世の光の時間です。 お元気でしょうか? 村上宣道です。
えー、旧約聖書の箴言という所にですね、その18章なんですけれどもこういうことばがあります。「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。」(18章14節) ということばですねえ。 病苦をも忍ぶことができても、ひしがれた心には耐えられないということですねえ。
人によっては本当に病の中でもそれに耐えて頑張っていく人もあると思うんですけれども、しかしそれは心にある支えがあるから、ということが言えるのではないかなあというふうに思うんですねえ。
私は自分の父のことも思い起こすんですけれども、癌でですねえ、もう時間の問題と言われているような中で看護婦さんがよく「苦しい時は苦しい、痛い時は痛いって正直におっしゃってくださっていいんですよ。どうしてそんな中でそうやっていつも変わらないニコニコしていられるんですか?」っていうふうに言われたことがあるんですねえ。
それは、苦しみは確かに病の痛みはあるのですけれども、でも心までもがひしがれてはいなかったんですねえ。 どうしてかというと、自分はたとえこの地上を去ることがあっても、やがて自分はイエス様のもとに行くことができる、そこには御国の栄光が待っている、という希望があったからなんですねえ。 ですから私の父は天をこう指差してですねえ、「私はむしろ何かワクワクしてくる。主のもとに行くことができると思うと何かまさにドキドキするような、そんな思いがするんだ」というふうに言ってました。
詩篇の61篇という所には、「私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。」(2節)ということばがあります。 「心が衰え果てる」その状態を「私は地の果てから」というふうに、もう本当に孤独な何の望みもないような、地の果てというふうなそういう表現で言われております心の衰えという時。 でもそういう中で見上げることができるお方がいる。 そのお方を見上げることができる時に、私を導いて、そして希望へと向かわせてくださることができるのだということなんですね。
私たちは心が大切です。 その心を誰に向けるか、やっぱり全能の神様に心を向けて希望を持つことができるということが、どんな中でも生きることができる大きなエネルギーだということを覚えたいと思います。
( PBA制作「世の光」2008.12.10放送でのお話しより )
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