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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■苦難からの叫びに応える神 / 岩井基雄

2019年07月08日 | Weblog
2019/6/3放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 第一週の月曜日は詩篇から学んでいますが、今日は詩篇107篇の前半から「苦難からの叫びに応える神」と題して神に信頼する人生に心を留めてみましょう。

 この詩篇も先の105篇や106篇と同様に、バビロン捕囚から帰還した人々に対し、主が様々な危機に際して恵みを示されたことに感謝をささげるように呼びかけている詩篇です。バビロン捕囚とは神の民イスラエルが神に従わなかったゆえにアッシリアや新バビロニアによって滅ぼされ、神の民が捕虜として敵国に曳いていかれたことを示しています。確かにバビロン捕囚は神のさばきでした。主権者なる神様に従わず罪を犯し続けた神の民を神ご自身が戒められたのです。しかし敵国にあっても彼らは守られ、敵の王からも信頼され、政治に関わる者も起こされていったのです。特に苦難の中でこそ私たちの信仰は守られ支えられていくのですね。しかも神様は御自身の民を憐れみ、敵国から解放し、約束の地へと戻してくださったのです。

 それらのことをこの詩篇は次のように歌っています。
 「飢えと渇きによって 彼らのたましいは衰え果てた。
  この苦しみのときに 彼らが【主】に向かって叫ぶと
     主は彼らを苦悩から救い出された。
  ・・・
  【主】に感謝せよ。その恵みのゆえに。
     人の子らへの奇しいみわざのゆえに。
  まことに主は 渇いたたましいを満ち足らせ
     飢えたたましいを良いもので満たされた。
」 
  旧約聖書 詩篇107篇5節、6節、8節、9節

 神の民は敵国で肉体的、精神的また霊的に苦しみました。文字どおり魂が衰え果てたのです。しかしその苦しみの中でこそ彼らは主に向かって叫び、神様への信頼を取り戻したのです。そして主は彼らを苦悩から救い出され、そればかりか魂を満ち足らせ、良いもので満たしてくださったのです。

 聖書が語る神様はあなたにも敢えて苦しみを与えます。しかしその中であなたはまことの神である主に向かって叫び求めるとき、あなたを苦悩から救われるのです。それはあなたも神である主に愛されているからです。

  (PBA制作「世の光」 2019.6.3放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■神にささげる礼拝 / 羽鳥頼和

2019年07月06日 | Weblog
2019/6/1放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は旧約聖書詩篇65篇1節から4節のみことばから、神への礼拝についてお話ししたいと思います。
 1節でこのように語られています。
 「神よ 御前には静けさがあり シオンには賛美があります。 あなたに誓いが果たされますように。

 神の前にある静けさとは礼拝を捧げる者の礼拝前の姿勢であると思います。御前の静けさとは静まること、黙って神に心を向けることです。神に礼拝をささげようとする人は自分の罪を顧みて、神を恐れ敬い、黙って神に平伏すのです。そして「私の罪をお赦しください」と神に祈るのです。

 1節は続けて神に礼拝をささげることによって神への誓いを果たそうとしていることが語られています。神を信じる者は「神のことばに従います」と誓います。そして神の助けによって神のことばを行うことができるのです。そのような神に感謝して神に礼拝をささげるのです。

 更に2節では、「みもとにすべての肉なる者が参ります。」と語られています。「みもと」とは神の前にということです。神の所にやってきて神に礼拝をささげるのはイスラエル人だけではありません。世界中の全ての人が神に礼拝をささげる事が覚えられているのです。「肉」ということばは罪を表すことばです。しかしこれは神によって造られた肉なるものである人間が神に罪を赦されて神に礼拝をささげるために世界中から神の所にやってくると語られているのです。

 私はイエス・キリストのことばを思い出しました。イエスは言われました。「わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。・・・今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」 新約聖書 ヨハネの福音書4章21節、23節

 明日は日曜日です。私たちも父なる神を礼拝しましょう。お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2019.5.25放送でのお話より )
 
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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
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■イエスだけであった / 関根弘興

2019年07月05日 | Weblog
2019/5/31放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス様の生涯を記した福音書の中に、イエス様がペテロとヨハネとヤコブの三人を連れて高い山に登られた出来事が書かれています。山に着くと弟子たちは疲れていたのでしょう、眠気を催してうとうとし始めてしまいました。その時でした。何と白く光り輝く栄光の姿に変貌したイエス様の姿を見たのです。そして更に驚いたことにその場所に、あの旧約聖書で有名なモーセとエリヤが現れ、イエス様と話合っていたというのですねえ。素晴らしい光景を見ていた弟子たちでしたが、雲が沸き起こって、雲の中から「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」という父なる神様の声がしたのです。そしてこの声がした時、そこに見えたのはイエスだけであった、と記されています。

 実はこれはとても象徴的なことばなんです。私たちは特別な経験も神秘的な場所も必要ありません。イエス様がそこにいてくださるならそれで十分だ、ということを聖書は私たちに教えているんですね。

 パウロという人が記した手紙、第二コリント12章9節に、イエス様がパウロに「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さの内に完全に現れるからである。」と言われたことが書かれています。このことばはリビングバイブルという聖書の訳では、「わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。」というに訳されています。イエス様が私たちと共にいる、それで十分ではないか、という訳ですねえ。なぜならイエス様のうちに神様の栄光が、そして愛が、力が、恵みが、そして真実が満ち溢れているからです。

 イエス様はご自分の方から私たち一人ひとりのもとに来てくださいました。山の上の特別な経験も、ま、時にはあるかもしれませんが、大切なのは日常生活の中に私たちがどこにいてもいつもイエス様が共にてくださるというその約束に生きていくということなんですね。わたしは山に登るような経験が人生の中には、ま、何度かあるかもしれません。でもどうでしょうね、99%は日常の場で過ごしています。そうした中で疑問の湧くこともあるし、弱さを覚えて落ち込むこともあるでしょう。問題も起こります。しかし今日ぜひ知っていただきたいんです。そこに見えたのはイエスだけであったという、そのことばを心に刻んでいただきたいんですね。イエス様がそこにてくださるのなら大丈夫だからです。
     (PBA制作「世の光」2019.5.31放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 -自由への励まし107 / 大嶋重徳

2019年07月04日 | Weblog
2019/5/30放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書のことばは間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。十戒第九戒は「隣人に対し、偽証してはならない。」(申命記 5章20節 新改訳第三版、参照出エジプト記20章16節)とあります。

 私たちが聖書を読んだとき、イエス様と出会ったとき、イエス様は率直に私たちの罪の問題を話してくださいました。私たちの過ちを曖昧にせず、あなたには罪がある、とはっきりと指摘してくださったのです。そのとき、隠れていて暗い所を持っていた私たちた人生に光が差し込んだのです。本当のことを愛を持って言ってくださるイエス様の存在にむしろ感謝をするようになりました。なぜなら罪の指摘だけではなく罪の赦しもそこで語られたからです。愛の十字架が私たちに示されました。このイエス様と出会ったときに、私たちは互いの間でも偽りの証言をする事をやめるようになりました。イエス様に導かれて生きる者が選び取る生き方は、真実を語り合う交わりの形成です。偽りの証言が平気でなされる世界に向かって私たちは間違っていることは間違っていると愛をもって語るのです。その動機が愛ではなく自分の正義感を訴えたいだけの主張であるならば、隠れた所は更に隠れていくこととなりますし、閉ざされた心は更に閉ざされていくこととなります。

 私は振り返ると真実を正直に話してくれる人によって育てられてきました。私の心が痛くなるような助言をしてくださったことによって私は育てられてきたのです。その方も言わずに済むならば言わないで終わる方が良かったでしょう。もしかするとその助言に私が反発するかもしれません。仲が険悪になるかもしれません。しかしこのまま言わないままで終わってしまうならば私の人生のどこかで大きな失敗をするかもしれない、と苦言を敢えててしてくださったのです。私の側でもそんなにすんなり受けとめられることばかりでもありませんでした。言われていることはもっともだけどそんな言い方はないんじゃないか、と反発する心が生まれて来ることもありました。しかし、言われるだけの原因を自分が持っていた事も確かだったのです。

 真実を言うのにはエネルギーが要ります。嫌われる覚悟も必要でしょう。しかしイエス様は愛するがゆえに私たちの罪を指摘し、愛するがゆえに私たちの弱さに開き直る姿を見逃したりはされません。今日もこのイエス様に愛され、神様のことばによってズバッと言い抜いていただきたいと思います。

    ( PBA制作「世の光」2019.5.30放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■あなたがたは幸せになる / 福井 誠

2019年07月03日 | Weblog
2019/5/29放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。
 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進む毎に不思議にも自然と養われていくものがあるものですね。では今日も聖書を開いて参りましょう。今日は列王記第二25章24節 「あなたがたは幸せになる」と題してメッセージをお伝えいたします。
 「カルデア人の家来たちを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。
  
 列王記最後の章はエルサレムの陥落、南ユダ王国の最後が記録されています。この時バビロンの王ネブカドネツァルは南ユダ王国に援軍を送りかねない。南側のエジプトを阻止し、更に北側のフェニキアの港も封鎖し、エルサレムを孤立無縁にさせています。そして侍従長(親衛隊の長)ネブザルアダンによってエルサレムを攻撃させる実に周到な戦略を持ってエルサレムを陥落させました。しかしながら、それは預言者エレミヤによってあらかじめ語られていたことでした。しかもエレミヤはその危機的状況の中で、「あなたがたはバビロンのくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。」とバビロンに降伏して生き延びるように勧告していたのです。にもかかわらずゼデキヤはネブカドネツァルに反逆し、全てを失ってしまいます。バビロンの王ネブカドネツァルはゼデキヤに替わってゲダルヤを総督とし任命しましたが、ゲダルヤはエレミヤの預言がまことの神のことばであることを認め、イスラエルの民にバビロンの王に仕えて神の祝福を得るように勧めるのです。

 しかしなぜゼデキヤはエレミヤのことばを受け入れなかったのでしょう。ゼデキヤの周りには偽預言者がいたとされます。彼はエルサレムの陥落を告げるエレミヤよりも、バビロンの没落を告げる偽預言者のことばを受け入れました。人には耳あたりの良いことば、自分の願望を支えることばに聞く弱さがあると思えば、よく理解できることですねえ。確かにいつも人は真実のことばよりも自分の思いや願いを支えることばを探し求めているものです。しかしたとえ耳に痛いことばであっても、神のことばは私たちの究極的な幸せを告げるものです。聖書を開いて主のことばに耳を傾けましょう。では良き一週を祈ります。
  
 (PBA制作「世の光」2019.5.29放送でのお話より )

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■サウロの変身 / 板倉邦雄

2019年07月02日 | Weblog
2019/5/28放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
今日は「サウロの変身」という題でお話しします。

 同じ人間がここまで変われるものだろうか、サウロという人物はまさにその証しとなりました。使徒の働き9章の続きです。

 さて回心したサウロはダマスコにいるキリスト信徒たちと共に過ごしました。その後、直ちに安息日ごとに諸会堂へ行っては神様を礼拝し、集まった人々にイエスの出来事を宣べ伝え、このナザレのイエスこそ神の子である、と説教を始めたのです。
 「ナザレのイエスは私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださいました。そればかりではありません。イエスは神の子でしたから、三日目に主なる神はイエスを死人の中からよみがえらせました。私はダマスコ郊外でこの復活のイエスにお会いしたのです。」 

 この説教を聞いた人々はみな非常に驚いてしまい、口々に言いました。「あの男は確かエルサレムの都で(イエスの信奉者たちを)迫害した人ではないか。その上、このダマスコまでやってきてもイエスの信奉者たちを縛りあげて引っ張っていくためではなかったのか。」 人々はサウルの変身ぶりに驚きを隠すことはできませんでした。ミイラ取りがミイラになってしまったからですね。

 サウロはイエスの十字架と復活を語るときになりますと、ますます力が加わり、このイエスこそ私たちが待ち望んでいた救い主であることを論証してダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せたです。しかしこのサウロの変身を面白くを思わないユダヤ人たちがいました。ダマスコの多くのユダヤ人たちがイエスを神のことを信じるようになっていったからです。

 サウロを裏切り者と思っているユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしました。その陰謀がサウロの知るところになったのです。ダマスコの門には一日中、見張りが張り付いていました。そこでサウロの仲間たちが夜中、サウロをかごに乗せて彼を逃したのです。

 私たちも主イエスを信じるとき、新しく生まれ変わることができます。

 聖書のことばです。
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
   古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

       コリント人への第二の手紙 5章17節

  (PBA制作「世の光」2019.5.28放送でのお話より )

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■「故郷」の作曲者 岡野貞一 / 岩井基雄

2019年07月01日 | Weblog
2019/5/27放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第四週の月曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいます。
 今日は、「うさぎ追いし、かの山」で始まる「故郷」の作曲者、岡野貞一について学んでみましょう。

 岡野貞一は1878年、明治11年、今の鳥取県鳥取市に士族の子として生まれました。彼は幼少期に実の父親を亡くし、貧困の中、育ちます。14歳のとき、彼はあるきっかけで近くの鳥取教会へと導かれ、聖書が語る神様の愛とぬくもりに触れます。そしてキリストへの信仰を告白し、鳥取教会で洗礼を受け、讃美歌や西洋の音楽にも触れるのです。岡山の美容学院で学ぶ中、宣教師に彼の学才が認められ、1895年には学院を中退し、上京して東京音楽学校---現在の東京芸術大学--- に入学します。卒業後はその東京音楽学校で教鞭を執り、1932年に退官するまで、音楽教育の指導者育成に尽力しました。それと並行して、1918年からは文部省編纂の尋常小学唱歌の作曲委員も務めたのです。そして高野 辰之(たかの たつゆき)の作詞により「ふるさと」「春が来た」「春の小川」「もみじ」などの唱歌の名曲を生み出していったのです。しかし唱歌の著作権は文部省に帰属しているため、作者名は戦後まで殆ど明らかにされませんでした。さらに岡野は自分の姿勢として自らの業績を学内や教会、教え子や家族にも伝えなかったのです。神様の前にへりくだった姿をそこに見ることができるでしょうね。また彼は63歳で天に帰るまで42年間、東京の本郷中央教会の教会オルガニストそして聖歌隊の指導者として活躍しました。そのオルガン演奏も伴走者に徹した謙遜な主への奉仕だったと言われています。彼の葬儀が報告された教会の週報の最後には、「先生の黙々としてなされたすべての御奉仕が主によって永遠に祝福されることと信じます」と綴られたのです。

 聖書のことば
 「あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。
          新約聖書 ペテロ第一の手紙5章6節

  (PBA制作「世の光」 2019.5.27放送でのお話より )
 
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