草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

感性レベルでも戦後言論空間の解体を!

2014年09月01日 | 思想家

戦後の言論空間からの脱脚は、同時に日本人の情念を取り戻すことでなくてはならない。これまで日本人が否定してきたのは、思想レベルだけでなく、感性レベルにおいても同様であった。サヨク文化人の典型とされる大江健三郎ですら『戦後世代のイメージ』という文章のなかで、先の戦争が日本人に何をもたらしたかを書いたのだった。「なににもまして、あの戦争のあいだ、日本人の若者は、英雄的であるための機会を限りなく豊富に、もっていたのであった(中略)戦爭さえおこらなかったら、あの大工の見習いは一生のあいだ英雄的であることなくおわったにちがいない。それは、逆にいえば戦争さえあれば英雄的でありうる若者が、平和な時代にはその機会がない、ということでもあるだろう」。これについて磯田光一は『パトスの神話』のなかで「十歳で終戦を迎えた小学生・大江氏の眼には戦時下の現実は、日常的な価値観が非日常的な価値観によって支配攪拌されていたという点で、どこか童話の世界と似たものに見えたに違いない」と解説している。その童話を否定するところから、戦後の言論空間は出発したのである。しかし、本当にそれでいいのだろうか。それは大江にとって『性的人間』においても同じであった。文学者としての大江は、それをテーマにしながらも、そこから抜け出すことを最優先にしてきたのだった。朝日新聞に代表される権威が音をたてて崩壊している今こそ、感性レベルでも日本を救出すべき時が到来したのではないだらうか。

  

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