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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■「ノリタケ」の創業者 森村市左衛門 / 岩井基雄

2020年07月20日 | Weblog

2020/5/25放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第4月曜日は、歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日は、人生の晩年でクリスチャンとなった森村市左衛門について学んでみましょう。

 森村市左衛門は森村家当主が代々名乗った名前です。六代目市左衛門は天保10年の生まれで、陶磁器で有名なノリタケの創業者として知られています。家業は武具商、陶磁器業を営んでいました。1853年、浦賀に黒船が来ました。開港すると、徳川家や旗本を相手に商売が始まりました。当時の日本は不利な為替相場で損をするばかりでした。市左衛門はその頃、福沢諭吉に出会い、「金を取り戻すには外国貿易以外にはない」ということばに触発され、ノリタケを創業し、外国貿易を始めます。それは私利私欲のためではなく、日本を豊かにするための一念発起でした。15歳年下の弟・豊に英語を習わせ、ニューヨークに遣わし「日の出商会」という小さな雑貨店を始め、それが大発展していきます。また、市左衛門は銀行などを創業しました。更に教育事業にも熱心で、森村学園を創立し、北里研究所創立にも協力。複数の大学も支え、社会奉仕活動も行い、人材を育てていったのです。

 人を育てることに使命を持っていた市左衛門は熱心な仏教信者でした。欧米で見聞を広める中、宗教には偉大な力があると確信を持ちます。そこで仏教を熱心に研究し、多くの教えを受け、お寺も建てますが、そこには生きた宗教があるとは思えなかったのです。そして彼は聖書を自ら学び、人生の晩年に洗礼を受け、敬虔なクリスチャンとなるのです。彼自身、もっとも嫌いであったキリスト教を学んでみて自分の求めていたものはこれだと感じキリスト教信者になった、と告白しています。本当に人を育て、自らも成長していく鍵は、聖書が語る神の愛、そしてキリストにある救いだと確信し、市左衛門は地上の生涯を終えたのです。

 聖書はイエス・キリストについてこう語っています。
 「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」 
          新約聖書 使徒の働き 4章12節

  (PBA制作「世の光」 2020.5.25放送でのお話より ) 
 
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このサイトは URL名として 
 http://yonohikari.biblica.info  
が使えます。。。携帯からもこのURLでどうぞ。 

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、 
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ 

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■異教の習わしを行う南王国 / 羽鳥頼和

2020年07月18日 | Weblog

2020/5/23放送
 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 
 先週まで三回に渡ってソロモン王のことを話してきました。ソロモン王は信仰深い人で、神から知恵をいただいて国を正しく治めて、神の神殿を建てました。しかし、神に従い通すことができず、国に多くの偶像を取り入れてしまったのです。そのためにイスラエルの国は神によって南北に分裂してしまいました。今日は旧約聖書の列王記第一の14章に語られている南王国のユダの事をお話しします。

 ソロモンの子、レハブアムがユダの王となりました。彼の母はアンモン人でした。先週も話したように、彼女は夫であるソロモンに偶像崇拝をさせたのです。聖書はまずレハブアムの治世のユダの国の信仰の状態を語っています。ユダの人々は様々なところに偶像を拝む祭壇を造りました。その上、神殿に売春を行う男娼を置きました。ユダの人々は外国の異教の慣わしを行ったのです。ユダの人々は神の目に悪であることを行いました。彼らの犯した罪は先祖たちが行ったすべてのこと以上にひどく神の妬みを引き起こしました。聖書は、神が妬んだ、と語っています。それは神が人々を愛していたのに、彼らが偶像の神々を慕ったからです。

 そして聖書は、ユダの国に起こった出来事を語っています。それらの出来事は、神の主権のもと、神によって起こった出来事でした。

 まず、エジプトが攻め上って来ました。そして神殿の財宝と王宮の財宝を何もかも奪い取ってしまいました。さらにその時代は分裂した北王国との争いが絶えず繰り返されていました。ユダの国はまことの神に従わなかったために、神の守りも導きも無くなり、ただ争いが絶えず起こってしまうようになったのです。

 しかし神は人々を見捨てることをなさいませんでした。

 来週は北王国のことをお話しします。

  ( PBA制作「世の光」 2020.5.23放送でのお話より )
 
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■わたしの名によって / 関根弘興

2020年07月17日 | Weblog

2020/5/22放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス様が捕らえられ十字架につけられる前日のことです。イエス様は弟子たちに「「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネの福音書14:1)と言われ、沢山の励ましと希望のことばをお語りになりました。

 イエス様は弟子たちにこうも言われました。ヨハネの福音書14章13節と14節
 「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。
 
 これは何と素晴らしい約束でしょう。「わたしの名によって」とはイエス様の名前によってということですよね。ユダヤの世界では、名前はその人の人格や本質を示すものでした。イエス様の名前によって祈るとは、イエス様の名義を借りて祈るという意味なんですねえ。
 
 あなたは誰かに「あなたの名義を貸してください」と頼んだり頼まれたりすることがありましたか? その場合、普通は名義を借りる方の迷惑にならないように注意しますよねえ。イエス様の名前によって祈るとは、イエス様の名義を借りて祈ることです。イエス様の名前に勝る名はありません。天においても地においても一切の権威が与えられている名前です。王の王、主の主なるお方の名前ですから、これ以上確かな名義はありませんよねえ。私たちはこのイエス様の名前によって祈ることができるのですから、何と心強いことでしょう。

 しかし名前とはその人の人格や本質を表すものですから、もし私たちがイエス様の名義に反するような自分勝手な祈りをしたらどうでしょう。それはイエス様の名前によって祈ると言う事にはなりませんよね。ですから、イエス様の名によって祈るとは、イエス様の心やご性質に沿って祈っていくということです。決して自分勝手に祈れと言ってるわけじゃないんですね。

 第一ヨハネ5章14節というところにはこう書かれています。
 「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

 つまり、神の御心にかなう願いをするというのがイエス様の名前によって祈ることの意味なんですねえ。この方の名前によって祈ることができること、本当に力強く幸いなことなのです。

      (PBA制作「世の光」2020.5.22放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■ルカの福音書16 -向き合う力 / 大嶋重徳

2020年07月16日 | Weblog

2020/05/21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。今朝は引き続き、有名なマリヤの受胎告知の箇所です。

 驚くべきことは十代のマリヤが受胎告知を受け入れます。聖書にはこうあります。
 「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカの福音書1:38 新改訳 第三版)

 マリヤが受けとめることができたのはいくつかの理由があると思います。

 第一のことは、彼女のことばの中にあります。「おことば通り」ということばです。マリヤは天使のことばを聞き、やがて彼女は有名なマリヤ賛歌という歌を歌います。その歌の中で彼女は、旧約聖書が語る出来事が自分の身に起きたのだ、と歌うのです。小さな村の娘の十代の女の子です。恋もして、大工ヨセフの奥さんになることを夢見ていたマリヤです。そこに現れた御使いの語ったことばは、彼女が昔から教会学校で聞いていた聖書の救い主の預言と一つのことだったのです。何度も何度も繰り返し聴いていた聖書の預言の物語でした。そして気づいたのです。自分の人生に、聖書の語られてきたことが起こったのだと。ああ、私が選ばれたのか。彼女は受けとめました。マリヤには彼女の人生で、少なからず聞いて来た聖書の生活があったのです。どうして自分の人生はこうなったんだろう、この突然の痛みや苦しみは聖書のことばがこの身になることなんだ、と。聖書のことばが彼女を立たしめたのです。

 受胎告知のシーンが数々描かれてきましたが、その絵の多くにマリアの手やひざの上には書物が開かれている場面が描かれて来ました。「おことば通り」 そう言える彼女の聖書の生活が彼女に「この身になるように」と言わせたのだと思います。

 マリヤは震えるような思いで、おことばがあるから、おことばの通りに、と彼女の小さな信仰で幼い信仰で自分の人生に向き合おうとしたのです。聖書を読んで聖書で考えようと思った。こんな状況で神が私を恵まれていると言うなら、どこが恵まれているのかと考えようと思った。

 聖書は私たちの人生にとっていつもそのような意味を与えてくれます。もし私たちがこの世界に神がいるならばと、真剣に聖書に向き合い、聖書のことばに生かされるとき、聖書はこの身に起こった出来事に向き合う力を私たちに与えてくれます。ぜひ聖書を読んでいただきたいと思います。そこには、不思議といつもぴったりのことばがあなたに届けられることでしょう。すでに聖書に親しんでいるお友達がいるならば、その友達から手ほどきを受けながら聖書を読んでくださると嬉しいです。

    ( PBA制作「世の光」2020.5.21放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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■竪琴のようにわななく / 福井 誠

2020年07月15日 | Weblog

2020/5/20放送
 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いて参りましょう。イザヤ章16章11節から「竪琴のようにわななく」と題してメッセージをお伝えいたします。
 
 「 ・・・わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために、竪琴のようにわななく。

 イザヤは預言者としてイスラエルの国のみならず、その周辺諸国にも神のことばを伝えました。今日の箇所はイスラエルの東側に位置するモアブに対する預言です。キル・ヘレスは当時のモアブの首都ですね。この時代、モアブはイスラエル南王国に貢物を納める国でした。力関係はイスラエルの方が目立ったわけです。

 そこで神は「昼のさなかにも、あなたの影を夜のようにせよ。」(イザヤ書16:3 )とイスラエル南王国に呼びかけます。つまり昼はアッシリヤのことで、イスラエル南王国に強国アッシリヤの強い日差しにさらされたモアブをその日ざしから匿え、と言っている訳です。南王国の属国になっている限り彼らはアッシリヤに潰されることはない、と言うわけですね。

 しかしモアブはその神のことばに耳を傾けませんでした。モアブは驕(おご)り高ぶり、イスラエルの下にいることを拒みました。

 そこでイザヤはモアブが一夜の内につまづき倒れるとも預言するのです。自分の力を素直に認めることができれば良いものを、なかなかそうできないために頑ななままに滅びにつき進む不自由さが人間にはあるものですねえ。

 しかしこの預言で私が印象深く思うのは、そのような頑なな心を持った人間に心を痛める愛に満ちた神の存在です。神は言います。「わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために、竪琴のようにわななく。」 はらわたも内臓も人間の感情の座を象徴しています。神は頑なな人間に、ことばにならない、内側から込み上げてくるような悲しみを味わっているのです。神は救いたいと思う。けれども、人間が抵抗するなら救い出しことはできない。かくも人間に対して深く心を動かしておられる神がおられることを、ぜひ聖書を読んで知っていただきたいと思います。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2020.5.20放送でのお話より )

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■日々、聖書を調べる / 板倉邦雄

2020年07月14日 | Weblog

2020/5/19放送
 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「日々、聖書を調べる」という題でお話ししましょう。使徒の働きで言われている聖書は旧約聖書のことです。当時、旧約聖書はヘブル語からギリシャ語に訳されていましたので、ヨーロッパのマケドニアでも読まれていました。旧約聖書は信仰と生活の唯一の基準となっていたからです。使徒の働き17章です。

 さて、パウロとシラスは夜の内にテサロニケでの暴動騒ぎの中、約80キロ離れたベレヤの町へ信徒たちによって送り出されました。二人はベレヤに到着すると、直ちにユダヤ人の会堂に行きました。ここにいるユダヤ人たちはテサロニケの人々よりも素直でした。パウロの語る聖書からの教えを心から受け入れたのです。それだけではなく、パウロの語る教えが果たして旧約聖書に基づいているかどうかを知ろうとして日々聖書を読み調べていました。

 私たちキリスト信徒は日々聖書を通読しています。ポンフー信者にはなるな、とよく言われました。日曜日になると埃のたまった聖書をポンと叩いてフーッと埃を落として教会の礼拝に来る信徒になってはいけないと言うことです。

 私たちは何のために日々聖書を読み、調べるのでしょうか。一つは自分の信仰と生活の糧としたり人生の指針にするためです。人はパンだけで生きるものではなく神の口から出る一つ一つのことばによって生きるものだからです。そしてもう一つは、教会や集会で語られ教えられていることが本当に聖書に基づいたものなのかどうかをチェックするためでもあるのです。鵜呑みにしてはいけないのです。

 ところが、テサロニケのユダヤ人たちはパウロがベレヤの町でも神のことばを伝えているのを知って、ベレヤにも押しかけて来たのです。そして民衆を先導して騒動を引き起こしました。人の妬みというものはまさに地獄の炎なのですね。

 そこでベレヤの信徒たちは直ちにパウロを送り出し、海辺の港町まで連れて行きました。同行者のシラスとテモテはベレヤに居残りになったのです。パウロを案内した人たちはギリシャの都アテネまで同行し、連れて行きました。パウロはシラスとテモテとに、なるべく早くアテネに来るように、と案内人に伝えたのです。続く。

  (PBA制作「世の光」2020.5.19放送でのお話より ) 

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■結婚の祝福 / 岩井基雄

2020年07月13日 | Weblog

2020/5/18放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 第3週の月曜日の今日はマルコの福音書から結婚の祝福を一緒に考えてみましょう。

 私たちには欠けや弱さがあり、支えあう他者を必要とします。特に結婚は弱さを認め、相手の存在を喜び、心から愛する決意を必要とします。それは感情ではなく意思を基盤とした愛です。自己中心さや甘えが出やすい夫婦間は、時に相手を深く傷つけることがあります。それゆえ自分の愚かさを正直に認め、愛を学び続けていくことが大切です。容易ではありませんが、結婚の祝福は周りにも大きな恵みを与えます。

 キリストの元にパリサイ人と呼ばれる学者たちが来ました。そしてイエスを試し、夫が妻を離縁することは律法にかなっているか?、と質問したのです。律法とは、神が神の人モーセを通して神の民に与えた戒めです。彼らは律法を大切にし、順守していたのです。

 「モーセは・・・何と命じていますか?」(マルコの福音書 10章3節)と尋ね返したキリストに彼らは待ってましたとばかり、「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」(マルコの福音書 10章4節)と答えます。彼らはキリストを困らせ権威を落としめたかったのです。

 しかし彼らの思いに反して結婚の重要さをこう語りました。
 「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。
              新約聖書 マルコの福音書 10章5節から9節。


 結婚は神が結び合わせたものであり、二人が一つとされる豊かな祝福であり、人が安易に引き離してはならない、とキリストは教えたのです。学者たちこそ心の頑なさを問われたのです。しかしそこにもキリストの、彼らとそして私たちへの招きがありました。自分の罪深さや頑なさを認め、愛の原点に戻るとき、あらゆる人間関係も結婚も、祝福のあり方を回復することができるからです。無条件の神の愛を十分に受けて、周りの方々に愛を届けるものとさせていただきたいと願います。

  (PBA制作「世の光」 2020.5.18放送でのお話より ) 
 
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■偶像崇拝をするソロモン王 / 羽鳥頼和

2020年07月11日 | Weblog

2020/5/16放送
 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は聖書が語っているソロモン王のエピソードの3回目です。今まではソロモンが神に従う信仰を持っていて神から知恵をいただいたこと、またソロモンが神によって神殿を建設したことをお話ししました。これだけならソロモンは信仰深い王ということができますが、聖書はソロモン王の悪い面もはっきりと語っています。今日は旧約聖書の列王記第一11章で語られているソロモン王についてお話しします。

 ソロモン王は最初、エジプトのファラオの娘と結婚しました。そしてその後、さらに多くの外国人の女性と結婚をしたのです。その外国とは、モアブ、アンモン、エドム、シドン、ヒッタイトでした。神はかつてこれらの国々の人々と結婚をしてはならない、さもないとこれらの人々は必ずあなたがたの心を転じて偶像の神々に従わせる、と警告しておられたのです。しかしソロモンは神のこの警告を聞きながらも彼女たちを愛して離れませんでした。聖書はこう語っています。
 「彼には、七百人の王妃としての妻と、三百人の側女(そばめ)がいた。その妻たちが彼の心を転じた。」(列王記第一11:3 )
 ソロモンが年をとった時、その妻たちが彼の心を他の神々の方へ向けてしまったのです。こうしてソロモンは各国の偶像の神々を国に取り入れてしまいました。ひどいことに、まことの神のための神殿を建てたエルサレムの近くに、それらの偶像を礼拝するところを作ってしまったのです。聖書はこう語っています。
 「こうしてソロモンは、【主】の目に悪であることを行い、・・・【主】に従い通さなかった。」(列王記第一11:6 ) 
 こ神は二度、ソロモンに偶像崇拝をやめるように命じられましたが、ソロモンは従いませんでした。

 そのため神はソロモンに、「わたしが命じたわたしの命令を守らなかったので、わたしは王国をあなたから二つに引き裂いて、そのほとんどをあなたの家来に与える。」(参照 列王記第一 11:11 )と言われたのでした。ソロモンは信仰深い王でしたが、神に従い通すことができなかったのです。

  ( PBA制作「世の光」 2020.5.16放送でのお話より )
 
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■道、真理、命 / 関根弘興

2020年07月10日 | Weblog

2020/5/15放送
 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス様は弟子たちに、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネの福音書14:1 )と語られました。そして、私たちがその天の住まいに行く道も備えてくださっている、と約束しておられます。その時弟子のトマスはこんな質問をしました。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」(ヨハネの福音書14:5 新改訳聖書第三版 )

 トマスがこのように質問する気持ちは理解できると思いませんか? 「父の家には住む所がたくさんある」(参照 ヨハネの福音書14:2 )とか「場所を備えに行く」(参照 ヨハネの福音書14:2 )とか言われても、何のことなのかよくわからないし、一体イエス様はこれからどこに行ってしまうのだろう、これから一体何をするつもりなのだろう、私たちには想像もつかない・・・、まあきっとこんな思いだったのではないかと思います。

 実はトマスの「どうして、その道が私たちにわかりましょう。」というこの質問は人間の本質を突いた質問だと思います。「道」と言うのは人の生き方や作法などにも使われる表現ですよね。トマスの質問は、人間がどんなに努力をして生き方を探り修行を重ねたとしても、自分の力でどれほど追求したとしても、天へと続く道は一体どこにあるのか、どんな生き方をすれば天の住まいというゴールに行けるのかわかりません、ということだと思うんです。

 それに対してイエス様はズバリこうお語りになりました。ヨハネの福音書14章6節
 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」 ま、このようにイエス様ははっきりと「わたしが道である」と言われました。つまり、私たちの生き方や努力や修行によって天の住まいにたどり着くことはできない、イエス様という道であり真理でありいのちなる方によってでなければ天の住まいに入ることはできない、とこのように言われたのです。もし道がまやかしや偽りであったら、迷路や袋小路、暗闇に迷い込んでしまうでしょう。しかしイエス様はまことの光なるお方であり、真理なるお方です。そしてイエス様は、「さあ、一緒に歩もう。」と今日もあなたを招いておられるのです。

      (PBA制作「世の光」2020.5.15放送でのお話しより)

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■ルカの福音書15 -この身になりますように / 大嶋重徳

2020年07月09日 | Weblog

2020/05/14放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。今朝は有名な、マリヤの受胎告知箇所です。天使はマリヤのそばに入って来て言います。「おめでとう、恵まれた方。」(ルカの福音書1:28) 当然「マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」(ルカの福音書1:29)とあります。

 すると天使は言いました。「あなたは今妊娠をしていて男の子を産みます。しかもその子はイエスという名を付けられ、王位を継ぐ存在となります。」(参照 ルカの福音書1:31-32)

 しかしこの時彼女には結婚を約束していたヨセフがいました。相手は真面目な人でした。結婚の前の身体の関係をお互いまだ持っていない、互いにきよさを求め、結婚の日を待っていました。そのヨセフに「今日ねえ、天使ガブリエルが現れてー、私、聖霊によって身篭っちゃったんだよねー」(※)と言ってヨセフが「ああ、それはよかったねー」と受けとめてもらえる話ではありません。二人の関係は破談になることは間違いない。

 しかしここで平気でガブリエルは、「おめでとう、恵まれた方。」と言うのです。ここにキリスト教信仰の独特な性格が表れています。つまり、恵みとは何か、ということです。私たちが最悪の事態だと思って当たり前のことの中に神の恵みがあるのだ、と聖書は語るのです。思い出したくもない過去の痛み、裏切られ傷つけられた親子関係・友人関係、あるいは押し付けられた会社での失敗、それらの中に神の恵みがあると言われても一体どこにあるんだよー、と思います。そしてマリアと同じく叫びたくなる。そのような事態の中にあって、キリストにある神の恵みが輝き出ることが起こることをこの物語は教えています。

 「恵み」ということは「神からの賜物」という意味です。人間の物差しでは分らないものです。そして恵みとは私たちの欲しいものばかりではありません。神様は時に私たちが一番手にしたくないものを恵みとして与えられるのです。しかも、「おめでとう」という何の悪気もないことばとともに。そこで私たちは戸惑います。しかしそのような戸惑いながら受け取ったものに、自分の計画では思いもつかない大きな喜びをもたらすものであると言うことをやがて私たちは知っていくのです。あの出来事があったからこそ今私は神と出会えた。・・・皆さんの中にもそういう出来事があるのではないでしょうか。そういう受け取りたくない恵みに対して、受け取り慣れていくことが必要です。そしてそこから、何が私の人生に起こっていくのだろうか、とワクワクしながら人生を待つ。この待つ時間、待てる心にこそ信仰の輝きが現れていくのです。

    ( PBA制作「世の光」2020.5.14放送でのお話しより )

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