恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

思いを汲む器

2006年09月16日 | インポート

Photo_36  恐山には、人々の間から自然に生まれてきた数々の信仰があります。手ぬぐいの林などはその一つですが、夏の大祭の時期、宇曾利山湖の岸辺に続く花や風車、ろうそくやお供えの列、その長さ数十メートルに及ぶ列も、そういう信仰なのです。

 お参りに来られた方は、岸辺にこのような供養をして、岸辺から湖に向かって手を合わせます。湖の方向が西向きですから、西方極楽浄土を望むというわけでしょう。Photo_37

 では、ここで人々は拝んだ後、何をするのでしょう。私も、初めてこの光景を目にしたときは驚きました。彼らは湖に向かって、亡くなった人、懐かしい人の名前を叫ぶのです。びっくりしました。

「おふくろー」「おとうさーん」「あなたー」「たかひろー」

一人が叫ぶと、まるで連鎖反応のように次々と、(失礼ながら)いい年をした中高年の男女が、人によっては涙ぐみながら亡き人の名前を呼んでいるのです。それが湖からこだまになって響き、本当に彼岸の世界の声のようです。

 この呼びかけは、極楽にいる人に会いに来たことを告げているのだと言うのですが、私には別の由来に思い当たる節があります。昔、やはり人々の間に自然に始まった信仰があり、それは「賽の河原」を歩きながら夜を徹して亡くなった人の名を呼び続けると、夜明けにその人に会える、というものだったそうです。この信仰が非常に流行し、物狂いのようになる人がでたり、騒動になったりしたため、本坊が禁止したといいます。以前、岸辺で盆踊りが行われた時代もあったと言いますし、こういう昔の信仰が姿を変えて今に残っているとも考えられるのではないでしょうか。

 このような恐山の信仰を見ていると、その信仰は死者への思いの極めて純粋な表れとしか言いようがありません。手ぬぐいも、湖畔に響く声も、本当に素朴な死者を懐かしむ思いの表出です。それ自体は、仏教の教義とも曹洞宗の教えとも、ほとんど関係がありません。

 しかし、ここには仏教がなくてはならないのです。それは器として必要なのです。人が水を飲むのに器が要るように、人々は死者への思いを汲み上げるのに、仏教という器が要る。人々はお地蔵様だから額づくのであり、湖のむこうにあるはずの極楽に呼びかけるのです。

 恐山の信仰は、確かに教義体系を供えた「宗教」とは違います。しかし、「宗教」はこの土壌の上にこそ育つ。それはどういうことでしょう。

 人はなぜ、どの時代にも、どこの国ででも、死者を思うのか。所詮他人事なら、こうもいたるところ、あらゆる時代で、人は死後の世界を思い、死者の魂を思うだろうか。私は、死者を思う心の底に、決定的な問い、つまり「自分がどこから来てどこへ去っていくのかわからない」という問いがあると、思うのです。それがあるがゆえに、人はただ死者を思うことから、自らの存在の意味を求め「宗教」に向かったのではないか。私はいま漠然と、そんなふうに考えています。

 ところで、10月刊行予定の新著についてお問い合わせがあったので、恐縮ながら書名と出版社を。『老師と少年』(新潮社刊)です。どうぞよろしく。


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