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リニア工事崩落でついに死者、さらに崩落事故 ただちに工事中止だ

2021-11-28 23:49:12 | 鉄道・公共交通/交通政策
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2021年12月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 中央リニア新幹線工事現場で最近事故が相次いでいる。10月27日にリニア関連工事では初の死亡事故が起きたのに続き、11月8日にも崩落事故が続いた。

 ◎初の死亡事故

 10月27日、岐阜県中津川市の「瀬戸トンネル」建設現場で発破作業に伴って土砂が崩落。巻き込まれた作業員1人が死亡した。リニア新幹線工事での死亡事故は初めてだ。

 JR東海の発表によると、崩落は2回発生した。発破作業を行った場所の表層の土砂が崩れ落ちる「肌落ち」と呼ばれる現象だ。1回目の崩落で作業員1人が動けなくなり、別の作業員が救出に駆け付けたところ、10~20秒後に2回目の崩落が発生。1回目の崩落に巻き込まれた作業員が死亡した。

 11月8日の崩落事故は長野県豊丘村のトンネル工事現場で発破作業の準備中に発生。火薬を詰める作業に当たっていた作業員が崩落に巻き込まれ負傷した。

 驚くのは事故後のJR東海の対応だ。死亡事故が起きた場合、他の工事現場でも工事を止め、同じような危険がないか点検するのが普通だが、JR東海は山岳部の14工区で「3日程度の掘削作業の中断」を表明しただけ。瀬戸トンネル以外の現場ではさっさと工事を再開した。工事現場の基本的な安全確保にすらまったく関心を払っていない。

 情報公開に対するJR東海の姿勢も同様だ。死者を出した瀬戸トンネル事故でさえ、A4用紙1枚のニュースリリースをホームページに掲載しただけ。豊丘村の事故に至ってはホームページに掲載すらしていない。このようなJR東海のふざけた隠蔽体質こそ連続事故の根底にある。

 ◎事故は2年ごとに起きている

 実は、リニア新幹線の工事現場での大規模な事故はこれが初めてではない。2017年12月にも、発破作業の失敗で長野県大鹿村と松川町とを結ぶ県道に大量の土砂が崩落。復旧に1ヶ月かかり、崩落現場の先にある観光地は年末年始に減収になるなど多大な影響を受けた。大鹿村には国道の通行止めで燃料運搬車も入れなくなり、村民生活にも打撃となった。2019年にも岐阜県中津川市の工事現場で陥没事故が発生。事故はほぼ2年に1回のペースで起きていたのだ。

 リニア工事現場で相次ぐ事故の背景に、施工に当たるゼネコンの技術力低下を指摘する声もある。発破作業直後の十数分は肌落ちが起きやすく、また爆破の衝撃で土ぼこりが舞い現場確認もできないため、通常は「作業員を投入せず待機させる」(技術者)という。

 こうした技術面ももちろんだが、今回の連続事故には工事が大幅に遅れている現場で発生したという共通点がある。瀬戸トンネルは1年遅れ、豊丘村の工事現場は計画では2017年10~12月期に掘削開始予定となっており4年も遅れている。こうした大幅な遅れが焦りにつながったことは間違いない。

 瀬戸トンネル現場での事故は総選挙投票日の2日前に起きた。事業推進の与党とJR東海に忖度したのか、大手メディアは作業員死亡を速報後は沈黙した。今年6月の静岡県知事選でも、静岡県の反対で工事が遅れているかのような印象操作をメディアは繰り返したが、事実とは異なる。現場の最低限の安全さえ確保しないままずさんな工事が横行するリニア事業は中止が当然だ。

 ◎事業中止の闘い続く

 11月9日、リニア・市民ネット東京はじめ、首都圏・愛知・大阪の他、山梨・長野・岐阜のリニア反対17団体が連名で、リニア工事の中止などを求める要請を国土交通省・JR東海に対して行った。

 安全問題研究会も11月26日、リニア中止の要請を計画したが、驚くことに国交省は対面での申し入れ書の受け取りを拒否。安全問題研究会のリニア関係要請に対し、国交省(地方運輸局を含む)が要請書の直接受け取りを拒否するのはこれで3度目。国がいかにリニア問題を恐れているかが見えてくる。

 筆者は原発問題をめぐっても各省庁等への要請行動を行っているが拒否されたことはない。国交省は「新型コロナウイルス感染症対策のため、面談による対応は現在行っておりません。誠に恐れ入りますが、ご了承のほどお願い致します」(国土交通ホットライン・ステーション)としているが、過去2度の直接要請拒否はコロナ前であり理由になっていない。

 安全問題研究会がこのような対応に「了承」を与えることはない。事業中止の展望ははっきり見えてきたと思う。今後もリニア中止に向けた行動を続けていく。

(2021年11月27日)

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「スプーンおじさん」にご用心! 面白くてためになる「希釈」と「濃縮」のお話

2021-11-22 11:45:19 | 原発問題/一般
 2021年11月13日、福島県いわき市で「汚染水を海に流すな! 海といのちを守る集い」が開かれました。この集会では、鈴木譲・東大名誉教授の「放出された放射性物質は『希釈される』と東電は説明しているが、決して薄まることはない。放射性物質はまとまって海洋を浮遊するだけで、水に溶け込んで薄まって、なくなるものではない」と発言されました。福島県から京都市に避難された方がそれを聞いて「衝撃を受けた」という感想を述べていたのが、私にはとても印象に残りました。

 公害を垂れ流す企業や、その側に立って被害を小さく見せたがっている「御用学者」と呼ばれている人たちは、しばしばこういうレトリックを使って市民を欺こうとします。今日は、そんなレトリックにごまかされてしまわないよう、科学的思考法を市民のみなさんに身につけていただくことを目的として、このファイルを作成しました。

2021.11.13 汚染水を海に流すな! 海といのちを守る集い


 ●「希釈すれば減る」って正しいの? ~「減るけど減らない」ビミョーなお話

 東京電力の「希釈すれば減る」という説明は果たして正しいでしょうか。

 日常的に料理をしている方なら誰でも経験があると思いますが、スープを味見してみて「ちょっとしょっぱいかな」と感じたらどうしますか。お鍋に水かお湯を足すと思います。経験豊富な方は、目分量で適当に水やお湯を足し、もう一度味見して、ちょうどいい塩加減になるまでこれを繰り返します。「希釈」は日常生活の中にもあふれています。

 薄める前は塩味が濃すぎて他人には食べさせられないな、と思っていたスープに水かお湯を足す。もう一度味見をして、ちょうどいい塩加減になったのを確認すると、なんだか塩味が薄くなったせいか、減ったような気がしますよね。

 いや、実際、減ってるんです。「単位体積当たり」の塩の含有量としては。ここでいう単位体積当たりとは、全体の中で一部分を取り出して、その一部分を基準としてその中に特定の物質がどれだけ入っているかという話のことです。例えば体積1立方メートル当たり○○gとか、重量1キログラム当たり何ベクレルという含有量のことです。料理なら「スプーン1杯当たり含有量」です。

 スープを作ってみて味見をしたら、しょっぱい。そこで水やお湯を入れ「希釈」する。もう一度味見をすると、ほどよい塩加減になっている。なぜそうなったかというと、お鍋の中の水の量を増やすことで「スプーン1杯当たり」の塩の量が減ったからです。くどいようですが、実際、減ってるんです。「スプーン1杯当たり」で見るなら、という条件付きですが。

 でも、お鍋の中に含まれる塩の総量としては、減ってなどいません。水やお湯を足していくら「希釈」しても、減らせるのは「単位体積当たり」含有量、つまりスプーン1杯当たりの含有量だけです。一度お鍋に入れてしまった塩の総量を減らすことはできません。「覆水盆に返らず」ならぬ「覆放射能、炉に返らず」です。

 私は、原発事故が起きた後3年目くらいまでは、よく各地で講演会の講師として福島の体験を話す機会がありました(最近は世間もこの話を忘れたいのか、ほとんど依頼もなくなりましたが)。そこで聞かれるのが「海に流せば放射性物質は減るという人がいるが、あれは本当ですか」です。

 「単位体積当たり」の話であれば、狭い場所から広い場所に移すことでどんな汚染物質でも減らせます。でも汚染物質の「総量」はどんなに頑張っても減らす方法はありません。「減るけど減らない」とでも答えることにしましょうか。

 ●「スプーンおじさん」の話は「ウソ」ではないが……

 「(単位体積当たりとしては)減るけど(総量としては)減らない」のが希釈であるとすれば、東電や御用学者は決してウソをついているわけではありません。悪意をもって市民を騙す目的でそういう言い方をしているのかというと、そうとも言い切れないような気がします。それではなぜ市民と「御用学者」の話はいつまでもすれ違い、かみ合わないのでしょうか。

 それは、学者はいつも「単位体積当たり」の話をしているのに対し、市民は「で、結局東京電力さんが環境中に放出した放射性物質の総量はいくらで、それは私たちの健康や生活にどのくらい影響するんですか?」という疑問に解を求めているからなのです。でも残念ですが、彼らにその解をいくら求めたとしても、たぶん徒労に終わると思います。

 そもそも彼らはそういう文化の下で育てられていません。大学では単位体積当たりで物事を考えるのが当然だと教えられてきましたし、自分たちも学生にそう教えています。1キログラム当たり何ベクレルとか、大気1立方メートル当たり何ppmなど特定単位で「定量的」に評価することが科学だと信じているんです。単位体積当たりでしか物事を捉えられない、そういう人たちのことを昔、ある原発関係の講演で「スプーンおじさん」と呼んだら会場は大爆笑でした。もちろん、福島の深刻な放射能汚染の状況を考えたら笑っている場合ではないのですが、ともすれば退屈になりがちな講演会で聴衆に聞き耳を立ててもらうためには、笑わせる仕掛けもときには必要です。

 スプーンおじさんって何だい? と思った特に若い人たちのために説明しておきますと、1980年代に「スプーンおばさん」というアニメがNHKで放映されていました。スプーンおじさんはそのパロディーです。御用学者には女性もいますが圧倒的多数は男性です。時代と社会がジェンダーにうるさくなってきた今、特定の性別や属性に紐付けて批判をするのは可能な限り避けるべきでしょう。しかし、権力を持っている側、社会や組織を支配している側への批判となれば話は別です。圧倒的権力を持っている圧倒的多数の男性学者たちが「汚染総量」のことが知りたい市民を欺き「単位体積当たり」の話に巧妙にすり替え、公害垂れ流し企業を擁護しているときに、彼らをスプーンおじさんと批判することが間違っているとは思いません。

スプーンおばさん



 ●スプーンおじさんが忘れている濃縮の話

 ゼロリスクを求め、少しでも汚染物質が環境中にあると怖い怖いと叫ぶ「“定性的”にしか物事を考えられない市民」をスプーンおじさんたちは心の底では非科学的と馬鹿にしています。しかし、子どもを放射能から守りたいと必死になっている福島の親たち、政府が避難指示を出してもいない地域から、あえてすべてを捨ててまで避難した人たちは、果たして嘲笑されなければならないほど愚かなのでしょうか。私はそうは思いません。むしろ、笑っている御用学者たちの「科学的」な「定量信仰」にこそ異を唱えたいと思います。

 もし忖度という文字の読み方も意味も知らない、そもそもこんな漢字見たこともないという心のきれいな市民がいたとして、その人が「で、結局東京電力さんが環境中に放出した放射性物質の総量はいくらで、それは私たちの健康や生活にどのくらい影響するんですか?」と無邪気に質問したとしましょう。すると、それまで「ニコニコしている人には放射線は来ない」とばかりに笑顔だったスプーンおじさん達は一転して般若のような怖い顔になり、無邪気な質問をした善良な市民に対し、オマエは地球人類の敵だとでも言わんばかりの謎の総攻撃をしてきます。企業の経済活動のために放出された汚染物質の総量を聞くなんてことは「分別ある大人」のすることではないという「確固たる空気」ができているのが不思議の国ニッポンのニッポンたるゆえんなのです。

 スプーンおじさん達は、分別ある大人は単位体積当たり、スプーン1杯当たり含有量の話をしていればそれで事足りるのだという根拠のない自信に満ちあふれています。理由を尋ねると「大食い自慢の芸能人でも一度に吉野家の牛丼特盛を10杯は食えないでしょ。だから人間の胃の中に収容可能な単位体積当たりで基準値以下ならいいんです」と大声で謎の威圧をしてきます(これは私の作り話などではなく、実際に北大原子力工学科の御用学者から言われたことがあります)。

 でもスプーンおじさん達、ちょっと待ってくださいよ。人間以外の生物にまで世界を広げれば「一度に吉野家の牛丼特盛を10杯」以上食べる生物なんてざらに存在します。全長が人間の何十倍もあるクジラなんかは典型でしょう。アーンと口を開け、パクッと閉じると、牛丼特盛10杯どころか100杯くらい一度に食べてしまう生物はこの地球上にいくらでもいます。

 そういう生物が一度にたくさんの汚染物質を飲み込んで、体内に蓄積する。それを繰り返して、クジラの筋肉の中に大量の汚染物質が蓄積されたところで、IWC(国際捕鯨委員会)なんかクソ食らえとばかりに脱退し、国際社会に背を向けてガラパゴス街道をひた走る日本の漁船がそのクジラを捕って、さばいて売る。それを我々人間が食べる。過去の公害は全部このパターンで起きたんです。

 この一番大事なことを、スプーンおじさん達は忘れています。何でもかんでもスプーン1杯単位でばっかり考えていると、井の中の蛙になり大海が見えなくなる。スプーンおじさんはスプーン1杯より大きな数量は計れません。そんな人たちに福島県民の運命を委ねてはならないのです。

 ●スプーンおじさんも本当は知っている

 いま私は、スプーンおじさんはスプーン1杯より大きな数量は計れないと言いましたが、厳密にはそうではありません。スプーンおじさん達も本当は知っているんです。自分たちが「単位体積レトリック」で市民をごまかしながら擁護してきた公害企業が、どれだけ多くの汚染物質を自然環境中に垂れ流してきたか。

 それは別の表現をすれば「どれだけ自然と生命に多くの危害を加えてきたか」と同義です。「自分たちが自然と生命に対してどれだけ巨大な罪を犯したか」と表現してもいいでしょう。だからこそ「企業の経済活動のために放出された汚染物質の総量を聞く」人に対し「分別ある大人」のすることではないなどとレッテル貼りをし、謎の大声で威圧、攻撃してくるのです。自分たちの巨大な罪を暴こうとする存在に対しては、どんな生物でも防衛反応が働きます。自分の立場をそれで固めてきたスプーンおじさん達が自分の「大切なもの」を守るためそうせざるを得ないというのであれば、「理解」できなくもありません。

 (この場合の理解とは、「そういう社会的立場はあり得るよね」という意味での理解です。これに対し、私たちは私たちで被害者としての「大切なもの」を守るため、それに「理解」を与えないという社会的立場が当然あり得ます。そして私は論じるまでもなくその立場にあります)。

 私は、このファイルに目を通している「あなた」には、忖度という態度を身に付けてほしくありません。こんな読みにくく難しい漢字、今後も覚える必要はありません。世の中には知らないほうが幸せなこともたくさんあり、忖度もそのひとつだからです。

 世の中というのは大変うまくできていて、「世界を変えよう」なんて大上段に構え、粉骨砕身して頑張っている人にはなかなか世界を変えられません。むしろ、そのような大それたことはこれっぽっちも考えておらず「ただ無邪気に疑問に思ったことは口に出してみたいだけ」の人の何気ない問いかけが世界を変えるきっかけになることのほうが多いような気がします。

 人との約束を破ってはいけませんが、世界記録と理不尽な空気は破るためにあります。「で、結局東京電力さんが環境中に放出した放射性物質の総量はいくらで、それは私たちの健康や生活にどのくらい影響するんですか?」と無邪気に質問できる「あなた」であってほしいと願っています。

 あなたのその質問に答える意思、能力が「スプーンおじさん」にあるかどうかは私にはわかりません。

 ●汚染水はやっぱり流してはいけない

 最後にもう一度結論を確認しておきましょう。どんなに頑張っても減らせるのは「単位体積当たり含有量」だけであり、一度流れ出た汚染物質の総量は絶対に減らすことができないという結論に変わりはありません。汚染水はどんなことがあっても海になど流してはいけません。

(終わり)

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<地方交通に未来を(2)>歌を忘れた鉄道は……

2021-11-05 12:03:46 | 鉄道・公共交通/交通政策
(この記事は、当ブログ管理人が長野県大鹿村のリニア建設反対住民団体「大鹿の十年先を変える会」会報「越路」に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 鉄道が歌に歌われなくなって久しい。ここでいう歌とは、一部のマニアだけが笑い、歌いあっているものの、一般の人には歌詞の意味も分からないようなマニアックソングのことではない。そのようなマニアック鉄道ソングを専門とするSUPER BELL"Z(スーパーベルズ)というグループがあるが、一般人が聞いてもほとんど意味がわからないだろう。

 私のいう「歌」とは、昭和時代の「いい日旅立ち」(山口百恵)や「なごり雪」(イルカ)のような曲のことである。日本語を日常語とする人なら誰でも容易に理解でき、市民こぞって歌い合うことで一体感を醸成できるような曲――少し古い言葉で言えば「国民歌謡」、最近の言葉であればJ-POPに分類されるような曲の中で鉄道が舞台であるものや、鉄道に言及しているものである。こうした曲がほとんど出ないまま、平成というひとつの時代が終わりを迎えてしまった。

 ドラマや映画の出会いや別れの舞台としても、かつては鉄道が頻繁に登場していた。蒸気機関車が牽引する、扉が手動式の旧型客車がゆっくり、ゆっくりと加速していく。携帯電話などなかった時代、大切な人との別れを惜しむように最後の瞬間まで語らいあった後、発車ベルが鳴り、列車が動き出すのを見て、ようやく覚悟を決めたようにホーム上を走って列車に追いつき、手動式のドアから乗り込む。歌謡曲に話が戻るが、「あれは3年前/止めるあなた駅に残し/動き始めた汽車に/ひとり飛び乗った」(「喝采」ちあきなおみ、1972年レコード大賞受賞)という歌詞は多くの人に共感をもって迎えられたからこそ大賞を受賞したといえよう。

 私は、小学生の頃、「喝采」の歌詞そのままに、動き出した旧型客車に手動式のドアから飛び乗る体験をしてみたことがある。自宅の前を走っていた日豊本線は電化され、すでに大部分が自動ドアの電車になっていたが、1日3往復だけ旧型客車の列車があった。その頃蒸気機関車はすでに引退、性能のいい電気機関車に代わっていたため、予想に反してホームを発車した列車はグイグイと加速し、危うく乗り遅れそうになった。なんとかホームを走って追いつき、飛び乗ることには成功したが、「蒸気機関車でないとあのドラマは成り立たないな」と子ども心に思ったことを今でも覚えている。昭和の時代のドラマや映画には、こうしたシーンが随所に盛り込まれていた。

 このような形で歌謡曲、ドラマ、映画の主役だった鉄道が、平成に入って以降、まったくと言っていいほど登場しなくなった。その原因はいくつかある。国鉄時代には撮影・制作に協力的だった現場がJRになってから非協力的になったこと、駅が地域の拠点、公共の場からエキナカビジネスのためのプライベート・スペースへとその位置づけを変えたことがその大きな要因だと思う。こうしたことがあいまって、鉄道が市民から遠いところに行ってしまい、市民に意識されなくなってしまう現象につながった。国鉄民営化は駅という空間の「民営化」につながり、ひいては鉄道の社会的地位の低下をももたらしたのだ。

 現在、ドラマや映画での出会いや別れのシーンに登場する場所は圧倒的に空港が多くなった。それに次いで多いのが「クルマで走り去る」シーンであり、もはや公共交通ですらない。新自由主義は人間同士の出会いや別れまでパブリック(公)からプライベート(私)に変えてしまった。

 平成時代を通じて貫かれたのは経済、カネの論理だった。昭和の歌謡曲の主役だった「動き始めた汽車にひとり飛び乗る」女性、「汽車を待つ君の横で時計を気にしてる」僕の代わりにテレビの主役になったのは、新幹線のわずか7分の折り返し時間に手際良く16両編成の列車の清掃と座席転換を終える清掃会社、駅の代わりに百貨店の催し場で売り上げ1位を目指す駅弁業者のような、身も蓋もない経済とカネの論理だった。震度7の激震で公共交通機関も電気・ガス・水道もすべて止まった2011年3月11日、「列車を走らせられない駅に人を入れる意味はない」と早々に駅のシャッターを閉め、まだ冬が居座る中、寒空の下に10万人近い帰宅困難者を放り出し、社会的批判を浴びてもなお改めなかったJRの姿は、本来なら公共空間であるはずの駅「民営化」がもたらしたひとつの悲劇的結末だった。

 2020年、突如発生したコロナ禍ではトイレットペーパーがなくなるという噂が広まった。噂自体に根拠がなくても、多くの人が買い占めに走ることで本当にその通りの結末が訪れる「予言の自己成就」は行動経済学の世界では研究対象になっている。「自分」と「他人」の行動を「買い占める/買い占めない」に分け、2×2の4通りのケースでどの行動が最も理にかなっているか、ゲーム理論を基に説明を試みる研究者も現れた。結果は「自分が買い占めておけば、他人が買い占めをしてもしなくても敗者になることはない」というものだった。結局、資本主義は利己主義であり「抜け駆けをする者が有利」という結論である。

 だが、そのような人々の利己的行動もさることながら、私が最も関心を抱いて推移を見守っていたのは、トイレットペーパー供給不足の背景にある問題だった。製紙工場の倉庫にはトイレットペーパーがうずたかく積まれているのに、ドラッグストアの店頭からは消えている。矛盾する2つの現象が同時展開するニュース映像を見てふと私の頭に浮かんだのは国鉄民営化だった。

 国鉄時代は多くの貨物駅が「国営物流倉庫」として機能しており、余裕物資を備蓄する役割を果たしていた。大きくてかさばるトイレットペーパーは鉄道向きの貨物であり、国鉄時代はワム80000型有蓋貨車(通称ワムハチ)を使ってトイレットペーパーが全国各地に運ばれていた。国鉄民営化で貨物事業は大幅に縮小、貨物駅も整理統合された。物資の保管中は経費がかかるだけで利益は生まれないから、荷主の間にトヨタ流のジャスト・イン・タイム方式が広がるにつれ、倉庫は民間でもビジネスとして成り立たなくなり整理統合が進んだ。物流分野におけるこうした「余裕備蓄力の崩壊」がトイレットペーパー不足の背景にあるのではないか。長く公共交通業界を見てきた私の現在までの推測である。

 元号が令和に変わって3年。カネカネカネで走り続けてきたニッポンはこの先どこに向かうのか。市民意識から遠ざかってしまった鉄道が公共交通の地位を取り戻し、駅が再び公共空間に戻るためにこれから何が必要なのか。鉄道がもう一度「歌」を取り戻すことにその答えがあるのではないかと、私はいま思っている。

(2021年11月1日)

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【転載記事】〔週刊 本の発見〕女性のいない民主主義

2021-11-04 23:43:46 | 書評・本の紹介
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」の書評コーナー「週刊 本の発見」に寄稿した内容をそのまま転載したものです。)

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なぜ日本で「女性政治家」が増えないのか~『女性のいない民主主義』(前田健太郎・著、岩波新書、820円+税、2020年3月)評者:黒鉄好

 世界経済フォーラムが発表するジェンダーギャップ指数で日本は常に最下位グループで、順位の足を引っ張っているのはいつも政治部門。なぜ変われないのか、女性政治家が増えない理由はどこにあるのか。解決方法はあるのか。その疑問に挑戦している。

 「女性議員が増えなくても、女性の意見や悩みに共感し、耳を傾け、その意見を政治に届けるまっとうな男性議員が増えれば政策決定上は問題ないのではないか」という主張も根強くあるが、前田はこうした意見に対し、民主主義という政治体制の下で「誰が誰を代表しているのか」との疑問を提示。「政治家はみずからの支持者の社会的属性と同じ属性を持っている」と指摘した上で「代表者を持てない社会層の意見は政治には反映されない」と分析。「存在の政治」との表現で、女性の意見を政治に反映させるため、女性政治家を増やすことはやはり必要であるとする。

 前田はさらに、なぜ女性の意見が政治に反映されにくいかについても分析している。政治とは利害関係のぶつかり合いであり、労働組合・業界団体などに集団化、組織化された社会層が有利であることは明白である。こうした組織化は男性中心に行われてきた。女性の組織化が男性に比べて進まなかった理由について、前田は女性の意見や利害関係が男性に比べて多様であることを指摘する。実際、女性は雇用形態ひとつとっても男性の非正規化が問題とされるはるかに前から正規、非正規など多様で、共通の利害関係に基づく社会集団への組織化は難しい面があった。さらに、このような組織化された社会団体から候補者が「発掘」されるケースが多いことも女性が政治から排除されることにつながったとする前田の分析は説得力を持つ。これらは与野党共通の課題であり、女性政治家を意識的に育成する何らかの仕組みが必要であることを示唆している。

 日本で女性政治家が育たない原因についての前田の分析は多方面に及び、納得できるものが多いが、様々な要因が積み木のように少しずつ積み上げられて今日の状態が作り出されていることも同時に見えてくる。「この要因さえ取り除けば状況が劇的に改善する」という特効薬的な解決策は存在しないように見え、それだけに本書を読み進めば進むほど、解決の困難さも浮き彫りになるとともにため息が止まらなくなる。だが、前田が同時に指摘しているのは、政治への女性進出が始まったのは欧米諸国を除けば21世紀に入ってからであり、日本だけの問題ではないという事実である。もちろんそれを言い訳にしてよいわけではないが、「千里の道も一歩から」と腰を据えて取り組む以外にないと思う。

 本書に不足があるとすれば、前田が単純に女性政治家の「数」だけにこだわった議論をしている点である。「どのような女性政治家が増えるべきか」の議論は行われていない。まず人数が増えることが第一であり、「質」の議論はその後でいいと前田が考えていることは本書の他の記述から伝わってくる。だが女性政治家が一定の数を確保した後は「質」が議論される日が来る。前田がそのときにどのような議論を展開するのか。1980年生まれの若き著者の今後も含め、注目すべき1冊である。2020年新書大賞第7位。

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【転載記事】必ず責任を取らせよう!ヒューマンチェーン300人〜東電刑事訴訟控訴審はじまる

2021-11-03 23:39:04 | 原発問題/福島原発事故刑事訴訟
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」に寄稿した記事をそのまま転載したものです。)


被害者の遺影を掲げて


2019年9月、福島原発事故を起こした東電旧経営陣3被告(勝俣恒久元会長、武黒一郎元副社長、武藤栄元副社長)に対する無罪判決から2年2か月。検察官役指定弁護士の控訴を受けて控訴審初公判が開かれる11月2日の東京高裁前には、秋晴れの下、約300人が朝早くから集まった。

東京高裁前では参加者がヒューマンチェーンをつなぐ中、告訴人を代表して武藤類子さん(福島原発告訴団長・福島原発刑事訴訟支援団副団長)が「福島県民に未曾有の苦しみを強いたこの事故の責任を誰も取らないなどということはあってはならない。必ず責任を取らせよう」と決意を述べる。

この裁判に先立って審理が進む東電株主代表訴訟では、3日前の10月29日、福島第1原発敷地内に裁判官が直接立ち入りしての現場検証が行われている。事故被害者が国・東電に賠償を求めた民事訴訟で、裁判官が帰還困難区域で現場検証をした例はあるが、福島第1原発敷地内にまで裁判官が立ち入るのはこの株主代表訴訟が初めてである。みずからも株主側代理人として、裁判官とともに敷地内に入った海渡雄一弁護士は「民事でさえ裁判官が原発に入り現場検証しているのに、経営陣の責任を問う刑事訴訟で裁判官が現場検証もせずに判決を書くなどということがあってはならない。必ず現場検証を勝ち取ろう」とあいさつした。


ヒューマンチェーンで裁判所を「包囲」


午後1時半から始まった法廷では、まず検察官役の指定弁護士が、控訴趣意書を約30分にわたって読み上げた。指定弁護士は、原判決(2019年9月の東京地裁判決)の「4つの誤り」を指摘。(1)政府機関である地震本部の長期評価の信頼性を否定したこと、(2)原子炉の安全性に関する社会通念への理解が誤っていること、(3)経営陣の責任を福島第1原発の運転上の責任だけに限定して狭く捉えすぎており、事故の予見可能性に対する責任を無視したこと、(4)現場検証の要求に応じなかったこと——であるとした。

これに対する弁護側(3被告人の弁護人)の反論は、約10分程度と短いものだった。「東日本大震災は、指定弁護士が証拠提出した明治三陸沖地震などとは比較にならない巨大地震であり、その対策をしようとすれば、はるかに長期間を要する大がかりなものとなる」として結果回避は不可能だったと弁解。「過失犯の成立には予見可能性、結果回避可能性、結果回避義務違反の3要件が揃うことが必要であり、結果回避が不可能だった今回の事故では過失犯の成立要件を満たしていない」との形式論で控訴棄却を求めた。

1審・東京地裁判決で、永渕健一裁判長の出した判決は今思い出してもひどいものだった。「原発事故を回避するための唯一の手段は運転停止」であり、それ以外の安全対策は取り得ないと一方的に決めつけるものだった。弁護側はこの判決を引き合いに「指定弁護士側も運転停止を主張していたのだから、それに沿って書かれた原判決に誤りはない」と主張した。

だが、この主張は曲解といわざるを得ない。実際には、1審で指定弁護士側は「建物の水密化、防潮堤設置、非常用ディーゼル発電装置の高台移動など、運転停止に至るまでに取り得る何段階もの結果回避措置があり、それらを尽くしてもなお運転停止以外に事故を回避する措置がない場合の最終手段」として運転停止を主張していたに過ぎない。「あらゆる安全対策を尽くした上で、それでもなお事故を防ぐことができないと判断した上で、原子炉を止める」と「安全対策を何もせず、原子炉を止めるしか安全対策はない」という2つの主張に大きな隔たりがあることはご理解いただけるだろう。

こうした「安全対策の諸段階」をスキップした1審判決がこのまま確定すれば「原発を止める以外に事故回避の手段はなく、社会的影響力の大きな原発停止もできない以上、危険でも動かす」か「事故は起こせないので、原発は止める」かの二者択一しか存在しないことになる。市民、利用者の期待に応えるため、少しでも安全な原発にしようと日夜、現場で奮闘してきた原発関係者をも愚弄するものであり、私たち原発反対派はもとより、原発推進派の中の心ある人々のためにも根本的見直しが必要だというのが、1審判決からずっとこの刑事訴訟に関わってきた私の感想である。それほどまでに1審判決はひどいものだった。

被告人側代理人の声が、陳述が進むにつれ次第に小さくなっていくのがわかった。閉廷後の報告集会では、この日の裁判を傍聴した人が異口同音に「3被告人の弁護士が自信がなさそうに見えた」と述べたが、私も同じ感想を持った。付け加えておくと、今回の法廷で最も許しがたいのは被告人側代理人が「控訴審は事後審の性格を持っており、そこでの新たな事実取調は刑事訴訟法では予定されていない」を控訴棄却の根拠としたことだ。

そんなことが刑事訴訟法に書かれているとは私は承知していないし、1審終了後に裁判に影響を与え得るような新しい証拠や事実が出てきたとき、控訴審でその採用を求める権利は誰にでもある。こうした主張をすること自体、三審制を真っ向から否定するものだ。「自分たちの気に食わない法律など蹴飛ばしてやればいい」——こうした傲慢な企業体質こそが破局的事故を引き起こしたという事実に、10年たってもまだ気づいていない。この主張を聞いただけでも、この会社の再生の道はないと感じざるを得なかった。

「本日をもって結審します。次回判決を言い渡します」——私を含め、逆転有罪を求める被害者が最も恐れていたのは裁判長からこの言葉が出ることだった。だがその最悪の結末は回避された。「指定弁護士側から追加提出された証拠の扱い等は、次回までに合議で決めます」と細田啓介裁判長は述べ、わずか1時間でこの日の控訴審初公判は終わった。

次回の公判期日は明けて2022年2月9日14時開廷と決まった。なんと3か月も先だ。裁判所が「こんな裁判、実質審理もせずさっさと結審にすればいい」と思っているならこんなに先の期日は指定しないだろう。「年末年始の休みも返上して、自分たちは証拠資料と格闘し、事実をしっかり検証したい」という裁判所の意思表示と私は受け止めた。実質審理、現場検証を勝ち取る上で今後に希望をつないだ。少なくともその程度の手応えはつかんだこの日の法廷だった。

同時に、ボールは再び裁判所から私たちに投げ返されたのだという思いもこみ上げてきた。私たちは裁判所を見ているが、裁判所も私たちを見ている。向こう3か月、私たちがきちんとやるべきことを最大限やりきることが今後の裁判の行方を決める。覚悟を持って逆転勝訴へ向け進んでいきたいと決意を新たにした。

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