人生チャレンジ20000km~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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こんなにおかしい!ニッポンの鉄道政策
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発送電分離(電力版「上下分離方式」)は社会を救うか

2011-08-22 23:18:36 | 原発問題/一般
電力を「市場のもの」ではなく「みんなのもの」にはできないものか(attacこうとう(準備会)ブログ)

attacこうとう(準備会)ブログにて上記のような考察がされている。今日は私もこの課題について考えたいと思う。

ブログ主さんは、単純な「発送電分離」による電力自由化を批判しつつ、電力を公的管理の下に置くことを提起している。

私は、未経験の難題に直面したときは、自分の得意分野である鉄道・公共交通の分野に置き換えて考察することが多い。そうして考察していくと、いま盛んに言われている発送電分離~送電線国有化案は、鉄道・公共交通における「上下分離方式」であることに気づく。

鉄道ファンで当ブログの常連の方には説明するまでもないと思うが、上下分離方式とは、例えば鉄道であれば列車の運行部門(上)と施設(線路・軌道など)の所有・維持管理(下)を分離する経営方式である。ほとんどの場合、膨大なコストがかかるため巨大な資本投下が必要な「下」が公共セクターの担当で、さほどのコストをかけずにできる「上」は民間が担当、というケースが多い。線路は国や自治体が保有・維持し、その上に民間鉄道事業者が列車を走らせる。東北では、東北新幹線の延長開業に伴う並行在来線分離によって誕生した青い森鉄道がこの方式を採用している。青い森鉄道区間の線路や施設は県の所有だ。

これまで、旧国鉄線転換第三セクター鉄道の中には、北海道ちほく高原鉄道、神岡鉄道、三木鉄道のようにすでに廃止に追い込まれたものもある。北海道ちほく高原鉄道は単年度赤字が4億円を超えていたし、神岡鉄道も廃止直前に乗りに行ったら全区間、乗客が自分1人だけの時もあるなど、これらの廃止線の場合は経営形態でどうにかなるレベルでないものがほとんどだった。

だが、いわゆる地方開発公社のような「ハコモノ行政」型の第三セクターで乱開発のあげくに経営破綻したようなケースでは、責任の所在の不明確さが経営破綻の背後に潜んでいるケースも多く見受けられた。こうした第三セクターは、単に官民が出資しあって合弁事業をやっているという以上のものにはなり得なかった。経営破綻すると、官は官で「民間的な経営センスが生かされると思ったから公営ではなく第三セクターにしたのに、破綻したのはおまえらに経営センスがないからだ」と民に責任を押しつけたかと思うと、民は民で「はじめから採算がとれないとわかっていた事業に民を巻き込んだのはそっちなのだから官で責任取れ」などと言い始める。かくして官民がともに責任を取らないまま、破綻処理に血税が垂れ流され最後は納税者が泣く、という「いつもの図式」が性懲りもなく繰り返されてきた。

電力10社による現在の地域独占・発送電一体管理のスタイルも、政策(原発推進)は国が出し、民間電力会社が実行部隊になるという点で一種の第三セクターのような無責任体制といえる。しかも、総括原価方式(すべてのコスト~文字通りすべてのコスト、地域住民を原発推進派にするための「口止め料」に至るまで!~を電気代に上乗せできる)が取られているため、電力会社はこの無責任体制の中でも永遠に倒産せず、安穏としていられるはずだった…のだ、そう、3.11の前までは。

「生産力はますます強大となるにつれて、資本たるその性質に反逆し、その社会的性質を承認せよと要求する。・・・トラストがあろうとなかろうと、資本主義社会の公の代表である国家は、結局、生産の管理を引受けざるを得ないことになる。このような国有化の必要は、まず郵便、電信、鉄道などの大規模な交通通信機関に現れる。」(「空想より科学へ」エンゲルス)

エンゲルスが100年以上も前に明らかにしたこの定理は現在も全く有効である。巨大な資本投下が必要で、かつ共同消費性(注)を持つ社会資本には、消費されるごとに減耗が目に見える消費財と異なり市場原理は機能しない。こうした社会資本を官民結託体制の下に置いておくと、利権のために建設が続けられ、やがては供給過剰となって「社会資本のデフレ」が進行する。米国の25分の1しかない狭い国土の上にひしめき合う100近い空港、必要がないのに自然を破壊してまで建設が続く八ツ場ダム、国民を放射線障害に追いやってもなお「必要、必要」というゾンビの呻きが声高に響く原発…暴走する「社会資本のデフレ化」の事例はあちこちに転がっている。そして、ここまで読んできて察しの良い読者諸氏は気付かれるだろう。鉄道も空港もダムも原発もすべてが同じ構造なのだと。

(注)共同消費性とは、共同で使用される性質、別の表現をすれば他人が使用したからといって自分の使用可能分が減少しない性質を持つことをいう。たとえば、あなたの机の上に置いてあった10個のお菓子のうち1個を誰かが食べれば、あなたの消費可能な分は9個に減る。しかし、10メートルの道路のうち1メートルを誰かがあなたより先に歩いたとしても、そのことによりあなたの歩ける部分が9メートルに減るわけではない。あなたも前の人と同じように歩けるのである。このような形で消費される財・サービスを「共同消費財」という。鉄道、道路、ダム、空港、発電所はすべてこの共同消費財である。使用しても減少しないから、老朽化を上回るスピードで建設を続けていくと、やがて供給過剰による「デフレ化」が進行する。

市場原理が機能しない社会資本の分野では、利権を維持するため建設すること自体が目的化していく。発送電分離が実現しても、公共セクターが担うことになる「下」の問題(利権構造など)を解決しない限り、同じことが繰り返されるだろう。それは、空港の建設・維持は公共セクター、航空機の運航は民間セクターによって行われてきた「上下分離」の先例、航空業界を見れば明らかだ。政権交代するついこの間まで、日本では毎日どこかで空港が造られ続けていた。時には農民の土地を暴力で奪ってまで!

繰り返すが、共同消費財である社会資本に市場原理は機能しない。電力の地域独占をやめて競争を導入すれば無駄な原発の建設が止まるという考え方は幻想に過ぎない。

それに、市場原理は多くの失業者と貧困を生んできた。運良く仕事を失わずに済んでいる正社員だって、20年前より給与が上がったという人がいたら名乗り出て欲しい。それくらい、社会の主人公であるはずの人間が痛めつけられてきた。10年間で東京特別区がひとつ消えてなくなるほどの人たちがみずから命を絶った。そんな社会のあり方を支持するなんて私にはとても無理である。

そろそろ結論に入らねばならない。新しい電力は、私たちの経験したことがない全く新しい社会が管理すべきものだ。総無責任の利権体質でもなく、人間を破壊する市場原理主義でもない新しい社会。まだその姿がイメージできないにもかかわらず、心ある多くの人によって待望されている人間中心の新しい社会。

電力という魔物を管理する資格を持ちうるのは、そうしたまだ見ぬ新しい社会のみである。

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