。生き甲斐を感じます。

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Unknown (Unknown)
2016-01-17 21:39:38
そうやって
自分を観れる人って
素晴らしいと思います。

なんだかんだでも
皆さん自覚しながら、言葉を発しておられると感じます。

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Unknown (Unknown)
2016-01-17 20:52:05
多分気を悪くさせてしまうであろうと思いつつコメントをした。申し訳ない。
前段の発言からアメ知ろう途さんの意図や思考がなんとなく分かっていた。
貴殿が挑戦です と言うもんだから・・

言葉がむずかしいというよりは、言葉を発する人の意識にある志向性を読み取ることがむずかしいのであり、発した言葉自体はさほど難しい訳ではない。
龍樹が中論において言葉を否定をしたという。何故否定なのか?その意図するところを手前勝手に解釈すると、言葉の使用方法を弁えること、あくまで道具としての範囲を逸脱しないこと、論争の武器にしてはダメだということ、
これが本来の趣旨ではないのだろうか?
問う側は自分の理解を補うために言葉を発する、聴く側は受け取った言葉から発した側の意図するところを理解する。
言葉とは相手を理解するための道具であった筈である。理解を目的とするならば嘘や偽りを交えてはならないし真意のみを伝えるべきであり、体験的に語られなくてはならない筈である。

西欧の言語の元になっているラテン語やギリシャ語は本来の言葉の意味を色濃く残しており、漢字の元のなった甲骨文字にもその本来の意図するところが含まれている。(白川静先生の辞書はおすすめ)

アメ知ろ途さんに理性があるのは分かっている。このサイトにコメントをしている事自体が何よりの証拠。自分の理性を
試したい故に挑戦したのであろう。
思わぬ形で挑戦を脱却させられ気を悪くし頭にきたかも知れないが、貴方自身、吉田先生の量子論を読み、なんとなく分かったつもりになって挑戦してみたいという驕りがあった事は事実であろう。
貴方の縁起についての質問の回答は既にこのサイトにおいて提示されている。
貴方の事を思い、貴方に理解して貰おうと、言葉を重ね、時間をかけて思考を巡らせ、コメントを書いておられる見ず知らずの方が何人もいる。貴方の発した言葉を皆誠実に受け止め、自分の生きる時間を割いて貴方に言葉を発している。
貴方はそんなつもりではないかも知れないが、貴方がコメントに投稿して十数時間経っても貴方に関するコメントが続いている。貴方は今、縁起を体験している。

皆さん 本当に申し訳ございません。
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アメ知ろう途さんへ (再投稿) (Unknown)
2016-01-17 18:37:10
禅の場合、法や仏は「諸法実相である世界」として語られることが多いよ。参考までに。

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Unknown (アメ知ろう途)
2016-01-17 18:14:32
中村元著「龍樹」(講談社刊)303頁『縁起を見る=法を見、仏を見る事と同義』
「~~、それはもろもろの原因や条件の連鎖の網によって相依って起こっている諸事情のほかに求むべきものではなく、諸法の縁起せる如実相を体得した場合に初めて『さとりを開いたもの』(覚者)といわれるのであるから、『縁起を見る』という事はきわめて重要な意味を有する。」

『中論24章19』
「何であろうと縁起して起こったのではないものは存在しない~~」

以前ウィキペディア(?)でみた「縁起
説」の説明と、中村元氏の今回引用した文章とは違和感を感じてます。
リンクして下さった方のを明日読んでみます。
「真理への問い方のテクニック」を言及下さった方ありがとうございます。じっくり考察して応答コメント書かせていただきます。
中論の第一章;原因(縁)の考察は当方の読解力不足、すみません!!!
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Unknown (Unknown)
2016-01-17 18:03:20
刺激し合う場
ともいえるのでしょう。

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Unknown (Unknown)
2016-01-17 17:59:27
教えて頂いている。
学ばせて頂いている。

その低姿勢があれば
大丈夫じゃないのかな。


南さんが、
真理も悟りのように
わからないものだから、わかってるように、語ってはいけないんじゃなかったかな。

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縁起 - Wikipedia (Unknown)
2016-01-17 16:49:53
初期仏教と大乗の縁起の違いなども含めて簡単にWikipediaでまとめられています。読んでみられたらいかがでしょうか。

縁起
https://ja.wikipedia.org/wiki/縁起
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アメ知ろう途さんへ 補足 (Unknown)
2016-01-17 16:41:19
先程の文章で、わかりにくいところがあったでしょうか?これでも、かなり神経を使って書いたつもりです。

仮に

じゃあ自己流でもいいという事になりませんか???
「話し合う」事を禁じられた世界???
南師に反論提起する事は不可能な世界???
開かれた社会ではなく自閉していく社会???
そんな筈は無いと思っていますが、そんな筈なのでしょうか???

と思われたとしたら、自分の能力の無さゆえです。ご容赦ください。
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アメ知ろう途さんへ (Unknown)
2016-01-17 16:18:46
誤解を恐れずに言うのなら、

禅は
「真理」が提示されるものでは無く
「真理への問い方のテクニック」の提示

だと思います。
通常の宗教は「真理」そのものが答えとして提示されますが、禅の場合、「真理への問い方のテクニック」の提示があり、他の宗教で当然取り扱う「真理」は提示されないのです。「真理」という言葉を使うことはありますが、それは他の宗教でいうところの「真理」ではなく「真理への問い方のテクニック」もしくは「問うべき世界そのもの」のことです。そこが誤解されやすいのですが、誤解を恐れずに言えば、そういうことです。この文章を読んで感覚的に意味が分からないかもしれませんが、それがどういうことかということは、禅に通じた人とのコミュニケーションや禅の書などを読む事による智慧から、なんとなくフィーリングが分かってくると思います。科学的な思考スタイルと似ていると思います。

なお、これは現時点での自分の個人的な理解にすぎません。違う意見もあるかと思います。ご指摘があれば、コメントください。
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Unknown (アメ知ろう途)
2016-01-17 15:43:25
基本的には、このサイトのコメント欄は自分が感じた事を自由に表現し、皆さんの考え方も忌憚なく聞かせて頂いて、自分の考え方が偏っていないかを知る(軌道修正していく・何かヒントを得るきっかけとなる)場所と考えていた訳ですけど、その考え方は間違っていた、という事なのでしょうか???。

それも自分で考えて自分の答えを見つけよ・・・、ということなのでしょうか???。
じゃあ自己流でもいいという事になりませんか???
それが禅問答の実体であるのだか、とか???。

つまり誰かが書いているように「問い詰めると煙に巻かれるのが関の山」なら、なんかかなり特殊な世界なのですね。

「話し合う」事を禁じられた世界???
南師に反論提起する事は不可能な世界???
開かれた社会ではなく自閉していく社会???
そんな筈は無いと思っていますが、そんな筈なのでしょうか???
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訂正 (Unknown)
2016-01-17 13:39:03
さっきのコメント文中の名前、「アメリカン」さんではなく、「アメ知ろう途」さんへ、ってこと。訂正します。
違う人かもしれないから。一応訂正しておきます。
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Unknown (Unknown)
2016-01-17 13:14:57
不特定多数の人に向かってコメントするのは、本当に難しいよね。自分の意図しない形で物事が伝わったり、ネガティヴな気持ちを抱かせてしまったりする。受け止め方は、人によって違うからね。

今、何人かの人が自分で調べて学んでみることの大切さを伝えたくて、「自分で学んでから質問したら?」っていったと思うけど、これって、禅の基本的な態度だからね。今回コメントした人は、自分なりの感覚で、色々な智慧を人や本から学んでいるんだと思うよ。自分もそうだし。あと、基本的に「アメリカン」さんに言ってたんだと思う。不特定多数の人に対してではなく。彼は自分で学ぶ意欲のありそうな人だから、そういう言い方になったんじゃないかな。

禅の思想では、形而上学的な問題を解決すればいいかっていうのは、最終的には「自己」から見い出すっていうのが基本的な態度なんだよ。厳密にいえば、「自己」でも無いけど。

どういう事か言うと「正解」を捜す事ではなく、「問い」の方が大切だということ。「絶対的な正解」を決めることには、それほど意味は無いと思うんだよ。

その時々の答えは「自己をならふ」ことで「自己をわすれ」、「万法に証せらるる」ことで見えてくる。

人が語った答えをそのまま自分の答えとはせずに、「問い続ける」ことで、あなたが今存在している世界から感じるものだと思うよ。

多分、こんな文章でうまく伝えれらてるとは思わないけど、願わくば、誰かがこのコメントで傷つけられてなければ、と思う。少しでも誰かの理解に繋がれば、と願います。本当に難しい、言葉って。

あくまでも、現時点での、自分の感覚に過ぎません。
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Unknown (Unknown)
2016-01-17 12:25:48
不安って。。もういいや。
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Unknown (Unknown)
2016-01-17 12:15:52
誰かが勧めてくれたんだよね、本をね、そんな事フツーにあるっしょ。宣伝の場とか、意味わかんない。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-17 12:02:36
方便って大事だよね。人によって、個性は様々だから。
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Unknown (Unknown)
2016-01-17 11:58:16
え~ほんと?私は中論読んで、「心をわしづかみ」にされたけど。個人的には、ほっとして、何と言うか、透明な気持ちになれた。

はっきり善悪を言う事は、誰かを否定することにつながる。善人を肯定すると悪人を否定することになる。悪人を肯定すると善人を否定することになる。

難しい問題だよね。不安になる気持ち、分かるよ。以前、自分もそうだったから。
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諸法実相 (Unknown)
2016-01-17 11:47:59
佛祖の現成は、究尽の実相なり。実相は諸法なり。諸法は如是相なり、如是性なり。如是身なり、如是心なり。如是世界なり、如是雲雨なり。如是行住坐臥なり、如是憂喜動静なり。
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Unknown (Unknown)
2016-01-17 11:45:55
真実は人によって、様々。あなたの心が世界にうつされている。
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Unknown (Unknown)
2016-01-17 11:29:30
教えてくださいといったところで回答が得られるわけでもなく正しい知識が得られるともかぎらない。問い詰めると煙に巻かれるのが関の山。有象無象が曲解誤解し、未消化のものを垂れ流すだけ。
>理解が出来ればこの挑戦の無意味さが分かると思います。
うん。ここのサイトの無意味さがわかった。ここって本を売るための宣伝場所なんだってわかった。
善悪なら歎異抄の悪人正機説よんだほうがよっぽどいい。心をわしづかみにされる。
ここには心が振動するものがなにもない。
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アメ知ろう途さんへ (Unknown)
2016-01-17 10:31:35
理解してから挑戦してください。
理解できないのなら「挑戦」ではなく
「教えてください」なのでは?
縁起についてご自分が納得いかれるまで
再度学ばれてはいかがでしょうか?
理解が出来ればこの挑戦の無意味さが分かると思います。
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Unknown (Unknown)
2016-01-17 09:56:36
読み始めたばかりでから、現時点ではのお応えは控えさせて頂きたいと思います。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-17 09:50:58
多分、南師のおっしゃる縁起は竜樹祖師の縁起と同一なので、空、無自性と同一ですよ。念のため。このような重要なことは、もう少し中観を学ばれてから質問されてはいかがでしょうか。

同じ単語でも、意味は様々です。
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Unknown (アメ知ろう途)
2016-01-17 09:17:13
善の根拠、ちょっと前によみました。何度か読まないと理解しきれない感じがありました。いずれそうします。

挑戦があります。

善の根拠は、縁起の世界観に立つならば
他者へ悪をなさない事が自然に要求される。無常・無我・無自性観からは出てこない。

善・倫理の根拠は縁起説からの必然性である・・・、で済ませられるのではとの
疑問が残ったままです。

貴方御自身はどう思うのですか。問う事の継続性の一環としてお聞きしたいです
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Unknown (Unknown)
2016-01-17 05:32:36
急がば回れ、だ。何度も事故ってる、馬鹿は馬鹿なりに学びますぞ。
今は、善の根拠を読んでいる。
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Unknown (Unknown)
2016-01-17 05:16:52
挑発しているな!
寿命など関係ないは!!
返信する
Unknown (アメ。)
2016-01-17 05:09:30
(追加)。
で、節約した時間で、充分な時間をかけて只管打座に打ち込める訳だから、ほんと恵まれた世の中になったものです。

実際の処、現代人の忙しすぎは、本質を見失った『無駄』な行為に明け暮れている、という事になるのでしょうか???

それに目覚めて坐禅する皆様は時間を
最も『有意義』に使っている人である、という定義ができますね。
返信する
Unknown (アメ。)
2016-01-17 04:57:12
追加:
唯識三年・俱舎八年というそうですから
アメも急がなければなりません。
その前に寿命が尽きそうですが・・・。

でも昔は寿司職人になるのには10年かかると言われていたのに、今では半年あれば充分とかの文明の利器に囲まれていますからね。

ネット検索でほとんどの事がたちまち解ってしまいますから、まったく恵まれた世の中に住んでいる訳でありますね。
返信する
Unknown (アメ。)
2016-01-17 04:44:22
超ひも、多世界、ホログラフィック、中観、華厳、唯識・・・・・
おお!!!、私の好奇心を見事に煽っていますね!!!挑戦に応じます。

たしか多くのキリスト教派では、人が死んだら土に戻って(帰って)、キリスト再臨の時に、その土(特定の土、即ち素粒子・素子)から(それを拾い集めて)その人が蘇る(再生される・復元される)、という見解を取っている様であります。

現代の世に住む私の見解としては、
神が天にあるスーパーコンピューターに、人の記録を詳細に記憶させておけば、どこからでも拾ってきた土の団子にその記録をダウンロードすれば済むことであろうと考えられます。
即ち人にはアップロードされた記録は在っても、実体・本質は無く、自制も無いでいいわけです。

このイメージは超ひも・多世界・ホログラフィック・中観・華厳・唯識???
どのあたりに結び付くのでしょうかね??
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-16 22:30:46
量子力学の世界って、確かに空の世界感とそっくりだよね。

超ひも理論(もしくはM理論)→中観
多世界解釈→華厳
ホログラフィック宇宙論→唯識

みたいな感じ?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-16 19:29:49
すみません…
サボってました。

( ̄ω ̄;)

返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-16 17:17:54
ps
さぼらず毎日続けることが効果的!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-16 16:47:43
病院で働いています者。


日々、坐禅でリセットしているお陰さまで、長時間勤務も患者さんに明るいパワーで接する事が出来ています。
お陰さま、お陰さん。
返信する
Unknown (アメ。)
2016-01-16 15:08:30
吉田氏の『この世界についての仮説』での「量子力学の概念的基礎」を読みました。
これによって「空」は空虚ではないが「無自性」であることを確信しました。(つまり色・空共に実体は無い=無自性。)

今眼に見える「色」、例えば或る机を燃してしまい(=「空」にする)、それを構成していた素粒子(=机の構成要素)が空中に飛散した事を考えた場合、

もし誰かがそれらをかき集めて再度同じ机に復元出来たとしたら、それらの(特定の)素粒子群が実体(=自性)であるという定義が成り立つかもしれません(屁理屈ではありますが・・・)。

しかし現代の物理学(量子力学)においては「不確定性原理」の確立によって、(素)粒子の位置(運動の軌道)を測定・検出する事は出来ない、即ち、その机を構成していた素粒子をどこにも認知出来ない、と証明されている(=神でも復元不可能)。

つまり素粒子は実体とはならない。自性ともならない。空は自性ではない。

これが私の感想文です。
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Unknown (Unknown)
2016-01-16 10:38:23
いわゆる坐禅とは習禅にはあらず。唯これ安楽の法門なり。菩提を究尽するの修証なり。
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Unknown (アメリカン素人の結論)
2016-01-16 04:56:14
人は皆、生きる上で何かの指針を持って、それに縋って生きて行きたいと願う生き物で在る、とすると

地震・台風・狭い土地等の厳しい自然環境に左右される形で日本民族DNAが造られ、
わび・さびに美意識を感じる悲観主義者的傾向が生じ、セロトニン分泌最貧国となった経緯で考えると、

釈迦が唱えた諸行無常・諸法無我・一切苦の言葉は日本人の感性に訴えかけて来るものがあった。

しかしながらそんな日本人の感性は、風土の異なる土地で育成された釈迦(&東南アジア系人・上座部系人)の感性と大きく異なる事は自明である。

とすれば、同じ単語(言葉)を使っても、日本と他の国とでは違う意味(感受性)を持つことは避けられない。

これが日本独自の仏教宗派が出来た理由で在り、上座派仏教の感性と異なる由縁であろう。

東南アジアの人たちは楽観的コンテクストで苦を語り死を語り無自性を語る。

日本人は悲観的イメージで苦を惨めな世界に導く。死・無自性も同じ感性で受け止める。

で、それをリセットして生きる力を得るのが只管打座である・・・セロトニン効果によって。
ただ実践のみに日本人の救いがある!!

と読みました。如何に!!
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Unknown (Unknown)
2016-01-15 18:58:49
インフル出てきてるようだから、気をつけましょうね!
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Unknown (Unknown)
2016-01-15 16:25:59
縦ひ行に信法頓漸の異あるも、必ず行を待って超証す。例え学に浅 深利鈍の科あるも、必ず学を積みて禄に預かる。
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Unknown (Unknown)
2016-01-15 15:46:06
その際は、永平寺さんに連絡を忘れずに行いたいと思います。
ありがとうございます。
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Unknown (Unknown)
2016-01-15 15:14:22
問いがあっての習いではないんでしょうか。

また、ここでの
倣うと習うは、同じ扱いなんでしょうか。
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寒紅梅さんのコメントから思う (Unknown)
2016-01-15 13:54:01
「物理が自分をいつも悩ませたから」
教科書や参考書を燃やしたという。

今度は、このような先生に物理を学ばなければならない「生徒」に対して深く同情しております。

もし私が物理を学ぶならこの先生に学びたいと思ってしまう。
受験勉強において理解に苦しむ悩ましい思いをしたのが唯一、物理であったとするならば、この先生において物理という学問が、試験勉強ごときでは到底知りえない深い広がりを持った大海のように映ったのではなかろうか?自らの生涯をかけて航海に値しうる学問としての物理。かつて教科書を燃やした己がその教師として教壇に立つ。
この結果を数式で物理は示せるのであろうか?

ハイデガーが「形而上学入門」において
こんなことを言っている。

『しかし、知るとは真理の中に立ちうるということである。真理とは存在者の開明性である。したがって、知るとは存在者の開明性の中に立ちうること、つまりそれに耐えることである。単なる知識を持つことは、それがどんなに広い知識であっても、決して知ることではない。この知識が教科過程や試験規定によって実用的に最も重要なものだけに絞られたところで、それは決して知ではない。必要欠くべからざるものだけに引き絞られたこの知識は「生活に近親」ではあろうが、しかしそれを持つことは決して知ることではない。こんな知識を持ち運び、さらには若干の実用的な小細工を覚え知っているような人は、しかもなお真の現実に直面すると真の現実はいつも俗物が生活や現実に近親であるという語で理解しているものとは違うものだから、途方に暮れて、きっと不器用者になるであろう。なぜだろうか?彼は知を持っていないからである。というのは、知るとは習うことができるということだからである。もちろん常識的な人は、習い終えてもはや習う必要のない人こそ知を持っていると思っている。が、そうではない。
知っている人とは、常に繰り返し習わねばならないということを理解していて、
この理解に基づいて、何よりもまづいつも習うことができるような状態に自分を置いているような人だけである。このことは知識を保持するよりもずっとむずかしい。習うことができるということは、
問うことができるということを前提している。問うとは前に説明したとおり、知ることを-志すこと、すなわち存在者の開明性の中に立つことができることへの決ー意である。』

雲水に張り手を浴びせた雲門禅師が言いたかったこととは違うのだろうか?
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アメリカンさんへ (Unknown)
2016-01-15 12:38:08
色々と納得出来る事が出来、問い続けることに喜びを持っていただいたとのこと、なによりのことと思います。住む国は違えど、それぞれの環境で精進いたしましょう。
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Unknown (Unknown)
2016-01-15 12:21:19
皆さん方の、やる気モード満々なのが、よく伝わります!

何でもいいから、発見しようとする姿勢が、生きる力となっていくのでしょう。
同じ日などなく
今日は今日の風が吹いている。

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Unknown (Unknown)
2016-01-15 11:46:52
一般の人は参籠という形で泊まらせていただいても、ちょっとした坐禅はありますよ。事前に永平寺さんに電話して、参籠させていただきたい旨、お願いしておくといいと思いますよ。
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Unknown (Unknown)
2016-01-15 11:11:00
今年は、一つ節目の年なったんです、個人的に。
だから、いろいろやりたいんです。やりたかった事をする年にしたいんですね。
第一弾は、来週で標高1800mまで上ります!
温泉です。

永平寺と恐山行きも控えてますから!ね!ねー!
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Unknown (Unknown)
2016-01-15 10:49:54
雲水さん100人でお経を読むという?さっき調べてました。
永平寺に泊まれるんですね。
そういえば南さんが雲水時代に企業研修で来る人達のお世話をした話しをブログで読んだ事を思い出しました。
坐禅もさせてもらえるなら是非!という気持ちですね。
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Unknown (アメリカン野郎)
2016-01-15 10:37:44
このサイトに参加してわずか数回ですが、実に色々な事を学ばせて頂きました。色々厚かましく疑問提起させて頂いて、応答コメントとそれに触発された自習から、人生観/自然科学・脳科学観/仏教観を一変する情報も得て感謝です。残った老後人生を知的好奇心で勉強し続ける楽しみを此処で学びました。有難うございます。

今回は特に「ヒッグス粒子」の事と、吉田氏の「この世界の仮説」の情報を教えて下さった方にお礼申し上げたいです。

過って、医療関係の仕事上、機械工学・光学関係・電子工学・物理学専門の患者さんとも討論し、自分でもネット(15年位前か)で色々調べ回ったのですが
「光速度不変の法則」「時間の概念」「絶対真空とは」に対する私の疑問はズット解けないままでした。
それが今回知らせて頂いた情報をもとに
勉強し直して、やっと納得いく答えが見つかりました。

仏教と科学の融和として「空間は空虚ではない、しかし仏教(龍樹)がいう無自性観も同時に成り立つ」が物理学で支持されてるようだ、という事を知りました。まだ勉強途中ですが毎日問い続け新しい何かを発見することが如何に幸せであるか、を実感しています。
この機会をあたえてくれた南師のこのサイトに感謝です。
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Unknown (Unknown)
2016-01-15 07:28:55
驚愕の朝課は必見。
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Unknown (Unknown)
2016-01-15 07:08:14
観光ですよ、観光!
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Unknown (Unknown)
2016-01-15 05:28:57
永平寺に行ってみたくなったな。
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Unknown (山崎裕一)
2016-01-15 01:01:02
言語化し続け、失敗し続け。はて。メビウスの環?2618
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Unknown (Unknown)
2016-01-15 00:59:03
身をけずり 人に尽くさん すりこぎの その味知れる人ぞ尊し
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 22:39:38
自証自悟。

冷暖自知。
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 21:56:19
回光返照。
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粉雪は… (Unknown)
2016-01-14 21:37:52

忘れなけりゃならないことを

忘れながら
人は生きるよ

無理して笑っても
無理してふざけても
意地悪な風
意地悪な雨

忘れさせて優しい日々を

忘れさせて楽しい人を

足音? 車の停まる音?
間違えながら
待ってしまうから

粉雪は忘れ薬

すべての悲しみ
消してくれるよ

粉雪は忘れ薬

すべての心の上に積もるよ

遠い町を訪ねてみても

一人きりで暮らしてみても

忘れるための無理は
どこかに隙がある

よみがえる風
よみがえる雨

忘れさせて 古い約束
忘れさせて 古い口癖
覚えておこうとしないのに

何かのはずみ
思い出して泣ける

粉雪は忘れ薬

すべての心の上に
積もるよ

粉雪は忘れ薬

些細なことほど
効き目が悪い

粉雪は忘れ薬

寂しい心の上に
積もるよ

粉雪は忘れ薬

すべての心の上に
積もるよ

返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-14 20:52:05
ミシュラン2つ星になっても、永平寺は欧米化の片鱗も見せないでほしいものです。只でさえ、クリエイティブなパワーを秘めている曹洞禅。永平寺が基本に忠実にしていただかないと、収拾がつかないのでは…。永平寺ファンの願いです…。
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 19:11:24
愛おしさは、あいもかわらず。
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 17:54:23
今晩、雪降るといいな~
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 17:37:58
悲観的っていうのは、空が無自性だとしたら、(この世は)不毛だとか思う人もいるらしいから言ったまでだよ。
不毛=空虚と言った方想定だけどね。
俺の勘違いかもしれない、そうだったらごめんね!!
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 16:50:35
いつでも永平寺の承陽殿にお参りできる日本を離れる気は無いです。すいません、頑張ってください!
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 16:06:39
悲観的になってないよ。
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 15:42:01
現地感って言っても今はどんどん韓国系・中国系(+ベトナム・フィリピン・チベット)が伸びて来ていて、相対的に(移住者希少の)在米日本人系社会はどんどん影が薄くなってきているって事なのかも知れない、見えなくなってきているのかな・・・私見だけど。

君がアメリカ移住して禅道場開いてくれたらいいんだけどね。そしたら毎日坐禅にいくよ。願わくば坐禅中にそのまま涅槃したいね。そのときはよろしくね!!
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 11:43:22
別にアメリカに住みたい訳では無いんですが。道元禅師の思想が他国でどんな変化を遂げたか現地感を知りたいだけで。ネットで分かる情報は日本でも同じですよ。
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 10:36:42
追加;
アメリカ男と結婚した日本女性の壁は、
日本人英語に慣れていない(旦那の親戚の)ジジイ、ババアと会わねばならないファミリー・リユニオンで発生するね。奴ら、うるわしの日本人妻がしゃべる英語が解らないらしく会話断絶が起きるとかだね。
そのうち夫とも会話がなくなるとかいうよね。英語会話で深い話ができないから行き詰まるとかね。最近の話だよ。
文化意識のギャップも大きいんだろうね。恋愛盲目症は日本人間でさえ3年で終わるからね。そゆことだよ。
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 10:01:41
ついでだから俺の英語(会話)体験談。

普通ネイティブと同じ発音で同じ英語力出来る為には13歳以下で移住しないとだめだと言われているね。

(今は知らないけど)昔、帝国大学英文科教授が意気洋々とアメリカ渡航して、ちまたで話す5~6歳のガキの言ってることがさっぱり解らなくて、ショックをうけて日本にスゴスゴ帰ったらしいよね。

俺の場合、32才で留学した訳だけど、日本で大学卒業して、外資系会社(技術系)で、10年位バリバリ英語得意してたわけだが・・・・、

いざ留学して、医学系専攻だから、患者とコミュ出来ないとまずいというわけで、アメリカ児童の言語障害を矯正する専門教授の面接を受けた訳だよ。ずっと発音矯正のクラスをとって、3年後なんとか推薦状を書いてもらえる様になったけどね。彼曰く、最初の面接の時、一つ二つの聞き取れた単語からお前が何をいってるか推測してうなずいていてやったけど、80%以上(=全く)おまえの言ってる英語が聞き取れなかった、と言われたよね。
10年以上日本の外資系会社で偉ぶっていた俺は一体なんだったのか??って事だよ。

俺の友達で、日本で米国系宗教組織で長年働いていて、その後6年アメリカに留学して物理学博士になって、アメリカの会社に就職したら、部下が言った事をやらないので詰問したら、そいつから「お前の英語は何言ってるか解らない」と逆切れされて、やむなく日本に戻ってさる小さい大学の物理学教授になったのもいるよね。

最近でもスタンフォードに留学して、MBAと博士号をとって、日本の地元(地方)の名士におさまって、コミュニケーション学を教えている人が県の英会話コンテストで優勝した時のスピーチを紹介されて、聞いてみたけど、何言ってるかさっぱりわからなくて1分聞いたら聞くのやめた事あるよね。紹介してくれたアメリカ在の日本女性が何度聞いても解らないのは自分の頭が悪いのかと思って悩んでいたけど、俺も解らんかったって言ったら彼女ホッとしましたって言ってたよね。去年の事だけどね。

そういう日本オトコのブザマさに較べ、日本女性留学生はすぐ英語会話力が向上するよね。大和なでしこはアメリカ男にもてもてで、すぐ白人ボーイフレンドとか出きて、親密な会話出来る様になっちゃうからね。
日本オトコの留学生はアメリカ社会では社会人とし遣ってけないから、アメリカ人女性からは相手にされない・・・よって英会話力進歩無し。。。の相関関係があるね。

英会話は俺のトロ馬だよ。電話でるのが恐怖だから出ないですますよ、今でも。
・・・それがなにか???
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 08:49:13
>観の瞑想??>

何て言うんだっけ??
一週間(?)寺に籠っての禅・・・、
そ~そ~、接心だよね。このサイトで誰かが体験談言ってたよね。
接心では動作の作法が非常に厳格で自分の一つ一つの細かい動きが規定されてるから、「観」しないといけない~~とかね。
俺としては成程、ここがSさんの言う事と
共通点があるのかな・・・とか思ったよね。
だって直接Sさんと対談した有田氏も共通点嗅ぎだしちゃった訳だし、多少の誤解は仕方ないんじゃないの。誰にでもあるよ。
でもこれからはSサン関係ここでは持ち出さないから心配ご無用として下され!!
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 08:14:10
「英語力つけなさいよ」の君!!!
いまいいアイデアが浮かんだよ。

君が俺んとこに来て、禅布教やったらど~かな。サポートするよ。
俺の英語力は、日本の禅協会から派遣されて来る禅師より10倍くらい達者に英語出来るからね、きっと君の事サポートできるよ。
但し俺が認知症になったら君が今度は俺のことサポートするという条件がつくね。そろそろだから君も急がないとね。
そのあとは君が独力でアメリカで生き抜いていかないとね!!!
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 07:47:51
だからさ、300km離れた禅会場いく手段がないんだよ。ムリゆうなよ!!!
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 07:45:54
「仏教と脳科学」で脳科学者の有田氏が
S長老の説明を聞いて「自分(=有田氏)にとってはヴィパッサナーと只管打座は同じに見える」と言って、
S長老が自分とこは、坐っている時間以外にも寝てる以外は全ての時間、全ての出来事でそれを行う処が違うとか言ってたからね。
自分はそういう感じで使ったまでだよね。実際の処、今まで曹洞宗が生活全てが禅行だと言ってるって知らなかったからね。
今知ったから今後この単語使わなくて
すむね。楽になったよ。ありがとね。
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 07:38:43
英語力つけなさいよ。住んでるんだから。リアルなサンガに参加しないと、浅いままだと思うよ。只管打坐には、言葉はいらないし。
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 07:35:24
曹洞宗では、生活に意識を向けることを観の瞑想として行ってるってことを言いたいの?
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 07:34:36
アメリカの禅って知らない。
自分の近くにあるらしい唯一の禅道場は
300キロm位離れた所にあるらしいけど、交通の便が悪いし、年寄一人で自動車運転する感じじゃあ無いし。
それにユーチューブで禅の様子は一瞬に解っちゃうし・・・。

アメリカ人は自分の家で、ネットを通してのサンガを作ると言われているようだね。英語が通じればネットサンガ世界組織が出来る訳だね。

吾輩の英語力はそこまでいかないからね。このサイトにしがみついているわけじゃね、ごめんちゃいね!!

そゆえば、何かで読んだ範囲では、
アメリカ仏教は禅からチベット仏教に移行しているそうな・・・。
これは元々数少ない自発的ニッポン禅布教師が(英語・国民性の違いで)アメリカで苦闘するのに較べ、
チベット仏教師は共産党中国の弾圧から逃げ延びてアメリカに政治難民として移住する人が沢山いると考えられるからね、また彼らの方が切実で(たぶん)英語もうまそうだからね、仕方ないよね・・・。
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 07:31:34
別にヴィッパサナーじゃないから。元々生活全てが禅、て曹洞禅の考え方じゃん。別にこのサイトでヴィッパサナーのこと、聞きたくないし。ヴィッパサナーのこと知りたいなら、他のサイトで聞いた方が正確だろうし。
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 07:07:38
追加:

食べる人なら食前禅、膳禅もあるね。

すべて人生イッサイガッサイ、
全部禅だからね!!
ヴィパッサナ~風に言えば・・・。
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 07:04:11
アメリカの禅って、今、どんな感じ?F老師の本など読むと、随分永平寺なんかとは違いそうだけど。どんどん変わっていってるの?
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 06:57:02
木村清考「華厳経をよむ」1997.

『「華厳経」や唯識の教えによれば、私たちは、誰もが自分の世界を自分で作り上げ、それを生きる存在です。
その意味では、私たち一人ひとりがかけがえのない固有の世界の創造者なのです。
すべての人びとが、自らの生に誇りをもち、自らの心で自らの生をデザインし、自らの世界をより美しく価値のあるものにしていってほしいと願わずにはおられません・・・』

S長老もいってたよね、

ああ、有意義な人生だった!!!、
死ぬときは「じゃあ、ハイさよなら」
って思い残す事無くさばさば死ぬつもり、とかなんとか。

ポイントは生の充実感を諦念(=明らかに観ること)するって事じゃあないの。

坐禅者は幸せもんだよね。それをやってんだから!!!(病床にある人は寝禅でもいいよね)。

返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-14 05:49:57
舟底一枚下は地獄というアメリカという荒れ狂う嵐の荒海をただ一人孤軍奮闘、恐怖し、苦しみ悶えながら、何とか生き残りを果たしたからね・・・

今となっては何事も怖く思う必要は無いと諦観してるよ。年の功だね。

坐禅人は若くてもそうなれるよ、坐禅仲間の相互啓示もあるしね、
ただただ励むべしだね!!!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-14 05:38:50
アマゾンで買えば?
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Unknown ()
2016-01-14 05:36:47
悲観論者的素質100点満点の日本人DNAにとって「無自性」観は、
色=空=無自性=空虚=虚無=絶望、の方程式(後半の三つは戯論)に落ち込み、平家物語滅亡のはかなさ(=全ては無意味という無価値観=これこそ典型的な悲観論)に直結してしまうが・・・、

斉藤明氏@1・11,5・53・48記事では、
「龍樹の骨子の無自性統一論(色空一元論)が理解出来れば『全ての凡夫も仏に成れる』・・事を意味している」訳だから、まさしく『よきおとずれ、希望の光』ってことだね。
なんでそんなに悲観的になるの??
つまり凡夫=仏は一元論であり、それを
成立させるのが修行で在り、即ち只管打座な訳じゃあ無いの???
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-14 05:12:45
アメリカンさ、あなたは富裕層なんだろうね、余裕を感じてるけど。
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Unknown (Unknown)
2016-01-14 04:21:43
(追加)。
人(生物)の「意志する力」は脳の論理回路
から出来る訳だから、脳が死ねば「意志する力」も無くなってしまう。これが「自性」で無い事は「自明の理」。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-14 04:15:31
「実体」や「本質」とか言う時は、それ自身に、「自性」するものとして「意志する力」、「自立性」が内在してると理解すべきだよね、たぶん???

とすればクォーク、素粒子、原子、分子、無生物、電波~~~、全てに「意志する力」がないから「自性」ではない。
即ちこの世は全て無自性(=縁起)であると言っていいのかもね、たぶん???
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-14 03:22:16
「考える人」南師記事、
リンク開いても目次だけで内容がみれません。なんとか文章見れるようにできませんか。
さもなければ海外住まいの私には必読達成できません!!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-14 02:56:05
>浮遊している、満たされている?>

水(液体)はコップに満たされているとの概念だけど(=戯論)、

(素)粒子と粒子の間には「空間」が在る筈・・・よって浮遊しているとしか言えない、飛び回っているんだろうし。
その「空」(空間)は何かって話。
そゆえば「空の間が空間」だよね、空と空の間ってなんじゃろ???

原子核のまわりに電子が回遊しているが陽子と電子の間には空がある。
宇宙は星で満たされているが地球と月の間には空がある・・・というような感じ・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-13 23:09:59
NHKの「神の数式」を見た知識で恐縮ですが。
素粒子単体では、機能しないのではないか?と思います。

素粒子物理学の「通常理論」というのは、「素粒子の種類」「素粒子の働き、力」「ヒッグス粒子」の数式を表しているそうです。
これに、私が勝手に仏教を当てはめてみますと、素粒子が「空」、働きが「悟り」、通常理論ではここまでの数式の計算では、素粒子の「重さ」がゼロになってしまい、あらゆる物が存在出来ない状態なのだそうです。そこで、南部陽一郎という方が「自発的対称性の破れ」という考え方を発見します。私的に解釈すると、たとえ完璧な理論だとしても、この自然世界ではその理論が崩れてしまう。という感じ。
それを受け、別の学者が「ヒッグス粒子」の理論を発表されました。この世を隙間なく覆っている物、それに素粒子の動きが邪魔をされて「重さ」が発生するそうです。私的にはヒッグス粒子を「苦」や「欲」かと考えてます。重さは「存在」でしょうか。。

これに相対性理論を合わせて考えるのですが、勉強不足ですみません。超ひも理論とか出てくるのですが、この世が11次元で出来ているとか、ちょっと理解が及びません。勝手な考え失礼しました。
返信する
「空」については「考える人」必読! (Unknown)
2016-01-13 20:19:21
さっき、本屋さんに行ったら、「考える人」の新刊が出てました。なんと、今回の号の南さんの連載「超越と実存 私流仏教史」は「空」についてじゃないですか!皆さん、まずこれを読むべき!必読です!

空の捉え方として、南さんはもちろん龍樹押しで、天台はちょっと、という感じでしたが、華厳については特に感情を交えずかいておられるようでしたが、お好きなんでしょうか、どうなんでしょうか?自分は時折道元禅師に華厳の香りを感じる時はあるのですが勘違いなんでしょうか…。

リンク貼っときます。

考える人最新号目次
http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/mokuji.html
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-13 18:05:39
えーと、取り急ぎ、善の根拠と少年と老師を注文しました。
正法眼蔵を読むの後に龍樹も控えてんですだ、大変だコリャコリャと。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-13 17:52:40
浮遊してる?満たされている?
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-13 17:22:37
「空」に存在する素粒子は「実体」としての
機能を有している訳ではない???。
それは縁起説の「種子」の元なり・・・となるか???。
つまり仏教定義の「種子」は実体ではない。なぜなら、う~~んと、(此処で言葉が詰まる)???
だれか助けて!!!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-13 17:11:41
>オートポイエーシス >

『すいません、健康上の理由で充分な回答できません。』・・・と書けばよかったんじゃないの??
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-13 17:05:07
量子物理学者の吉田氏の結論(この世界についての仮説)では主観的な事象と客観的な事象は、高次元の時空を考える物理学では統一される(=一元論)、と解析している訳だから、「色」は無自性なら、「空」も無自性であるという結論になるのかな。なぜなら「色」=無自性、しかし「空」=自性なら二元論だからね。
「空」に無数の素粒子が浮遊しててもそれが「実体」を意味しない・・・が高次元時空の量子物理学的見解なわけだよね。

これで決着でいいのかな???
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-13 15:09:11
気楽にね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-13 15:06:09
気を悪くさせてしまったならば謝ります。私には生きる時間が限られています。
全ての質問や問いかけに答えなければならないというのが前提であれば今後コメントの書き込みはやめることにします。
申し訳ありませんでした。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-13 14:54:48
アメリカンだね。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-13 14:11:52
なんか国による文化の差があるよね。

アメリカなんか5~6歳の子からして自分自身の言葉でハッキリ表現するのを好むしゃべりたがりやが多いし、親も学校も自分でしっかりしゃべれるように教育するね。あきれるくらいバカな事でも平気で質問するよ。みんなもバカにしないし。かえって人前で質問出来なくて内に籠った人はみんなからバカにされるようだね。

日本ではだんまりが美徳だね。
本当のところは自分が何か言うと周りから批判されるのが怖いっていうか、誤解されると困ると思うっていうか、変な眼で見られるのが恐ろしいっていうか、
自分の気持ちを素直に表現できないよね。学校で討論の訓練も受けていないしね。やっぱり日本人は悲観主義的気持ちが支配してるんだろうね。

これは自分(自身で)で問う事が大事っていう事とは意味がちがうよ。
そ~いえば日本でさえ「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」っていうじゃない。でも恥ずかしがり屋の日本人は人にものを聞けないんだよね・・・結果、
自分で問うのがが大事とかの言い訳がでるわけだよ。大方は問わずに知る機会を逃してしまうけどね。
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Unknown (Unknown)
2016-01-13 12:40:19
自分で問うっていうのが、大事なんだよね。多分。
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Unknown (Unknown)
2016-01-13 11:48:28
>対機説法>
了解です。書いた通り質問の前にウィキペディアで読んだのですが、わかったようなわからないような、はっきりしなかったので、あなたがそれをとても重要な概念で他者にも知って貰いたいと思っておられるのなら直接聞いた方がよいだろうと思い、つい質問してしまったわけです。
私の考えが甘かった事お許しください。
知らせたくない事柄なら重要ではないという意味と理解しました。ありがとうございました。
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Unknown (犀のしっぽ)
2016-01-13 11:45:38
誰が誰に言ってるか分かりにくいから、出来るだけ名前を入力した方が良くない?
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Unknown (Unknown)
2016-01-13 10:24:32
私は対機説法ができません。
同ブログにおけるコメント内に限って、質問に回答する方を選ばせていただきます。
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Unknown (Unknown)
2016-01-13 10:11:54
「あなたの心の感性でそれを表現すると
どうなりますか、教えて下さい。
それと仏教概念との親和性については
どう思っていらっしゃるのですか???」

質問された方に 質問する前にご自分で
オートポイエーシスについて学ばれては
いかがかでしょうか?
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Unknown (Unknown)
2016-01-13 09:22:08
道元禅師がご自分の仏教の経験や知識を結集して正法眼蔵を書かれたように、吉田氏は量子物理学の経験や知識を結集して書かれたんでしょうね。

結局現実って、言葉で全てを語る事はできないから、全ての言葉が一つ残らず「方便」ってことなんじゃないんでしょうか。だからこそ、慎重に言葉を選ばないといけませんね。大切なコミュニケーションツールですから。世界と繋がるための。
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Unknown (Unknown)
2016-01-13 08:26:09
それはそうと天啓ちゃん、ど~してるかな~~。声をききたいよね。彼のご宣託おもしろいからね!!!

で、彼がいない間に「なりすまし天啓君」

龍樹も道元禅師も南師ももともと二元論
なんて無いって言ってるわけだよね。

そ~すると、此岸も彼岸も無い訳で、釈迦の筏話は方便って解釈が出来るのかな???
だって、釈迦は元々この世での話だけをしているんだからね???
これって一元論じゃん。
概念を述べているのだから実体は無いって事かな???
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Unknown (Unknown)
2016-01-13 07:53:06
『この世界についての仮説』について「序章」に続く「問題設定」序文+を読んだところで、一旦中断。頭を冷やすために「歩行禅」でぶらぶらり!!。
で、ハタ!!と閃いて、ヤフーjpでこの題名で検索、すると美代ちゃん!!
『この世界についての仮説・概要』という吉田氏自身の書いたとても短いまとめ文が見つかりました。

(それによると)やはり彼の論文の骨子は「主観的世界の性質は客観的世界とは異質であり、2つの世界を同一の世界の異なるアスペクトだと説明するのは困難な様にみえる」(=二元論)。

「しかしきわめて次元数の多い空間を論ずる物理学では、その表面上の矛盾を解消する事は可能である」(=一元論に統合出来る・・・成程納得です)。

しかしながら彼の例示した、
『バイオリンの音(音色)』というものは非物理学的な主観的なリアリティ(感覚)であって、物理学的客観的世界では説明出来ない、「抽象的な認知作用」である、と言う彼の意見には反論在りとなりました。
なぜなら彼は単にバイオリンの発する音波の周波数のみを客観的だと論じている様にみえるのだが、(わたくし思うに)バイオリン固有の『波形』がバイオリンの音色を持っているが故に人はバイオリンとして認識出来ている筈で、これは抽象的概念では無く、物理学的に(周波数+波形という組み合わせで)実在するものだというのが私の理解だからです。

それで言うと主観とはなにか、客観とはなにか??ホントに二元論なのか??の問に戻るのかもしれません。

まあいずれにしても人(生物)の仕組みは驚異的に神秘である事は間違いありませんね。何といとほしきなるかな!!
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Unknown (Unknown)
2016-01-13 05:37:33
mmm、オートポイエーシスか~!!!
初めて知った言葉、ウィキペディアで見ましたが何かわかったようなわからないような、でも何か魅力的な響きがあって!!!

あなたの心の感性でそれを表現すると
どうなりますか、教えて下さい。
それと仏教概念との親和性については
どう思っていらっしゃるのですか???
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Unknown (Unknown)
2016-01-13 05:13:14
オートポイエーシスもね!
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Unknown (Unknown)
2016-01-13 04:20:34
(追加)

わたくし思うに、

吉田氏の「この世界についての仮説」も、私の想像する「正法眼蔵」も、共に

知的好奇心を刺激する、挑戦する愉しさを感じる、なんか引きずり込まれる「心地よい難しさ」を備えているのだろう、と感じました。

そしてその理由は、共に「新しい世界観」を提示している・・・という処にあるのかもしれません。

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Unknown (Unknown)
2016-01-13 03:18:31
「この世界についての仮説」序章だけ読み終わりました。一節一節を私の心が受け入れられるまで時間をかけて何度も何度も咀嚼して読みました。
難しい文章です。学問的難書です。
でもふっと思ったのですが、何か言い回しがとても仏教的な感じを受けました。

想像するところの『正法眼蔵』本体を読むみたいな難解さなのかもしれません。
きっと吉田氏が道元禅師の影響を強く受けられておられるからなのかも知れません。

「物質」と「思考する生物現象」を科学分析手法を使って二元論から統一論(一元論)に再構築してみたいという意図でこの論文を書かれている(らしい)・・が序章を読んで得た私の感想です。

理工系背景の仏教者の皆様には読むことをお勧めしたいと思いました。難しい数式は素通りしていいのだと思います。
それで概念のみを把握する事は可能のようです。

仏教と科学の融合が出来るのかも知れません。「素粒子の世界」を「空」と感ずる理工系の方にも新たな視野が開けるのかもしれません(私のかってな予告版ですが・・・)。

この論文をリンクして下さった方に改めて感謝の意を表したいとおもいます。
有難うございます。
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Unknown (Unknown)
2016-01-13 00:08:49
上記の方の素晴らしいコメントありがとうございます。
とても感動的です。
人が進歩した姿を知る事は、自分に勇気が
与えられます。有難うございます。
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Unknown (Unknown)
2016-01-12 23:07:31
それを考えると、南さんの入門著作が優れてることが分かりますよね。当時全く知識の無かった自分に興味を与えて、自習する気にさせ、坐禅を重ね、接心参加の上、悩みが崩壊するレベルの禅定まで導いてくれたんですから。ありがとうございます!
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Unknown (Unknown)
2016-01-12 22:48:03
今、超超特急1分で吉田氏の「この世界についての仮説」全文をスキムしてみました(あるいは2分か??)。

私はコメの中で生物発生学的過程の視点で読みたい~~と言った者ですが、
私が読む前に、「吉田氏の結論」とかコメント出された方の文を読んで、そこから受けた吉田氏の論文への印象とは
全く逆の正反対に、なんか「わかる、わかる、わかりそう~、過って自分が疑問に思ってた事への回答のヒントを与えて呉れていそうだ」との感触を受けました。頑張ってみます。いつの日か、何かこの場で報告できるかもしれません(あまりご期待されても困りますが。。。確かに長文で文章が学者的に硬く、学問的に不慣れな単語が多く、読み下すのに多大な時間がかかりそうで、更には道元さんの世界観自体がどうなのか理解している訳でもないですが・・・)。

私に論議を持ちかけてこられた方の趣旨は他者の(教育的・経験的)背景は一人ひとり違うのだから、お互いの言ってることが解らなくても仕方がないものだ!!・・・を強調されている事は解ります。私もそう思います。

しかしこのサイトはオープンな公開討論会場として南師が提供されて下さっているわけですから、その言葉の壁を乗り越えてお互いの視野を広げていかなければ
南師に申訳ないじゃあありませんか。

コミュニケーションの時は言葉(単語・熟語・その用法・文脈)に対し、在る程度の共通の理解がないといけないわけです。
お互いその共通点を見つけて初めて自分の片寄った考え方が明らかになるのですから、諦めて途中で降りる事無く相手(の言わんとすること)を理解すべく頑張ってみたいものです。

さもなくば永遠に「井の中の蛙」に留まるしかありません。これを南師は問う事をやめた人として「愚者の定義」で語られていたのでしょう。
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Unknown (Unknown)
2016-01-12 21:23:41
今日、初雪の地域も
あったようですね。

皆さん
風邪など気をつけましょうね!

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Unknown (Unknown)
2016-01-12 20:53:15
とにかく、坐ってみたら!
そして、南さんが噛み砕いて書いて下さってる「老師と少年」をはじめとした、入門書籍を読めば良いじゃん。ややこしいこと言わなくても!
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Unknown (Unknown)
2016-01-12 19:10:21
逆にあなたが生物発生学的過程的に仏教を語られても、私は全然分かりませんけどね。そのようなことはどこでもある、ということです。だから、私と同じ背景を持たないあなたが私の言う事を分からなくても、当然だなと思う訳です。

でも、これからも語る努力はしたいな、と思いますけどね。
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Unknown (Unknown)
2016-01-12 15:53:20
私は生物発生学的過程から吉田氏の論文に視点を当ててみたいと言った者ですが、今このサイトに戻って来て、どなたかが既にお書きになった「吉田氏の結論」のコメントみました。自分ではこの論文まだ見ていませんが、私の視点とはまるっきり異なるようです。さすが量子物理学者だけあって、生物・医学系(+機械工学系)出身の私とは視点が完全に合いませんね。(そんなところだろうとは思ってはいましたが・・・)。
コメントの文章からも吉田氏の結論が何を言ってるか私にはまったく理解できません。
それがどうして道元さんに繋がるのかさっぱりわかりません。論文中に道元さんとの論理の整合性が語られているのでしょうかね???
今このサイトに戻った理由は吉田氏は
自分の「仮説」を言っているのですから
あくまで「仮説」に過ぎなく私が同調する義務はないと言おうと思ったからです。量子物理学も解らなくて、正法眼蔵も知らなくて、私が関わるのは仏教で言う「無駄(無意義)」な努力という事になるのでしょうかね。
多分一応ぱらぱらっと見る程度になりそうですね。論文中に探すキーワードは「道元禅師」とか「正法眼蔵」という文字を探して文脈を見る、となります。
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デビッド・ボウイ追悼2 (Unknown)
2016-01-12 15:28:26
僕は日本の"バランス"が好きだ。ごちゃまぜの刺激がとても。すべてが古くて、すべてが新しい。これは素晴らしいことだと思う。

全世界の人々の思いやりと平和に対する意思が必要なんだ。ーもし世界中の人の力で戦争を止められなければ、何も生まれない。そして、平和になれば何でも出来るんだ。

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デビッド・ボウイ追悼 (Unknown)
2016-01-12 15:20:07
僕は若い頃、禅に深く惹かれた。物事の儚さや諸行無常というものに強く感銘を受けたんだ。それは僕の書く曲にも通じるところが有った。万物流転という概念がぴったりあてはまると思ったんだ。
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吉田氏の結論 (Unknown)
2016-01-12 14:52:30
この世界は、高次元φ空間において具現化された1つの量子過程である。この量子過程を、物理的自由度のインデックス空間における現象として近似的に表現すると、多くの個物が並存する並列的な構図が得られる。人間が《客観的世界》として認識しているのは、このアスペクトである。一方、同じ量子過程は、その内部に、「部分空間」における“構造物”という形で多くの《全体》を含んでいる。ある「部分空間」を1つの世界と見なすアスペクトを採用すれば、この世界は、求心的な構図を持つ。

【コロラリ】求心的な構図を持つことから推測するに、《主観的世界》とは、高次元φ空間の中のある「部分空間」である。

???????分かりません!

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Unknown (Unknown)
2016-01-12 14:23:15
「この世界の仮設」本は先ほど申し上げたように序文の一行しかまだ見ていません。
吉田氏が正法眼蔵と調和出来ると言っているのか実は出来ていないのかこれから自分的に検証してみる・・・ということです。
しかし実際の処、正法眼蔵がどう言っているかも知らない状態です。それを良く知っている貴方こそお読みになったら如何ですか。
わたしの視点は先に述べた通りです。自分の視点で吉田氏の論文を見たいといってるだけです。

ところで余談ですが、私は外国住まいですので、ネットで繋がる以外、仏教とは
関係ない環境にいます。
でも今の世はネットでほとんどの事が解ってしまいます。因みにヤフーJPで「坐禅体験(記)」のキーワードで検索すると4万位の記事がでてきます。たぶん個人的に一人二人のお坊さんと話すより多彩な内容が含まれているのかも知れません(今の私には必要ない感じなので、必要と思ったときに検索してみます。)
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Unknown (Unknown)
2016-01-12 13:51:26
「この世界の仮設」(吉田氏著)、
の序文冒頭に、「(何故この世に)認識する能力を持った個体が存在出来るのだろうか」
という文章が出てきました。
これは私の長年の不思議(神秘)と思っていた事と同等です。

さっそくこの一行から自己流感想。

もしこの世の神羅万象の事物・事象・電波・光も含めて全てのモノが6種類のクォークの組み合わせで出来ているとして、クォークはどのレベルで自ら考える能力を作りあげられたのか。石には考える能力がないといえるのか。
要するに何故生物が発生出来たのか。

説明的にはクォークが組み合わさって元素となって、炭素と酸素と水素になって、光エネルギーで炭水化物になって、それが組み合わさって蛋白質を作り上げて(すべて偶然の結果として出来た??)、その立体的構造が知脳の回路を形成するようになったとか(らしい)ですが、基本的には(科学では)無生物が最初に出来て、いつの間にか貴方が知らないうちに生物になっちゃった・・・手品みたいなものなわけです(私の現在的理解では・・・)。
吉田氏がどのレベルの生物に「認識する
能力があるか」と定義しているか、これから読むわけですが、たとえ単細胞のアメーバでも生存の危機をさける能力をもっているとかですから、その仕組みを(科学的)に解明すれば、より高度の生命体の認識機能を演繹法的なり帰納法的に推論出来るのかも知れません。

量子物理学者の吉田氏の観点がどのようなものかこれからの読書にかかっておりますが、これが私の持っている基本的な視点です。
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Unknown (Unknown)
2016-01-12 13:45:12
吉田氏の『この世界の仮設』があなたのテーマである仏教的な世界感と関係ない訳じゃないよ。今回のコメントの中では「空」が「素粒子」と近いイメージなんじゃないか、という話してた人、多かったじゃない?吉田氏は道元禅師の世界感と自分が考える量子力学の世界は統合出来る、って言っていて、論文化してるんだから、関係ある話でしょ?

そのように、何が「仏教的な世界感である」、ってカテゴライズするか、っていうのは人によって異なるってことなんだよ。人によって世界感は異なるから。

まして、仏教は基本的に教学と行(坐禅など)両方を行って分かる部分があるのは基本的な事実であって、文字の上だけでなく、少なくとも坐禅をしてみたり、身近な老師をつかまえて直接話をする(例えば、無我について質問してみるとか)位はしてる人でないと、自分の感覚は本質的には分かってもらえないと思ってる。

これは実感として言ってるんだよ。坐禅をしてない人や、面授を受けてない人を否定している訳ではなくて、自分の力量では、うまく伝える自信は無いってこと。感覚的にコンセンサスがとれないっていうか。
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Unknown (Unknown)
2016-01-12 13:19:35
言語化のたすけとしてはフォーカシングというのがある。言語化する前の「~な感じ」を語句に落としこむ。「~な感じ」に巻き込まれず対象化し直視できるようになるともいわれる。洞察瞑想とほぼ一緒なのかもね
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Unknown (Unknown)
2016-01-12 13:01:55
このサイトはオープンな公開討論会場的性格を持って居る訳ですから、解る人もいれば解らない人も、又、違う感性の人もいるのは当然でしょう。

しかし誰にでも、発言する自由が与えられています。自分の疑問を此処で問いただす事ができます。で、自力で再思考するわけです。

故にテーマが悟りであろうと、涅槃であろうと、無我であろうと何一つ除外しなければならない仏教テーマはないと考えられます。

みんなが書いて来る事で私が理解出来ない時は自分で勉強して発言出来る様にします。当分出来なければ何時か出来る事を夢見て勉強し続けます。いつか皆様と討論しあえる様に成る為に・・・。
それが自己啓発(自力行)を教える(タイプの)仏教の本髄なのですから・・・たとえば正法眼蔵のように・・・。

注;『この世界の仮設』(吉田氏著)は見る価値が非常に高そうにみえます。とてもボリュームがあり解るかどうかはわかりません。
しかしそれと今回の議論とは一切関係ありません。なぜなら吉田氏の論文が私の仏教理解にどこまで寄与するか今の処は不明だからです。それに較べ、悟り・涅槃・無我などは大切な身近なテーマですから、何とかキッチリ理解したいわけです。
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Unknown (Unknown)
2016-01-12 11:41:50
それでも頑張って言語化にチャレンジした道元禅師は偉い!南師も偉い!
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Unknown (Unknown)
2016-01-12 11:36:30
いやいや、ここで対機説法するとかじゃなくて、個人個人で価値感が違うから、自分が思っていることを正確に言葉にするのは難しいねって話だよ。

もし、自分で正確に言葉に出来たと思っていても、相手に受け取める素養がなければ、分からないじゃん。

あなたが全てを理解できる、って思うのなら、さっき、誰かがリンク貼った「この世界についての仮説」読んで感想聞かせてよ。待ってるから。

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Unknown (Unknown)
2016-01-12 11:31:14
ええこと言われますなあ。


さすがは
南ブロ第一のお弟子さんやわ。

関心感心。
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Unknown (Unknown)
2016-01-12 11:10:30
此処のサイトと釈迦の待機説法とは全然違うと思いますね。言ってみればここは全ての参加者に広く開かれたオープンな公開討論会場みたいな場所です。自分の意見(見識)と他の人の意見(見識)をぶつけ合い交換し合い互いに見識を深め合う場所です。
一対一のカウンセリングルームでは
無いのです。医者と患者の診察室ではないのです。
ここで自分の片寄った偏見を正す機会が与えられているという事であり、自分の独りよがりの誤解を解く場所として
南師によって提供されているとっておきの場所という事です。待機説法所ではありません。
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Unknown (Unknown)
2016-01-12 10:54:10
楽しく問い続ける強さを身につけれるといいよね。やっぱ坐禅によるセロトニン補強は必須?
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Unknown (Unknown)
2016-01-12 09:42:22
ははは、啓蒙・理性のブーメラン説、非常に
面白い。
ほんとカオスの世界に生きるって面白いよね。
貴方のコメ、私にしっかり刺さりましたよ。
お見事!!!
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Unknown ()
2016-01-12 09:35:18
道元禅師の思想(+量子力学)のサイト紹介、ありがとうございます。

まず「正法眼蔵における時間」を読みました。実に素晴らしかったです。
これは「人間に永遠の価値を見出す」こと、即ち、けっして「生は無意味」などではないと思う私に強い論理的根拠を与えてくれるものでした。再度(紹介頂いて)ありがとうございました。

他の紹介記事も面白そうでワクワクしています。挑戦します・・・。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-12 09:33:42
>「赤道」という概念はあるが実体はなく実在・実存もしない。
ゼロ(0)という概念はあるが実体はなく実在・実存もしない。

国境などが実在しないように、人がつくった概念だから実体もなく実在しない。
「原理(しくみ、力)がある」であって「概念がある」かどうかではない。
よって反証不可。ごめんね。

>自分自身の理性を使う勇気を持った人
自分の思想、価値観の根幹を自分で揺らしていくって大変。不安になるので普通の人は思考停止でみなかったフリする。
不安になりたくないのでむしろ信念を強化する方向にすすむ。確証バイアスなんて愚の骨頂。信者化する理由はここにある。
しかし理性を使うことがそもそもいいことかわからんという。そもそも理性なんてあるのかねえ。まるで啓蒙、理性がいいことになってる前提を疑うとブーメランになるというオチ。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-12 07:54:10
ブログを読んでて思うけど、釈尊が対機説法専門でやってた理由が、よく分かるよね。
一人一人全然違うから、不特定多数の人を相手にややこしい話(悟りとか涅槃とか、無我とか)をするのって、ものすごく難しいんだよね。きっと、悟ってる状態の僧侶の人って、実はたくさんいるんだろうね。
返信する
道元禅師の思想と量子力学について (Unknown)
2016-01-12 07:18:41
量子力学者の吉田伸夫氏は、道元禅師の思想に共感しておられるらしく、ご自分の考える世界感を論文(この世界についての仮説)にする際、かなり影響を受けたんだそうです。サイトに掲載されていたのでリンク貼っときます。かなり長くて専門性が高いので、まだ自分は読破できてません(泣)。誰か感想聞かせてください。

他にも道元禅師の思想に係る単文もあるので一緒に貼っときます。

正法眼蔵における時間
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kairo21.htm

科学と宗教の接点──道元の世界観を元に
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kairo23.htm

この世界についての仮説
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kasetsu/index.htm
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-12 06:57:53
正法眼蔵を読むを読もう!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-12 06:52:05
>重力という実体はないが、重力という原理(しくみ)はある>

「赤道」という概念はあるが実体はなく実在・実存もしない。
ゼロ(0)という概念はあるが実体はなく実在・実存もしない。
これらはみな方便である、は解る気がします、個人的な理解にすぎませんが・・

「重力」に関しては、単なる概念ではなく方便でもない、何か実際にリンゴを木から地面に落とす力があって、その力がなぜ存在(実在)するか解らぬ故に実体は無いと言い切れるか大変微妙な処であります。

それこそ神の眼には引力の元なる実体がみえるという事ではないでしょうか。
重力(引力)に実体が無いと証明されてませんよね(私の知る限りでは)。

これは「空」は「素粒子の世界」「実体で満たされた世界」なのかどうか、それと仏教の「空」とどの様に融合できるかの論理を組み立て直す・・・、
言ってみれば(=大袈裟に言えば)正念場でもありますね。方便論も成立するかもしれません。

また「素粒子の世界」だといっても、ではその粒子と粒子の間の空間は何なのだ???が解決できませんね。

人生いろいろ、世の中いろいろ、です。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-12 06:51:13
色んな意見があって、勉強になるな~。
でも、自分でも色んな本を読んで自分なりの勉強も必要だってことだよね。そのうちに答えが見つかるのかもしれないし、ブログ上の意見で今、納得出来ないコメントも、何が言いたいのか分かるのかもしれない。

坐禅をすると、意識が変わるかもしれないらしい、ということは、なんか分かりました。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-12 06:27:54
悩むって素晴らしい!
それだけ、世界が広がるからね!
坐ってるうちに、そう思えるのが坐禅。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-12 06:04:12
>なんだかな~、不毛な気がしてきたな~

おおいに結構じゃあ、ないですか。
啓蒙(された人)とは、『自分自身の理性を使う勇気を持った人』だそうですから、じっくり自分で考えて、自分の新しい信念を打ち立ててください。
そうすれば悲観論者から楽観論者にかわれます。すべて塞翁が馬です。確実に
不毛観から脱却できます。不毛観は人生の負けを意味します。人生に無駄はありません。これも真理追求に必要なワンステップです。頑張って下さい。
返信する
Unknown (d)
2016-01-12 05:44:15
元曹洞宗管長、元大本山総持寺貫首、
板橋興宗師曰く@著作「息身佛」

『もともと坐禅は、お釈迦さまが悩んでいる人のために説いた心身を癒す健康法』(=理も説かずに他者にいたずらに強制するものじゃない、体験者がその効果・効用・体験談を世界に広く知らしめる義務が在るものである・・・と解読いたしました。)

『もう60年も坐っていますから無心の境地になるかと聞かれれば、ふふふ、そうではありません。坐禅中に居眠りもします。余計な考えがいつでも浮かんできます。~~、(すべて)受け流しておればよい。でも現実は、思い浮かんだことをつぎつぎと考えてしまう。これも仕方がないことです。あきらめずに坐禅を続けることが大切ですね。』
(継続は力なり!!と解読いたしました。)

『今日どうしようかと秘策を練る時も、静かに坐禅していると、パッといい着想がわきます。~~、脇に手帳を置いといて、すぐ書き留めておくの、ふふふ!』
(坐禅さまざま、人もさまざま・・・、と解読!!!)

『ありのままでいい、今、此処を生きる(のみ)』板橋師
『人間だもの』相田みつお
『この世は美しく人生は甘美だ』釈迦
『ありがとさん、ありがとさん(と唱詠ス)』板橋師

返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-12 05:05:45
なんだかなー。
不毛な気がしてきたな。
ともかく坐禅はつ続けます、本も読んで、しばらくブログから離れます。
返信する
Unknown (仏教初心者屁理屈屋P)
2016-01-12 04:16:18
だっておかしいじゃないの!!!

仏教専門家さんらが「生老病死は苦」であると言う言葉を使って「苦」を言い切ってしまうのなら、それは断見で
「苦の世である」の言葉が「真理」として独り歩きして、「苦」現象に命がふきこまれ、結局実体・本質論に変化してしまって・・・、それだと滅失なんてとうてい出来ないじゃん。
だから「苦の無いあの世がある」という
二元論に繋がっちゃう事になる訳じゃん。

其処は賢い釈迦が、それらは皆、脳の虚構による誤解であって戯論であって、その脳内サンスカーラを取り除けば、誤解は解ける・・・二元論なんて在りえない!、この世で苦の滅失は十分出来る!
と唱え、
よってこの世は美しく人生は甘美だ、皆の衆失望するなかれ、考え方を坐禅しろ・・・、と唱えたもうた!!!

これが釈迦の真意であって、
苦の滅失は人の心の意識改革で行う、
という事が修行の目的であり、悟るという事じゃあないの???、

どっちみち今此処にあって現象している瞬間瞬間の世界の方が突然変異して呉れる訳じゃあ無いんだから・・・、
全て単なる気(ココロ)の持ち方次第だな。これが一元論だな・・・。

まあ世の中には、その希望を打ち砕く敵はいっぱい居るけどね。
彼らを坐禅で喝破しないとね・・・・。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-12 03:02:14
訂正;
「善の研究」じゃあ無くて「善の根拠」
が本の題名だったかな???
返信する
Unknown (仏教初心者ぺ~さん)
2016-01-12 02:57:31
仏教初心者故に慎みなく大口をたたきます。・・・それがなにか???。
衰退気味の仏教界にあって、初心者は「金の卵」ですじゃかい、蛇会、邪怪!!・・・・・喝!!!

二元論は人の気を引く魔境世界。
釈迦は二元論を乗り越えた処に涅槃が
あると言ったとかなんとか???

龍樹曰くの「全て無自性ナリ」主張も其処がポイントだとかなんとか???

「仏祖の正法を参学する」筈の「眼蔵」も専門講釈師たちが巧みに「二元論」を作り上げてしまったようだとか
なんとか???

南師としては、「そりゃ~、おかしだろ!!」って二元論否定に立ち回っておられるようだとかなんとか???

善悪二元論否定では仏教もやってけんから、どうしたもんかと悩んで「善の研究」の本が出来ちゃった、とかなんとか???

でも「縁起説」からだって「善の勧め」論は簡単に導きだせるじゃん(これ即ち
七覚支だったっけ??)って、疑する
素人、知ろうとしてます、なにとぞよしなに・・・

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 (ゆうな)
2016-01-11 21:29:53
悟・・・・・・
ブロクの言葉とは・・・・
う~~~ん
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 20:15:52
この正法恁麼時、なんぢがひごろの骨髄を透脱するとき、仏祖面授あり。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 19:39:13
大丈夫か?
だいぶ傷んでいるようだが少し休まれてはいかがか?
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 19:14:27
ごめんね!もうしばらくおまちくださいませ。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 18:41:50
原理がある
例)重力という実体があるわけではないが重力という原理(しくみ)はある。
だめですか?(震え声
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 17:08:00
>実在は無いけど、実体は在る。

実在は在るけど、実体は無い。

こう言う事が論理的に存在出来るのかどうかよく理解できません。例を出して説明願います。


論理というものは、限定されていないものを切り取る方法論に過ぎません。例えば、目の前のリンゴを表現する方法としては、

1.おいしさを表現
2.商品価値を表現
3.出来るまでの過程を表現

など、様々な方法がありますが、どれを選択しても、「リンゴ」を100%完璧に表現している訳ではありません。また、伝える内容を確定し文章で表現したとしても、言語は媒体に過ぎず、受け取る人の経験や知識が表現者と異なる場合、誤解を生む可能性があります。

まして、涅槃、空、無我などは物理的な存在でもなく、語る相手の背景を知らなければ適切な表現は不可能でしょう。また、仮に相手のことをよく知っていたとしても、物理的な存在でない以上、比喩的に語ることしか出来ません。

そのように物事を比喩的に表現することを仏教では「方便」と言います。大乗仏教では「方便」で仏法を伝えることは重要な徳目の一つとされます。

残念ながら現時点では、精進のたりない自分はあなたに的確に伝える自信が無いので、もう少々お待ちください。時々、ブログを見てみて下さい!いつか書き込むかもしれません。言語化って難しいですね!
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 16:41:59
実在は無いけど、実体は在る。

実在は在るけど、実体は無い。

こう言う事が論理的に存在出来るのかどうかよく理解できません。例を出して説明願います。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-11 16:39:25
つまり無我とは
第三者目線をもつ、ということなのでしょう。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 16:36:21
>わしの天啓が揺らぎはじめた・・・

新たなる天啓が降臨いたしましたら、
また御神託をお下しくだされ。

大変興味をもっております。
その際にはシモジモにも解る様に簡明に
お話しくだされ。是非是非何卒宜しゅう!!
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 15:39:15
>無我とは、エゴがない自分ではないでしょうか?

釈迦の説いた諸法無我の概念は、(鈴木隆康氏論文)「『諸行無常』再考」に依れば、


諸法無我は、

色はアートマン(=我)でなく
受はアートマンでなく
想はアートマンでなく
サンスカーラはアートマンでなく
識もアートマンでない。

結局、一切(=諸)法はアートマン(=我)で無い、という論理で「無我」を説いたとあります。

現代の日本人の感覚の無我(無我愛の無我、エゴが無い)とは異なるようです。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 15:11:04
天気いいよ!
暖冬だから、朝の坐禅も楽だし、外で遊ぶのも寒く無くていいよね!
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 15:06:54
お天気いいよ!
そちらは?

たまには、陽を浴びてるかな?

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Unknown (浅野)
2016-01-11 14:45:04
先の私の、逃避する表現は、依存症者目線などで書きました(ブッダ以前のニルバーナの曲解)。
そうですね、無我状態を確保し、縁起する自己(空)を構築します。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 14:23:25
曹洞禅の世界では、現実の世界も、瞑想の中で見えるビジョンも同じく幻、と捉えますよね。曹洞宗の坐禅の三昧の状態は「幻想をつくらない」ことを指向してる、と思うんですよ。

だから、ちょっと、浅野さんのおっしゃる「幻想に逃げる」っていう表現は違和感ありますね。三昧の時の感覚って、自分もビジョンも何も無いって感じませんか?私はそうなんですけどね。

自分の場合は「逃げる」のでは無く、「自己が無いことを確認する」って感じです。自分が自分だけで成り立ってる訳でなく、他から成り立った瞬間的な存在でしかないってことを確認出来ると、人に対して丁寧になるし、その時々の物事に対しても真剣になる。

南さんがおっしゃるように、「ある「体験」をどのような文脈に乗せて語るか」ということを行うためには、自分が体験をどのようなこととして解釈するかってことが大切なのかなって思います。ポジティヴな解釈が出来るようでありたい、ですね。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 14:07:27
まさにシステム
オートポイエーシス
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-11 13:48:10
私をつくり、私の背後に居続け、私を突き動かすソレ。
過去の偉人たちはすべてソレを知れと導いてくださる。
ソレから「私に」「私へ」というベクトル、方向があることに気づく。一方的だ。
目の瞬き、呼吸、「私」の意思など必要としない。
ソレは「私」が忘れていても必要な動作を確実に行わせる。
寝ると「私」はいない。ソレは休むことなく心臓を動かし続け、呼吸させる。血流がわるいと姿勢を変えさせる。
食物の消化。ソレは「私」が食べ物を飲み込むと同時に嚥下、消化吸収を行い、便意をつくり排泄を促す。
新陳代謝は寸分の狂いなく行われる。ソレが遂行していることを私に意識させない。
ソレはただひたすらに「私」をつくり、支え続ける。
ソレは「私」から気づかれないため感謝されることはない。
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Unknown (浅野)
2016-01-11 13:29:37
その本、値段が高いので難解そうですね、、。僕は趣味?程度の者なので、南さんの正法眼蔵の解釈本も読む気が起きないんです(他の著作は全部読んだと思いますが)。以前、少し読みましたが、断念しました。
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Unknown (浅野)
2016-01-11 13:12:38
勿論、精神と肉体は一体という認識は持っています。が、現実の上で、苦しみを抱えている場合、ある種の幻想に逃げる、というテクニックもあります。その逃げ方として、ブッダ以前の人は、苦行による肉体酷使により、現実の苦しみから精神世界(脳内幻想)へと逃避していたかもしれません。しかし、ブッダは、それでは認知症者や麻薬中毒者と同じ(現実に帰ってこれない)だと、悟ったのではないかと。だから、ブッダは、その精神世界と現実世界を自由自在に行き来できたのではないか、と思ったわけです(つまり心身二元論を自由自在に操れる)(つまり表裏一体)。ブッダの苦行否定は、現実認識を戒めろ、苦行だけではだめ、という警告とも捉えられる。
ジョギングを苦行とは認識していませんよ。比喩として使用しただけです。
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浅野さんへ (Unknown)
2016-01-11 12:44:44
フランシスコ・ヴァレラという生物学者が「身体化された心」という本を書いておられるので一読してみてはいかが。
仏教思想からのエナクティブアプローチ
なかなか面白い。
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国際基督教大学 (hoku)
2016-01-11 12:35:36
このイベントすごいね。

キリスト教(グレゴリオ聖歌)、仏教(声明)、イスラム教(クルアーン朗唱)、ヒンドゥー教(ラーガ)のそれぞれの祈りの響きを聴き味わうシンポジウム。

そしてコーディネーターはマット・ギラン先生。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 12:30:26
もう降りようって思ったのにきちゃったじゃないか。あー自性ってのがなんかまだ消化不良感があるな。般若心経の空(自性有)って表現がなんか違う気がする。嘘書いてる感がする。プラクリティ「物質原理」を自性とする説も正しいかどうかもわからん。それが正しいと仮定すれば「実体はないが実在は認める空」が自性空となる。龍樹のいう自性は実体がないことを指すわけで異質なもんを同列に表記してしまった。紛らわしいなー。これは俺のミス。わしの天啓がゆらぎはじめた。
此岸(現象、俗世諦)からみれば幻であって実在する原理はみえず、彼岸(勝義諦、実相)でみれば原理はみえるってことでいいんだろか。どちらも実体(龍樹のいう自性)はない。嘘いってる感するか?
「実在がない=原理がない」と「実体がない」とは同義ではない。
頼むから「戯論だ(ビシ」「概念化するリスクとかなんちゃら」とかやめてね。百も承知だからそういうの。
最近、虚数と0が猛烈にきになりはじめた。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 12:11:24
う~ん、その表現はどうかな?基本的には肉体と精神は一体のもの、っていうのが仏教の基本的な考えだし、釈尊は苦行を戒めてる。

浅野さんは坐禅やマラソンなんかを苦行と思っているのかな?集中してる時はむしろ清々しくない?その感覚に到達するまではキツかったりするけど。

釈尊は集中している時の感覚(坐禅だと三昧)と現実を自由に行き来できる瞑想の天才だった、とは思う。そういう感覚を体験してると、客観性を保つのがスゴく楽っていうのは、あるんだと思うよ。まあ、釈尊の感覚は釈尊にしか分かんないんだけど。
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Unknown (浅野)
2016-01-11 11:45:33
要するに、肉体と精神は別個な存在だと認識し直す作業なんですね。肉体を酷使、苦行することによって、肉体の存在に気付かせる、あるいは逃げ込む。幻想と現実の区分け。そうやって、現実の苦しみや悩み事を肉体や精神から、いったん切り離し、リセットする。そして、また現実に向き合う。
ブッダはその現実と幻想を自由自在に行き来できたひとだったんですかね。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 11:35:39
自転車いいよね!自分もたまに乗ってる。サイクリストには禅が好きな人とか、何故かけっこういるよね。精神性が近いとこあるかもね。
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Unknown (浅野)
2016-01-11 11:32:15
ちなみに自転車も有効だと思います。今、苦手な事務の作業をしているのですが、最寄りの駅までは自転車を使うと、切迫したものが多少抜けるような気がします(ジョギングと同じ論理)。が、体力も必要ですし、ただ、バス移動より、自転車が好きな自分なだけかもしれませんが。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 11:21:30
インドの仏教徒の人は、今はほどんどカースト差別から解放されるために改宗した新仏教の人でしょ?

少なくとも、日本にはカースト差別はないし、宗派間の争いも無いから、インド国内にいるよりは、楽かもね。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 11:14:56
仏教は絶対性の無さを重視する思想だから、どこの国でもその国の文化に添うように変化しているよね。それは上座部圏でも同じだし(タイの精霊ピーとか、スリランカ仏教寺院内でのヒンズー神への信仰、ミャンマーの精霊ナットなど)。完全な直伝なんか、あったらそれは逆に、常見、断見にハマってしまうし、釈尊はそれを良しとは思わなかったと思う。日本だって、神仏習合してたわけだし。

道元禅師の思想の日本文化への影響のひとつは、典座教訓や赴粥飯法なんかに見られるように、生活の作法を定めて「仕事」を修行に高めて尊さを与えてること。だから、日本人は全てにおいて丁寧に行うから、日本は色んな技術に優れていて環境も美しい。それは、中国で出会った典座和尚の逸話にあるように、道元禅師のオリジナルというより、中国での体験に基づくけど、道元禅師は几帳面だから、びっくりする程深めた、というのはあると思う。衆生のための大乗仏教としては、素晴らしい功績だと思うよ。毎日の生活で使えることだからね。

ところで、接心に参加して思うのは、作法通りに行動していると、どうしてもものすごく動作に意識をする。ほぼ「観の瞑想」をやってるかのような状態なんだよ。接心って「坐禅」と「観の瞑想」を繰り返している状態に近くなってるんだと思う。だから6日目に深い三昧に入れたのかな、って思うよ。
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Unknown (九鬼)
2016-01-11 10:59:59
ヒンドゥー教徒が圧倒的多数派のインドから「仏教国」と思って日本へ働きに来たら『宗派国』だった、在日インド仏教徒たち。

母国でも日本でもマイノリティであることに変わりはない。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 10:42:47
道元禅師は中国で学んだ禅を日本人向けに編集しなおしており、本来の仏教とは異なった考えを正法眼蔵のなかで説いている。道元以外にも日蓮にもその傾向はみられ、日本の文化を創った というより
日本の文化に合う様に仏教を変性させている。良いとか悪いとかはではなくて。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 10:25:08
以前、浅野さんが勧めておられる、南師と為末大氏の対談本の「禅とハードル」読みました。アスリートの方の感じる「ゾーン」と坐禅の三昧の境地は、どうも似ているのですね。セロトニンの効果とも繋がりがあるんでしょうかね。

私の場合、ハードなスポーツは出来ないので、坐禅を知ってよかったな、と思います。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 10:14:03
浅野さんの体験談、素晴らしいです。

何事も一心不乱な境地になってやるうちに道が拓けて来るという事なんですね。

勇気を頂きました。ありがとうございます。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 10:00:41
人には劣ってる人なんか、いないんではないでしょうかね。それぞれの価値感で生きている訳ですから。

よく曹洞宗の僧侶の方は、「野の花は尊い。何にも作為なく咲いている。人だけ作為があり、自分のために生きている。」みたいな法話をされてますけど、確かにそうだと思います。

自分は必要があって、仏教の知識を深めましたが、それはそうしなくては納得できない感情があったからなんです。根拠が無ければ納得出来ない業の深さがあったから、だと思います。僧侶の方が専門性が必要で学ばれるのとは、在家は違うと思います。

あなたが仏教の知識を深くつけなくとも、坐禅で深める事ができれば、それでいいのではないでしょうか?状況や感覚で、学び方は異なると思います。ご自分が感じる必要性に従えば良いんじゃないですかね?

もし、必要を感じておられるのであれば、道元禅師の思想を深く学ぶ事は素晴らしいことだと思います。生活全てが尊い修行である、という道元禅師の思想が、今の美しい日本の文化を創ったとも言えますし、日々の生活を輝かせますから。その背景にある根拠を知る事は、有意義なことだと思います。
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Unknown (仏教入門者)
2016-01-11 09:56:37
カントの著作「啓蒙とは何か」を紹介してくださった方、情報有難う御座います。
海外駐在中の為、本を直接見る事は出来ませんのでネットで要約を読みました。
(京都アカデメイヤブログより引用)

自分自身の理性を使う勇気を持った人が啓蒙された人である。

権威(仏典も含む)に盲目的にすがる事は啓蒙されていない未成熟な状態である。

上から目線の啓蒙は不毛である。

以上の事を読み取りました。有難うございました。
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仏教入門者さんへ (Unknown)
2016-01-11 09:19:08
カントの著作に「啓蒙とは何か」という本があるからそれを読んでみるといい。
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Unknown (仏教入門者)
2016-01-11 09:05:18
皆様のコメント色々拝見させて頂いて
今ちょっと妙な事を考えました。

色んな経典にめっちゃ詳しくて、自分の論理を証する為に自由自在に経典を使い回し,難解な仏教用語を駆使出来る様になるのと、

ただ愚直に「仏祖の正法を参学」する事のみを目指すのと、

衆生である仏教入門者の私としてはどちらを選ぶべきでしょうか???

経典通の達人より釈迦のみを愚直に見つめていく人は劣った人となるのでしょうか??
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Unknown (浅野)
2016-01-11 08:45:05
僕は座禅は普段しません。
過去にサッカーを16年やってきました。その中で、無我夢中の「無我」になることはあると思います。スポーツでは「ゾーン」と言います(著書・禅とハードルが参考になりますよ)。
率直にいうと、自己が解放され、自意識も溶解し、自己以外との境がなくなります。ボールや人がきたらこうする、といったことを、勿論、一瞬で頭で判断しますが、ほぼ無意識に近い感覚ではないかな。頭というより、身体で判断、反応する感覚。
ジョギングについては、僕は、頭がもやもやした時に走っていたと思います。最初は、頭の中はネガティブな感覚で、同じことをぐるぐる考えている。徐々に、過去のよい体験や出来事、イメージが過ります。最終的には、たった今、二足走行している生身の自分のみが現われます(この現実に耐えることが困難な状態もある)。物事は一切考えられない、考えていない状態ですね。
このジョギングと座禅の違いは、座禅では、客観的にその状態の変遷を観察できます(南さんもそのようなことを仰っていたと思います)。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 07:26:11
ついでながら、コメントで仏典の文章を
ポツンと書いてくる方がいますよね。
そこにあなた自身の心から出た言葉、ご自分の感性をつずる言葉を付け加えていただければ、その仏典の文章にも命が吹き込まれますよね。
ただ単なる仏典羅列であとは知らん顔では馬の耳に念仏と同じです。現代の世に蘇った文章になりません。此のサイトに参加しているのは出家僧侶ではないのです(ごくごくの例外をのぞいて・・・)

宜しく
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 07:02:20
そ~そ~、
自分の坐禅で感得したものなんて、あまりに詰まらないもので人様に話す事は
はばかられる、とかご自分をいやに卑下して、
それが淑女・紳士のたしなみであるかの如く思っておられる方がおられますよね。
どうでしょう、この際ご自分のココロ を解放なさっては???
南師が絶好のチャンスを与えて下さっていますよ。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 06:48:44
浅野さんのコメントにも感銘を受けております。
たしか浅野さんはマラソンをしている時に足の痛みがスッとなくなり(=セロトニン効果)、そのとき瞑想に入るとおっしゃっていましたよね。
其のときの感覚とか目の中で見えるモノとは
どんなものなのでしょうか。是非お聞きしたいです。よろしかったらお話しください。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 05:53:48
そ~言えば、無自性空は空虚、自性空は虚空・・・、俺は虚空に懸ける、とおっしゃる方がいましたよね。

斉藤明氏曰く「龍樹の考えは、空、つまりすべては固有の本質を持たず変化しうるという理解に立つとき、
言語習慣も道徳も修行によって凡夫が仏になることも可能になる」のだ、
が龍樹の説く骨子であった、とあります
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 05:06:45
>空にならない・・・
空じられないものとはなんだろう・・・

科学者はこの世界は一点なる核からビッグバンが始まって、宇宙(の境界)がどんどん広がっていったと説きます(私の知る限りにおいて・・)。

そうすると「その宇宙の極限の壁」の向こうには何が在るのだろうと問う人が必ず出ます。

空にならない空じられないものとは、mmmmm、
混沌たる、「形」を形成しない「生のエネルギ~」なのでしょうか、宇宙の境界の外に存在(??)している神なのでしょうか。「問う」は延々と続きますね
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 04:33:42
(追加)
とすれば、勝義諦=実体=空=自性はどこで
間違っちゃったんだろうね。

空は素粒子の世界だの意見もどう融合しなおしたらいいのかね???

ついでながら前文での「自生」は「自性」のパソコン変換ミス。

返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-11 04:23:59
あ~、そ~か~。
では般若心経の「空即是色」表現は独特だよね。「無自生」空・・・>「無自生」色
と言うよりか、
「色」は「無自生」故に、「自生」のある「空」に本質・実体があって、
「自生」空が「無自生」色を支えている、
みたいな誤解の感覚(戯論)を生じさせてしまう・・・が如くに映るよね。

実際、曹洞宗の和尚さんでさえ誤解して、そう説話されてる方もおられる訳だし・・・・。
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 04:05:16
再び、斉藤明氏の講演から引用:

空の語源はサンスクリット語のシューンヤで、「家に人がいない」とか「王国に王がいない」というような時に使われ、「期待される何かを欠いた」状態をさします。
ですからシューンヤ自体は「空(から)の」「うつろな」「欠いている」「ない」「寂しい」などや(インド数学の)「ゼロ」を意味します。(・・・以上。)

(私見・・・)
という事は「空」には「実体がある」、とか「何かで満ちている」「本質がある」との再定義は出来ない。
釈迦はそれを認めない、という事でしょう。「仏祖の正法を参学する」のなら・・・



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Unknown (Unknown)
2016-01-11 03:46:20
自分が、問題!!
自分(のもにゅもにゃ)が肝心!!

が誤解を受けるける理由は、「自分だけの問題として他者と分かち合う事を拒む」、「自分の殻の中に閉じこもる」、「閉鎖的な自分」になる事が強調されてしまう事です。

これが仏教の「無我」精神と矛盾を起こすという事です。

問題解決は自分だけでするよりも適切な他者の智恵が入る方がいいのです(三人寄れば文殊の知恵)。
議論は必要と言う事にもなります。

他人の心を傷つけるのが怖くて発言出来ない・・・は日本人特有の悲観主義から来るのでしょう。これを杞憂といいます(自戒)。普通は「正直に言ってくれて
良かった」となるものです。

もっと素直になる、もっと自分を解放する、もっと自由になる、もっと自分の感情を率直に表明する・・・が心を軽くする事であり、ストレスを除く方法であり

坐禅の目的でもあるのでは???

注;まあ揚げ足取る誤解名人の敵ばかりに四面楚歌されてる時は別でしょうけど、少なくとも此処のサイトはそうではないでしょう。
理解者がいっぱい居るのでは???それとも此処での貴方の周りは敵ばかりって感じてる???
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Unknown (Unknown)
2016-01-11 03:01:54
仏壇にあるアノ、チーンとする、おりん。
叩く以外にクルクルふちをなぞってみて、素晴らしい倍音がするよ。
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仮名『正法眼蔵』鎌倉仏教の祖師の中で、唯一、道元和尚だけが、主著を、中国語(漢文)ではなく、<日本語で>著作した! (イエスちゃん)
2016-01-11 00:29:01
道元和尚の主著『正法眼蔵』は、
この言語化し続ける行為そのものである。

結局は、言語批判になるため、
中国語ではなく、日本語で著述した。

なぜならば、
日本人に対して、
<中国語を使用して、中国語を言語批判して>も、
日本人には、その言語批判の内容がまったく理解できないから。

だから、鎌倉仏教の祖師の中で、
唯一、道元和尚だけが、主著を、
中国語(漢文)ではなく、<日本語で>著作した。
『正法眼蔵』

親鸞の主著は、中国語(漢文)記述の『教行信証』である。

日蓮も漢文の『立正安国論』…

法然も漢文の『選択本願念仏集』…

中国語を知らない一貫庶民には読めない。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-10 22:19:56
皆さん
表現力が豊かで感動的です!

なんと
素晴らしい事だろう!
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-10 19:59:07
坐禅をして呼吸に集中していると、少しずつ見えている物体は現はれては消えをくり返す。
私の場合は白ではなく暗くなる、カンジ。
と同時に体の境目を感じなくなる、空間に一体感と言ったらいいか。音は聞こえている。
呼吸は、だんだん遠くなる、どんどん小くなっていくカンジ。



子供の頃、感じていたのは、私は宇宙で全てで、それらは繋がっていて、それでいて絶えず変化を繰り返す刹那的な存在ということ。
時にも同じ時は一つとしてない。
大人になっても、この感じ方が抜けてない。一体感かな。
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Unknown (浅野)
2016-01-10 18:32:18
僕らが他人の海のなかを生きるということは、自我が過剰で、不安が強い人にとっては、自己を確立して物事に対処する、という方向性で考えるかもしれません。
私は自意識過剰で、他人が怖く、信頼できず、苦しい自己を生きてきました。しかし、南さんの、自己とは?他者とは?生きるとは?死とは?私とは?から湧き出る言説を頼りにスタートし、経験と照らし合わせてきました。
今は30歳も超え、以前の不安や敵意の感情、自意識も薄くなり、他人の海の中を無我、空の概念で歩んでいる次第です。
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 17:18:37
空にならない・・・
空じられないものとはなんだろう?
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 16:03:23
東大教授、斉藤明氏、平成26年・5月・26日、第16回愛宕薬師フォラム

「空とは何でしょう、中観派の教えを学ぶ」、から引用。

「戯論からの解放」
事物に固有の本質はないが、そこに固有の本質があるかのような錯覚はある。
それが錯覚に過ぎない事を気付かせる為に、『空』という否定的な響きのある言葉が選び取られたと龍樹はいう。
「空」が正しく理解されるというのは、錯覚が錯覚であると気付くこと、それによって煩悩の根源に巣食う戯論という心の働きから解放される事を意味しています。龍樹によれば、「このような理解こそがひとびとを煩悩から解放し、じつはそれこそがブッダ自身の本来の煩悩論にほかならない」と(龍樹は)いっています。
釈迦自身は無我の意味で「空」という言葉を使っておられた・・・(のです)。

返信する
体験談書いてみます。 (Unknown)
2016-01-10 15:58:59
 私が道元禅師や龍樹祖師の世界感を知ったのは、仕事上のスランプを感じていた時でした。

 企画を立てる時には、必ず人や企業間で利害関係が生じる。また、企画の方向性に絶対的な正解は無いのに、常に判断して決めていかなくてはならない。これが堪え難かった訳です。判断をし、企画を成立させる仕事そのものが苦痛でした。何が正しいのか分からなくなってきたんです。

 その時、南さんの本を読んで、正法眼蔵にハマり、龍樹の中観の思想を知った。世界は無数の人や情報の縁起で組み上げられ成立していて、そこには善悪など無いのだ、と私は受け止めました。でも今いち腑に落ちない中、坐るようになり、そのうち出来た縁で参加した接心6日目の朝、自分が解体されるような感覚を体験し、無自性を実感した訳です。

 その時、無数の人や情報の縁起で成立している世界は美しい、と心から思える瞬間がありました。意識は真っ白で、大量の涙が流れました。繊細なレース編みのような世界に生まれた、モチーフのひとつが「自己」である訳です。その時何故か、いまここでの最善を見極め、全力を尽くすしか無いんだ、と諦めることが出来て、めちゃくちゃ楽になったんです。

 今は歩むべき道は焦らなくとも、縁起で出来上がった世界から自然と示される、と思えます。自分は周りの人や情報によって成り立っているのですから。

 あくまで個人的な、現時点での在家の体験です。他の人の意識や世界感とは、関係の無い話です。
空なのか何なのか分かりませんが、まあ、そんな感じです。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-01-10 14:23:52
自分も過去に座っていた経験があるのだが 理由として日々のストレスをリセットするという目的があった。どなたかが言われている様な「いい感じ」も何となくわかる。だが数年前に生活が大きく変わってしまいそれ以降座る事が無くなった。理由が無いからである。座らなきゃならない程のストレスが無くなったからである。
思うに 座禅することは 本人にとって趣味的な意味もあるだろうし、私のように世間という泥水の中で生活する際の、自己に対する気づかいの意味もあるだろう。
座る前に、座らなきゃならない生活そのものを変える事に考えが及ばなかった。
永平寺で修行した寺の息子に、「お前の座禅は座禅じゃない」と言われた。
ごもっともです。
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Unknown (浅野)
2016-01-10 14:05:49
僕の無我や空の理解は、物事や現象には実体がない、絶対的なものはない、それがそうであるのには根拠がない、です。そうなると、あらゆるものを否定していくと思うんですね。
私は、絶対的なものや言葉を絶対視しやすい性分で、ネガティブな性格なので枠組みやものの捉え方として、空や無我を利用します。そう考えると、いらぬ妄想にも歯止めが効きます。
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 13:59:13
だって
自分抜きにして、誰が自分の思うことを、話せるというのでしょう?


無我とは、
エゴがない自分では、ないのでしょうか。
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 13:33:49
>一対一で話をしている老師には打ち明けられる・・・とおっしゃっている訳ですが、
その老師(曹洞宗??)は「そうだ、お前がみたのは確かに空にちがいない」とあなたの体験を「空」として認定しておられるという事なのですか??。

もちろん、曹洞宗です。
私の体験については、否定も肯定もされませんね。
おお、そうか、という感じです。
まあ、私は出家者じゃありませんからね。
弟子であれば、もっと何かおっしゃるのかもしれません。

>ではその老師の描いている空観とはどのようなものなのですか??

この老師はどちらかと言えば、やや唯識よりです。だから、自分とは少々感覚が違いますが。
語り口としては、「宇宙」と「空」を近いイメージで使ったりされますね。私と感覚は違うのですが、私は老師の世界はそんな形なんだな、と思っています。
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 12:59:30
自分が、問題!!
自分(のもにゃもにゃ)が肝心!!
自我ある存在物の自己としての一義的な定義としては正しいのでしょう。

しかし縁起の世界に共生して生きていて、無我であると教える仏教と、なんか両立しなくないですか、感覚的に???、
一応屁理屈ですが・・・
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 12:47:01
坐禅中に「空」を感じ取っているけど、此処で公開するのは誰かを傷つけるから(かもしれないから)話せない。
一対一で話をしている老師には打ち明けられる・・・とおっしゃっている訳ですが、
その老師(曹洞宗??)は「そうだ、お前がみたのは確かに空にちがいない」とあなたの体験を「空」として認定しておられるという事なのですか??。ではその老師の描いている空観とはどのようなものなのですか??
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 12:05:01
つまり、自分が問題。

自分は、
「こう観じる。こう思う。」が
肝心。

あとは、お任せ。
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 12:01:30
ご心配には及ばないと、思います。

馬鹿じゃないの!
と思ってる人も、馬鹿なのですから。。

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Unknown (Unknown)
2016-01-10 11:53:25
万事休息しながら
言葉にし続ける。


これが
仏家一大事の因縁
なのでしょう。
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続き (Unknown)
2016-01-10 11:22:03
ただ、毎日坐ることで、日々生きやすくなったことは事実としてあるから、著作で道元禅師を教えて下さった南さんにはとても感謝しています。今年もどうぞよろしくお願いします。
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 11:18:47
今までの色んなコメントを読んでると、色んな価値感の人がいるから、気を使って自分の感じたままを、書きづらいんだよね。最近、話を聞いて頂いている老師と一対一で話す時は、誰にも気を使わずに、今の感覚を話してるんだけど。

現時点で自分が捉えている「空」を「疑似体験」していると思っている感覚は、あくまでも、今この瞬間、自分が感じていることでしかないし、それをコメントすることが「空」に絶対性を求める人にとって、その人の感覚や世界感を否定するように受け止められそうで嫌なんだよね。

今までの経緯を考えるとこのサイトを読んでる人の中には「空」に絶対性を求めている人がいると思うし、そうじゃない人も、自分にとっての「空」とズレがあることで不快にしてしまうんじゃないかな。今の私の感覚では、自分の世界感は中観に近い感覚なんだけど、他の人がそうでなくても世界は成立するんだよ。

別に自分が「空」を観じてても観じてなくても、どっちでもいいんだよ、個人的には。

もう少し文章力に自信がつかないと、書けないよ。悟ってる訳でもないし。

南さんは凄いと思います。
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 10:44:34
坐禅によって、「空(観)を体感(経験・体得)した」とおっしゃる方がいて、

「空とは?」は自分で体験しなければ解らない、とおっしゃって、

体感したという方が「自分の経験した『空』は言葉では表せない」と言うならば、

「ばっかじゃないの!!」というそしりを免れない、と読みました。

今こそ自らの言葉で体験談を語るべきでしょう。いくら言葉がつたなくても構いません。語る人の心に誠実な思いが籠っていれば、
聞く人の心にも響くものです。

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Unknown (Unknown)
2016-01-10 09:54:20
碧巌録 第54則 雲門展両手。
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 08:50:11
悟りは「簡単な数式」で表せないから、尊いのでしょう。数式化したものは、固定化されて新たなサンスカーラが始まってしまいますよね。
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 07:43:08
言語化しないと「言葉にできない真理」として概念化され言語に固定されるって、面白い表現ですね。

「老師は最近、どんなことを言ってるんだ?」の「最近」というのが禅らしさ、でしょうか。確かに自分の知る老師方も、とらわれの無いよう、常に固定化しないようにされているように思います。

固定化された絶対の真理を得ようとする思想とは一線を画す、ってところでしょうか。それを言語化するって至難の技ですね。誤解や非難を恐れず、語るしかないのでしょうね。
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Unknown (寒紅梅)
2016-01-10 07:23:09
『問題はある「体験」をどのような文脈に乗せて語るかなのです。』

私にはわかりませんが、観無常からはじまらない文脈での禅問答はどうなのでしょうか。


『「馬鹿じゃないの」ですませる話でしょう。』

「馬鹿じゃないの」で済むのならいいのですが、「張り飛ばす」などの強烈なインパクトを与える事柄こそが「禅」だという話になってしまうとどうなのでしょうか。これも私にはわかりません。


質的に大きく異なるのですが、大学受験シーズンを控え、こんな奇妙な話を思い出しました。

大学受験合格後、物理の教科書、問題集などを盛大に燃やした人の話を聞いたことがあります。その燃やした理由が、「物理が自分をいつも悩ませたから」。

最初はノイローゼの一種かと思って同情すら覚えましたが、よくよく聞いてみると、その彼にとっては「大学受験」のための苦役としての「物理」であって、学問としての「物理」がほとんどないことがわかりました。

世の中の出来事をこんなに簡単な数式で表すことができるなどの、心が震えるような感動がないまま物理を学んだのでしょうか。
別の意味で同情を禁じえません。

その後、物理の教師になったという驚愕するような話を聞いております。
(なぜその道を選んだのかはわかりません。まあ「大学受験」のための物理ならば、プロなのかもしれません・・・)

今度は、このような先生に物理を学ばなければならない「生徒」に対して深く同情しております。
目端の利く生徒ならば、同時に個別に学んでいるとは思うのですが・・・。


明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 05:34:18
坐禅会、お願いします!南さん!!!


願われていますからねー
私が!願っていますからねー
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 05:08:45
南さん、坐禅会開催してください!
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 03:24:25
ブチまけましょー!

(ρ`З´)ρ

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Unknown (Unknown)
2016-01-10 03:13:36
ぶっちゃって下さい!
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Unknown (Unknown)
2016-01-10 00:57:32
和尚さんから
ブたれるなら本望です!
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