日本人が自信を取り戻すには、日本人の情を回復させなくてはならない。あまりにも目先の利益にばかり心を奪われてしまっているから、とんでもないことをしでかすのである。日本人の細やかな情が表現されているたたずまいとして、京都の景観がある。川端康成は『古都』のなかで、京都のよさとして「木の葉がきれいである」ことを指摘しながら、「木のきれいなのは町のきれいさ、町の掃除のゆきとどいているせいだろう。祇園などでも奥の小路にはいると、薄暗く古びた小さい家がならんでいるが、路はよごれていない」と描写している。日本の美にこだわった川端は、西陣を小説の舞台にするにあたって、まずその京都のよさに触れ、「きものをつくる西陣あたりも、そうである。見るもかなしいような、小店が入りこんでいるあたりでも,路はまあよごれていない。小さな格子があっても、ほこりじみてはいない」と書いたのだった。ありきたりの風景が日本の隅々に及んでいる。どこの市町村であろうとも、郊外にショッピング街ができて、京都のような町屋はほとんど姿を消してしまった。必要でないものまで買わされて、それを平気で捨てるような文化が定着してしまったのである。それで本当によいのだろうか。アメリカニズムの現代版である新自由主義が、日本を変えてしまったのだ。戦後レジュームからの脱脚のためには、それを否定することがまず前提なのである。
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