安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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【鉄ちゃんのつぶや記 第22号】渓谷と闘いのまち・足尾

2004-12-19 22:55:47 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
 少し古くなるが、11月27日~28日に足尾へ出かけてきた。主な目的は、未乗区間になっている2つの第三セクター鉄道、真岡鉄道(旧国鉄真岡線)とわたらせ渓谷鉄道(旧国鉄足尾線)に乗りに行くためである。真岡鉄道のある地区は足尾には含まれないだろうが、わたらせ渓谷鉄道は旧国鉄時代の路線名から見ても明らかに足尾である。この秋、テレビの紀行番組で連続してわたらせ渓谷鉄道が取り上げられたこともあり、急に行ってみたくなったのである。

 11月26日夜、東京~大阪を行き来する忙しいビジネスマンの一部で密かに人気のある夜行急行「銀河」で名古屋を出発。翌28日朝、東京から上野へ移動し、東北線の普通列車に乗り継ぐ。新幹線停車駅でもある小山で水戸線に乗り換え、下館で下車。まず最初の目的地、真岡鉄道に向かう。東京駅みどりの窓口で、この日運転される臨時列車「SLもおか号」が売り切れなのはわかっていたので、あきらめて普通列車で真岡鉄道の全線乗車を達成した(SLに乗りたいならどうして事前に指定券を買っておかないのかと怒られそうだけれど、このSLはJR線の列車ではないためか、指定席はJR東日本管内の駅でしか買うことができないのだ)。

 真岡鉄道の完全乗車を終えた私は再び真岡鉄道で下館に戻る。軽く昼食の後、水戸線で小山へ。今度は両毛線に乗り換え、1時間ほどで桐生駅に着く。この桐生駅がわたらせ渓谷鉄道の入口である。桐生駅のホームに立つと季節風が冷たく、全身に震えが走る。「カカア天下と空っ風」と形容される群馬だけに、ここの空っ風は並ではない。

わたらせ渓谷鉄道は、その名の通り渡良瀬川に沿って車窓に展開する渓谷がとても美しい鉄道である。「渡良瀬橋で見る夕陽を あなたはとても好きだったわ」の歌い出しで始まる歌手・森高千里さんの「渡良瀬橋」の歌詞のモデルになった場所だと言うほうが、私のような世代には通りがいいかもしれない。

 そのわたらせ渓谷鉄道へ、レールバスは踏み出した。数年来ずっと行きたいと思っていた念願の鉄道である。完全乗車した路線が増えてくると、私たち鉄道ファンは目が肥えてしまい、ちょっとやそっとの景色では美しいと思わなくなってしまうが、ここではそんな心配は無用だった。めまぐるしく展開する、赤や黄色に染まった木々。進行方向左手に展開する渡良瀬川の流れ…。渓谷鉄道の名に恥じないすばらしさだ。出かける前は、11月も下旬だから、足尾のような標高の高い土地ではもう紅葉も終わりかなぁと思っていたが、6月上旬から台風が日本を襲い、東京では40度を記録した今年の異常な猛暑のおかげでまだこのわたらせ渓谷鉄道沿線でもずいぶん紅葉を楽しむことができたのは嬉しい誤算だった。

 25パーミル(1000分の25)という、鉄道にとっては厳しい上り勾配を超えた列車が小休止する山間の小さな駅では、地元の人たち総出でイベントが行われていた。何事かと思い、地元の人に話を聞くと、「わたらせ渓谷鉄道第1回イルミネーション点灯式」なるイベントだという。このわたらせ渓谷鉄道も、最近の第三セクター鉄道の例に漏れず、利用客は漸減傾向にある。そこで、地元の創意工夫でこの第三セクター鉄道を盛り上げようと今年から始まったイベントで、途中の主な駅にイルミネーションを設け、点灯させようというのだ。地元の人たちが列車の乗客に甘酒やミカンを振る舞おうとするのはいいが、気合いの入り過ぎた地元の女性が車内にまで立ち入ってしまい、運転士から注意を受けている。何とも微笑ましい風景である。日の短いこの季節、午後4時を過ぎてあたりは薄暗くなってきており、私がチラと時計を見やると、イルミネーションの点灯まであと30分というところだった。ここで列車を降りて点灯の瞬間を見たい気持ちもあったが、後のスケジュールを考え、やむなく先を急ぐ。

午後5時前。列車はわたらせ渓谷鉄道の終点・間藤駅に着いた。ここは「時刻表2万キロ」などの著書で知られる鉄道文学作家、宮脇俊三さん(2003年死去)が国鉄全線完乗を達成した駅として知られている。今日の私にとっては単にわたらせ渓谷鉄道の完全乗車達成駅でしかないが、宮脇さんだってここ以外の終着駅はすべて全線乗車活動を進める上で「通過点」に過ぎなかったのだ。

 そういえば、旧国鉄が80年代に入り、増収策の一環として、国鉄全線完全乗車をめざす鉄道ファン向けに「いい旅チャレンジ2万キロ」キャンペーンを開始したとき、宮脇さんに審査員(本当に全線乗車しているかどうかを審査するための審査員)になってくれるよう依頼したことがあった。が、路線の起点・終点駅で写真を撮れば途中駅の写真を撮らなくてもその路線を全線完乗したとみなしてしまう国鉄制定のルールに宮脇さんが反発、「東京駅と名古屋駅で写真を撮れば中央本線を全線乗ったことになってしまうようなルールはインチキだ」として審査員を断ったというエピソードがある。宮脇さんの全線完乗へのこだわりはまさに鉄道ファンとしての矜持を示すものであり、私もそんな宮脇さんのような姿勢でありたいと常々思っている。

 結局この日は、間藤から2駅ほど戻った通洞駅で旅行を終えた。ちょうど駅舎全体に装飾されたイルミネーションが点灯したところであり、寒空の下、無人の駅舎にそれはとてもきらびやかだった。通洞駅近くの旅館に落ちついたが、ここの支配人の女性は、以前食堂を経営していたそうで、季節の材料を使った料理の腕は確かだった。食堂廃業後も、この味を求めてわざわざ泊まりに来る旅行客がいるというのもうなずける味だった。ただ、この周辺で唯一露天風呂のある国民宿舎「かじか荘」が休業中で、露天風呂に入れなかったのが心残りである。

 翌28日。今日の旅程は足尾銅山見学から始まる。森高さんの曲の歌詞にもなった美しい渡良瀬川はまた、日本近代史の負の遺産を背負った川でもある。日本で最初の公害問題と言われた足尾銅山の鉱毒被害。汚染された魚と農民の苦しみ。銅山労働者の劣悪な労働条件。代議士の職をなげうってでも政府に被害を理解させようと、明治天皇への直訴まで決行した熱血漢政治家・田中正造の活躍…。こうした負の遺産もきちんと見てこそ、初めてこの地方をきちんと理解したことになるのだと思う。とはいえ、この問題に関して私の持っている予備知識は、小学生の時、国語の教科書に載っていた田中正造の伝記に書かれていた程度に過ぎないから、はなはだ心許ない。

銅山見学のトロッコ列車には、横浜から修学旅行で来た小学生と乗り合わせた。引率の先生に話を伺ったところ、足尾へ来るにはわたらせ渓谷鉄道を使うよりも、日光経由で来る方が交通の便がいいとのことだが、日光と足尾は互いに線路がつながっておらず、地元民でなければ遠い印象を抱いてしまう。どんな過疎地のローカル線でも、時刻表に線路が書いてあれば距離と時間の当てがつくのに、線路が描かれていなければ算段もできない。なるほど、地元民がローカル線の廃止に反対する理由がよくわかるというもんだ。

銅山に潜ると、銅山が発見されてから閉山に至るまでの出来事が、銅山関係、世相、環境問題、労働問題の4つのカテゴリーに色分けされた年表として記載されていたが、そこに書かれていることは中途半端な予備知識しか持たない私にとって衝撃的だった。明治中期に銅山労働者によって労働組合「大日本労働至誠会」が作られたこと、劣悪な労働条件ともあいまって軍隊が出動するほどの暴動に発展したこと。暴動で壊滅した労働組合が大日本鉱山労働同盟会として再建され、大正中期に激しい争議が起きたこと、等々である。なかでも、大量解雇された鉱夫の家族が「馘首者家族会」に結集して闘い、銅山を経営する古河商事との団体交渉に主婦までが参加していたという驚くべき記述もある。労働組合が被解雇者の家族を組織して闘うのは何も国労の専売特許ではなかった。それはここ足尾では、なんと80年近く前の大正時代、すでに行われていたのだ!

 日本で初の公害と言われた足尾問題。そこでは、労働者が自らの権利のために立ち上がり、有能な労働運動指導者を得て労働組合が作られ、激しい争議が起き、それは暴動に発展した。そして、本来は「体制側」であるはずのブルジョア議会の枠組みの中から田中正造という希有の政治家が生まれた。そして、これらが渾然一体となり、地域社会全体を巻き込んだ闘いは、保守政治家による天皇への直訴、「馘首者家族会」結成、そして団交への主婦の参加など最も先進的で横断的な闘いに発展し、ついに明治・大正政府の支配体制を根底から揺るがすほどの事態になったのである。当時の政府がいかにこの闘いを恐れていたかは、大日本労働至誠会の闘いの鎮圧に軍隊を出動させたことや、田中正造の天皇直訴を「狂人の仕業」だとして一般民衆から隔離しようとしたところに最もよく現れている。ロシア革命によって社会主義の風が吹き込んできた当時の日本の支配層は、足尾銅山の鉱夫の闘いの中に社会主義の影を見て、震えたに違いない。

 足尾銅山の見学を終えた私は再びわたらせ渓谷鉄道のレールバスに乗り、帰途についた。修学旅行の引率の先生から日光経由の方が便利と言われようと、私の今回の旅行の主要目的はこの路線に乗ることだから、やっぱりこの鉄道に乗らずに帰るなんて私にはできない。

レールバスに乗り込んだ瞬間、車内に誇らしげに貼られていた感謝状が私の目に留まった。それは、第三セクター発足以来、沿線住民が駅舎などの清掃活動を十数年、ずっと続けてきたことに対し、わたらせ渓谷鉄道から沿線住民に贈られたものだとわかったが、その感謝状の文句がとても奮っていて興味深い。「民主主義の古い伝統を持つヨーロッパでは、民主主義とは各人がただ自分の考えを言論主張するのみならず、積極的に行動に移していくことが最高の美徳とされております。皆さんの清掃奉仕活動は、このようなひとりひとりの行動の成果として疑う余地なく尊いものであり、ここにその感謝としてこの賞状を贈ります」(引用は正確ではないが、概略こんなことが書かれていた)。

読み終えて、さすがは足尾だと感心した。足尾銅山での激しい闘いや争議は、ひとりひとりが自分自身の頭で考え、行動する主体とならない限り不可能な闘いだったのであり、それは直訴状が毛筆からワープロに変わった現在でも変わることのない真実である。そして、ひとりひとりが自分なりの行動で闘ってきた先達を誇りに思い、その後に続こうと行動する足尾人がいる限り、わたらせ渓谷鉄道は不滅である。

(2004/12/19・特急たから)

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