「真理」そのもの、「事実」それ自体などというものは、存在しません。存在するのは、「真理だと思ったこと」「事実として認めたこと」です(何であれ人間の頭で理解できる言葉で表示するしかない以上、そうなるでしょう)。
ならば、「真理」や「事実」を語るということは、どうしてそう思ったのか、いかにしてそう認識したのかを語ることでなければなりません。すなわち、いかなる方法を使用して「真理」や「事実」を構成したのかを明らかにすることが核心的な意味であるはずなのです。
この事情は、「宗教的真理」だろうが「科学的真理」だろうが同じです。そこに至る方法が語られてはじめて、「真理性」と「事実性」が方法限定的に担保されるわけです。
方法を語ることとは、「科学的真理」なら理論構成や実験過程などの検証、「宗教的真理」ならば超越的存在の証明や修行方法との整合性の確認などを意味するでしょうが、これは所詮、「業界」内の手続き問題に過ぎません。
しかし、方法を考える場合より根本的に問題なのは、個々の語り方ではなく、およそ「宗教的」に、あるいは「科学的」に「真理を語る」というときの、語り口なのです。その語りは、いかなる条件下で、どのような根拠で正当化されるのかについて、語る側も聞く側も共に自覚的であるべきなのです。
たとえば、いわゆる「暗黒物質が発見された」と発表されたとします。すると、その「発見」に至る理論的・技術的プロセスは、科学「業界」内で厳重に検証されるでしょうが、「暗黒物質が発見された」という言い方を可能にしている方法そのものが反省されることはありません。
「発見された」とは「見えた」のか? どういう意味で見えたのか?(見えないから「暗黒」なんだろうに) 「観測」されたのか? どうして「観測」されたとわかったのか?
特定の物理現象が観測された以上、「暗黒物質」なるものを想定しない限り、その現象は説明できないということが、「発見」という意味なのか? それで「物質の発見」という言い方が許されるのか? 許されるなら、どうして?
このような問いは、「科学的真理」それ自体が存在すると言い出したとたんに、封印されなければなりません。「真理」を語るという方法がどういう条件下で正当化されるのかをあれこれ議論しなければならないなら、その時点で「真理」は「仮説」に過ぎなくなってしまうからです。
事情は、「宗教的真理」ならば尚更です。「この世の真理を悟った」と宣言する人物に、「どうやって?」と問うことはできるでしょうが、「なぜその方法で語られたことが『真理』だと言えるんですか?」と問うなら、彼が主張する「真理」をナンセンスにするでしょう。なぜなら、彼はまさにこの疑問を持たないようにしているからこそ、「悟った」と宣言できるからです。
だとすると、竜樹の『中論』が、人間が言葉でものを語る方法について、あれほどまでに厳密に検討し批判するのは、「空」の立場からいって、実に当然でしょう。
以前南さんが現代を鎌倉末期の動乱期?に近いと仰っているのを聞いて、なぜかゾクゾクして心が震えてくるのは私だけでしょうか。
以前南さんが現代を鎌倉末期の動乱期のようだと仰っているのを聞いて、現代は銃刀法違反で捕まりやすい…という話ではなく、武器に代わる何かとはなんだろうなと。
かと言って、絶対的な真理がないから、より良いものを求めない、というのも、生き方をして美しくはありません。私たちには限界があります。自分の理解を超える思想は次々と生まれます。そして世界は変質を続けて行きます。道元禅師の想いを追求される方丈様はもちろんのこと、それぞれの立場で、一般的知識を超えるより良いものを求めることは、非難することではありません。新しい思想はこの世が絶対的ではなく、究極的な真理が存在しないからこそ、生まれるのです。
確かに言えることは、理論のための理論には意味が無い、ということです。常に不確実な理論も、その時々で活用できれば生きる上で意味があります。
唯一神を信じてはいない人が圧倒的な多数であり、自称無宗教の人が多い日本人は、口にせずとも感覚的にそのことを理解している、と思います。釈尊はそれをロジカルに教えてくださってますが、意識せずして実行をしている(日本)人は、意外に多いな、と思っています。
>「釈尊はそれをロジカルに教えてくださってますが」
どちらの釈尊ですか?
というのは存命中なのか、それともすでに亡くなっていて手記がどこかにあったのか気になるからです。まったくの無知でスイマセン。
どのように釈尊が世界の捉え方をお伝えくださったかは、方丈様の著作を含む道元禅師の著作の解釈本や、初期仏教教典等が私は好きですが、好みは様々ですので、ご自分でお捜しになれば良いと思います。
もちろん、宗教的真理を語る上の比喩として、使っておられるとは思いますが、少々使い方としては、適当ではないのでは。
世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思考考究を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)妄想である」と二つのことを説いているのである。』(『ブッダのことば』Sn.885~886 中村元訳・岩波文庫:経典『スッタ・ニパータ』より)
中村元訳・岩波文庫:経典『スッタ・ニパータ』より
(龍樹『中論』第25章・24)