ある集団が組織の根拠とするような、「理想」とか「真理」と呼ばれる宗教的理念や政治的イデオロギーを、直接そのまま現実に適用しようとする態度、すなわち「原理主義」的態度が、不可避的に指導者の独裁的な体制を招き、最終的に組織を自壊させるのは、どうしてでしょうか。
概念や観念を構成する言語の機能を考えれば当然のことです。「机」という言葉が意味しているものは、いかなる個別特定の「机」でもないのですから、それ自体、つまり「机」そのものを現実に製作することは、絶対にできません。
我々にできるのは、「机」の意味を解釈して現実の事物に適用し、その限りで個体化・現実化することです。
この事情は、宗教的理念や政治的イデオロギーで言う「理想」「真理」でも、まったく変わりません。一定の条件下で誰かが解釈した上で、現実化するほかありません。
すると、その時点で、「理想」や「真理」は、所詮は特定の人物の「アイデア」にすぎません。ならば、解釈者の数だけ「アイデア」も出てくるでしょう。
このとき、いや、ただの「アイデア」ではない、彼の主張はあくまで「理想」や「真理」の「現実化」だと言い張るためには、その解釈だけが「理想」や「真理」と直接結びついていると主張するしかありません。ですが、この主張にはいかなる根拠もありません。特定の「机」を指さして「これが『机』そのものだ」と言えないのと同じことです。
ならば、ある解釈の「正統性」は、その他の「アイデア」の全面的・徹底的な排除によって主張される以外、確保されないでしょう(つまり、机が一つしかない状況を作る)。「独裁体制」が必要とされる所以です。
特定の個人の、一定の条件下の解釈を、万人に通用する「理想」や「真理」のように言い募って現実を構成すれば、構成しようとする「解釈者」側と、構成された現実に生きる人々の側に矛盾が生じるのは自明で(沢山の人々が必要としているのに、使える机が一つしかない)、矛盾の蓄積が臨界に達すれば、この体制が自壊するのは必然でしょう。
およそ「理想」や「真理」などというものは、人々の現実生活を構成する社会的条件を牽制したり、相対化したり、批判したり、調整する手引きとして使う程度のことが関の山です。それを通じて、生活の実際が少しでも充実すれば、ことは十分でしょう。
にもかかわらず、「理想を実現しなければならない」などと言い張るのは、ただの標識をゴールだと錯覚するような愚行としか言いようがありません。
「仏になる」とは「仏になろうと努力すること(図作仏)なのだ」とする道元禅師の考え方は、まさにこの機微に触れる教示でしょう。
追記:次回「仏教・私流」は、明年1月28日(水)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。
概念や観念を構成する言語の機能を考えれば当然のことです。「机」という言葉が意味しているものは、いかなる個別特定の「机」でもないのですから、それ自体、つまり「机」そのものを現実に製作することは、絶対にできません。
我々にできるのは、「机」の意味を解釈して現実の事物に適用し、その限りで個体化・現実化することです。
この事情は、宗教的理念や政治的イデオロギーで言う「理想」「真理」でも、まったく変わりません。一定の条件下で誰かが解釈した上で、現実化するほかありません。
すると、その時点で、「理想」や「真理」は、所詮は特定の人物の「アイデア」にすぎません。ならば、解釈者の数だけ「アイデア」も出てくるでしょう。
このとき、いや、ただの「アイデア」ではない、彼の主張はあくまで「理想」や「真理」の「現実化」だと言い張るためには、その解釈だけが「理想」や「真理」と直接結びついていると主張するしかありません。ですが、この主張にはいかなる根拠もありません。特定の「机」を指さして「これが『机』そのものだ」と言えないのと同じことです。
ならば、ある解釈の「正統性」は、その他の「アイデア」の全面的・徹底的な排除によって主張される以外、確保されないでしょう(つまり、机が一つしかない状況を作る)。「独裁体制」が必要とされる所以です。
特定の個人の、一定の条件下の解釈を、万人に通用する「理想」や「真理」のように言い募って現実を構成すれば、構成しようとする「解釈者」側と、構成された現実に生きる人々の側に矛盾が生じるのは自明で(沢山の人々が必要としているのに、使える机が一つしかない)、矛盾の蓄積が臨界に達すれば、この体制が自壊するのは必然でしょう。
およそ「理想」や「真理」などというものは、人々の現実生活を構成する社会的条件を牽制したり、相対化したり、批判したり、調整する手引きとして使う程度のことが関の山です。それを通じて、生活の実際が少しでも充実すれば、ことは十分でしょう。
にもかかわらず、「理想を実現しなければならない」などと言い張るのは、ただの標識をゴールだと錯覚するような愚行としか言いようがありません。
「仏になる」とは「仏になろうと努力すること(図作仏)なのだ」とする道元禅師の考え方は、まさにこの機微に触れる教示でしょう。
追記:次回「仏教・私流」は、明年1月28日(水)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。
『およそ「理想」や「真理」などというものは、人々の現実生活を構成する社会的条件を牽制したり、相対化したり、批判したり、調整する手引きとして使う程度のことが関の山です。それを通じて、生活の実際が少しでも充実すれば、ことは十分でしょう。』
「理念」なども現実において何度も使い込まれて、磨かれて鏡のようになったもの、突き刺す鋭さは無くなったものの使用の痕跡を残し方向性を示す閑古錐になるのが理想形なのでしょうか。
やはり、そのもの自体ではなく「使い方」が一番大切だと思われました。
追伸: 方丈様は、あと20年くらいは鋭いままでいて欲しいものだと、「居心地の悪い他者の願望」を勝手に押し付けまして、誠に申し訳ございません。
(いつか方丈様より警策で正されることを覚悟しております・笑)
“ ・・・その解釈だけが「理想」や「解釈」と直接結びついていると主張するしかありません。”のところでどうしても読み進められなくなります。
“・・・その解釈だけが「理想」や「真理」と・・・”であれば、私も解釈可能になるのですけれども、それではダメでしょうか?
それを踏まえて、如何に在るかでしょうね。
まともに、向き合ったことは未だありません。
院代さまのお話楽しみにしています。
寒波の強い折、御怪我等ないようどうぞ御自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
つまり、お金の流通は人固有の何らかの意思が『お金』という名を冠するだけのことではありますが、その流通の在り様に思考を巡らせると人のこころの機微を知ることになりますね。
銀杏の落葉が道を照らし眩しいほどですが、各地で寒波の厳しい折、どうぞご自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。