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【金曜恒例】反原発北海道庁前行動(通算296回目)でのスピーチ/東電と闘い、馬場有・浪江町長逝く

2018-06-29 23:45:50 | 原発問題/一般
<浪江町長死去>巨大権力への怒りを再生の原動力に 妥協許さず(河北新報)

東電に対し、ADRへの集団申し立てなどで闘い続けてきた馬場有(たもつ)・浪江町長が6月27日、69歳の若さで世を去った。まだまだ去るには早い年齢であり、当ブログは馬場町長に改めて深い哀悼の意を表する。

なお、本来であれば追悼記事を書くべきところだが、今日、金曜恒例の道庁前行動でのスピーチをご紹介することで追悼記事に代えたい。

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レイバーネット日本の報告はこちら→「朝鮮より日本の段階的非核化が先」「政治家の失言にびっくり」6.29道庁前行動レポート

 みなさんこんにちは。

 今日はもともと別のことをお話しする予定だったのですが、おととい27日、水曜日に福島県浪江町の馬場有(たもつ)町長が69歳の若さで亡くなりました。原発事故前からずっと務めている福島県内の自治体トップは片手で数えられるほどに減りましたが、馬場さんはそんな数少ない自治体トップのひとりでした。昨年末に体調を崩し、入退院を繰り返すようになりましたが、ここ数ヶ月体調が悪化し、6月13日に辞職願を提出、6月いっぱいで町長を辞職する予定でした。

 浪江町は、福島第1、第2どちらの立地自治体でもありません。東北電力浪江・小高原発の建設計画がありましたが、原発事故後に計画は中止になりました。このため立地自治体に交付される立地地域交付金は一切もらっていません。それなのに、第2原発の立地地域である富岡町や楢葉町でもないような高濃度の放射性物質に汚染され、全町避難となったままです。帰還困難区域は今も帰還の目処が立っていません。町が申請したADR(原子力損害賠償紛争解決センター)では賠償勧告が出ましたが、強制力がないため東電が賠償支払いを拒否しています。事故前は立地地域交付金をもらえなかった町が最も大きな被害を受け、事故後も満足な賠償を受け取れない――こんな状況の下での心労が馬場町長を追い詰める原因になったことは明らかです。

 お隣、宮城県の新聞「河北新報」は6月28日付で馬場町長の死去を伝えました。「巨大権力への怒りを再生の原動力に 妥協許さず」という見出しの通り、馬場町長は闘う自治体トップだったと思います。

 馬場町長にとって闘いの原動力となったのは、情報を隠蔽し伝えない東京電力への怒りでした。SPEEDIの放射能拡散予測が隠蔽され公表されなかったため、町は原発の北西方向に放射能が流れていることを知らされず、町内でも最も汚染のひどい津島地区に避難することになってしまいました。ホットスポットとして有名になった赤宇木地区の集会所では、避難した町民が汚染された川の水でおにぎりを作って食べてしまうという悲劇も起きました。

 馬場町長の怒りをさらにかき立てる出来事が起きます。町民が避難して来ていた津島地区で、白い防護服を着た作業員たちが放射線量の測定を行っている姿を後日、新聞紙上で見て知ったからです。しかも馬場町長が福島県の原子力安全対策課長に尋ねると「日本原子力研究開発機構に測定を依頼した」と平然と答えたばかりか、この測定に県の職員が同行していたことまでわかりました。もちろん町には何も知らせないままです。「県は生の情報を持っていながら、避難しろとも言ってくれなかった。町民の命をなんだと思っているのか」――このときの怒りこそ、馬場町長に闘いを決意させた原動力だったのです。

 馬場町長は、1万5千人の町民を代表して、ADRに賠償の申し立てをしました。福島県内で、自治体が住民の側に立ってADRに申し立てをしたのは前にも後にも浪江町だけです。しかし、ADRの和解案は4回にわたって東電に拒否されました。2015年1月28日に行われた原子力損害賠償紛争審査会(原賠審)では、東電のあまりにも強硬で頑なな姿勢に激怒した大谷禎男委員が「木で鼻をくくったような拒否回答をADRに対してしている。東電の対応はきわめて事務的で無味乾燥なもので、まともにADRに向き合うように姿勢を転換していただきたい」と、出席していた東電関係者に面と向かって言い放つ場面があったほどです。しかしこれでも東電の姿勢は変わらず、ADRによる調停はついに今年4月、打ち切りになりました。

 なぜこのような事態になってしまったのかについて、私からここで重大な事実を指摘しておきたいと思います。実は、同じように全村避難となった飯舘村のうち、居住制限区域となった蕨平地区に対し、帰還困難区域の長泥地区と放射線量がほとんど変わらなかったことから、ADRが長泥地区と同じ内容の賠償を認めるという画期的な出来事がありました。2014年3月のことです。しかし、このあと驚くべきことが起きます。住民の側に立って闘わなければならないはずの菅野典雄村長が、「居住制限区域にまで帰還困難区域と同じ賠償が認められたら、ますます飯舘村に誰も帰ってこなくなる」として、東電にADRの和解案を受け入れないよう求める「秘密書簡」を送っていたのです。

 それまでADRの和解案を渋々ながらも受け入れてきていた東電は、飯舘村長の「秘密書簡」の後、ADR和解案の受入拒否に傾きました。浪江町が申し立てたADRが4回も東電に拒否された挙げ句に中止になったのも、この秘密書簡が影響していることは明らかです。

 村内に住民票を置いたまま福島市に避難を続ける村民が自分に批判的だと知った菅野村長は、2016年の村長選の際、彼らが投票できないよう、福島市への投票所の設置をしませんでした。避難指示解除後、村に帰還する人を1人でも多くしたいという自分の独りよがりの欲望のためにADRを事実上破壊し、住民への賠償の道をも閉ざした菅野村長、自分に批判的な避難住民が多い地域には投票所を設置しないという、不正選挙まがいのことをしてまで6選を果たし、20年以上も独裁政治を続ける菅野村長を私は絶対に許しません。志半ばで倒れた馬場町長の無念に応えるためにも、私は、住民に敵対し、君臨を続けるこの飯舘村のヒトラーをなんとしても倒し、福島から追放するまで頑張りたいと思います。

 今日は以上で終わります。ありがとうございました。

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鉄道軌道整備法改正法案成立に関するコメント/安全問題研究会

2018-06-26 22:20:34 | 鉄道・公共交通/交通政策
<安全問題研究会コメント>
鉄道軌道整備法改正法案が可決・成立~被災路線放置を続ける国・JRに鉄道事業者の責任を求める~

1.第196通常国会に議員立法で提出され審議が続いていた鉄道軌道整備法の改正法案が、6月15日、参院本会議において全会一致で可決・成立した。過去2回国会提出されながら、解散・総選挙などを受け審議未了~廃案となった法案が3回目の提出でようやく成立の日を迎えたのである。安全問題研究会は、この法案成立を歓迎するとともに、2011年7月の新潟・福島豪雨で不通が続くJR只見線の復旧に道を開くため、この法案を作成した福島県選出自民党国会議員団、法案事前審査に関わった自民党国土交通部会、衆参両院の国土交通委員会とその関係者に対し、特に深い謝意を表明する。

2.この法案は、災害復旧費の国庫補助を赤字の鉄道事業者に限定していた従来の枠組みを改め、(1)激甚災害による被災であること、(2)当該路線が過去3年間赤字であること、(3)災害復旧費が当該路線の収入を上回っていること――等、所要の条件を満たす場合には、黒字の鉄道事業者に対しても、災害復旧費の4分の1(上下分離で「下」(線路の所有管理)を公的主体が担う場合には3分の1)を上限として国庫補助の対象とするものである。

3.1986年11月28日、参議院日本国有鉄道改革に関する特別委員会で国鉄改革関連8法案が可決・成立した際、行われた附帯決議が『各旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社の輸送の安全の確保及び災害の防止のための施設の整備・維持、水害・雪害等による災害復旧に必要な資金の確保について特別の配慮を行うこと』を政府に対して求めたのに対し、当時の運輸相及び自治相が「決議の趣旨を尊重」すると表明し、努力・善処を約束したことをすべての市民が改めて想起すべきである。

4.当研究会が鉄道軌道整備法の問題に着目し、その改正を初めて国に対して求めたのは、2014年9月に行った国土交通省への要請行動であった。それ以降、道路など他の社会資本に比べて鉄道への国家予算の配分が著しく少ないこと、鉄道が社会資本としての正当な評価を受けないまま民間企業の経営努力に任され放置されていることなどを、あらゆる機会を捉えて問題点として訴え続けてきた。3年9ヶ月にわたる活動が、鉄道軌道整備法の一部改正として実ったことは当研究会にとって喜びであり感慨無量である。

5.しかし、鉄道が道路などと同様に社会資本として位置づけられることを最終目標としている当研究会にとって、今回の法改正は小さな第一歩でありスタートに過ぎない。とりわけ、国庫補助の上限が4分の1(上下分離の場合は3分の1)と低いこと、補助対象があくまで災害復旧費に限定されており、上下分離が導入された場合であっても線路の維持管理費は補助対象にならないことなど、なお改善すべき課題は山積している。当研究会は、これら課題の改善のために活動を続ける。

6.現在の最大の問題は、事実上の経営破たん状態にあるJR北海道が「資金難」を理由に被災した鉄道路線の復旧責任を放棄していることである。根室本線、日高本線などの重要路線が災害を理由に廃線提起されている。こうした鉄道事業者が存在することはひとえに法制度の不備であるとともに、国鉄分割民営化を通じて本来は社会資本であるべき鉄道を「私企業」にした国の責任であると考える。国鉄分割民営化を強行した国の責任を追及するとともに、「私」から「公」へ、利潤から社会的利益へ、企業経営から民主的共同社会の論理に基づく運営へ、鉄道政策の抜本的転換を求める。

7.同時に、当面取り組むべき課題として、JR北海道が経営状態の悪化を言い訳にせず、公共交通事業者としての責任を果たすよう求める。災害による不通と不採算による廃線提起は別の問題であり、この法案の成立を契機に、JR北海道が公共交通企業本来の姿に立ち返り、直ちに被災線区の復旧に取りかかることを強く求める。もしこの課題が果たされない場合、当研究会はJR北海道の会社清算及びJRグループ7社体制から別の体制への再編も辞さない強い覚悟で今後に臨むことになる。

8.これらの課題を解決するため、当研究会が果たすべき役割はますます拡大している。当研究会は、北海道と日本の鉄道網を守るため、強い決意をもって、今後も全力で取り組むこととする。

2018年6月26日
安全問題研究会

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「原発避難者の現在、そして未来」集会から見えてきたもの~運動長期化で見えた国鉄闘争との共通性~

2018-06-25 23:16:23 | 原発問題/一般
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2018年7月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 2018年5月26日~27日に北海道立道民活動センター「かでる2.7」(札幌市)で開催された「原発避難者の現在、そして未来」集会(主催:避難の権利を求める全国避難者の会)に参加した。私自身、原発事故による避難者の集会参加は久しぶりのことだ。

 福島原発事故から7年3ヶ月。避難者に関する報道は今や大手メディアからは完全に消え、運動圏のメディアからもめっきり減った。だが報道は消えても避難者の存在が消えてしまったわけではない。運動圏メディアの本誌だからこそ報じる責務もある。今回は、久しぶりに原発避難者の現状の一端を報告したい。

 ●自分の足で汚染地を出て、楽しむ

 集会冒頭では、まず主催者を代表して避難の権利を求める全国避難者の会の宇野朗子(さえこ)共同代表があいさつ。「発災から7年を過ぎ、いつまで騒いでいるのかという心ない声を聞くことも増えてきた。しかしいずれ私たちが、放射能健康被害と闘った先頭集団だったと歴史的評価を受ける日は必ず来ると思っている」と述べ、決意と自信をにじませた。

 福島県伊達市から札幌市への避難者で、雇用促進住宅桜台宿舎避難者自治組織「桜会」元代表の宍戸隆子さんが、次のように述べた。「私は、この団地から1人の自殺者も出さないことを目標にやってきた。結果的に、2名の病死者を出したことは残念だったが、自殺者は出さず目的を果たすことができた。桜会はなくなったがメーリングリストは今も残している。1~2ヶ月に1度避難者の飲み会も実施し、つながりを維持している。その飲み会の席で、ある避難者の父親が『僕は人生を楽しみたいんだ』と言ったことに衝撃を受けたが、同時に原発事故以来、楽しむことを忘れて生きてきた自分自身に重なって、それ以降吹っ切れた。私自身も含め、これからの避難者に必要なのは楽しみながら生活を組み立て、足場を固めること。そうしないと国・東電に勝つことはできない」。避難者自治組織の代表として、多くの避難者の世話役を務め、相談に乗る活動の中で、十人十色、多種多様な避難者の実態を見てきた宍戸さんが見据える現在と未来だ。

 宍戸さんはまた、「避難先に北海道を選んだことに対して悔いはない。支援者の暖かさ、北海道や札幌市など行政からの支援体制と、行政に対し、何でも言える関係作りなどをしてきた。そういうことをできる関係が北海道にはある」と述べ、各自治体の支援体制の手厚さ/手薄さを見極めながら、できる限り多くの支援を引き出すための行政との関係作りの重要性を訴えた。避難者支援に限らず、生活保護行政など既存の貧困対策とも多くの共通点を持った全国的課題だ。

 2日目の27日は、まずNPO法人「チェルノブイリへのかけはし」代表の野呂美加さんが講演。チェルノブイリ原発事故(1986年)以降、何度も現地に足を運び支援を行ってきた原発事故汚染地支援の第一人者だ。

 「私がまず訴えたいのは、自立して、自分の足で汚染地域を出てほしいということ。汚染地に今も残った人は不安、アルコール依存症、経済不安といった問題に直面している。強制移住させられた人の中には、自分の意思に関係なく強制移住させた政府への恨みを口にする人もいたが、福島では住民が政府による移住をさせてもらえなかったことを私が話したら、強制移住させた政府への恨みが消えたと言われた。チェルノブイリ現地では、男性の平均寿命が50歳代に低下した。もともと社会主義国家だった現地では、資本主義国家のような働き過ぎはない。日本人から見るとびっくりするくらいみんな働いていない。だから平均寿命低下の原因が働き過ぎにあるということは考えられない」と、チェルノブイリ現地の状況を報告。野呂さんによれば、現地では、空間線量は変動するものだから土壌を計測したベクレル値で対策を講じることが決められている。ウクライナの首都キエフが1~5キュリー(1キュリーは37億ベクレルに相当)という中で、15キュリー以上から甲状腺がんが発症したが、飯舘村は40キュリー以上あるとのことだ。ベラルーシ政府は、事故直後に住民の安全基準を1年間に1ミリシーベルトに決めたが、モスクワの中央政府が5ミリシーベルトに決めようとする動きがあり、その直前、ギリギリの判断だったという。今も心臓に穴が空いている子どもが多く、若者全体の3割しか徴兵に行けないそうだ。「だから私たちが生き残ることこそが希望であり、生きのびる必要がある」との野呂さんの言葉は、チェルノブイリを現地住民以外では誰よりも長く見てきた支援者から私たち日本の市民への警告として、重い迫力をもって迫ってくる。

 避難区域を極力、狭い範囲に限定し、居住制限区域(年間被ばく線量が20ミリシーベルトを超え50ミリシーベルト以下の区域)さえ避難指示を解除、帰還を促す日本政府の政策がどのような厳しい未来をもたらすか改めて思い知らされた。いうまでもないが、原発労働者でさえ、被ばく線量の年間許容量は50ミリシーベルト、5年間では100ミリシーベルトだ。50ミリシーベルトは、いわば1年間限りで原発労働に従事する人に対し例外的に許容されたもので、5年間継続で原発労働に従事する人は年間20ミリシーベルトが上限であることを意味する。日本政府の避難指示解除政策は、原発労働者の2.5倍の放射線量のところに、妊婦や子どもを含め、できる限り多くの人に帰還を促すものだ。何度でも繰り返さなければならないが、これは日本政府による緩やかなジェノサイド(大量殺人)である。

 ●被ばくの健康影響は明らか

 もう一度1日目に戻る。古くから被ばくによる健康影響を訴えている松崎道幸さん(道北勤医協旭川病院医師)は、人間の健康に影響を与える放射線被ばく線量にいわゆる閾値はないこと、放射線被ばくのない状態では女性に圧倒的に多い(10歳代での比較では5.43倍)はずの甲状腺がんに、福島でもチェルノブイリでも2倍程度の差しかないことを示し、放射線被ばくに典型的に見られる傾向だと指摘する。これは松崎さんの一貫した主張だ。放射線被ばくの健康影響については、医師でない私でさえ、詳細を述べようとするなら著書が数冊書けるほどで、紙幅の限られた本誌で詳述する余裕はなく、参考文献をご覧いただくことをお勧めする。ただ、国(環境省)と福島県にとっては、被ばくと健康被害との因果関係を否定する結論が先にあり、それと整合性をもって説明できない不都合な材料やデータが増えるたびにごまかしや弥縫策を繰り返した挙げ句、それも通用しないとわかると今度は県民健康調査そのものを縮小、打ち切りに誘導しようとする動きを一貫して続けていることだけは、ここではっきり述べておきたい。

 ●「自主」避難者としての誇り

 2日目に行われたグループディスカッションは、参加者を6テーブルに分け、討議の結果を模造紙に書いて発表する形式のものだ。テーマは「避難者/支援者の過去の現在、未来」。すべてのテーブルに必ず避難者が入るよう配置された討議では様々な意見が交わされた。

 避難指示区域とならなかった南相馬市原町区からいったん自主的に避難後、戻ったという女性は、子どもから「飯舘村の自然はいつ元に戻るの?」と聞かれ「300年後くらい」と答えたところ「それって江戸時代に起きた原発事故で汚染された自然が、今ごろやっと元に戻るというのと同じだよね?」と聞かれて絶句したことを話した。子どもの「時間感覚」は案外侮れないものだ。この女性は、追加被ばくをしたくないとの思いがあり、今なお避難を模索しているという。「7年も経ってからの避難は無駄で意味がないんでしょうか」と聞かれたので、私は「身体への影響は被ばく量の累積で決まるので、追加被ばくを防ぐという意味では、避難は今からでも遅すぎるということはない」と答えた。

 宍戸さんからは、「自分の意思ではなく、原発事故によって余儀なくされた避難なので“自主”避難という言葉を使いたくないという意見をよく聞くが、自己決定権、自分が健康に生きるために住む場所を自分の意思で決める権利の行使という意味で、私は誇りを持って“自主”避難の言葉を使っている」という話があった。運動圏のメディアでは、避難指示区域でない地域からの避難者という意味で区域外避難者という言葉が使われることが多いが、いわゆる「自主」避難者の中にはこの言葉を誇りを持って使っている人も多く見受けられる。健康で文化的な生活を営む権利(生存権)や、その前提条件としての居住・移転の自由を保障する憲法に魂を入れていく――そのような闘いの一環として、こうしたポジティブな意味での「自主」避難があるということは、もっと強調されていいように思う。

 今回の集会には関わっていないが、私が出会った別の札幌市への避難者は、「大手メディアは避難者が避難先でうまくいかずに苦しんでいるという報道ばかり。そればかり見せられたら、自分も後に続こうと思っている人たちまで『そんなに苦しいならやめておこう』となってしまう。避難先で成功している避難者の姿を見せることが、ためらっている人たちへの後押しになる」として、避難者の元気な姿を発信することをメインに活動をしている。もちろん、避難生活の中で避難者が陥っている窮状から目を背けてはならないが、それらはいずれも事実全体の一面であり、運動圏のメディアはそれだけをあまりにも強調しすぎていなかっただろうか。避難者ひとつ取ってみても、物事にはさまざまな見方があるのだと教えてくれるエピソードといえよう。

 ●「同窓会」化する集会の中で「敵よりも1日長く」の決意を胸に

 私自身が久しぶりに参加した避難者集会ということもあり、ある程度前から出てきていた傾向なのか、今回になって急にその傾向が出たのかはわからないが、みずから福祉施設を立ち上げた中手聖一さんや、介護の資格を取得してそこで働きながら避難者の世話役を務める宍戸さんから「楽しみながら生活を組み立て、足場を固めること」が重要だという発言が出てきたことは、自主避難者が、ある程度闘いの長期化を見据えた上で「次」を考える段階に入ってきたことを印象づけた。

 避難者同士がつながりを失うことなく、自分自身や仲間のために仕事作りをし、生活基盤を固めるために助け合っていく姿が、私にとってかつて四半世紀にわたる長い争議を闘い抜いたJR不採用問題での被解雇者たちと重なった。被解雇者で組織された国労闘争団も、「協同倶楽部」などの事業体を通じた自活体制を好きこのんで作ったのではなく、国や自治体などの行政、そして最後は国労本部からも見捨てられ、闘争が長期化していく中でやむを得ない選択だったという側面を見逃すことはできない。しかし、この自活体制の構築こそが「敵よりも1日長く」を合言葉に国鉄闘争を勝利に導いたことも事実である。国から見捨てられ、まったく支援がないどころか徹底的な妨害が入るという意味において、国労闘争団と似たような困難な状況に置かれている自主避難者の中で、いち早く自活体制作りに成功した人から、苦しんでいる仲間を助け、支える動きが出て、それが継続していることは、今後、長期戦突入が確実視される中で自主避難者が「敵よりも1日長く」闘うために重要だと感じた。「自分たちも笑っていい。楽しんでいいんだ」という宍戸さんの発言は、かつて国労闘争団の中野勇人さんが発した「道険笑歩」(道は険しくとも、笑いながら歩く)とまったく同じである。国鉄闘争を支援者として経験した私から見ると、今は何よりもこの火を消さないことが重要だと感じられた。

 同時に、避難者が集う場に断続的に顔を出すことで、次第に集会が「同窓会」としての性格を帯びていく様子も見えてきた。自主避難者が避難先で新生活の基盤を固めていけばいくほど、新しい人生に向け巣立った人それぞれが歩く道は別れていく。やがて「あのときに福島県民であったこと」以外に避難者同士を結びつけるものはなくなり、定期的に集まっては、それぞれが交わることのなくなった人生の近況を肴に交流し合う。その陰で、生活基盤固めに失敗した避難者たちは「同窓会」にも出席できないまま、ひっそりと姿を消し、あるいは避難をやめて帰還していく……。それはまさに「同じ校舎で学んだ」こと以外に接点のなくなった元仲間たちが、お互いの記憶が消えてしまわないために定期的に合う同窓会のようなものである。同窓会に参加できるのが同級生の中で成功者であるのと同じように、避難者集会も次第に生活基盤を固めることに成功した人の集う場所に変化しつつあるように思える。しかし、避難者集会への出席もできないような人たちこそ、本当の支援を必要としているのだ。

 今日と同じように明日が来ると信じていたら、突然の原発事故で明日を断ち切られ、「福島という名の学校」を準備不足のまま巣立っていかなければならなかった自主避難者という名の「卒業生」たち。『卒業しても友達ね/それは嘘ではないけれど/でも過ぎる時間に流されて/逢えないことも知っている』。1985年のヒット曲『卒業』(斉藤由貴)にこんな一節がある。仲間だったはずなのに、進む道は大きく離れ、どんなに人生の軌跡を再び交わらせたいと思っても、その夢が叶えられることはない。それならば、せめて私たちが「あの日までの毎日」を過ごし、共に生きた場所のことを肴にしながら、緩くつながり、助け合っていくための場を失わないようにしよう……避難者集会は今後ますます「福島学校」卒業生の同窓会という性格を強めていくだろう。

 一方で、この集会に参加した人たちからは、このつながりを大切に守らなければならないという意識も感じた。原発事故がなければ決して出会うこともなかった人たちは、お互いにとって今、かけがえのない仲間である。原発事故に怒りを抱き、国や東電に対して賠償や責任追及などそれぞれのやり方で闘う人たちが、不幸をきっかけに出会った人たちを助け、支え合っている。「日本って不思議な社会なんだよね。解雇されてどん底に落ちても、なぜか必ず助けてくれる人が現れるんだ」。これも国労闘争団からかつて聞いた言葉だ。権力者が平然と弱者をあざ笑い、踏みつけ、いじめ抜いても、日本の市民社会にはなぜか必ず困難な状況に陥っている人を助ける人がいる。この市民社会の支えと自活体制構築の力で、国労闘争団は四半世紀闘い抜き、それなりの解決水準を国からもぎ取った。自主避難者たちも同じように、小さくても火を絶やさず「敵よりも1日長く、しなやかに、したたかに」闘い続ける決意を胸に、避難という決断に誇りを持って楽しみながらこの先の人生を歩いていくことだろう。やがて「あいつらをどうしたら屈服させられるのかわからない」と敵が思い始めるとき、夜明けがやってくる。朝が訪れたら、暖かい朝日を思いっきり浴びよう。放射能が含まれていない安全な避難先で、思い切り深呼吸をして、そのときこそ本当の勝利を祝おう。

(2018年6月25日・黒鉄好)

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JR根室本線の早期災害復旧と路線維持を求める十勝集会~「廃線になると町は死ぬ」

2018-06-25 22:14:11 | 鉄道・公共交通/交通政策
「JR根室本線の早期災害復旧と路線維持を求める十勝集会」が6月21日、新得町公民館で開催され、150人が集まった。JR根室本線は現在、東鹿越~新得間が2016年夏の台風で被災したまま、不通になって間もなく2年になる。

この間、JR北海道はこの区間を復旧させるどころか、「自社単独では維持困難」だとして廃線を提起。6月17日に行われた関係6者(国、道、市長会、町村会、JR北海道、JR貨物)協議でも、JR北海道は「国に支援を求めず廃線を目指す」5線区にこの区間を位置づけた。

根室本線は、1981年に新夕張~新得間が開業して石勝線となるまで、食堂車を連結した特急列車や貨物列車が札幌と釧路を結んで走った大動脈だ。今でも、石勝線が災害で不通になれば代替輸送の可能性のある線区である。そんな区間でさえ廃線を目指すJR北海道は、もはや公共交通事業者としての責任を完全に放棄したと言わざるを得ない。

午後6時30分から始まった集会では、まず主催者を代表して佐野周二さん(鉄道退職者の会新得支部)があいさつ。「鉄道の災害復旧は国の責任だ。現在、署名簿集めをしており、国土交通大臣に届ける予定にしている。(JR北海道が自社単独で維持困難とした10路線13線区のうち、根室本線を含む5線区には国の支援を求めないとする、6月17日の)6者協議の結果は認められない。激甚災害による被災なのだから激甚災害法によって復旧するのが当然だ。今では、採算が合わない鉄道は廃線になるのが当然のように報道されているが、昔は全部国有鉄道だった。分割民営化が国策なら、日本中に道路網を張り巡らせた道路優先政策も国策だ。国策によってこのような状況が生まれたのだから、解決も政治によるのが当然。政治決着に向け希望を持って取り組む」と、国による復旧を求める決意を示した。

続いて、新得町連合町内会の青柳茂行会長が、「署名簿を2163筆集めた。全町民に回覧板の形で回し、署名簿を集めたのは町の歴史上初めてのことではないか」と、この間の取り組みを報告。「根室本線は、道北と道東という、2つの巨大地域を結んで走る大動脈であり、北海道全体のものだ。そんな大動脈の存廃が沿線一自治体に委ねられていることが理解できない。私たちの町がいいと言えばなくしていいのか? その点を問わざるを得ない」との発言が、高橋秀樹・南富良野町副町長からあった。

この日の集会のメインは、十勝町村会会長であると同時に本別町長でもある高橋正夫さんの講演だ。

「国鉄が分割民営化されて以降、JR北海道は地元に対し、(経営状況などの)情報開示も一切せず、ある日突然「廃線」を切り出してきた。2006年、(旧国鉄池北線を転換した第三セクター)ふるさと銀河線が廃止されたときと同じ状況だ。あのときも銀河線の赤字補てんが「金利低下」でできなくなった、と突然言ってきた。

JR北海道は、災害で不通となった東鹿越~新得間の復旧に10億5千万円かかると言っているが、地元にはそんなに高いわけがない、もっと安く復旧できるという人が大勢いる。線路はJRだけのものでも南富良野町だけのものでもない。北海道全体の財産だ。廃線が既成事実のような報道が行われているが、「そうはさせるか」との思いだ。

北海道はもともと林業が盛んだった。その林業が国策のためにつぶされていった。次に石炭がつぶされたのも、エネルギー政策の転換という国策だった。林業も石炭も、全部国策でつぶしておいて、今ごろになって地方創生で頑張れと掛け声だけかけられる。その一方で、地元にとって頑張る基盤のはずの線路まで剥がそうというのか。線路は地方にとって頑張る基盤であり、赤字黒字で判断するものではない。

十勝には国鉄時代、白糠線があり、士幌線があり、広尾線があり、池北線があった。白糠線、士幌線、広尾線はすべて国鉄末期に廃線になり、池北線もふるさと銀河線に転換後廃止になった。これで根室本線まで廃止になったら、ついに十勝はすべての鉄道を失ってしまう。国は、根室本線のトンネルや鉄橋などの施設が古くて金がかかるから直せないというが、東鹿越~新得間が不通となった2016年の台風災害では昭和時代に造られた鉄橋が流されたのに明治、大正時代に造られた鉄橋は流されずに残った。先人たちが汗を流して造り、残してくれたのはそれくらい価値ある財産なのだ。

ふるさと銀河線がなくなった後、本別で何が起きているか。地元の中学生が帯広市の高校に合格する。鉄道があったころは、男子も女子もみんな鉄道で通った。鉄道がバス転換になって以降、通学時間が延びた。それでもまだ男子の場合はバスに長時間乗せて地元から通わせる親が多いが、女子の場合、通学時間があまりに長いと親が心配する。その結果、短時間で通学できる場所がいいと、家族が娘に合わせて帯広市の近くに引っ越し、父親だけが逆にそこから本別に通ってくるようになる。お年寄りも、病院が遠くなったからと帯広に引っ越す。鉄道がなくなった町は人の住めない町になる。だから今が頑張りどころだと思う」。

高橋会長の話は、地方各地を転々としてきた私にとって、納得できるものばかり。「鉄道がなくなると、女の子のいる世帯から順に町を出て行く」という話には衝撃を受けた。2040年には、日本の地方自治体の約半数が「消滅可能性都市」に該当するようになる――そんな衝撃的な予測を「日本創成会議」が公表し、騒ぎになったのは2014年のことだ。日本創成会議は、出産可能な年齢である20~39歳の女性の人口比が5割以下にまで減少することを「消滅可能性都市」選定の根拠としたが、今回、高橋会長の話を聴いたことで、バラバラの「点」として存在しているに過ぎなかった「鉄道廃止による地域衰退」と「出産可能年齢にある女性の減少による地域消滅」の話が「線」としてつながった。『鉄道がなくなった町では、女の子のいる世帯から順に町を出て行く。女の子に出て行かれた町は、子どもが生まれなくなり死んでゆく』――北海道がそんな死の町になる前に抵抗しなければならない。抵抗できるのは今しかない――高橋会長の魂の叫びだと私は受け止めた。

新自由主義に染まりきり、凝り固まった「御用経済学者」たちは、グローバリズムの流れは今さら止められないのだから、英国のEU離脱は誤りだと、なじることを繰り返す。果たして本当にそうだろうか? 今、世界で起きていることはグローバリズムと、それへの反逆としてのローカリズムのせめぎ合いである。英国のEU離脱は確かに劇薬だったが、グローバリズム一辺倒で進んできたここ四半世紀の人類社会にとって重要な示唆でもある。「反グローバリズムの拠点として地方を活かし、強化すること」は今後の重要な課題のように思われる。

2016年の台風で「昭和時代に造られた鉄橋が流されたのに明治、大正時代に造られた鉄橋は流されずに残った」というのも、人によっては耳を疑う話のように聞こえるかもしれないが、長年、鉄道の安全問題に関わってきた私にはいかにもありそうな内容で納得できる。高度成長期も終わりに近づいた1960年代~70年代に造られた山陽新幹線の高架橋が阪神・淡路大震災で落ち、その後、2000年前後には、山陽新幹線のトンネルで外壁剥離事故が相次いだ。だがこのときも、それ以前――明治・大正時代に造られた構造物はびくともせず、戦前に造られた関門鉄道トンネルでは山陽新幹線のトンネルでのような頻繁な外壁剥離は起きていないからだ。古いものより新しいもののほうがずさんに造られ粗末に扱われているという事実は、戦後の高度経済成長がもたらした歪み、そして国土交通行政の失敗を鮮やかに私たちに告げている。

「古いものだから金を出して直す価値がない」「赤字の鉄道はなくなって当然」「鉄道がなくなったから町が廃れるというのは存続派の勝手な幻想」--メディアを使って声高に繰り返されてきた主張は、高橋会長によって完全に論破された。これでもなお安倍政権が北海道の鉄道は安楽死でいいと考えているなら、私たちはやはり安倍政権を倒す以外にない。

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【福島原発事故刑事裁判第18回公判】福島の運命を決めたのは、やっぱりあの「ちゃぶ台返し」=安全対策先送りだった!

2018-06-24 16:12:05 | 原発問題/福島原発事故刑事訴訟
福島原発事故をめぐって強制起訴された東京電力旧3役員の刑事訴訟。6月15日の第17回公判に続き、第18回公判が6月20日(火)に行われた。この公判の模様を伝える傍聴記についても、福島原発告訴団の了解を得たので、掲載する。次回、第19回公判は7月6日(金)に行われる。

執筆者はこれまでに引き続き、科学ジャーナリスト添田孝史さん。

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●「津波対策は不可避」の認識で動いていた

 6月20日の第18回公判の証人は、東京電力の金戸俊道氏だった。金戸氏は事故前、高尾誠氏(第5〜7回公判の証人)、酒井俊朗氏(第8、9回公判の証人)の部下として、本店土木調査グループで津波想定の実務を担当していた。現在は同グループのマネージャーだ。

 検察官役の渋村晴子弁護士の質問に答える形で、土木調査グループと、実際の対策を担当する社内の他の部署や、他の電力会社とのやりとりの様子を、メールや議事録をもとに金戸氏の証言でさらに詳しくたどった。渋村弁護士は、会合一つ一つについて、出席者の所属や、彼らが出席した目的を説明するよう求め、「津波対策は不可避」という認識で東電社内が動いていたことを明らかにしていった。

●長期評価対策の先送り、「経営判断だった」

 政府の地震調査研究推進本部(地震本部)が2002年に発表した長期評価「福島沖の日本海溝沿いでも津波地震が起きうる(高さ15.7m)」という予測について、金戸氏も、高尾氏、酒井氏と同様に「取り入れずに耐震バックチェックを通すことは出来ないと思っていた」と、はっきり証言した。

 「地震本部という国のトップの組織があって、著名な地震の研究者が集まってまとめた長期評価を、取り入れずに(耐震バックチェクの)審査を通すことはできない」という理由だった。「絶対に起きるものとは言えないが、否定はできないもの」と考えていたという。

 金戸氏は、2007年11月1日に、東電設計の久保賀也氏(第4回公判の証人)から「(長期評価を)取り入れないとまずいんじゃないでしょうかとアドバイスをもらった」と述べた。東通原発の設置許可申請で長期評価の考え方を取り入れて地震の揺れを想定していたことから、津波で長期評価を取り入れないと、「東電として矛盾が生じる」という理由だった。

 2008年7月31日の武藤元副社長との会合までは、「長期評価を取り入れて耐震バックチェックを進める、対策として沖合防波堤と4m盤への対策を進めていくこと、これを決めてもらえればと考えて準備していた」と証言。会合当日、武藤元副社長が長期評価を取り入れないことを決めた(いわゆる「ちゃぶ台返し」)ことについて「想像していなかった」、対策工事をしないことも「それも無いと思っていました」と述べた。


福島第一原発沖合に防波堤を新設する検討が進められていた


 武藤氏の対応については「その対応は経営判断したと受け止めた」「時間は遅くなるけど、対策はやることになると思っていた」と話した。

 会合当日すぐ、上司の酒井氏が日本原電や東北電力に会合の様子を伝えたメールを送信していたことについて「180度変わった結論になったので、早く伝えなければとメールしたのだろう」と説明した。

●「外に漏れ出すと説明しづらい資料」

 「ちゃぶ台返し」の後、同年9月8日に酒井氏が高尾氏、金戸氏にメールを送っていた。「最終的に平成14年バックチェックベース(改造不要)で乗り切れる可能性は無く、数年後には(どのような形かはともかく)推本津波をプラクティス化して対応をはかる必要がある」。

 これについて、金戸氏は「(武藤氏の指示にしたがって土木学会で)長期評価の波源を福島沖に置くか研究を実施しても、何も対策をしなくても良いという結果にはならない。対策をいずれやらないといけないという意味だった」と説明。酒井氏と同様、時間稼ぎという認識があったようにみえる。

 9月10日には、福島第一原発の現地で、所長ら18人と、本店の関係者で「耐震バックチェック説明会」が開かれた。この際の資料(注1)金戸氏は作成。酒井氏からは「真実を記載して資料回収」と指示され、資料には「津波対策は不可避」と書いた。議事メモ(注2)には「津波に対する検討状況(機微情報のため資料は回収、議事メモには記載しない)と書かれていた。


「津波対策は不可避」と書かれた2008年9月の会合資料


 金戸氏は「外に漏れ出すと説明しづらい資料なので」と、これらの文言について説明した。「土木学会で3年かけて研究、すぐには対策に着手しない」という東電のやり方に、社会に対して説明できない、後ろめたいものを自覚していたのではないだろうか。

●「解決困難でもやめないこと」怒ったセンター長

 その後も、土木調査グループのメンバーは、「土木学会における検討結果が得られた時点(2012年)で、対策工事が完了していることが望ましい」という考えだったが、対策は進まなかった。「なんで早く進まないのか、フラストレーションがたまった」と証言した。

 2010年8月には、津波の想定、対策に関わる部署(土木調査グループ(G)、機器耐震技術G、建築耐震Gなど)を集めて「福島地点津波対策ワーキング」がようやく発足した。

 しかし、ワーキング発足の後も、「機器配管が濫立しており、非常用海水ポンプのみを収容する建屋の設置は困難」(建築耐震G)など悲観的な報告が続くばかりだった。「解決困難でも止めないことと、土方さん(注3)は怒っていました」と述べた。

●「15.7m対策では事故は防げなかった」への疑問

 2011年3月11日。前月に東通原発の事務所に異動になっていた金戸氏は、青森県の三沢空港にいるときに地震に遭遇した。

 「長期評価の見解を考慮した津波は、南東から遡上してくる。今回の津波は遡上してくるパターンが全然違っていた。ちょっと違いすぎる。長期評価の対策をしていたからといって今回の事故が防げたとは思えない」と金戸氏は証言した。

 これには、いくつか疑問がある。

 一つは、15.7mの津波対策として、金戸氏の頭にあった沖合防波堤や4m盤対策だけでは不十分で、審査を通らなかった可能性があることだ。耐震バックチェックで津波分野を担当していた今村文彦・東北大教授は、「15.7m対策には、1号機から4号機の建屋前(10m盤)にある程度の高さの防潮壁が必要で、それがあれば311の津波もかなり止められただろう」と述べている(第15回公判)。

 もう一つは、運転しながら対策工事をすることが認められず、311前に運転停止に追い込まれていた可能性があることだ。東電の経営陣は、対策工事の費用より、さらに経営ダメージが大きい運転停止を恐れ、研究名目で時間を稼ごうとしたのではないだろうか。

 防波堤などの対策工事は目立つから、着手する段階で、新しい津波想定の高さを公表する必要がある。しかし従来の津波想定(5.7m、外部に公開されていたのは3.1m)を、一気に15.7mに引き上げるとアナウンスした時、地元は運転継続しながらの工事を認めない可能性があった。その場合、福島第一は3月11日には冷温停止していたことになり、大事故にはつながらなかった。

●長期評価より重い貞観リスク

 渋村弁護士は貞観地震の問題についても尋ねた。

 「貞観を取り入れなくて良いと考えていたのか」

 金戸氏「長期評価と同じように、研究してからとりこもうと考えていた」

 長期評価の15.7mは、記録には残っていないが、地震学の知見から予測される「想定津波」だ。一方、貞観津波タイプは、過去に何度も襲来した実績のある「既往津波」である。より確度は高い。450年から800年周期で福島県沿岸を襲っており、前回は1500年ごろに発生していたから(注4)、周期からみると切迫性さえあった。

 だから、15.7mと貞観タイプでは、原発へのリスクを考える時には重みが違う。同様に扱うとした金戸氏の答えは、疑わしい。

 おまけに、お隣の女川原発はすでに貞観タイプを想定して報告書を原子力安全・保安院に提出ずみだった。女川と同じ貞観タイプの波源を想定すると、福島第一は4m盤の非常用ポンプが運転不能になることもわかっていた。

 2011年4月には、地震本部の長期評価改訂版が公表される予定だった(第11回、島崎邦彦・東大名誉教授の証言参照)。2002年版と同じ津波地震(15.7m)に加え、貞観タイプへの警告も新たに加わっていた。この時点で運転停止に追い込まれるリスクを警戒していたからこそ、東電は文部科学省に長期評価の書き換えまでさせたのではないだろうか(注5)。


注1)東電株主代表訴訟の丙90号証の2

注2)甲A100

注3)土方勝一郎・原子力設備管理部新潟県中越沖地震対策センター長、酒井氏の上司

注4)産業技術総合研究所 活断層・地震研究センター AFERC NEWS No.16 2010年8月号

注5)http://media-risk.cocolog-nifty.com/soeda/2014/01/post-c88c.html橋本学・島崎邦彦・鷺谷威「2011年3月3日の地震調査研究推進本部事務局と電力事業者による日本海溝の長期評価に関する情報連絡会の経緯と問題点」日本地震学会モノグラフ「日本の原子力発電と地球科学」2015年3月、p.34

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【金曜恒例】反原発北海道庁前行動(通算295回目)でのスピーチ/福島からの避難者の現在、そして未来

2018-06-22 23:57:46 | 原発問題/一般
レイバーネット日本の報告はこちら→「北海道のきれいな空気守ろう」「避難者支援を」~6/22北海道庁前反原発金曜行動レポート

 みなさんこんにちは。

 今日は、この道庁前行動では珍しく、福島からの避難者の現状についてお話ししたいと思います。

 避難者に関する報道は今や大手メディアからは完全に消えてしまいました。しかし報道は消えても避難者の存在が消えてしまったわけではありません。福島県から県外への避難者数は、福島県の「公式発表」でも5月現在で約33,800人に上っているのが現実です。

 そんな中、6月13日、水曜日に、東京都内である授賞式が行われました。「日隅一雄・情報流通促進賞」という聞き慣れない賞ですが、『表現の自由、情報公開、国民主権の促進に生涯を捧げた故・日隅一雄弁護士の理念を基に、公正な情報の流通を促進し、真の国民主権の実現に貢献している個人や団体』を表彰するもので、震災・原発事故後の2012年に作られた新しい賞です。

 その賞を、今年は福島県白河市から札幌への「自主」避難者が受賞しました。ラジオカロスサッポロというコミュニティFMで、毎週火曜日の夕方4時に放送されている「つたえるコトバ つながるミライ」という番組のパーソナリティーを務めている方です。原発事故のニュースを含めて一切のタブーを設けず、言いたいことは遠慮せずに言う。そうした「忖度なしのまっすぐな姿勢」が評価されての受賞となりました。番組の後半には、リスナーが気になるニュースについて質問できるコーナーもあり、よく原発事故のことも取り上げられています。2012年からもう6年近く続いており、先日、5月29日で放送300回を迎えました。この道庁前行動もあと5回で300回になります。統一前の旧東ドイツでは、一党独裁に反対する「月曜デモ」が1982年に始められ、7年経った89年にベルリンの壁が崩壊しました。毎週代わり映えがしないように見える行動でも、続けていればあるとき突然、社会を揺るがす力になることがあります。何事も「継続は力なり」だと思います。皆さんも、火曜夕方4時はぜひ、ラジオカロスサッポロを聴いてほしいと思います。

 一方、少し前の話ですが、5月26~27日に行われた「原発避難者の現在、そして未来」集会(主催:避難の権利を求める全国避難者の会)では、「これからの避難者に必要なのは楽しみながら生活を組み立て、足場を固めること。そうしないと国・東電に勝つことはできない」との発言が出ました。この発言をしたのは、福島県伊達市から札幌市への避難者で、雇用促進住宅桜台宿舎避難者自治組織「桜会」元代表の方です。この方の献身的努力により、桜台団地からは、2名の病死者を出した以外、幸いにも自殺者は出さず、今も1~2ヶ月に一度、避難者飲み会も実施し、つながりを維持しています。

 チェルノブイリ原発事故(1986年)以降、何度も現地に足を運び支援を行ってきたNPO法人「チェルノブイリへのかけはし」代表の野呂美加さんの講演では、汚染地に今も残った人が不安、アルコール依存症、経済不安といった問題に直面していることが報告されました。男性の平均寿命が50歳代に低下し、若者は全体の3割しか徴兵に行けないほど病気が増えているとの報告もありました。「だから私たちが生き残ることこそが希望であり、生きのびる必要がある」との野呂さんの言葉は、チェルノブイリを現地住民以外では誰よりも長く見てきた支援者から私たち日本の市民への警告として、重い迫力を持っています。避難区域を極力、狭い範囲に限定し、年間被ばく線量が20ミリシーベルトを超え50ミリシーベルト以下の「居住制限区域」さえ避難指示を解除して帰還を促す日本政府の政策がどのような厳しい未来をもたらすか改めて思い知らされました。

 「自分の意思ではなく、原発事故によって余儀なくされた避難なので“自主”避難という言葉を使いたくないという意見をよく聞くんですが、自己決定権、自分が健康に生きるために住む場所を自分の意思で決める権利の行使という意味で、私は誇りを持って“自主”避難の言葉を使っています」との話も出ました。健康で文化的な生活を営む権利(生存権)や、その前提条件としての居住・移転の自由を保障する憲法に魂を入れていく――そのような活動の一環として、こうしたポジティブな意味での「自主」避難があるということは、もっと強調されていいように思います。

 今回の集会には関わっていませんが、私が出会った別の札幌市への避難者の方は「大手メディアは避難者が避難先でうまくいかずに苦しんでいるという報道ばかり。そればかり見せられたら、自分も後に続こうと思っている人たちまで『そんなに苦しいならやめておこう』となってしまう。避難先で成功している避難者の姿を見せることが、ためらっている人たちへの後押しになる」として、避難者の元気な姿を発信することをメインに活動をしています。避難者が陥っている苦しい状況から目を背けてはなりませんが、それらは事実全体の一面であり、従来は苦しさだけがあまりにも強調されすぎていたようにも思います。

 原発事故から7年、困難な状況に置かれている避難者同士がつながりを維持しながら、いち早く生活の基盤を固めることに成功した人が、苦しんでいる人を助け、支える動きが出て、それが継続していることは重要だと感じました。原発事故という不幸がなければ決して出会うこともなかった人たちが、お互いにとって今、かけがえのない仲間になっている現実があります。避難者がこのつながりを大切に守り、たとえ小さくても火を絶やさず、避難という決断に誇りを持って楽しみながらこの先の人生を歩いていけるよう、支援を続けることが私たちに求められている役割だと思います。そのために、今ここにいらっしゃる皆さんも、どんな小さなことでもいい。避難者への支援を続けていただけたら幸いです。

 今日は以上で終わります。ありがとうございました。

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大阪府北部で震度6弱の地震、大都市直撃で京阪神混乱続く

2018-06-19 21:56:15 | 気象・地震
平成30年6月18日07時58分頃の大阪府北部の地震について(気象庁報道発表)

すでに報道されているとおり、6月18日朝、大阪府北部を震源とする地震があり、高槻市など大阪府北部で震度6弱を記録した。

当ブログ管理人は、ちょうど、出勤のため札幌市営地下鉄に乗っていたところだった。さすがにここ北海道では揺れをまったく感じなかったものの、スマホにインストールしている「Yahoo!防災情報」の警報音がけたたましく鳴り響いた。このアプリは、自分のいる場所以外に警報対象地点を3か所まで登録できる。かつて住んでいた福島県西郷村の他、出かけることの多い東京、大阪を登録している。西郷村を登録解除しないのは、東日本大震災の影響を継続的に見ているためである。

「Yahoo!防災情報」は、バージョンアップによって地震の際の警報音として「NHKの緊急地震速報チャイム」を選択できるようになった。札幌転勤を機に機種変した際、面白半分でこれに設定しておいたら、地下鉄車内で鳴り出し、それを聞いた周りの人がいっせいにスマホを取り出した。さすがにこの警報音は利きすぎのような気がする。

さて、リンク先の報道発表を見ると、地震の規模はM6.1。当初発表の5.9から上方修正されたが、1995年の阪神・淡路大震災は7.3だ。当ブログでは毎度書いているが、マグニチュードで1の差は地震のエネルギーにして32倍に相当する。この記事を書いている時点で5名の方が亡くなっているが、(表現としていささか適切ではないが)これくらいの被害で済んでいるのは、地震のエネルギーが阪神・淡路の32分の1だからと考えていい。

一方で、マグニチュードの割には地表の揺れは6弱と大きかった印象があるが、これは震源深さが13kmときわめて浅かったためである。このため大きな被害を出してしまった。

発震機構(地震のメカニズム)について、報道発表は「東西方向に圧力軸を持つ型(速報)」とだけ述べている。圧力軸という表現になっているので、断層同士が内側に押し合うことで起きる逆断層型、横ずれ断層型のどちらも考えられるが、少なくとも正断層型の可能性はない。断層同士が外側に引っ張り合う正断層型の場合は「張力軸」という表現が使われるからだ。

気になる阪神・淡路大震災との関係だが、気象庁は現時点では否定的見解のようだ。確かにもう23年も前の震災であり、否定したい気持ちはわかる。ただ70億年といわれる地球の生命からすると23年は一瞬に過ぎない。今回地震を起こした「有馬―高槻断層帯」と阪神・淡路大震災を引き起こした「六甲・淡路島断層帯」は隣接しており、重なっている部分もある。完全に否定することは、当ブログとしてはできないように思われる。

また、遠くない将来発生が見込まれる「南海トラフ」地震との関係も気になる。慎重を期さなければならないものの、南海トラフ地震が起きた後「今思えば、あの地震も短中期的余震活動だった」と振り返られる地震のひとつには確実になるだろう。

気象庁は、震度6弱程度の余震に、今後1週間程度注意するよう呼びかけている。実際、余震活動は依然として活発だし、気になるのは1日半経った今も余震の規模がそれほど小さくなっていないように見られることだ(参考)。当ブログからも余震への警戒は引き続き呼びかけたい。特に、震度6弱を受けても倒壊しなかった建物や構造物の中に大きく傷ついているものがあり、そうしたものが強い余震があった場合、倒壊する可能性があることだ。

ところで、緊急地震速報は今回も間に合わなかったようだ。緊急地震速報の「打ち遅れ」がここ数年、続いてきたことで、「役立たず」などの批判の声が大きくなってきている(参考記事)。だが、この記事自身が明らかにしているように、緊急地震速報は伝播速度の速い縦揺れ(P波)と遅い横揺れ(S波)との差を利用して、P波観測段階で地震を予測するシステムである。震源から近ければ近いほど、また震源が浅ければ浅いほど、P波とS波の伝播速度の差は小さくなり、「打ち遅れ」が発生するのである。これはシステムの特性上やむを得ないものだ。

気象庁がこの緊急地震速報のシステムの開発に取り組んでいた10~15年くらい前までは、比較的深い場所で発生する地震が多く、このようなシステムも有効に機能すると考えられた結果、導入が決まった。だが東日本大震災を境として、日本付近ではほとんどの地震が20km未満の浅い場所で発生するようになった。これは気象庁にとって「想定外」だったのではないか。その意味では気の毒といえるが、地震の発生の仕方がシステム開発当時と大きく変わり、緊急地震速報が「打ち遅れ」ばかりになっている現状を見ると、そろそろ「次のシステム」の開発を検討すべき時期に来ていると当ブログは考えている。

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【福島原発事故刑事裁判第17回公判】こんな「門外漢」まで召喚せねばならないほど、福島原発事故と津波との因果関係を否定できる人材は払底しているらしい

2018-06-17 21:07:05 | 原発問題/福島原発事故刑事訴訟
第17回傍聴記~間違いの目立った岡本孝司・東大教授の証言

 6月15日の第17回公判には、岡本孝司(おかもと・こうじ)・東大教授が証人として出廷した。専攻は原子力工学で、なかでも専門分野は熱や流体の流れ。核燃料からどうやって熱を取り出して発電するかという分野である。

 1985年に東大の原子力工学専門課程の修士課程を出て、三菱重工業に入社。もんじゅの設計や製作に携わったのち、1988年に東大助手、2004年から同教授。2005年から2012年まで、原子力安全委員会の原子炉安全専門審査会審査委員、専門委員を務めていた(注1)。

 証言のテーマは

・津波対策の多重化
・原発の規制における民間規格の活用
・津波リスクの確率論的評価

 など多岐にわたった。岡本教授は「専門家でないのでわからないですけれども」と何度も前置きしたうえで証言を続けていた。本来の専門ではない分野が多かったせいか、間違いや知識不足が目立った(注2)。

◯「津波対策を多重化していた原発は無い」→浜岡は実施ずみ

 多重的な津波対策とは、敷地に津波が遡上しないようにする(1)防潮堤だけでなく、(1)が破られた後の備えとして、敷地の上に(2)防潮壁、(2)扉水密化、(3)重要機器水密化、(4)高台に電源車など代替注水冷却設備を置いておく、などの対策をすることだ(図参照)(注3)。



 弁護人側の宮村啓太弁護士はこう尋ねた。「(事故前に)多重的な津波対策をとっている原子力発電所はありましたか」

 岡本教授「残念ながらありませんでした」

 これは間違いだ。

 中部電力が2008年2月13日に原子力安全・保安院に送った文書(注4)によると、浜岡原発では敷地に津波が遡上した時の対策として、ポンプ予備品の購入、建屋やダクト等の開口に防水構造の防護扉(2)を設置するなど、浸水への対応を進めていた。また、ポンプモーターの水密化(3)、既製の水中ポンプによる代替取水、ポンプ周りに防水壁(2)を設置するなども検討していた。

 中部電力は、「津波に対する安全余裕の向上策」として、敷地に浸水した後の多重化対策もやっていたのである。

 ◯「想定を超えた事態を、十分想像出来ていなかった」?

 岡本教授は、「津波が想定を超えたらどうなるか、十分思いが至っていなかった」と述べた。ただし、これは岡本教授の認識であって、東電や規制当局の実際の動きとは異なる。

 2006年5月に、保安院と原子力安全基盤機構(JNES)が開いた溢水勉強会で、福島第一原発で敷地より高い津波(押し波)が襲来すると、主要建屋が水没し、大物搬入口などから浸水して全電源喪失に至る危険性があると、東電が報告していた(注5)。



 保安院は、2006年10月6日に、耐震バックチェックに関して全電力会社の関係者を集めてヒアリングを開いた。ここで、保安院の担当者は、津波対応について「本件は、保安院長以下の指示でもって、保安院を代表して言っているのだから、各社、重く受け止めて対応せよ」とし、以下のような内容が伝えられた(注6)。

 「津波は自然現象であり、設計想定を超えることもあり得ると考えるべき。津波に余裕が少ないプラントは具体的、物理的対応を取ってほしい。津波について、津波高さと敷地高さが数十cmとあまり変わらないサイトがある。想定を上回る場合、非常用海水ポンプが機能喪失し、そのまま炉心損傷になるため安全余裕がない」

 また日本原子力学会で津波リスク評価の報告書(注7)をまとめた委員長の宮野廣・法政大教授は以下のように述べている(注8)。

 「JNESが2007年に、福島第一に津波のような浸水があったらどうなるか、リスク評価をして公表していました。ほとんどの外的事象で、事故が引き起こされる確率は1億年に1回という程度なのに、洪水や津波で水につかった場合に炉心損傷に至る確率は100分の1より大きく、桁はずれに高いリスクが明らかになっていました」

 「福島第一は、津波が弱点だとリスク評価で明らかになっていました。ほかの要因に比べて明らかに差があるから、ちゃんと手を打たなければいけない、そういう判断に使えなかったのは非常に残念です」

 岡本教授は、溢水勉強会のことについては「存じ上げません」、JNESのリスク評価の発端となったインド・マドラス原発のトラブルについても「細かいところまでは把握していない」と証言していた。この分野の知識が十分でない岡本教授に、そもそも証言する資格があるか疑わしいテーマのように思われた。

◯「バックチェック中、停止する必要は無かった」?

 原発を運転しながらバックチェックを進めることについて、岡本教授は「大きな余裕のもと運転がなされている。欧米も運転しながら確認している」と証言した。

 原安委と保安院の2003年4月3日打合せ資料の中に、「原子力施設の耐震設計に内在する裕度について」という文書がある(注9)。指針改訂前に設計された原発に、設計値と比べてどのくらいの安全余裕が上乗せされているか検討している。これは揺れについてのみ調べたものだが、「顕在的裕度として最低でも約3倍の裕度があることが(ママ)確認した。また、全ての施設に有すると考えられる潜在的設計裕度を加味すれば、耐震設計に内在する裕度は、それ以上を見込むことが可能であり、一部の施設について行われたNUPEC耐震実証試験における破壊試験からも確認できる」と結論づけていた。

 一方、津波に関しては余裕が小さかった。前述したように、保安院は「津波について、津波高さと敷地高さが数十cmとあまり変わらないサイトがある」と説明していた。電事連が2000年に実施した調査では、福島第一は全国の原発の中でもっとも津波に対する余裕が小さいこともわかっていた。土木学会手法による津波想定に0.5%程度の誤差が生じただけで、非常用ポンプの機能が失われる状態だった(注10)。

 検察官役の山内久光弁護士の「もしチェックしたところ、基準を満たしておらず対策が立てられないときは、停止するしかないのですか」という質問に、岡本教授は「おっしゃる通りです」と答えた。

 検察官側は、「運転停止以外の『適切な措置』を講じることができなければ、速やかに本件原子力発電所の運転を停止すべきでした」と主張しており、それについては岡本教授も認めた形だ。

◯「民間規格の活用が進んでいた」?

 岡本教授は、原子力規制に民間学会の基準を活用することについて「従来は告示をもとに規制していたが、新知見をどんどん取り入れていくのに民間規格を使うようになった」と説明した。

 被告人側の宮村啓太弁護士は、だから民間の土木学会が策定した津波想定手法(土木学会手法)を使うのは適切だった、という東電元幹部らの主張を補強しようとしていたように見える。

 岡本教授が指摘したように、学会などの民間団体がつくった技術基準を積極的に規制行政に取り入れていく流れはあった。ただし、民間の基準を規制に用いるには以下の要件を満たしていることを規制当局が検証して、エンドース(是認)する手続きを経なければいけない(注11)。

 (1)策定プロセスが公正、公平、公開を重視したものであること(偏りのないメンバー構成、議事の公開、パブリックコメント手続きの実施、策定手続きの文書化及び公開など)

 (2)技術基準やそのほかの法令又はそれに基づく文書で要求される性能との項目・範囲において対応がとれること。

 証言ではあいまいにされていたが、土木学会が策定した津波想定方法(土木学会手法、津波評価技術)は、このエンドースを得ていない。だから耐震バックチェックは、土木学会手法を用いればいい、とお墨付きを得たものではない。

 保安院も「津波は個別の原発ごとに審査しており、土木学会手法を規制基準として用いていない」と説明していた(注12)。

 日本電気学会がまとめた指針「JEAG4601-2008」で、「津波水位評価にあたり準用あるいは引用する基準類の適用版は以下による」として、土木学会手法が引用されていたが(注13)、JEAG4601-2008自体も、エンドースは事故時までにはされていなかった。

 土木学会自身も、土木学会手法について「民間指針等とは正確を異にしており、事業者に対する使用を義務付けているものではない」と事故後の2011年4月にコメントを出している(注14)。

 というわけで、宮村弁護士の狙いは尻すぼみ気味に終わった印象を受けた。

注1)岡本教授は茨城県の県原子力安全対策委員会の委員長も務めていた。県に提出された自己申告書によると、2010年〜12年度、日本原子力発電や三菱重工業から寄付金や共同研究費として計約1340万円を受領している。

注2)岡本教授が民事訴訟で提出している意見書と共通する問題点である。添田孝史「間違いだらけの岡本孝司・東大教授意見書」

注3)東京電力株式会社「福島原子力事故調査報告書」2012年6月20日 p.326から

注4)中部電力株式会社「浜岡原子力発電所3,4号機 津波に対する総合的な対策について」 2008年2月13日

注5)原子力安全・保安院が事故後に公開した溢水勉強会の資料国会事故調報告書 p.84

注6)国会事故調報告書 p.86

注7)日本原子力学会「原子力発電所に対する津波を起因とした確率論的リスク評価に関する実施基準:2011」2012年2月

注8)地盤工学会など「活断層が分かる本」 技報堂出版 2016 p.138

注9)添田孝史「耐震規制の『落としどころ』をにぎっていた電力会社」岩波科学 2017年4月

注10)国会事故調報告書p.85

注11)原子力安全・保安部会原子炉安全小委員会「原子力発電施設の技術基準の性能規定化と民間規格の活用に向けて」2002年7月22日

注12)国会事故調報告書p.91

注13)日本電気協会原子力規格委員会「原子力発電所耐震設計技術指針 JEAG4601_2008」p.206

注14)土木学会原子力土木委員会「原子力発電所の津波評価技術」について問い合わせの多い内容と回答

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【金曜恒例】反原発北海道庁前行動(通算294回目)でのスピーチ/リンクする「福島第2原発廃炉表明」と「新潟県知事選」

2018-06-15 22:54:25 | 原発問題/一般
レイバーネット日本の報告はこちら→「新潟県知事に公約守らせよう」「福島第2原発廃炉を歓迎」北海道庁前反原発金曜行動レポート

 みなさんこんにちは。

 福島で久しぶりに大きな動きがありました。東京電力の小早川社長が、昨日、突然、福島第2原発の廃炉の検討を表明したというニュースが流れたことです。今日はこのことについてお話しします。

 事故当時福島県内に住み、あの未曾有の大混乱を経験した者のひとりとして、事故を起こした電力会社が、事故を起こした県内で別の原発を再開するなど言語道断です。廃炉表明は遅すぎるくらいであり、当たり前のことを決めるのに7年3ヶ月もかかったのかという憤りはありますが、まずは福島県内の原発全基廃炉という県民の願いがようやくかなう見通しになったことを喜びたいと思います。

 福島第2原発は、楢葉町と富岡町にまたがって存在しています。津波被害こそ免れましたが、福島第1原発と同じ状況に陥らなかったのは奇跡というほかありません。楢葉町と富岡町の中で帰還困難区域でなかった場所は避難指示が解除となり、富岡町には1kg当たり8000bqを超え10万bqまでの「指定廃棄物」を処理する施設の稼働が始まっています。処理といっても単なる埋立であり、土の汚染度を下げる技術が開発されたわけではありません。今後も汚染廃棄物との長い闘いが続きます。そもそも、富岡町のすぐ北に人の住めない帰還困難区域があるのに、わざわざ人の住んでいる場所にこのような施設を建てた理由は、もともとそこに民間の産廃処理場があり、用地取得が楽だったというだけです。

 富岡町は、福島県の浜通りと呼ばれる太平洋側の、福島第1原発の南側にあります。大量の放射性物質は主に北西の方向に流れたため、南側にある2つの町は大きく汚染はされませんでした。しかし、少なくても汚染は汚染です。その上、富岡町はすぐ北に福島第1原発、南に最終処分場があり、この2つに挟まれて暮らさなければなりません。楢葉町では、避難指示が解除されて1年半経った2017年3月の時点でも、帰還した住民は町の全人口の1割、818人でした。一方で、町には1500人の除染作業員がいて、帰還した住民の数より除染作業員が2倍も多い状況です。「処分場が建つならもう帰らない」という人も大勢いる。こんな状況で果たして復興などうまくいくのでしょうか。

 内堀福島県知事を初め、県民がこぞって要求してきた全基廃炉の願いに、決してこれまで言質を取られないように振る舞ってきた東電が、なぜこの時期になって急に廃炉を言い出したのでしょうか。新潟県知事選で与党系候補が勝った直後というタイミングにその答えが隠されているように思います。「福島県民の皆さん、長い間お世話になりました。もう柏崎刈羽原発が動かせますので、福島第2は動かせなくても結構です」が東電の本心ではないでしょうか。もし本当にそうであるならば、私たちは手放しでこの廃炉表明を喜ぶことはできないと思います。東電に原発を扱う資格があるのかどうか、答えはいうまでもありません。

 与党系候補が勝ったからといって、今日明日にも柏崎刈羽原発が動くかというと、事はそう単純ではありません。なぜなら柏崎刈羽原発は2007年の新潟県中越地震でも止まっていて、その後、制御棒が変形して引き抜けなくなるなどトラブルもたくさん起きているからです。そもそも福島第1原発事故の検証をきちんとやるまで柏崎刈羽原発を動かさないでおこうと最初に言い出した泉田元知事も自民党です。自民党だから全員が全員原発推進、今すぐ再稼働派でないということは知っておいて損はないと思います。

 福島県内で原発を再稼働せよという人は自民党でもほぼいません。福島県議会議長まで務めた県議会議員の斎藤健治さんも自民党ですが、震災直後の大熊町を視察して脱原発宣言をしました。避難指示区域となり、農家が避難したため、牛が何十頭も牛舎につながれたまま餌も与えられずに死に、腐敗しているのを見て「地獄」だと悟ったからです。福島県内全基廃炉を求める決議が、県議会で自民党を含めて全会一致で採択されたという事実は計り知れないほど重いものです。おまけに、同様の決議は福島県内59の市町村すべてで採択されています。脱原発は200万福島県民の総意なのです。斎藤さんのような自民党県議が率先して仲間の国会議員を現場に連れて行き、脱原発に考えを変えさせることが必要であり、私からそのことを提案したいと思います。

 新潟県知事選の結果を見てわかったのは、原発を止めるには、自民党を脱原発に変えさせる闘いも必要であることです。自民党内にも河野太郎外務大臣、秋本真利(まさとし)国土交通政務官など、少なからず脱原発の考えを持つ議員がいます。そうした議員を私たちが励まし、党内で仲間を増やすよう働きかけることもひとつのアイデアだと思います。小泉元首相のやった規制緩和やイラク戦争支持は許せませんが、脱原発の活動を続けていることには注目すべきだと思います。そして、自民党内で最も悪辣な原発推進派は「電力安定供給推進議員連盟」所属の議員ですが、彼らは市民の批判が怖いのか、事務所の場所も電話番号も、所属メンバーさえも公表していません。ここに所属する自民党議員を割り出して、全員に斎藤さんの案内で福島の現場を見せるべきだと思います。函館市が起こしている大間原発建設差し止め訴訟も、市議会で自民党含む全会派の賛成を得ています。自民党が強いからとあきらめるのではなく、自民党を変える闘いをしましょう。まずはできるところから始めたらいいと思います。

 今日は以上で終わります。ありがとうございました。

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【福島原発事故刑事裁判第16回公判】東電の手法を追認する地震学者でも、証言させれば得るものが大きいとわかった法廷

2018-06-15 22:35:36 | 原発問題/福島原発事故刑事訴訟
第16回傍聴記~「事故は、やりようによっては防げた」

 6月13日の第16回公判の証人は、首藤伸夫・東北大名誉教授だった。首藤氏は1934年生まれ、「津波工学」の提唱者であり、1977年に東北大学に津波工学研究室を創設した初代教授だ。前日の証人だった今村文彦教授の師にあたる。1995年から原発の設置許認可を担う旧通産省の審査に加わった。土木学会が1999年から始めた津波評価技術(土木学会手法)の策定では主査を務めた。事故前に、福島第一原発の津波想定が5.7mとなる基準を定めた、そのとりまとめ役である。

 公判で、首藤氏は明治三陸津波(1896)以降の津波対策の歴史を語り(注1)、そして福島第一原発の事故について「やりようでは防げた」と証言した。

◯中央防災会議の津波想定を批判

 1960年のチリ津波の後、岩手県釜石市両石町で、首藤氏が津波の片付けをしているおばあさんに「おばあさん、大変でしたね」と声をかけた。「そのおばあさんは、こんなに災害でやられているのに、こんなきれいな笑顔ができるのかというくらいニコッと笑って、『あんたね、こんなものは津波じゃない。昭和や明治の津波に比べたら、こんなものが津波と言えますか』と言われた。その一言が、私の人生を変えた『宝物』ですね」(注2)

 「地球の歴史をざっと50億年と考えて、人間の50年の人生に比較すると、地球にとって30年というのは、人間にとっての10秒ほどにすぎない。地震の観測が詳しくなったここ30年の期間なんてそんなものなんですよ。10秒の診察では、人間の病気はわからないでしょう。津波のことはわかってないぞ、というのが腹の底にある」(注3)

 さすがに津波工学の創設者だけあって、津波対策の歴史についての語りは体系的でわかりやすかった。上に紹介したようなエピソードは、これまでもいろいろな媒体に掲載されてきたが、法廷で初めて聞いた人も多かっただろう。

 今回の証言で、私が初めて耳にしたのは中央防災会議への批判だった。

 中央防災会議の日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に関する専門調査会は、想定する津波を、これまで繰り返し起きているものに絞り込んでいた(注4)(地図)。首藤氏らが1998年に取りまとめた「七省庁手引き」(注5)では、最新の地震学の研究成果から想定される最大規模の津波も計算し、既往最大の津波と比較して、「常に安全側の発想から対象津波を選定することが望ましい」としていたが、後退していた形だ。

 「七省庁手引きで、最大津波を想定しましょう、としたのが中央防災会議ではすっぱり落ちている。学問の進歩を取り入れて想定しましょうとしていたのに理由がわかりません。大変がっかりした」。首藤氏はこのように述べた。


中央防災会議が想定した津波の波源域


◯土木学会に審議してもらおうとしたのは東電だけ

 2008年7月31日に、武藤栄元副社長が長期評価の対策を先延ばしし、土木学会の審議に委ねたこと(ちゃぶ台返し)に関して、被告人側の中久保満昭弁護士は、こう尋ねた。

 「地震学的な取扱について津波評価技術(土木学会手法)の改訂を審査してもらう手順について合理的だと思われますか」

 首藤氏はこう答えた。「当然だと思います。いろいろなところの学問の進歩に触れながら、取り入れて手法を作っていく。それは一つの電力会社では手に余る」

 しかし、実際には、東京電力以外の電力会社は、土木学会の審議を経ずに学問の進歩を取り入れて、新しい津波を想定していた。3年かけて土木学会の審議してもらおう、と言ったのは、東電だけだったのだ。

 東北電力は、女川原発の津波想定に貞観地震(869)を取り入れて2010年に報告書をまとめていた。土木学会手法(2002)では、貞観地震の波源は想定していないが、土木学会の改訂審議は経ていない。

 日本原電は、東海第二原発の津波想定を2007年に見直し、対策工事を始めた。1677年の延宝房総沖津波の波源域を、土木学会手法より北に拡大したが、土木学会の審議は経ていない。

 中部電力も、2006年から始まったバックチェックで、浜岡原発の津波想定に最新の中央防災会議モデルを採用した。やはり、土木学会の審議は経ていない。

 波源域の見直しは一つの電力会社では手に余る、という事実は無いのだ。

◯揺れ対策は「十数万年に1回」の対策に費用を投じていた

 検察官役の久保内浩嗣弁護士の質問に、首藤氏は「事故はやりようによっては防げた」と明言した。首藤氏は、地震について10秒分しか知らないのだから、防潮堤では限界があることを念頭に、一つの手段がだめになったらお手上げという形でなく、建屋の水密化などの対策もとって、津波に対して余裕をもって対応すべきだったと説明した。

 ただし、「10年20年で廃炉になる原発に、対策費用をかけるのがなぜ必要なんだと反論が出た時に、説得するのが難しい」とも述べた。その例として、東京を200年に1回の水害から守るスーパー堤防事業が、費用がかかりすぎるとして仕分けで廃止されたことを挙げた。

 その説得は、実は簡単だ。「原発ではそういう規則です」と言えばいいだけである。電力会社の費用負担に気兼ねして津波対策の余裕を切り下げる必要は全くなかった。

 2006年9月の耐震バックチェック開始以降、各電力会社が、十数万年に一度しか起きないような地震の揺れにまで備えた対策を、場合によっては数百億円以上もかけて進めていたことを、首藤氏は知らなかったのだろうか。そして、各電力会社の株主総会で「あと10年しか使わない原発の補強は無駄だから止めろ」という声は出ていなかった。

 河川堤防のような一般防災と、原発防災では、求められている安全性能も費用対効果の考え方も全く異なる。それを首藤氏は知らなかったのか、あえて混同して証言したのか、それはわからなかった。

注1)首藤伸夫「チリ津波40周年―何をもたらし、何が変わったか―」自然災害科学 19-3 275-279、政府事故調 聴取結果書 首藤伸夫 2011年7月7日 など

注2)学生記事 大先輩に伺う土木の学び―温故知新「10秒診察に注意せよ!―過去の災害の経験から今の防災を考える―」語り手・首藤伸夫 土木学会誌2015年8月

注3)添田孝史「原発と大津波―警告を葬った人々」p.42 岩波新書 2014

注4)中央防災会議「日本海溝・千島海溝周辺型地震に関する専門調査会報告」2006年1月

注5)「太平洋沿岸部地震津波防災計画手法調査報告書」「地域防災計画における津波防災対策の手引き」(国土庁・農林水産省構造改善局・農林水産省水産庁・運輸省・気象庁・建設省・消防庁)


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