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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■岩と呼ばれた男、ペテロ -1 / 原田憲夫

2016年04月19日 | Weblog
2016/4/19放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 原田憲夫です。

 今日はキリストの弟子ペテロを紹介します。
ある日イエス・キリストは12弟子たちとイスラエルの北ピリポ・カイザリヤという村へ行きました。そこでキリストは弟子たちに尋ねました。「人々はわたしを誰だと言いますか?」 すると弟子たちは、「神が遣わされた特別な人、神の人と見ています。」と答えます。そこでもう一度聞きます。「ではあなたがたは、わたしを誰だと言いますか?」

 約三年間寝起きを共にしてきた弟子たち一人ひとりに、「あなたはわたしを誰だと言うのか?」と改めて聞いたのです。人々ではなく、「あなたがた」「あなたは」と尋ねたのです。

 あなたにとってイエス・キリストとは誰か。
 多くの人が、「私には関係が無い人」と答えるでしょうか。けれども、このお方はこれまでのあなたや私の人生を全く変えてしまう大事な存在なのです。

 弟子の一人シモン・ペテロが答えます。「あなたは生ける神の御子キリストです。」 キリスト・・・それは救い主ということです。つまりペテロは、「あなたは私の救い主です。」と答えたのです。ただこの時のペテロは、まだこの答えの意味を十分には悟っていなかったでしょう。実際キリストがすべての人の罪を引受け十字架への道を歩まれた時、ペテロの心は激しく揺れ動きました。けれども、「あなたはキリストです。」との答えには、私はこの救い主キリストについていきます、という純粋な決意が込められていたのです。私たちにありがちな自分の都合の良い願いや、利己的な願望に応えてくれる損得勘定とは全く違う決意なのです。つまりペテロは、「あなたは救い主です。」と答えたキリストに自分の人生を自分の明日をすべて託したのです。その後、大きな失敗をしながらもペテロの人生はその名の通り、不動の岩となりました。

 今日キリストはあなたにも「わたしは誰なのか?」と尋ねています。あなたも今日、ペテロのように、「あなたはキリスト救い主です。」とキリストに人生を託しませんか? その答える先にあなたの新しい人生が、あなたの明日が開くはずです。さあ、新しい人生へと一歩踏み出してください。

  ( PBA制作「世の光」2016.4.19放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■寛容/関根弘興

2016年04月18日 | Weblog
2016/4/18放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 
 今日も新約聖書の中のパウロが記したエペソ人への手紙の中のことばを紹介しましょう。エペソ4章2節(、3節)。
 「 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

 パウロという人は私たちの人生において必要なことは謙遜であり柔和さであると教えています。そして今日のところでは「寛容を示しなさい」とも勧めていますよねえ。柔和と寛容は一対のものだと言っていいかもしれません。私たちは自分の基準や考えに合わないと、そういう人に対してすぐに怒りを覚える事がありますねえ。しかし寛容は怒りを抑え、コントロールすることができるのです。エペソ教会に書き送られたこの手紙を読むと、どうもこの教会の中には怒りっぽい人が結構いたようです。この手紙の後半には、4章26節には、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」(エペソ 4章26節)と書かれているほどです。ちょっと怒りっぽい人が多かったのでしょうねえ。

 聖書の真ん中へんに箴言があります。この中には怒りについていろんな警告を与えています。
 たとえば箴言14章29節に、「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。」と書かれています。また同じく箴言の15章1節には、「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。」 また30章の33節には、「怒りをかき回すと争いが起こる。」 面白い表現ですね。

 昔も今も、すぐに切れてしまい、寛容さが失われてしまう人の姿があったようですね。また詩篇の37篇という所には、「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。」(1節、2節) このように書かれています。

 いかがでしょうか、私たちは怒りやすく切れやすい、そんなものかもしれません。柔和さや寛容さが失われているということがあるかもしれません。だから私たちは祈るんです。「神様、どうぞ私の心をそして唇をコントロールしてください。感情を適切に制御してください。柔和さと寛容を私の心に育んでください。」 こんな祈りをささげながら歩んでいくものでありたいですね。

  (PBA制作「世の光」2016.4.18送でのお話しより)

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■神に奉仕する者たちの系図 / 羽鳥頼和

2016年04月16日 | Weblog
2016/4/16放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は旧約聖書の歴代誌第一6章に記されているレビ族の系図からお話します。

 レビ族はイスラエルの12部族の一部族です。レビ族は礼拝奉仕をするように神から選ばれた部族でした。レビ族は祭司とレビ人に分かれてそれぞれの礼拝の奉仕を行いました。彼らの奉仕によってイスラエルは神に礼拝をささげることができたのです。

 系図はまず、レビの三人の息子を祖先とする三つの氏族のことを紹介しています。次に大祭司の家系が記され、その3氏族ごとに系譜が記されています。その後には神殿で歌を歌って神に仕える人々つまり聖歌隊の人々の系図が記されています。そして祭司とレビ人はすべての奉仕を忠実に行なったことを記しています。

 そして系図の最後には、祭司とレビ人の住む町のリストが記されています。なぜ住む所が記されているのでしょうか。実はレビ族以外の部族は部族ごとに相続地として居住地が与えられていましたが、レビ族にはそのような居住地が与えられていませんでした。神はその代りに他の12部族の領地の中に住む場所と彼らの家畜を飼うための放牧地を与えられたのです。神は彼らの生活のことについてもちゃんと考えておられました。

 神は人が神を礼拝することを望んでおられます。しかし日常生活をないがしろにしても良いと言うのではありません。使徒パウロは、テサロニケの教会の人々にこのように言っています。
 「あなたがたは私が命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」(参照 1テサロニケ 4章11節 )

 今日の聖書から私は二つのことを教えられました。神を礼拝することが大切であるということがまず一つ。そしてもう一つは、神は私たちの日常生活のことを守ってくださるということです。

 明日は日曜日です。今日一日、落ち着いた生活を送り、明日の礼拝に備えましょう。そして明日はぜひお近くのキリスト教会にいらっしゃって、神に礼拝を捧げましょう。神はあなたがこられるのを待っておられます。

 (PBA制作「世の光」 2016.4.16放送でのお話より )
 
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が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■主が見張りとなって/岩井基雄

2016年04月15日 | Weblog
2016/4/15放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 今日は旧約聖書に登場するヤコブの人生について学んでみましょう。

 自分の父や兄を騙し、兄への祝福を奪い取ったヤコブですが、伯父ラバンのもとで過ごした14年間の間に、彼もまたラバンから裏切られたり、約束を反故にされたりする憂き目に遭います。他の人から騙される痛みや悲しみの経験は、彼を忍耐の人、待ち望む人へと少しずつ変えていきました。神様はヤコブに、自分の思いをあのラバンに伝える機会を与えてくださったのです。妻のラケルがラバンから盗み出したテラフィムに関して己の無実が証明されたヤコブは、この時とばかり積年の鬱憤を伝えることができたのです。

 私たちの人とのコミュニケーションは表面だけ整っていれば良いのではありません。時には本音を分かち合い、心の深い所で理解し合い、赦し合う必要があるのです。ヤコブもラバンも成熟とはほど遠い現実を抱えていましたが、共に神様の前に出る機会によって彼らは和解することができました。ラバンとヤコブは和解の印としてガルエデ「証しの塚」(参照 創世記 31章47節)と呼ばれる契約の石塚を建て、神様の前に不可侵条約にも似た契約を結ぶのです。

 聖書はこう記しています。
 「またそれはミツパとも呼ばれた。彼がこう言ったからである。
 『われわれが互いに目が届かない所にいるとき、主が私とあなたとの間の見張りをされるように。』
」 創世記 31章49節

 たとえ私たちの間に不信や不誠実があっても神様が見張りをされるならば私たちは守られ、天地万物を創造された神様の前では、その神様を十分に知らない人もまた整えられていくのです。神様に喜ばれる真実な歩みを選び取って行く時、私たちはどんな時にも恐れる必要のない歩みへと整えられ続けていくのです。私たちはどうであろうと神様は真実で誠実な方だからです。そして神様はあなたに誠実な歩みを求めていらっしゃいます。
 
 聖書のことば
 「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」 旧約聖書 ミカ書 6章8節

 あなたも神と人との前を真実に歩む人生を歩み始めてみませんか? 主が見張りとなってくださるのです。 

(PBA制作「世の光」2016.4.15放送でのお話しより)

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■ひどく怒らないでください/福井 誠

2016年04月14日 | Weblog
2016/4/14放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「ひどく怒らないでください」です。それではイザヤ書64章9節から読んでみましょう。
 「主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。
 
 先週に引き続いてイザヤの祈りから教えられていきます。ここでイザヤは信仰者を代表して神に祈っています。

 ところで神は間違ったことをなあなあで処理される方ではなく、イスラエルの民が神を捨て去って不法を重ねたことに対して厳しい裁きを与えられました。けれどもそういう厳しい一面がありながらも、神様は同時に愛をもって過ちから立ち上がらせてくださるお方です。

 本来ならば神の愛を踏みにじり続けて自業自得の滅びに突入していくのですから、そういう人はもうよしましょうよ、となるものでしょう。そういう人に必要なのは、憐みや恵みなんかではなく呪いですよ、となることでしょう。一度滅ぼしたのならもう二度と関わりあわない事ですよ、となることでしょう。

 けれども神は私たちの思いを超えた憐み深さを持っておられる方なのです。イザヤは神を父と呼んでいますね。神は私たちの身内であり、肉親のような方、愛情深いお方なのです。決して捨て去って終わりということはありません。

 ですからイザヤは祈っていますね。「主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。

 この時イザヤは北イスラエルが滅亡する歴史的な事件を目の当たりにしていました。そしていずれ生き延びている南ユダの国も滅びていくと確信したようですね。けれども、そこでイザヤは神の愛に期待して祈るのです。神は憐み深い方だから、ヘリ下るならば思い直して私たちを助けてくださるのではないか、と。

 どうでしょうか。神を信じる人は多いでしょうが、イザヤのように神の愛を求めて生きる人は少ないのではないでしょうか。悔い改めるならば私たちに心を開いてくださる神様がおられるのですから、その神様の前にへり下って神の愛を求めて生きる者でありたいものですね。

(PBA制作「世の光」2016.4.14放送でのお話より )

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■十の言葉(第八戒)  / 板倉邦雄

2016年04月13日 | Weblog
2016/4/13放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 板倉邦雄です。
 今日は、十のことばの第七戒をお読みします。
 「
」(出エジプト記 20章14節 口語訳聖書)

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は十戒の第8戒、「あなたは盗んではならない」です。

 この「盗んではならない。」は積極的な面を持っている命令です。それは私たち自身と他の人々の富や財産、生活状態を合法的に獲得し向上させることを求めているということです。聖書はこのようなことばがあります。
 「あなたの兄弟の牛、または羊の迷っているのを見て、それを見捨てておいてはならない。必ず牛や羊を兄弟のところへ連れて帰る。知らない人のものであれば、それを自分の家にひいてきて、あなたのところにおき、その人が尋ねてきた時、牛や羊を返す。」申命記の22章の1節から4節(を参照)

 今で言うなら、拾い物は持ち主に返すか交番に届けると言うことでしょうね。神様がこうおっしゃるのは、私たちが正当に所有している物は神様が所有権を持っているからですね。牛や羊は神様が造られた動物です。着物や食物、住宅の材料、・・・私たちが自分で造った者は何一つありません。神様は一方的に与えておいて更に私たちの正当な所有権を守ろうとしてくださっているのです。神様は私たちが正当に働いて合法的に所有することを認め、保護してくださっているのですね。

 昔から酒と女とギャンブルの三点セットは金を湯水のように使う快楽でしょう。それに、自分の手や足で働こうとしない怠惰な人は盗みを働くようになるからです。聖書はこう言っています。
 「快楽を好む者は貧しい人となり、・・・ 酒にふける者と、肉をたしなむ者とは貧しくなり、眠りをむさぼる者は、ぼろを身にまとうようになる。」 箴言21章の17節(と箴言23章21節 口語訳聖書)

 少しでも金品が欲しいから私たちは盗むのです。ですから盗みに走らないためにも自分の手で正当な働きをすることでしょう。そして自分に与えられている物で満足してゆくことではないでしょうか。
 聖書のことばです。
 「信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」テモテへの第一の手紙 6章6節から8節

 (PBA制作「世の光」2016.4.13放送でのお話より )

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■会堂管理者ヤイロ / 原田憲夫

2016年04月12日 | Weblog
2016/4/12放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 原田憲夫です。

 今日はキリストの弟子となった会堂管理者ヤイロを紹介します。

 ある日、ヤイロという会堂管理者がイエス・キリストのもとに来てひれ伏しました。12才ほどの自分の独り娘が死にかけている、家に来て何とか助けて欲しい、と言うのです。当時の会堂管理者というのはユダヤ人社会では信頼される人でした。キリストはそのヤイロの願いに応えて出かけました。ところがその途中、大勢の群衆が押し寄せ、また一人の病気の婦人を助けるため足止めされたのです。そうこうしている内に、ヤイロの家から使いが来てこう言うのです。「お嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」(ルカ 8章49節) この瞬間、唯一の希望の光が消えました。生きてる内なら希望はありましょう。しかし、死というどうにもならない現実の前に一切の希望は失われたのです。

 ところがこの場面でキリストはヤイロに言うのです。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」(ルカ 8章50節) この場に及んで何を信じると言うのでしょうか。誰もが終わったと思う場面で、キリストはヤイロに、キリストご自身を信じるようにと求めたのです。

 キリストを信じるということは恐れの対局、反対にあるものです。それは希望へと通じる唯一の道なのです。ただ信じなさい。この時、会堂管理者ヤイロはキリストにすべてを託しました。それは現実となりました。キリストはみなが泣き悲しんでいるヤイロの家に入ると、この娘の手を取り大声で言いました。「子どもよ。起きなさい。」(ルカ 8章54節) 
 
 すると誰もが目を疑うような不思議が起こりました。娘のいのちが死の淵から呼び戻されたのです。

 あなたはいかがでしょうか。今日の私たちがヤイロの娘と同じ仕方で不思議を経験するとは限りません。しかしもしもあなたが今何かの理由で一切の希望を失くしているのなら、あるいは生きる目標を見失っているのなら、キリストはあのヤイロと同じようにあなたにも言われるのです。「恐れないで、わたしを信じなさい。

 あなたがこのキリストの約束を心に受け入れるなら、あなたの人生に再び希望の火がともされるはずです。さあ新しい人生へと一歩踏み出してください。

  ( PBA制作「世の光」2016.4.12放送でのお話しより )

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■柔和 / 関根弘興

2016年04月11日 | Weblog
2016/4/11放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 
 今日も新約聖書の中のパウロが記したエペソ人への手紙の中のことばを紹介しましょう。エペソ4章2節(、3節)。
 「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
 
 前回は「謙遜」ということについて少し触れましたね。今日は「柔和」ということを考えましょう。「柔和」とは何でしょうか。今流で言えば、「すぐに切れない」という意味もありますし、「途中で決して投げ出さない」という意味もあるんです。

 それでは柔和の見本は一体誰でしょう。もちろんイエス・キリストです。新約聖書マタイの福音書11章29節でイエス・キリストはこう言われました。
 「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

 ここで「優しく」と訳されていることばが「柔和」とも訳されることばです。そして「柔和」とは、他の人の最善のために個人的に向けられる軽蔑や中傷や侮辱やその他どんな思惑によっても決して逸することのない心を指す、と言われます。イエス・キリストのことを考えてください。イエス様は人々の救いのために人々からの軽蔑や中傷や侮辱を受けても決してむやみに怒ったり、その歩みを止めようとはなさいませんでしたね。新約聖書の第一ペテロ2章の21節(~24節)にはこう書かれています。
 「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

 私たちはすぐに腹を立て、すぐに切れてしまいやすいものです。でもイエス・キリストという素晴らしい模範があるんですね。そしてその足跡に従うようにと一人ひとりは招かれているんです。困難や中傷があっても怒ったり諦めたりすることをせず希望をもって祈りつつ柔和な方であるイエス・キリストと共に歩んでいきましょう。

  (PBA制作「世の光」2016.4.11送でのお話しより)

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■名もなき礼拝者 / 羽鳥頼和

2016年04月09日 | Weblog
2016/4/9放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は旧約聖書の歴代誌第一に記されている系図についてお話ししたいと思います。

 系図というと自分の家系を明らかにするものでしょう。自分のご先祖が誰であるか、正統な家系かどうか、そして自分の身元の証明となるものであり、自分のアイデンティティーを知る手がかりでもあるのです。ですから、自分とは関係のない系図は余り意味が無いように思ってしまいます。でも聖書にある系図は私たちに無関係なものではないのです。

 歴代誌にある系図は人の祖先であるアダムから始まる膨大なもので、1章から9章に渡って記されています。何のためにこのような系図が書かれたのでしょうか。歴代誌が書かれたのは、バビロン捕囚後、祖国に帰還することができたユダヤ人がエルサレムの神殿を再建して神を礼拝することができるようになった頃と考えられています。エルサレムに戻った人々は自分たちが礼拝の民であること確認する必要がありました。自分たちは礼拝の民であるというアイデンティティを確認するために歴代誌の系図がまとめられたのです。

 歴代誌の2章を見てみましょう。2章はイスラエルの中に部族の一つユダ部族の系図です。族長のユダから始まってダビデ王家までの系図が記されています。ユダの家系は正当な王家の家系でした。歴代誌にはその主流の系図ももちろんあるのですが、そうでない亜流とも言える人々の系図もあるのです。2章ではカレブという人の系図がかなり細かく記されています。きっとカレブたちは真心から神に礼拝を捧げた人だったのでしょう。歴代誌2章のカレブは聖書の他の所には記録されていません。名もない礼拝者を神は忘れることはないのです。

 この歴代誌の系図は私たちと全く関係のないものではありません。イエス・キリストはこの様に言われています。
 「真の礼拝者たちが霊とまことによって父(※神)を礼拝する時が来ます。今がその時です。父(※神)はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」(ヨハネ福音書 4章23節)

 神は人がキリストによって救われて神を礼拝するまことの礼拝者となることを求めておられるのです。明日は日曜日です。キリスト教会では神を礼拝します。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

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■喜びと感謝をあふれさせる人生 / 岩井基雄

2016年04月08日 | Weblog
2016/4/8放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 今日は旧約聖書のの詩篇97篇から、「喜びと感謝を溢れさせる人生」と題して、神様の前を歩む人生の幸いを共に考えてみましょう。

 この詩篇97篇はイスラエルのバビロン捕囚からの回復を歌ったものだと考えられています。神の民イスラエルにとって自分の国が滅ぼされ、敵の国に捕囚となるという屈辱的な出来事から(バビロンの)王様の憐みによって回復し、元の地、神様の約束の地へと戻って来るということはどれほどの喜びと感謝の時だったでしょうか。

 詩篇の97篇の11節と12節をお読みします。
 「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。

 そもそもイスラエルの国が滅ぼされ敵の国へと引いて行かれることになったのは民の罪のためでした。彼らの内側は腐敗しており、まことの神様から離れて偶像礼拝に走ってしまっていたのです。この捕囚は彼らに対する神様の裁きでもありました。しかしこの屈辱的な苦しみの中で彼らは悔い改めへと導かれ、その心は徐々に正しい信仰の姿勢へと整えられて行ったのです。それらのすべてが神様の憐みであり恵みでした。バビロン捕囚は神の裁きであると共に、神様からの守りの時であり、罪の悔い改めによる喜びと感謝を回復する時となったのです。私たちもまた周りの状況によって一喜一憂することがありますね。しかしその問題は私たちの外側にはなく実は内側にあるのです。私たちの心がまっすぐに神様に向けられ、自分の罪を認めて悔い改め、神様の前の正しいあり方を回復する時、喜びと感謝の歩みが始まっていくのです。その時、私たちの人生は状況に左右されることのないまことの喜びと感謝に満ちたものとなるのです。

 あなたも神様に喜ばれない過ちや罪を心から悔い改め、神様の愛と恵み、赦しと正しさと大差を受け取りませんか? そして神様への感謝を表し、神様を賛美して歩んでみませんか? もう一度詩篇をお読みします。

 「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。
                 (詩篇97篇11節、12節)

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