♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■恵みとまこと 義と平和の出会い / 岩井基雄

2014年09月05日 | Weblog
2014/9/5放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。今日もご一緒に旧約聖書の詩篇を味わいましょう。

 今日は詩篇85篇9節と10節です。早速お読みします。

 「まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。

 先月もこの詩篇85篇を味わいましたね。イスラエルは国が分裂したあと、北王国イスラエルがアッシリヤに滅ぼされ、南王国ユダもバビロンの捕囚になるという憂き目に遭いました。しかしその屈辱的な敗北のあと、神様の憐れみによって新バビロニアは滅ぼされ、イスラエルの民はバビロン捕囚から解放され、故郷への帰還を許されたのです。

 しかしまだ帰還者たちは少数で、人々はイスラエル本来の復興を願っていました。現実はなお厳しい状況の中にありましたが、神の民イスラエルはそのような現実の中にあっても望みを持ち続け、神の約束に基づく神の王国の復興と確立を確信していたのです。それは彼らが神が憐れみ深くご自身の約束に誠実なお方であることを確信していたからなのですね。もう一度お読みします。

 「まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。

 神に信頼を置く民は神の約束に基づく不思議な助けと回復を心から待ち望むことができます。そしてまさに主からの助けは彼らの近くに用意されており、彼らは救いの完成を待っていたのです。その神の救いのわざは神の恵みとまことの出会うところであり、神の義と平和が一つとなるところです。神様に信頼を置く者はどんな失望の中にあっても、神様の愛と恵み、そして真実に期待し、待ち望む事ができるのです。

 あなたも神様の愛を受け取って、どんな中でも希望を告白する者とさせていただきませんか。神様の永遠の愛と真実は、あなたにも豊かに豊かに用意されているです。神と共に歩む人生、その人生があなたの前にも開かれているのです。

 (PBA制作「世の光」2014.9.5放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■主は永遠に支配される / 福井 誠

2014年09月04日 | Weblog
2014/9/4放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「主は永遠に支配される」です。それでは黙示録11章15節から読んでみましょう。

 「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。

 先週は苦しんでいる者がいつまでも放置されることはない。時は伸ばされず解放される時が来ることを確認するメッセージがありました。今日読む11章もその続きのお話です。

 二人の証人が出てきます。この二人の証人は荒布を着て預言をします。預言というのは神のことばを語り伝える程度の意味ですね。また荒布を着るのは、しばしば悲しみ・嘆きを表しています。つまり彼らが世の終わりまで宣べ伝えなくてはならない福音は、人々の罪を示し、それを悔い改めさせるものでしたから、それは大変困難な働きでした。確かに悔い改めを勧めることはこれまでの生き方を否定することでしょうから、なかなか受け入れがたいことでもあります。ですから彼らは拒絶され迫害されて結局殺されてしまったという訳です。彼らが殺されると、地に住む人々、つまりこの世的な価値観・生き方をしている人々が重しが取り除けられたようにそれを喜び祝ったとあります。

 けれども物語はそれで終わりではありません。二人の証人はよみがえるのです。そして天に迎えられます。そのありさまを見て人々は驚いて天の神をあがめ、つまり神を信じるようになることが描かれています。
 大ざっぱな粗筋はそんなところですが、大切なのは当時の人々がこの物語を聞いて何を思ったかですね。まさにローマ帝国の迫害の中にあって、嫌がらせを受け、獣と戦わせられて死に至らしめられたキリスト者たちがいました。しかし先週もそのような苦しみは長く続かない、必ず解放の時が来る、と語られました。今日の箇所は獣と戦わせられて命を落とすことがあっても必ず永遠の復活の主に与るのだ、と語られています。これらのことばに当時のキリスト者が励ましを受けたことは確かなことでしょう。

 やがてキリスト教はローマ帝国に国教として認められ、繁栄していく時代がやってきます。歴史は主のことばが確かであることを示しています。ヨハネが語る主が永遠に支配される日も確かに来るのです。神のことばを信じましょう。

(PBA制作「世の光」2014.9.4放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■悪意から出たことでも / 板倉邦雄

2014年09月03日 | Weblog
2014/9/3放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「悪意から出たことでも」という題でお話ししましょう。聖書の神様は創造の神、摂理の神、そして贖罪の神、と言われています。今日は摂理の神様についてお話ししたいのです。

 さてヨセフの父ヤコブが死に葬儀が済みました。兄達は急に心配になってきたのです。父親が死んでしまった今、どんな仕返しをされるか分りません。「ヨセフには随分ひどい事をしたからなあ。今度こそ仕返しされるかもしれない。」 そこでヨセフに手紙を出しました。「実は父さんが死ぬ前に言い残したことがあるのです。我々とあなたの仲を心配して、過ぎたことは水に流すように言ってくれ、それだけが気がかりだ、と申していました。我々はあなたの父の神様に仕えるしもべです。どうぞ昔のことは赦してください。」 ヨセフは手紙を読むと激しく泣きました。兄たちも気が気ではなく、わざわざ出向いてきました。「手紙で申し上げた通り、我々はあなたの奴隷です。」 揃ってヨセフの前に平れ伏し、恐る恐る言いました。

 ところがヨセフの返事は意外でした。「そんなに怖がらないでくださいよ、兄さん。私だって神様じゃないんですから。さばくの罰するのと大それたことなどできません。そりゃああの時は随分ひどい事をするもんだと思いました。でもそのおかげで家族みんなが助かったじゃありませんか。悪意から出たことでも神様はちゃんと良いことに役立てられたのです。私のような者が今日あるのはみな神様の深いお考えがあってのことだったのです。たくさんの人のいのちを救うためなんです。だから心配なんかしないでください。」

 摂理の神様はどのような神様であるか、ヨセフの優しいことばの中にありましたね。神様は私たちとこの世界に対して大きな計画と目的を持っていると言うことです。私たちはその神様の舞台でそれぞれの役目と言いますか役割を演じています。そして人の悪意から出た行為でありましてもその悪意さえも用いて、最終的に神様の計画通り導き、良いことに役立ててくださるのです。

 ローマ人への手紙8章28節を引用しましょう。

 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

 (PBA制作「世の光」2014.9.3放送でのお話より )

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このサイトは URL名として
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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■神のわざが現れるため 1 / 大嶋重徳

2014年09月02日 | Weblog
2014/9/2放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 ヨハネの福音書9章には、生まれつき目の見えない青年が出てきます。イエス様の弟子たちがその目の見えない青年を見て、イエス様に質問して言いました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは誰が罪を犯したのですか? この人ですか? その両親ですか?」 何と残酷なことばだろうと思います。「あそこの子どもな、なんか目が見えへんらしいで。あそこのオヤジ、結構若い頃無茶してたからやな。」 これが当時のユダヤ社会の考え方でした。生まれてからずっとこう言われ続けていると、俺がこうなったんは親のせいや、と彼は自分の親を憎く思ったこともあったでしょう。また、親は親で目の見えない息子が生まれてからずっと、「あそこの息子見てみい。あの人、ええ人のように見えてたのに、裏では何をやっているか分からんなあ。」と、謂れのない陰口を叩かれたりする訳です。また「ほんまに自分のあの時の罪のせいで、この子は目が見えなくなったんかなあ」と、自分のことを何度も何度も責めた夜があったでしょう。

 8節を見ると、目の見えない彼は物乞いをしていた、とあります。彼は家を追い出されたか、自分から家を出てきたのです。この家族は壊れてしまっていました。

 この弟子たちが語った「イエス様。彼の目が見えないのは彼のせいですか? 親のせいですか?」というユダヤ社会の当然は彼ら家族をどれだけ傷つけてきたでしょうか。しかしイエス様は弟子たちにはっきりと「この人でも両親のせいでもない。」とおっしゃいました。実は私たちの間にも顧みることなく当然のように口にしてしまっていることばがあるのではないか、と思います。当事者がどんな思いでその事を考えているのか、その事に心を痛めているのか、を考えずに発してしまっていることばの数々。イエス様のことばに出会うとき、善意であっても誰かを傷つけている人間のことばに気が付いていくことが起こります。このイエス様のことばの真実に触れるとき、自分のことばを顧みる機会が与えられ、神様の見つめておられる視点が与えられます。是非とも聖書を読んでみていただきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2014.9.2放送でのお話しより )

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■わたしを愛しますか? / 関根弘興

2014年09月01日 | Weblog
2014/9/1放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしですか? 関根弘興です。

 イエス・キリストは十字架に捨てられ三日めに復活されたこと、これは聖書の中心だと言っても過言ではありません。イエス様が復活された後、弟子たちは故郷であるガリラヤに戻り、湖で漁をしていました。しかし弟子たちは夜通し網を打っていましたが何も獲れませんでした。夜が明け染めた時、イエス様が岸辺に立たれ、「舟の右側に網を降ろしなさい!」と言われたのです。弟子たちがその通りにすると、何と大漁の魚が獲れたんですねえ。そればかりかイエス様は彼らのために炭火を起こし、朝食を用意されていました。何と麗しい光景でしょう。

 弟子たちは都であるエルサレムで復活したイエス様に最初にお会いした後、ガリラヤに戻っていました。しばらくはこの場所で漁師をしながらイエス様の恵みを伝えて行こうと思ったのかもしれません。それが自分たちの使命だと考えていたかもしれません。

 しかしイエス様の計画は違いました。彼らはイエス様が十字架につけられ三日目に復活されたことの大切な目撃者たちです。ですから復活の目撃証言者としての特別な使命を受けて全世界に出て行く必要がありました。

 さて朝食を済ませると、イエス様はペテロにこんな質問をしました。「ヨハネの子シモン。あなたはこの人達以上に私を愛しますか?」 こう尋ねたのです。

 思い出してください。イエス様が十字架につけられる前に、ペテロは「たとい全部の者がつまずいても、私はつまづきません!」と言い張った男です。ペテロは、イエス様を愛することにかけては自分が一番だ、と自負していたのでしょう。しかしそんなペテロでしたが、何と、いとも簡単にイエス様を3度も否んでしまったんです。このことはペテロにとって自分の無力さ弱さを知る大きな出来事となりました。

 しかし今イエス様はそのペテロに、「私を愛するか?」と3度も問われたのです。それはまるでペテロが3度イエス様を「知らない」と否んでしまったことを一つ一つ帳消しにするかのように尋ねられたんですねえ。

 イエス様はペテロがイエス様の復活の目撃証言者として生きていくために、まるでリハビリを行なってくださっているかのようです。ペテロはイエス様から「私を愛するか?」と問われた時に、自分の内にイエス様を愛するという心があること、そしてその心をイエス様は分かってくださるということを3度の応答を通して確認することができました。

 そして今日あなたにもイエス様は「あなたはわたしを愛しますか?」と尋ねています。「はい、私があなたを愛することをあなたは御存知です。」と告白していく者となっていきましょう。

 (PBA制作「世の光」2014.9.1放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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