他人に何か相談を持ちかけ、「アドバイス」や「教訓」や「導き」等々を得たいとお考えの方は、以下のことに注意するとよいと思います。
一、大概の「アドバイス」「教訓」「導き」は役に立たない。
なぜかというと、こういう話をする人は、たいてい自分の「成功体験」から話すからです。ところが、ほとんどの「成功」は、本人の能力や見識それ自体よりも、その時その場合の環境や条件に左右されることが多く、かつ多くの「偶然」が作用しているからです。
ところが、「成功体験」を話す人は、めったに自分から「条件」や「偶然」に言及しません。したがって、他人が聞いても、まず役に立たない場合が多いのです。
そうでなければ、この種の「アドバイス」は誰でもできる一般論に過ぎず、聞くまでもないことがほとんどです。
一、「アドバイス」「教訓」「導き」は、相談する人に影響される。
相談は対話や会話で成り立っています。である以上、話し手のアイデアは、相談者の言葉や態度に反応していくのであり、対話は常にある方向に収束しようとします。
その方向とは、相談者を喜ばせたり安心させようとすること。もう一つは、なるべく早く相談を終わらせようとすること。
この二点は、相談者のおかれた状況やその有りようを冷静に把握することを妨げます。そうなれば、まともな「アドバイス」は困難でしょう。
ちなみに、人がいつまでも飽きずに続ける「アドバイス」は、いわゆる大人や先輩、上司がする「説教」で、これは本人の快楽でやっているにすぎません(でなければ、あんなに延々とできません)。この種の「説教」は相手の事情を無視して行われるケースがほとんどですから、たいていは聞くのが苦痛なだけで、なんら「教訓」を得られないでしょう。
一、「アドバイス」「教訓」「導き」は、失敗談の中にある。
失敗談は他人に話したくないものですが、どういうわけでそうなるのか知りませんが、いざ話し出すことになると、この話は極めて具体的に語られることが多く、しかも意外と失敗のケースには構造的な類似性があり、いわば「反面教師」として、聞き手には学ぶに足ること、役に立つことが多いものです。
以上から言えることは、何かを他人に相談するなら、自分と同じように、しかも自分より少し長く悩んでいる人の試行錯誤から学ぶつもりでいた方がよいのではないかと、私などは思います。
追記:次回「仏教・私流」は、11月29日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。
しかし、どのようにお話になっても結局は受け止める方に解釈できる感覚がなければ受け止められない。その言葉の意味するものが何なのか、言葉の背景にどのような世界が広がっているのか、自分の経験値以上には誰しも完璧には推し量れません。
結局、自分の内面にあるもの以上のことは想像できないのだから、納得できる答えは自分の中からでしか得ることはできない、というのが今の私の感覚です。その時々の答えは既に自分の中にあり、外界からの情報は気づきのきっかけにすぎない、と思うのです。
であれば、どのような師であれ、学ぶことはあるのではないでしょうか。解釈は自分次第なのですから。
『その方向とは、相談者を喜ばせたり安心させようとすること。もう一つは、なるべく早く相談を終わらせようとすること。』
私は、ここでつまづくことが多いのかもしれません・・・
元来せっかちな性格なので、「なぜ、これに気が付いて/分かってくれないのか」という気持ちで、話を進めていることがあります。
最初から「そういう結論」を持って、そこに誘導するために、「寄り添っている」つもりで、途中喜ばせたり安心させたりして話を進めていることがあります。
これでは、聞き手に不信を持たれて「聞く耳を持ってもらえない」一番悪いやり方ですね・・・
『しかも意外と失敗のケースには構造的な類似性があり、いわば「反面教師」として、聞き手には学ぶに足ること、役に立つことが多いものです。』
相談されると、意識・無意識のなかで、相互に主従/上下のような関係ができてしまうことがあります。
これには十分に注意しておりましたが、やはり「失敗のケース」を話すことは、いいですね。
聞き手が、他者の「失敗のケース」から、問題に囚われている自分を相対化して問題整理し、失敗の類似構造から自分で問題解決するきっかけにもなり得ますね。
『自分と同じように、自分より少し長く悩んでいる人の試行錯誤から学ぶつもりでいた方がよいのではないかと、私などは思います。』
相談者から学ぶ、まったくおっしゃる通りです。
例えるならば、相手が山中でどこで迷っているかも分からないのに、最初から「目指すべきは、あの山頂だよ」と言っていることがありました。
これはまったく役に立たないアドバイスですね。どこで迷っているのかをまず把握し、「一般道」ではなく、その状況から取るべき最適なルート(場合によっては下山ルート、避難ルートなど)を、一緒に考えていくべきでした。
相談者から学ぶ、深く心に留めておきます。
『何かを他人に相談するなら、自分と同じように、しかも自分より少し長く悩んでいる人の試行錯誤から学ぶつもりでいた方がよいのではないかと、私などは思います。』
まったくおっしゃる通りでございます・・・
私と同じように、せっかちで、物事を半わかりして誤解してしやすいことを長く悩んでいる方の試行錯誤から、様々に学ばせていただきたく存じます。
誠に恥ずかしいかぎりです・・・
随分昔、法話でこのような話をお聞きしました。その時は意味するところが分からず、若い私は「真理ひとつではないのに」、となんとなく反感を覚えたものです。
最近、ここでの「真理」は私の設定している「真理」とは違うものなのではないか、と思うようになり、この言葉を受け止められるようになりました。
ここでの真理とは 「真理=教え」ではなく、「真理=宇宙」であり、どのような教えであれ、その一面しかとらえてない、ということではないか。道元禅師の教えも、あまたの宗教の教えも等しく、あくまで宇宙の一面を切り取った姿である、という謙虚な言葉なのだ、と。
ハッキリ申し上げてごめんなさいね、偽善者ぶった回答が嫌いなもので。
とは言いつつも、季節の変わり目ですので何卒ご自愛くださいますよう…。
羊羹=宇宙、世界
似たような話だけど、こんな感じなのでは。
言葉って難しい。
鶏頭ってwツリだな。どういう人たちが書き込んでいるんでしょうねえ???
現在、主に朝鮮半島関係の仕事をしているので、韓国では禅宗のみ、華厳系のみ、という本筋では無さそうなところに反応してしまい、ネットで調べてみました。
よく分からないのですが、①元々、新羅が華厳宗中心だったので、半島統一後、華厳宗が強くなった。
②その後禅宗が入ってきた。③半島では宗派があまり増えなかった。④李朝時代の仏教弾圧で、華厳宗と禅宗しか残らなくなった。
⑤最終的に禅宗が残った。
ということは分かったのですが、なぜ禅宗が残ったのか?とかなぜ華厳宗が元々強かったのか?とか分かりません。韓国人のものの考え方や時代環境と照らし合わせて理解できる文献はないものでしょうか?韓国理解の大きな助けになるような気もしました。
北朝鮮でもお寺はあるらしいですが、どうなっているのでしょうね・・・?
今回のブログの教えも身に染みます。年寄りの言うことがうざいばかりに受け取られるのも、こういうことがあるからでしょうね。
謙虚で優秀な人ほど、運が良かった、と思うようです。
社会には真理がないのでしょうか?
今ここでみんなが幸せになれる法はないのでしょうか?
お釈迦様の悟りが現代の人間すべてに効力があるとはおもえません。救われてもごく僅かな人達です。
心を持った生命、全部が救われる真理はないのですか?
苦しみは嫌です。
せめて命の奪い合いを無くせる方法はないのでしょうか?