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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■祈りを聞かれる神様 / 関根弘興

2018年04月20日 | Weblog
2018/3/16放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 前回までイエス・キリストが教えてくださった主の祈りについてお話をしてきました。 たぶん世界中のどんな人でも今まで一度も祈ったことはないという人は誰もいないでしょうね。何らかの形で祈るという経験をしてきたと思います。しかし多くの場合、誰に祈るのか?と問われた時、困ってしまう場合が多いかもしれません。誰に?って言われても分りませんよ、ということになってしまうことが多いんですねえ。

 お正月には沢山の人が初詣に出かけます。しばらく前に、私はラジオの番組の取材を兼ねて、初詣に来られた方々にインタビューをしたことがありました。「すいません。どんなことをお祈りされましたか?」 「そうねえ、健康のためかな。」「商売繁盛するようにね。」 受験生は、「希望校に合格することです。」こんな答えが返ってきました。でも私が聞いた誰一人、「新しい年をまず感謝をささげるために来ました。」と答えた人は誰もいませんでした。私も意地悪く、「どうでしょうねえ、お願いしたことは叶えられそうですか?」と尋ねると、「そうねえ、どうかなあ、分かんないなあ。まあ賽銭少なかったからダメかなあ・・・」 まあいろんな答えで返ってきました。

 人はみな祈ります。しかし祈る対象やその祈りの確信を持つことはなかなか難しいようですね。新約聖書の第一ヨハネ 5章14節から15節にはこう書かれています。
 「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」(新改訳2017)

 聖書の神様は、あなたの願いをちゃんと聞いてくださると約束しているんです。もちろんそれは何でもかんでも自分が思うように叶えらるということではありません。あなたの自分勝手な祈りに対しては神様は「ノー」という答えを与え、あなた自身の姿を点検する機会となっていくでしょう。またある時は、「少し待ちなさい」と、祈ることを通して忍耐を教えられるでしょう。もちろん祈った祈りを神様は耳を傾け具体的な答えを与えてくださるお方です。だから私たちは神様を心から信頼し、いつでもどこでもどんな時でも、「天のお父さん」と祈りの声をあげることができるんです。祈りを聞かれる神様がいてくださるからです。

  (PBA制作「世の光」2018.3.16放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■大切なのは目の高さ / 関根弘興

2018年04月20日 | Weblog
2018/3/23放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 迷子が泣いている。さてあなたはその時、どうしますか?
 これはある遊園地で仕事をする人が面接で受ける質問の一つだそうです。
 さてあなたはどうしますか?

 答えはですねえ、まず子どもの目の高さまでひざまずいてにっこりと笑って、「どうしたの?」と聞いてあげることなんだそうです。大切なのは目の高さという訳ですね。

 でも子どもでなくても上から下へと一方的な言い方をされると人は反発してしまいますよね。聖書は、神様は愛なる方です、と記しています。この愛は自らが人として私たちと同じ目の高さにまで降りてきてくださる程の徹底的な愛なのですよと教えています。神なる方が私たちと同じ場に来てくださったお方、その方こそイエス・キリストです。

 イエス・キリストは決して御殿に生まれた訳ではありません。豪邸で教祖様!と呼ばれて過ごした訳でもありませんでした。身分が低く人々からのけものにされていた人たちの目の高さにまで降りて一人ひとりに「私の友よ」と語られ、病む人を癒やし、絶望の中にいる人に平安を語っていきました。でもイエス様の最後は、何とあのむごたらしい十字架刑だったんですねえ。なんという不条理でしょう。徹底的に愛の使徒として歩まれたイエス・キリストは、十字架につけられて殺されてしまったんです。

 でも聖書は、何とその十字架につけられるためにイエス様は来てくださったのですよと教えているんです。一体どういうことでしょうか。

 本来私たちは、みんな罪人です。正しい神様の前にみんな裁きを受けても当然な存在です。しかしイエス様は私たちに代わって一人ひとりの罪をご自分で背負われて身代わりとなって十字架の苦しみを受けられた、と聖書は教えます。私たちはこのイエス様の中に本当の愛を、比べることのできない愛を見ることができるんです。

 聖書のことばをお聞きください。
 第一ヨハネ3章16節
 「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。

  (PBA制作「世の光」2018.3.23放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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