♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■完了した! / 関根弘興

2021年10月16日 | Weblog

2021.5.1放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今週は、イエス・キリストが十字架上で発したことばからイエス・キリストがどのような方かを紹介しています。

 十字架は壮絶な苦しみを伴う処刑でした。イエス様は「わたしは渇く」(ヨハネの福音書19章28節 )と言われました。それは肉体的な壮絶な渇きでもありました。そして人々の罪の身代わりとなって十字架につけられるということは、父なる神様との交わりが途絶えてしまうという霊的な渇きでもあったのです。そしてイエス様は十字架上で「完了した」(ヨハネの福音書19章30節 )と言われました。

 考えてみてください。もし十字架が失敗ならイエス様は「失敗した」というでしょう。また自分の意に反して十字架につけられたのなら「やり残したことがまだある。不当な仕打ちだ!」と叫ぶでしょう。しかしイエス様は「完了した」と言われたのです。

 それではイエス様は十字架によって何を完了したのでしょう。何を成し遂げて下さったのでしょう。それは救いを成し遂げて下さったのです。

 イエス・キリストが来られるまでは人は神様の律法を自分の力で守ることによって救いを得ようとしてきました。でもそうした数々の戒めを完全に守ることのできる人などいるでしょうか。いえ、誰もいません。旧約聖書の戒めは、私たちが神様の基準に達することの出来ない罪人であるということを徹底的に教え、救い主のもとに導く養育係のようなものだ(参照 ガラテヤ人への手紙3章24節 )、と聖書は教えているのです。

 しかしイエス様は十字架を通して救いの道を成し遂げてくださいました。それはイエス・キリストが私たちの罪と罰を十字架で身代わりとなって受けて下さったことによって、イエス様の十字架に免じて、信じる者は誰も神のみ前に罪のない者として認められるという素晴らしい救いの道が開かれたのです。

 ですから私たちは救われるために細かい戒めを完全に守らなくても、必死に努力する必要も、また守れない自分に絶望する必要もありません。自分の弱さを認め、そんな自分に代わって十字架についてくださったイエス・キリストを救い主として信じ、赦しと救いを感謝して受け取り、神様の愛と恵みの中で喜んで生きていくことができるのです。

 つまり、イエス様が「完了した」と言われたのは、私たちに与えられる救いの御業が完了したということなのですね。なんと嬉しいことでしょう。

      (PBA制作「世の光」2021.5.1放送でのお話しより)
 ***

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする