中共でのAIによる監視社会の強化は、人類の危うい未来を暗示している。それに危機意識を持つのがリベラルでなければならないが、我が国においてはそうではない。中共や韓国、さらに北朝鮮に媚びへつらう者たちがリベラルを名乗っているのである▼ハイテクを全体主義体制の強化に活用している習近平は、顔認証のAIでウイグルの民衆を日常的に監視している。再教育と評して100万人以上のウイグル人を収容所にぶちこむなど、手荒い人権弾圧をするにあたって、公然とAIを利用しているのである▼桜井哲夫は『フーコー 知と権力』のなかで、フーコーがインタビュー「身体刑から独房へ」で語った言葉を引用している。『監視と処罰』が出版された直後の1975年2月21日付の『ルモンド』紙に掲載されたもので、あらゆる権力から距離を置くことを主張している。「人がその道具箱をあけて、ボルトを緩めや、ねじ回しを出すみたいに、どの一節でも、どの思想でも、どの分析でも引き出して、権力システム、場合によっては、私の書物もそこから出てきている権力システムをショートさせ、それに信用を失わせ、打撃を与えたいのなら、そいつは結構なことです」▼全体主義国家における抑圧に対して、批判の声を上げるのは当然であるが、それにとどまらず、フーコーは「言葉は暴力である」との観点から、自らの思想も絶対視はしなかったのである。日本のリベラルは自らのイデオロギーを過信し、そのために特定国家に異議申し立てができないでいる。世界的な意味でのリベラルとは無縁な存在なのである。
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