▼ 「神様がいるかって、いるよ。わからないの?」(某宗教「信者」)
※ まさに「信じるている人」は、「信じている」とは言わない。
▼ 「私は変わりたいって、人がよく言うけどねぇ、大抵はどうでもいいトコしか変わらないんだよねぇ」(会社員)
※ 変わる当人は同じ人。
▼ 「支え合いってね、お互い少し力を抜かないとね。どうかすると、突っ張り合いになっちゃうからね」(介護士)
※ ただ「頑張る」人はプロではない。
▼ 「遅すぎた選択ってさあ、言うじゃん。でも、それまでしなくてすんでた選択なら、大した意味ないよ」(高校生風)
※ 選択することの「悲しみ」は、若い君にはまだ、わかるまい(わからなくていいけど)。
▼ 「何かをコツコツ積み上げていって、その上に立てば、見はらしがよくなるでしょ。そのとき、どこに向かって行こうかって、考えたらいいさ」(住職)
※ まずは、まわりを片付けよう。
無神論者であっても、神の「存在の有無」や「信仰」についての話に興味を持つことはあります。でも、「信者」の神への「信仰の有無」についての話には興味を持つはずがなく。「神がいる」という事を前提としている「信者」には、この違いがなかなかわかってもらえません。
積極的な無神論者でもないので、半分聞いて、半分聞き流せばいいことなのですが・・・。
>▼ 「私は変わりたいって、人がよく言うけどねぇ、大抵はどうでもいいトコしか変わらないんだよねぇ」(会社員)
不条理な話かもしれませんが、もっと過負荷して変身すればいいのに。
>▼ 「支え合いってね、お互い少し力を抜かないとね。どうかすると、突っ張り合いになっちゃうからね」(介護士)
おっしゃる通りです。時々、協力と競争の違いが分からない人がいます。「良い事だから良い」っていうのは、なんなんでしょうかね。なんのためにやっているんだろうか・・・。
>▼ 「遅すぎた選択ってさあ、言うじゃん。でも、それまでしなくてすんでた選択なら、大した意味ないよ」(高校生風)
年齢的には大人と言われる人達の中にも、こういうつるっとした言葉をあまり考えずに言えたりする方もいます。色々な意味で、うらやましいな~
>▼ 「何かをコツコツ積み上げていって、その上に立てば、見はらしがよくなるでしょ。そのとき、どこに向かって行こうかって、考えたらいいさ」(住職)
この言説が一定の有用性を持っていることは、深く認めます。でもその後に「見晴らしが良くならないのは、それは積み上げが足りないからだよ」という言葉が続くのなら、どうなんでしょうかね・・・。
>※ まずは、まわりを片付けよう。
茫然自失しているときには、このように具体な行動指針があり、行動を起こすことにより思考の堂々巡りを一旦停止させ、頭でなく体で現状認識を促すことになる言葉の方が、私は好きです。
これはそれぞれが利用される脳の神経回路が、相互に抑制する関係にあるためとのこと。
曹洞宗の釈迦三尊には、脇侍に文殊菩薩と普賢菩薩が配されているのも、こういうことが経験的に分かっていていたからなのかなとも、反省的に思いました。
震災から2年、さまざまなことがありますが、心安らかになれますことを心より深くお祈り申し上げます。
「前向きに」とか「プラス思考で」とか、こうした言葉はすべて「意識的に内部表現を書き換えよう」という意味がある。
自分などというものは、他者との関連性の中で「これが私」と認識・定義している情報状態にすぎないのだから、いくらでも書き換えることができる。
現在の日本の学校教育のシステムは、基本的に全員が必ず負け組になる仕組みである。
死の直前の強烈な催眠では、すべての社会的洗脳が解けるため、「奴隷の人生」を生きた人は永遠に後悔し続ける。
阿頼耶識とは記憶と感情データの海であると思うが、アルゴリズムは分離可能である。意志が薄弱であるとデータに振り回される。すべての人間は幸せを求めて彷徨い動き回り物事を複雑にして生きる力を捻出する。
生きることにも死ぬことにも絶望したものが自己を失い因果より離れる。
神は信じることが前提だからね、で、なにか。
変わる当人は同じ人・・・?
諸行無常なんだから刻々と変わっていますが、なにか。
死の直前のことを知っている人がいたり、深くお祈りする人がいたり、仏教からかなり遠く離れた御仁が来るってことは、そうなんだよなーOTL
残念!
僕の感想です。
>正に信じている人は~
「自分は気狂いだ」とは決して認めないのが古今東西「気狂い」である証拠ですよね^^
>変わる当人は同じ人。
私の経験ではごく親しい人でも昨日までの自分の事などちゃんと覚えていないと感じています。何か思ったら、今日から違う自分で全くOK。私の経験では、必ずそのように相手は反応してくれます^^
>ただ「頑張る」人は~
それでも僕はTVでふと見た歌手の友川かづきさんの「何時でも何者にでもなれるようでなくちゃダメなんだ」という言葉を聞いてレコードを買ってみようかと思いました。
私は自分自身としては今までの人生で「頑張った」事が無いというのが自慢です^^
>選択することの「悲しみ」~
私はどんな時も意思としての「選択」をしないよう心掛けています。迷い(分岐)がある時は、その物事に関して自分が思い描くことの出来る最大限の極と端を「両方」選択することにしています。その為に努力します(詰まり「選択」しない事に努力します)それぞれの極点で自分の最大限で振る舞うことを「両立」した時に、意識で捉えられないところで真ん中に浮かんでいる自分が「私」だと捉えてきました。そのようにすると「縁」に従っているのだという事を私は感じられます^^
>まずは、まわりを片付けよう。
はい。その通りですね^^
有難うございます!
またお邪魔致します。
私の経験では「憎む」事の出来ないものを「愛する」事は出来ませんし、「依存すること」の出来ないものを「信じる」事は出来ません^^
失礼します。
※大いなる力?アレであれば、実感しますね。
▼変わりたい?
※存在の在り方が自己という事態すら変えますね。
▼支え合い?
事象の一こまですかね。
▼遅すぎた選択?
※遅すぎたのであれば、それまでのことでしょう。
▼何かをコツコツ積み上げる?
※コツコツやることは可能ですが、積み木じゃありませんからね。
※それって、何?
▼変わりたい?
※AからBに変わりたいのであれば、昨日のAは何処にもないよ。物ならAからBに替えられるけれどね。
▼支え合い?
何を?
▼遅すぎた選択?
※遅すぎたその事態はもうないよ。
▼何かをコツコツ積み上げる?
※諸行無常にあって、自己という事態だからね。
捉え方、考え方、やはり、当事者間でなければ事態自体が違いますからね。