安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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2020年代の大胆(?)予測~向こう10年の世界はこうなる

2020-01-25 22:22:46 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2020年2月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 新しい年が明けた。本誌が読者のみなさんのお手元に届く頃には正月気分などとうに失せているであろう。東京オリンピックの年を手放しの礼賛で迎える人はおらず、本誌読者の多くは憂鬱な年の始まりだと思っているかもしれない。

 しかし、今年は単なる新しい年の始まりではなく、2020年代という新しい10年代の始まりでもある。一寸先は闇とはいえ、来たるべき10年間がどのようなものになるかを予測しておくことは無駄な作業ではないと思う。

 「人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、あたえられた、過去からうけついだ状況のもとでつくるのである」(「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」マルクス)とあるように、未来は現在、そして過去からの連続の上にしか存在し得ない。現在の日本と世界の姿を正しく分析できれば、未来を予測するのはそれほど困難な作業ではない。

 ●内外政治~分断克服への模索続く、国内は変化なし

 まず政治について、2020年代は内外ともに国民国家内部でも、国家間関係でも分断の動きが強まった10年間だった。英国のEU離脱の確定と、米国のトランプ政権登場はその最も象徴的な動きである。選挙という民主主義を保障するはずの手段が分断を加速させたことも2010年代の大きな特徴だ。しかし、こうした分断は広範な市民的合意が必要な問題の解決を不可能にする。少数の支配層、既得権益層が喜ぶだけで市民が分断から得るものがないとわかれば、2020年代は分断克服への動きが顕在化する可能性がある。

 国内では、野党共闘に向けた努力が続くものの、1993年の細川連立政権、2009年の民主党政権がいずれも内部対立で瓦解したこと、各級選挙における自公の基礎票の手堅さを踏まえると、野党による政権奪取は2020年代も困難であろう。自民党に代わって政権獲得が可能な位置にいる党がないという55年体制当時と同じ状況が生まれている。

 現在の政治状況が55年体制の事実上の復活であることをデータで示しておきたい。以下の表は、1983年6月の参院選と2019年7月の参院選における各党の得票率を比較したものである。1980年、それまでの参院全国区を比例区に変更する公選法改正が行われた後、初めて実施されたのが1983年参院選だ。若干の総定数の変更はあるものの、これ以降今日に至るまで、参院の選挙制度の変更は小幅なものにとどまっており、中選挙区制が小選挙区制に置き換えられた衆院のようなドラスティックな変更がないため、このような比較に向いているのである。

 結果は驚くべきものであった。自民、公明の得票率はほぼ同じ。共産党に至っては小数点以下までまったく同じである。その他の政党では2019年の立憲民主党が1980年の日本社会党に、国民民主党が民社党にほぼ対応している。1983年当時、社会民主連合(社民連)は議席が衆院だけであったためこの表に登場していないが、参院に議席を有していれば2019年の社民党に対応していたと推測できる。当時と今で異なるのは、公明党が野党から与党になったことくらいで、公明党を野党に割り戻して再計算すると与党陣営、野党陣営全体での得票も当時と今でほぼ変わらないことになる。


※1983年参院選の得票率は「データ戦後政治史」(石川真澄/著、1984年、岩波新書)より抜粋

 55年体制崩壊後、「政権交代可能な保守2大政党制」への試みが続けられ、数え切れないほどの政党が離合集散を繰り返し、浮かんでは消えた。その変動の歴史が終わった後、見えている風景は1980年代とほぼ同じものだ。

 自民党の最大の強みは公共事業を通じた利権誘導体制にある。選挙ポスターに自民党公認の文字さえあれば、候補者が人間でなくても当選してしまいかねないほど自民の集票基盤は大きく、疲弊したといわれながらもそれほど崩れていないことは1980年総選挙との比較を見ても明らかである。この「自民党ブランド」が1強体制を支えているのだ。

 今後、自民党が1993年当時のような中途半端な割れ方ではなく真っ二つに割れるようなことになれば、保守2大政党制が成立したと「錯覚」するような状況が出現することは一時的にはあり得る。だがその場合でも、自民党を割って出た勢力はこの強力な「自民党ブランド」を失うから、民主党~民進党がそうであったように徐々に衰退過程に入り、その後は現在と同じ状況に戻るだけであろう。日本には2大政党制が成立する基盤はなく、今後もその試みが成功する見通しはないと断言してよい。基本的には次の10年間も日本の政権は自公中心に展開するというのが筆者の予測である。

 自民党の政権追放の可能性がきわめて薄いとなれば、現在の「自民党的価値観」が受け入れられず、そこからの転換を願う市民は今後どのようにすればいいのか。戦後イタリア政治史は重要な示唆を与えてくれている。イタリアで戦後、単独では常に過半数に達しないものの、30~40%の議席を獲得、第2党以下を大きく引き離して長く第1党の座にあったキリスト教民主党(DC)は、総選挙で議席構成が変わるたび、多数派工作のため連立相手を組み替えて巧みに政権を維持した。自公政権の枠組みは変えられないとしても、自公両党の力が弱まって過半数を割り込んだ場合、私たちに比較的近い思想、政治的位置を取る「よりましな政党」を自公が不本意ながらも連立相手に迎えなければならないという事態は起こり得る。イタリアの政治学者ジョバンニ・サルトーリは、母国で頻繁に起きるこうしたDC中心政権下での連立組み換えを「周辺型政権交代」と呼んだ。

 日本で2020年代、現実的に起こり得るのはむしろこうした周辺型政権交代であろう。そのときのため、自民党と明確に異なった政治的立ち位置と一定の議席数を持つ政党を私たちと政治をつなぐ「パイプ」として育てることは、これからの10年間の検討課題である。

 ●経済~日本の位置はさらに低下し「衰退途上国」の呼称が一般化する

 経済に関しては楽観的な見通しはない。人口高齢化は労働力人口そのものに加え、1人あたりの労働時間数をも制限する方向に働く。何をするにも「労働者の健康に配慮することが最優先」となり、労働効率は大幅低下を余儀なくされる。労働集約型産業は大幅な合理化を迫られ、対応ができない企業は経済から退出させられるであろう。

 運輸・交通、医療・福祉・介護など公共的性格を持ち、企業的運営によっては持続不可能であっても容易な退出が許されない部門をどうするかは、すでに現在でも大きな問題として浮上している。自公政権にこの問題を解決する意思も能力もないことは明らかであり、2020年代のどこかの段階で、この分野を得意とする小政党が自公から与党に迎えられることがあるかもしれない。さしあたり、その候補となりそうな政党も現時点で出てきているが、具体名を挙げることは控えておきたい。

 2020年代、日本に対しては「衰退途上国」とする評価が一般的となり、この呼称もある程度定着するであろう。人口高齢化、少子化が加速的に進行する以上、形態はどうあれ衰退は避けられないが、そうである以上、よりましな衰退を追求する責任が政治・行政にはある。筆者が見る限り、日本が参考にできそうなのは英国だ。ともに君主制で島国、完全な二大政党制ではなく野党陣営が分裂傾向を強めている点でも両国は酷似しており、英国はある意味では日本にとって理想的な衰退モデルといえる。EU離脱によって独自政策を進めやすくなる英国の動向を、日本は注視すべきであろう。

 ●法の支配と正義~罰せられるべき者は罰せられず、必要ない者が罰せられる司法に国民の不満が爆発する

 日本国民にはあまり実感がないかもしれないが、2020年代、日本の国際的信用と地位を最も決定的に傷つけるのは、実はこの分野になる。あれほど巨大な艱難辛苦を国民に強いた原発事故の責任者や、白昼公然とレイプ事件を起こした「自称ジャーナリスト」が、国策企業である、または安倍首相の取り巻きであるというだけで刑事責任を問われず、裁判に持ち込んでも無罪となる。その一方で(大量解雇を伴う日産の業績回復を筆者は実績とは思わないが)、カルロス・ゴーン被告に対する検察の人質司法は、同じ日産経営者の立場にあった日本人に対する対応と比べてあまりに不公平すぎる。これでは日本の検察が「皮膚や目、毛髪の色」を理由に対応に差をつけていると疑われても仕方がないであろう。新年早々、自家用ジェット機で日本から脱出、レバノンに到着したゴーン被告が行った会見では、日本人が期待していた政府高官の名や脱出方法については語られなかったが、少なくとも日本の司法のアンフェアさを国際世論に印象づけることができたという意味で成功と評することができよう。

 日本政府にとって目障りとなれば、他の同様の立場にある人物との公平性も考慮されず一方的に拘留され、弁護士の立ち会いも許されない環境で自白を強いられた挙げ句、起訴されれば99%有罪となる。一方で国策企業や首相の取り巻きであれば99%無罪があらかじめ決まっている。こうした事実はすでに海外メディアを通じて世界中に発信されており、日本の国際的地位、信用に回復不能な打撃となりつつある。この国には法の支配も正義もなく、今後の復活の見込みもない――多くの日本の市民がそう思うようになったとき、どんなことが起きるだろうか。

 「私の人生をめちゃくちゃにしたあの人に、どんな手を使っても復讐してほしいんです。成功したら報酬を払います。金額はそちらのご希望通りでかまいません」と言いながら、依頼者が札束の入ったスーツケースを開け、中を見せる。「わかりました。そのご依頼、お引き受けしましょう」と「闇の仕事人」が請け負う――テレビドラマや映画、小説ではおなじみのワンシーンであり、ひとつのジャンルを確立している分野でもあるが、国家が罰すべき者をきちんと罰していない、法と正義が実行されていないと多くの市民が感じれば、2020年代の遠くない時期、これがフィクションではなく現実となるおそれがある。不倫や薬物などの騒ぎを起こした有名人に対する最近のネットでの異常なまでのバッシング、「私刑制裁」の横行はその明らかな予兆である。

 ●IT技術~ネットの「フェイク」化が進行、アナログへの揺り戻しの動きも

 インターネット、とりわけツイッターやフェイスブックのようなSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)に関しても、予測は悲観的にならざるを得ない。現時点でもSNSがフェイクニュースの発信・拡散源になっているという世界的傾向があるからだ。

 欧米諸国を中心に、書き込みがきちんと事実に基づいているかを調査する「ファクトチェック」の動きも始まっているが、効果は限定的なものにとどまるだろう。飲料のビンに中身が半分入っているのを見て「もう半分に減っている。直ちに不足対策をしなければ」と考える人と、「まだ半分も残っている。こんな状態で政府が不足対策をするなんて税金の無駄だ」と考える人が激しく論争を始めても、どちらも「飲料が半分残っている」という正確な事実に基づいているためウソだという決めつけはできない。どちらも自分が正義だと信じているため譲歩するつもりもない。自分の立場に近い人々が紹介され、表示されることが多いSNSの性質上、「不足対策」派も「税金の無駄」派も自分の味方ばかり集め、ますます同類で団結を強め、コスモ(小宇宙)化する。SNSが社会分断を加速させる役目を果たしたことは、2010年代を総括すれば明らかだ。

 筆者は時折、北海道庁前で毎週金曜夕方に行われる反原発定例行動に参加することがあるが、そこで「もうネットはやめました。でもあなたのスピーチ原稿は勉強になるので、郵送かFAXでください」という人にこの間、何回か出会った。SNSでの不毛な「闘争」や情報の真偽の見極めに疲れ、ネットから「降りる」動きが出始めている。

 この傾向は2020年代を通じて加速する。「ネット上の情報を自由に操作して支持を集めることができるごく一部の強者」と、ネットに展望がないと見て、みずからの意思で能動的に「降りる」決意をした人――この両極端の行動を取れる人が2020年代の勝者となる。どちらにも立てず、ウソとも真実とも判定できない巨大な情報の海でもがく大多数の「ネット中間層」は敗者になるというのが筆者の予測である。

 ●原発、公共交通はどうなるか

 最後に、本稿筆者のライフワークである原発、鉄道を中心とする公共交通の今後について触れておきたい。

 原発は、政府・電力産業の巨大な下支えにもかかわらず、2020年代を通じて地位を回復させることはない。即時原発ゼロは政治的に困難で実現しないものの、電力会社にとっては安くても社会的にコスト高となった原発は徐々に衰退する。受け入れ地の決まらない核のゴミ(高レベル廃棄物、大量に発生する除染廃棄物)の処分をめぐって逆風がさらに強まり、2020年代後半には「ポスト原発」の姿がかなりはっきり見えるだろう。安倍政権退陣後は自民党内で現実路線が台頭し、自公政権の下で原発撤退の政治決断が行われる可能性はある。少なくともそれは政権交代の可能性よりは高いであろう。

 公共交通の分野では「災害復旧」と「貨物輸送」が鍵を握る。特に鉄道はその高い輸送力に注目した保守・右派勢力によって戦争遂行のために整備された歴史的経緯がある。大量・高速・安定輸送に強いという特徴を持つ鉄道は、不安定で担い手(トラック運転手)が減る一方の道路輸送に代わり、2020年代、貨物輸送部門から復権が始まるだろう。それは政策的に政府が望んだ結果ではなく、トラック輸送が困難になることによる「強いられた政策転換」として実現する。しかし、一度その効用が発揮され、国民にそれが可視化されると、一気に鉄道貨物復権が進む可能性がある。旅客・貨物を別会社に分割した国鉄改革が問われ、JRグループ再統合の気運が高まるだろう。リニア新幹線、九州新幹線長崎ルートなど国民不在の大型鉄道プロジェクトのいくつかは頓挫することになる。

 災害が多発する中で、寸断された地方路線の復旧をどうするかもすでに課題として見えている。地方路線の多くはすでに公共交通機関としての地位を降りているが、観光資源としての役割が再評価される。さしあたり、地方路線の維持が公共交通としてではなく観光面から始まることは、過去の経緯や日本の特殊性から見ればやむを得ないであろう。一時的な需要が中心で浮沈も大きい観光輸送中心から、安定した需要が見込まれる貨物輸送や地元利用中心へと地方路線の役割を変化させるため、どのような手法があり得るかを検討することが2020年代の公共交通政策の鍵を握ることになろう。

(2020年1月25日)

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週刊文春も書かなかった事実 カジノ管理委員・遠藤典子氏の「正体」

2020-01-22 22:04:40 | 原発問題/一般
すでに1週前の号になってしまったが、新年早々発足したカジノ管理委員会をめぐる疑惑について、「週刊文春」が1月23日付で報じている(安倍官邸が指名 カジノ管理委員 遠藤典子に「夫婦で背任」告発〈カジノ業者を審査・監督する「美魔女」に疑惑〉)。有料記事なので、全文はバックナンバーを入手するか、オンライン記事を購入して読んでいただきたい。

週刊文春の記事は、遠藤氏が過去にダイヤモンド社の編集部時代、日経からの記事盗用問題を起こしたこと、出版社であるダイヤモンド社の役員を務めながら、みずからライバル社となる別の出版社を立ち上げ経営していたこと等を報じている。記事盗用は明白な違法行為としても、ライバル社立ち上げがなぜ問題なのかはよくわからないという人も多いだろう。簡単に言えば、ライバル社を立ち上げ、みずからが執筆した出版物をそこから出版した場合、本来であればダイヤモンド社に入るはずの利益が自分の経営するライバル社に入ってしまうことになる。これが、ダイヤモンド社に対する背任行為に当たる可能性があるのだ。

検察当局にとって、背任罪の証明は非常に難しいもののひとつだし、年末に「亡命」したカルロス=ゴーン氏の背任の立証にも検察が苦慮していたとの報道もある。ゴーンに逃げられて、一番ホッとしているのは実は検察、という報道まで出る始末だ。

「文春」では、遠藤氏が原子力損害賠償制度に関する著書を出版した事実に触れている。記事では書名は明らかにしていないが、当ブログが調べたところ、原子力損害賠償制度の研究(岩波書店)という著書を、2013年、確かに出版している。文春は「原子力損害賠償制度のスキームを構築した官僚を高く評価するもの」だという。「この本を契機に、遠藤氏は原発推進の論陣を張って活動するようになりますが、中でも経産省の島田隆元事務次官に食い込み、原子力小委員会の委員などに任命されるようになった」とも伝えている。

文春が、遠藤氏と原発との関わりについて報道しているのはここまで。これ以降はカジノの話に移っている。明確な原発推進ではないとしても、少なくとも原発反対の姿勢は取っていない「文春」としてはこれ以上の深入りは避けたいとの思惑もあるのだろう。しかし、明確な反原発の姿勢を取っている当ブログにとっては、そんな「大人の事情」など関係ないので、さらに話を進めると、遠藤氏はなんと、原子力損害賠償・廃炉等支援機構の運営委員に就任しているのである。そのことは、当の「機構」自身が情報公開もしている(参考)。

「機構」は、福島第1原発事故の半年後、平成23(2011)年9月に「原子力損害賠償支援機構」として発足した。平成26(2014)年に現在の名称に改称。「原子力損害賠償・廃炉等支援機構法」に基づいて国が設立したいわゆる認可法人である。

福島第1原発事故の被害者に対する賠償はこの法律に基づいて行われている。東京電力の原発事故被害に対する賠償は、現時点でも21兆円にのぼっており、普通の民間企業ならとっくに倒産している。しかし、東京電力が倒産したら被害者への賠償が行われなくなる、という口実の下に、東京電力を残したまま賠償を行わせるため「機構」が東京電力株の過半数を保有し、東京電力に賠償資金を交付する業務を行っているのである。

問題は、この「機構」から東京電力への資金交付が返済不要な交付金ではなく、返済が必要な貸付として行われていることだ。みずから稼ぎ出した利益の中から、貸付金をいずれ返済しなければならない東京電力にとっては、賠償を事実上少なくした方が「借金」が減り、その分、利益が増えることになる。福島県民を初め、事故被害者に対する賠償が、被害が継続しているにもかかわらずどんどん縮小されているのはこのスキームによるところが大きく、不満が募ってきている。

もうひとつ、「機構」から東京電力への資金が貸付であることによって起きる弊害は、東京電力の利用者と原発事故被害者をいがみ合わせ、闘わせるスキームになっているということである。東京電力としては、前述した事情から被害者への賠償を縮小すればするほど借金が減り利益が増える。しかし、被害者への賠償をきちんと実施すればするほど東京電力の「機構」への返済額は増加するから、電気料金を値上げする話になりかねない。利用者にしてみれば、本来は事故を起こした東京電力に怒りを向けるべきだが、最近は本当の意味で闘うべき相手が誰か見定められない日本人が増えてきている。「あいつら(被害者)のせいで電気代が上がる」との感情を利用者が持てば、東京電力管内の利用者と原発事故被害者が、国と東京電力の差し金によって闘わせられることになりかねない。そんな問題だらけのスキームなのである(というより、国は国民を団結させず分断するために、意図的にこのようなスキームを採用している、というのが本質である)。

国策民営として、みずから原子力推進政策を立案しておきながら、事故が起これば頬被りをして電力会社だけに賠償責任を負わせる。「賠償か料金値上げか」の二者択一に話をすり替え、東京電力の利用者と原発事故被害者がいがみ合わざるを得ないように仕向けていく。

市民不在、利用者不在、被害者不在で、賠償をしなくていい国と、どちらにしても自分の財布は傷まずに済む加害企業・東京電力だけが笑う。こんなスキームを「高く評価」する人物とは、要するに自分自身が原子力ムラの側に身を置いていて、利益を受ける一部の者だけだということは忘れずに指摘しておく必要がある。そのひとりが遠藤氏なのだ。

厳密に言えば、遠藤氏の著書出版は2013年で「機構」成立はそれより前の2011年だから、遠藤氏の著書出版が「機構」設立という政策決定に何らかの寄与をしたわけではない。だが、この著書を出すことが、遠藤氏の「機構」運営委員就任にプラスに働いたことは容易に想像できる。自分で国の政策を賛美する著書を出し、その対象となった政策を推進する組織の役員に就く--こんな自作自演のやらせを平気で行う人物が、カジノ管理委員会の委員に就いているのである。普通の、まともな感覚を持った人間なら、こんな人物を役員に据えるカジノ管理委員会がまともに機能するとは考えないだろう。

安倍首相は、自民党国会議員が逮捕までされているにもかかわらず、なおカジノを推進する姿勢を崩していないが、管理委員会の人選からしてこのレベルでは腐敗撲滅など期待できない。カジノは中止すべきだし、原子力損害賠償についても、東京電力利用者と原発事故被害者が闘わされなくても済む新たな被害者本位の制度設計に着手すべきである。

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「センター試験=いつも雪」説を検証する

2020-01-19 11:16:34 | 気象・地震
昨日から今日にかけて、大学入試「センター試験」としては最後となる全国共通試験が実施されている。ただ、萩生田文科相の「身の丈」発言や、記述式試験導入をめぐる混乱などで、来年度から実施の入試改革は中止となった。今後の推移によっては今年が「最後でなくなる」可能性もあるかもしれない。今、準備をしている現役高2生は、政治に翻弄され本当に気の毒と思う。

さて、そのセンター試験だが、「とにかく雪が多い」というイメージを持っている人も多いだろう。その前後の週には好天なのに、なぜかセンター試験の週末「だけ」狙い打ちするように、特に首都圏が雪になることが多い。そんな印象を持っている方も多いと思う。それは本当なのか?

センター試験は雪の日が本当に多いか検証 今年は晴れる?という記事が検証していて、なかなか興味深い。

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 今週末(19日・20日)は、大学入試センター試験です。センター試験というと、なぜか東京でも雪が降りやすい印象を受ける方が多いようです。実際、この試験の日は、ふだん雪が降りにくい東京でも、雪の日が多くなっています。過去、2000年~2018年までの東京のセンター試験初日の天気を見てみると、19年間で雪の日(みぞれを含む)が4回ありました。雪の日の確率は19分の4で約21%。東京で平年1月に雪の降る日の確率は9%なので、2倍以上の確率です。
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なんと、首都圏に限ったデータだが、「センター試験=雪」説は一部、本当だったのだ! さすがに21%だから「いつも雪」とまで断定するのは間違っているが、それ以外の1月では雪の確率が9%であることを考えると、「センター試験の日は1月の他の日より2倍以上、雪の確率が高い」というのは正解である。

しかし、記事内容を精査すると、違う面も見えてくる。2000~2018年の19年間のうち、雪が圧倒的に多かったのは2000~2008年で、逆に2009年以降は一度も雪が観測されていない。「1月の他の日より2倍雪が降りやすい」といっても、実際は気候変動の影響はこんなところにも及ぶ。夏の異常な暑さ、冬の暖冬化など、温暖化の影響が指摘されるようになったのも2010年頃からで、多くの国民の皮膚感覚と一致している。今後、この「21%」という数字も、年数経過するごとにジワジワと低下していく予感がする。

ところで、当ブログ管理人は1989年に、センター試験となる前の最後の「共通一次試験」を受けた。この翌年からセンター試験に変わったから、浪人した同級生の中には共通一次とセンター試験の両方を受けるという「貴重な体験」をした人もいる(後年になって、ある浪人した同級生にそう言ったら「貴重じゃねぇよ」と叱られた)。試験は出身地の福岡の某大学で受験したが、暖かい九州にもかかわらず、雪が降った。積もるほどではなく試験は予定通り実施されたが、こんな過去の経験も「センター試験=雪」説を補強する材料になっているのかもしれない。試験日の移動を求める声もあるが、4月入学という日本の学制が変わらない限り難しそうだし、夏や秋に変えるならともかく、試験日を1~2週前後に移動させる程度では、今度はその日がまた雪になるだけだろう。

いずれにしても、センター試験の受験生には「雪」「寒さ」というもうひとつの厄介な敵がいる。「コンディション管理も試験科目のひとつ」だと私の時代は言われた。受験生のみなさんには、2日目が始まっており、もう遅きに失したが、ベストを尽くしてほしい。

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広島高裁、伊方原発3号機を運転差し止め

2020-01-18 10:34:25 | 原発問題/一般
伊方3号機運転認めず 広島高裁、仮処分決定「活断層否定できぬ」(中国新聞)

17日、広島高裁は四国電力伊方原発3号機について、運転差し止めを求める山口県内住民の訴えを認めた。原発の運転差し止めが裁判所で認められたのは、2017年12月、同じ広島高裁でに決定以来、2年1ヶ月ぶりだ。2018~19年は全敗だったので、久しぶりといえる。

今回の決定は、規制委の「審査基準」自体が合理的でないと批判したことに加え、地震リスク、火山リスクの両面から差し止め決定を導いたという点がこれまでにない特徴だ。地震のみ、火山のみを理由とした差し止め決定は過去にあったが、両面からという例はなかった。

奇しくも、この日は阪神・淡路大震災から25年の日だった。この象徴的な日に原発差し止め決定が出たことには感慨を覚える。「阪神大震災から25年目の日に、いつどこで大きな地震が起きてもおかしくないということを裁判所が強く警告してくれた」という弁護士の発言には実感がこもっている。

その後の時代を見ると、6千人以上が死亡したこの震災こそ、日本が平穏な時代から災害多発時代に入ったことを象徴するものだった。もし日本に「災害史」という分野があるなら、後世の歴史家は必ず阪神・淡路大震災をそのように評するだろう。

伊方原発もまた日本最大の活断層、中央構造線の真上にある。この決定を待つまでもなく、日本で最も危険な伊方原発を運転してよいわけがなく、直ちに廃炉にすべきである。

なお、普段であれば判決要旨のテキストでの掲載が早い「NPJ訴廷日誌」にはテキスト版の判決要旨は現時点で掲載されていない。そこで、脱原発弁護団全国連絡会サイトに掲載のPDF版をご紹介する。決定全文は80ページ以上あるものの、決定要旨は8ページですぐに読めると思う。


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2020年は安倍政権終わりの年になるか?~ヤンキーの「卒業」と安倍首相

2020-01-12 16:42:58 | その他社会・時事
昨年秋の「桜を見る会」問題の発覚以降、安倍政権が変調を来している。支持率も久しぶりに不支持を下回ったままだ。

だが、安倍政権はこれまで「核」となる支持基盤(改憲右派/財政出動・公共事業拡大派の連合体)が非常に強く、一時的に支持率が下落してもすぐに盛り返し、危機を何度も乗り切ってきた。だから当ブログもこれまで支持率に一喜一憂しない方針を決め、安倍政権の支持率に関するニュースも「あえて」取り上げず、原発やJR北海道問題に特化した報道を昨年は続けてきた(その2つの問題に特化した方が、結果としてアクセス数がよかった、という実際上の理由もある)。今回の支持率低下に対しても、「またどうせすぐ支持率は盛り返す」と見る人も依然として多い。安倍支持派よりもむしろアンチ安倍派のほうに、そうした一種の諦念を抱きながら「どうせ盛り返す」と見る人は多いようだ。

ただ、今回だけはどうも様子が違うように見える。「桜を見る会」問題が安倍政権支持率の低下要因だというのがメディアの分析だが当ブログはそのような安易な分析を信じていない。「桜を見る会」ごときで離れるような支持者は「モリカケ」問題でとっくに離れており、今さら支持率への影響は小さいと当ブログは判断しているのだ。

では、ここに来ての安倍政権の支持率低下は誰のせいなのか。当ブログはこれを「韓国に融和的姿勢を取ったことによる「核」的支持基盤(改憲右派)の一部の離反」が原因と分析する。「安倍さんなら韓国と断交してくれると思って支持してきたのに、土壇場でGSOMIA(日韓軍事情報の交換協定)の失効を回避するなんて、裏切られた!」と憤る改憲右派の一部が離れたことこそが支持率低下の原因だというのが当ブログの分析だ。だからこそ今回の支持率低下の根は深く、政権の命運に関わる事態になるかもしれないのである。

安倍首相に関しては「東京オリ・パラ後花道論」(東京オリンピック・パラリンピック後に辞意表明)を開陳する大手週刊誌も出ているが、当ブログが安倍政権に終わりの予感を見いだしたのもそんな陳腐な報道が理由ではない。民主党政権が無残な崩壊を迎えた後、「時代の空気」に見いだされて政権に復帰し、我が世の春を謳歌してきた安倍首相にとって、自分自身を政権に就けた「時代の空気」の変化がそのまま「引導」となるのではないか、という予感が大きくなってきているのだ。

精神科医の斎藤環さんは、安倍政権について世間で言われている「超右派政権」という見方に対しては否定的だった。財政出動による公共事業拡大など、リベラル派が好む政策も多く動員している点に着目したからだろう。むしろ、安倍政権に対しては「ヤンキー政権」と呼ぶほうが実態にかなっている、と主張してきた(関連記事)。この主張を当ブログはこれまで取り上げてこなかったが、当初から注目はしていた。

誤解のないように述べておくと、ヤンキーとはもともとアメリカ人に対する蔑称であり、当ブログ管理人より上の世代はこの意味で理解している人のほうが今も多いだろう。沖縄の日本復帰を求める運動では「ヤンキーゴーホーム」という反米ソングが毎日のように歌われた。ただ、当ブログ管理人を含む40代以下の世代では、ヤンキーとは不良少年少女を指す言葉として使われている。当初、アメリカ人の蔑称だった言葉がどうして不良少年少女を指す言葉に変化したのかは推測の域を出ないが、1980年代、大阪の不良少年少女がアメリカ村付近にたむろしていることが多かったことから「アメリカ村にたむろするような連中」の意味で不良少年少女のことをヤンキーと呼ぶようになった、というのが最も有力な説である。1984年にヒットした「ヤンキーの兄ちゃんのうた」(嘉門達夫)がこの流れを決定的にしたといえよう。

「ダチ」と「敵」を明確に峻別し、ダチ(特に「マブダチ」=親友)には徹底的な連帯と優遇で報いる一方、「敵」は徹底的に叩き潰すのがヤンキーの行動原理だ。弱いくせに調子に乗っている奴がいると見たら「おい○○、放課後ちょっと体育館の裏に来いや」と呼びつけ、胸ぐらを掴んで脅し、カツアゲした後、みんなでボコボコにして威勢を見せつける。当ブログ管理人より上の世代は、「ああ、うちの学校にもそういえばいたいた」と思い出すだろう。あるいは自分自身がそうだった、という苦い記憶と若干の反省を込めて。当ブログ管理人のような、最近の若者用語でいう「陰キャ」は当時、ヤンキーにはさんざん痛めつけられてきた。体育館の裏に呼び出された経験も実際にある。呼び出して胸ぐらを掴んできた男子のヤンキー連中のことは今でも忘れられないし、毎日のようにお行儀悪く机に腰掛け、当ブログ管理人を呼び捨てにして乱暴にパシリを命じてきた女子のヤンキーのことも忘れることができない。

これも誤解のないように述べておくと、当ブログは別に過去、そうであった人たちを今さらあげつらい、批判したいわけではない。過去、そうしてやんちゃしてきた人のほとんどは、今ではよき父母としてまっとうに暮らしているはずだ。仲間を大切にする彼らの姿勢はむしろ見習いたいくらいで、当ブログが今、社会生活を送れているのも、それを自分流にアレンジして取り入れてきたからである。私を体育館の裏に呼び出したり、パシリを命じたりした人たちに復讐したいという気持ちもすでに持っていない。

そうしたヤンキーたちには、当時、教師も手をつけられないほどの派手な暴れ方をする人もいた。きまじめな学級委員(特に女子)の中には「やめなさい!」なんて声を上げる勇気ある人もいるにはいたが、それですんなり暴れるのをやめるようなヤンキーたちではなかった。

今、どうしてこんな昔のことをブログに書くのか、とみなさんは管理人の意図を測りかねているかもしれない。ここで斎藤環さんの「安倍政権=ヤンキー論」に立ち戻ってみてほしいのだ。当時の教室の中の世界と、安倍政権が驚くほど似ていることがおわかりいただけると思う。安倍首相=番長、萩生田文科相=切り込み隊長(ナイフを常時携帯、刺繍の入った学ランを着ていてキレると何をするかわからない最恐の男)、三原じゅん子議員=スケ番または番長の「彼女」、きまじめな学級委員=野党女性議員、と置き換えてみるといい。これ以上の説明はもはや不要なレベルだ。

さて、我が世の春を謳歌していたヤンキーたちにとって、青春とは期限付きのはかない夢である。王様にも奴隷にも平等に死が訪れるように、優等生にもヤンキーにも平等にやってくるものがある。それは「卒業」である。どんなに我が世の春を続けたくても、田舎の公立中学校はヤンキーたちも一般生徒同様、強制的に卒業させる。盗んだバイクで走り出すヤンキーどもの青春を歌い上げた尾崎豊が結局最後は「卒業」を歌ったように。授業にほとんど出ていなくても、出席日数を「改ざん」して、都合の悪い書類をシュレッダーにかけてでも、学校は彼らに卒業証書を用意する。

卒業式が迫ってくると、ヤンキーたちもさすがに自分の運命を悟る。「もうそろそろ“やんちゃ”からも卒業しないとな」と仲間同士で言い合いながら、最後に青春の締めくくりとして、精いっぱいの虚勢を張って集合写真を撮るのだ。後日の思い出とするために。

そして、卒業式が来ると、ヤンキーの対応も2通りに分かれる。虚勢を張っていただけで本当はいい奴、というケースの場合、さんざん迷惑をかけた先生のためにこっそりプレゼントを用意するなどの「サプライズ」で周囲を驚かせ、泣かせる。

もうひとつは、本当の意味で腐っているヤンキーのケースだ。卒業式の日に「お世話になった」先生を体育館の裏に呼び出し、思いっきり「お礼」をする。内申書は当時、非開示で、入試までは何を書かれるかわからないためヤンキーはおとなしくしているが、卒業式の時点では入試は終わっていて、合格発表前の段階であっても今さら内申書の書き換えは不可能であることを生徒たちは知っている。そこで腐ったヤンキーたちは、卒業式の日に先生に「お礼」をカマすのである。日頃、生徒を抑えつけていた体育の教師などが「犠牲者」になることが多かったように思う。今の若い人たちには信じられないかもしれないが、こんなことをする生徒が当時(30~40年前)は本当にいたのである。

さて、話が巡り巡ってしまったが、そろそろ「本題」に戻ろう。私が安倍政権に終わりの予感を覚えたのは、「桜を見る会」問題で、安倍首相や菅官房長官らと、いわゆる「反社」の人たちまで含めた参加者と一緒の「集合写真」が出たときである。集合写真とはヤンキーにとって「青春の終わり」「けじめ」を意味することが多い。それが、野党などの敵陣営からではなく、参加者という「ダチ」側から出たことは、長かった我が世の春が終わり、ヤンキーたちに「卒業」が迫っていることを示しているのではないだろうか。かつてさんざんヤンキーに痛めつけられてきた当ブログ管理人にとって、ヤンキーを嗅ぎ分け、避けるのはもうDNAにまで染みついた本能のようなものだから、人一倍敏感なアンテナを持っている自信はある。今までどんなに安倍政権が窮地に陥ったとメディアで騒がれても反応しなかったアンテナが、なぜか今回は「宴の終わり」を激しく告げているのだ。もし当ブログ管理人のこの「アンテナ」が正しいなら、野党による政権交代でもなく、自民党内「ポスト安倍」勢力によるクーデターでもなく、「卒業」という時代の区切りによって、安倍政権の閣僚や「ダチ」たちがデカい声で「仰げば尊し」を歌い、巣立つ日が遠からず訪れるだろう。

そのとき、安倍政権が「サプライズ」型ヤンキーと「お礼」型ヤンキーのどちらの形を取るのか。その「最後の姿」によって安倍政権への評価(特に安倍支持層からの評価)は大きく変わるに違いない。

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新しい年を迎えても、精神状態はよくないようで……

2020-01-11 11:48:54 | 日記
昨年秋くらいから何度も繰り返し見ている夢がある。ずばり「自分の車を見失い、探している夢」だ。

出てくる光景は少しずつ違っている。車で出かけた後(運転しているシーンは不思議と出てこない)、用事のある先に行き、帰ろうとするとどこに停めたか思い出せない。そこはショッピングセンターの地下駐車場だったり、高架下の駐車場だったり、オフィスビルの隣にある狭いコインパーキングだったりと様々だが、薄暗い印象の場所だという共通点がある。そこで停めた場所がわからなくなり、自分の車を探し回るのだ。駐車場の場所自体が思い出せなくなり、何キロも歩き回る、というシーンも一度見えた。

そして共通しているのは、「車が発見できたことは一度もない」ということだ。探し回ってはみるものの、結局見つからないまま、どうしようと思ったところでいつも目が覚める。

昨年の秋くらいから立て続けに似たような形で2回、夢に見た。さすがに2回続けては偶然だろうと思っていたが、その後もしつこく似たような夢を見る。ショッピングセンターの地下駐車場、高架下の駐車場、オフィスビルの隣にある狭いコインパーキング、そして駐車場自体がわからなくなるシーンと出てきたから少なくとも4回は確実に見たことになる。

年も2020年に改まり、気分も一新するだろうと思っていたら、昨日、昼寝しているときにまた見てしまった。今回はやけにリアルで、いつも運転している国道(片道3車線の大きな道路。路線番号もいつも通るおなじみの番号だった)の高架橋がいきなり工事で通行止めになっており、警察官が迂回を指示している。仕方なく、通行止めになっている高架橋のすぐ隣の側道(そこは通行止めになっていない)に入ると、通行止めになっている高架橋の下にコインパーキングがあったので、そこにいったん駐車。コンビニに寄ったら、その後は「そのまま駐車位置がわからなくなって車を探し回る」というお決まりの展開だ。これでもう5回目……

ここまでしつこいと何かのメッセージだと思わざるを得ない。いわゆる「警告夢」に分類できると思う。ドイツの精神医学者フロイトやユングは、夢は見る人の深層心理を反映したもので、精神状態の反映である一方、意識による妨害を受け、深層心理そのままの形では表現されないとする優れた分析も残している。星占いのような根拠のないものとは違う、ある種の科学といえよう。

さて、新年早々、いくつかの夢判断に関するサイトを回ってみたが、私が繰り返し見ている夢に対しては、どのサイトの評価もほぼ一致している。夢における「車」は自分自身または自分の仕事や社会的地位を表す。したがって、それを見失う夢は、現在の自分の仕事の行き詰まりや社会的地位の喪失に対し、不安を抱いている深層心理を表す。探し回るという行為はそこからの打開を求めている自分自身を表すが、最終的に探しても見つからないのは、打開策が上手くいかないことによる自分自身の焦燥感を象徴する--。

当たりすぎていて怖いほどだ。昨年秋からは精神科に通っていて、精神安定剤、睡眠導入剤を処方されている。札幌の現在の職場に配属になったのは一昨年4月だが、特に昨年4月以降は、仕事面では完全に「詰んだ」感がある。表に出せていないだけで、心理的限界を示唆する警告夢であることは間違いないと思う。

余談だが、車は自分自身の象徴なので、自分が運転席に乗って快調に運転しているときは自分の人生を自分でコントロールできていることを示す吉夢とされる。助手席に乗り、順調に走る夢なら「運転席の人をサポートする立場」で順調な人生を送る暗示、後部座席で順調に走っているときは「出世」を表すという。社会的地位の高い人ほど後部座席に乗ることが多いから、それを夢に見ることは自分自身がそのような地位を獲得することの象徴なのだろうと考えると、納得がいく。暴走する車が夢に出たら、それは自分が自分の人生をコントロールできていないことを意味するらしい。

ところで、過去5回の夢では、私が運転するシーンは一度も出てきていない。昨日の夢は、いきなり通行止めにぶち当たるシーンから始まった。いくつか巡回した夢判断関係サイトにはこの点に関する言及はないが、運転シーンが出てこないということは、今回の自分の運命は完全に自分のコントロール外にあるということだろう。助手席にも後部座席にも決まって誰も乗っていないから、誰かの助力を得られる可能性も低そうに思われる。

どうしたらいいのだろうか。いくつかの夢判断サイトは「自然に車が見つかるまでしばらく休息が必要」だと説く。無理に状況を動かそうとするとかえって袋小路に入り込むこともあるというから厄介だ。確かに、仕事のみならず、自分が関わっている問題(JR北海道、原発など)はどれも膠着状態で何をしても動かず、自分に決定権がある話でもない。だからといって自分が決定権を持つ立場に昇れるかというと、それも絶対にない。2020年はとにかく休め、という夢の世界からの警告と受け止めるしかなかろう。

したがって、大変申し訳ないが、2020年の新年目標は、公表しないことにする。このような精神状態で公表すること自体、意味のある行為と思えないからだ。

<参考>自分が見た夢については、過去にも一度、記事を書いている。また、この記事での夢について、夢判断サイトには以下のように記載されている。(「夢の夢占い」より~車を探す夢・車を見つけることができない夢

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 夢の中の車は、自分の社会的な管理能力や自己管理能力の象徴です。車を探す夢は、あなたが自分の社会的な管理能力、あるいは仕事や学業における野心や向上心を探していることを暗示しています。そして、車を見つけることができなければ、あなたがこれらを見出すことができず、仕事や学業から目をそむけたいと思っていることを暗示しています。
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【管理人よりお知らせ】国鉄再建監理委員会答申「国鉄改革に関する意見-鉄道の未来を拓くために-」の全文ほか2件の歴史的資料を安全問題研究会ホームページに掲載しました

2020-01-05 18:48:47 | 鉄道・公共交通/交通政策
管理人より2点、お知らせです。

1.この正月、道内某所で行われた鉄道系イベントで、国鉄再建監理委員会答申「国鉄改革に関する意見-鉄道の未来を拓くために-」の全文が掲載された鉄道誌を偶然、入手しました。後の国鉄分割民営化につながる「国策」を事実上提言した重要な歴史的資料です。国立公文書館に資料請求をしてみようかと思っていた矢先の発見です。

新年早々、このような形で望んでいた資料が見つかるとは思いませんでした。当ブログ管理人は元来、非科学的なことは信じていませんが、今年も全力でJR北海道問題に取り組め、という神の啓示としか思えません。

そこで、安全問題研究会ホームページに急遽、掲載することにしました。「国鉄分割民営化・JRを検証する」コーナーから見ることができます。直接行きたい場合は以下のリンクから飛んでください。なお、いずれもPDF版のみです。

<重要資料>国鉄再建監理委員会答申「国鉄改革に関する意見-鉄道の未来を拓くために-」全文(1985(昭和60)年7月26日)

緊急座談会「“分割・民営化”の問題点を衝く」

国鉄再建監理委員会“最終答申”を読んで

2.正月に撮影した鉄道動画をYoutube「タブレットのチャンネル」に掲載しました。以下のURLから見ることができます。

200102近鉄けいはんな線 吉田~生駒

なお、すでにyoutubeにアップ済みで、当ブログで未紹介のものについても、併せて紹介しておきます。

070822日高本線下り・東静内~日高三石(携帯動画)

190505函館市電 十字街電停発車

190615 高速貨94レ(新座(タ)行き)新札幌通過

190916成田エクスプレス34号品川発車

190918中央線快速発車

190918かいじ・富士回遊16号立川発車

191111函館市電9600形函館どつく前発車

191111函館市電2000形函館どつく前入線

191111函館市電 函館どつく前~湯の川温泉

191111 4835D五稜郭発車

191111高速貨3067レ五稜郭到着

191111高速貨3067レ五稜郭発車

191112スーパー北斗5号函館~新函館北斗

191112スーパー北斗5号長万部~洞爺

191112スーパー北斗5号洞爺~東室蘭

191126スーパーおおぞら7号新夕張~トマム

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2020年明けましておめでとうございます

2020-01-01 23:04:37 | 日記
2020年、元日もすでに深夜となりました。遅れましたが、新年のご挨拶を申し上げます。

東京オリンピックが開催される年が、ついに明けました。今年前半から7月までは、オリンピック一色で、他の話題は軒並み飲み込まれ、押しつぶされていくでしょう。こうした「五輪独裁」は他の開催国にも過去に見られたことで、「五輪が通れば道理引っ込む」的状況は、よくないと当ブログは考えています。

とはいえ、世間のごまかしだらけの「復興」ムードに抗するのも、必要とするエネルギーが大きすぎて難しいと思います。今年、当ブログと安全問題研究会は、本当の政治的勝負は五輪後の後半に来ると考えていますので、その時期に向け上半期は力を蓄えたいと思います。オリンピックに対しては、「日本にとって最後の宴。騒ぎたい者には勝手に騒がせておけ」とシニカルに構えます。反対の方針は貫きますが、エネルギーはここには割きません。

2019年、東京電力福島第1原発事故と「アベ友」山口敬之氏による伊藤詩織さんレイプ事件という2つの重大事件がいずれも無罪判決となったことで日本の国際的信用は決定的に地に墜ちました。国際社会の日本への目は厳しさを増しており、女性の人権状況が中東・アフリカ諸国並みの国、レイプ魔も原発事故を起こした企業も無罪になる国、一方で年末に「亡命」(当ブログはあえてこのように呼びます)したカルロス・ゴーン氏のように、政府が「敵」とみなした人物は罪をでっち上げられ徹底的に潰される国、との評価が定着しつつあります。このことが与える影響は日本人が思っている以上に深刻だといえます。

東京五輪後の日本は「先進国」から途上国に格下げされると思います。「日本が“先進国”だった期間は1964年東京五輪から2020年東京五輪までである」--後世、世界の歴史家は必ずそのように日本を評価するでしょう。

さて、そんな折、意外な人物の消息が伝わってきました。

年越し派遣村から約10年…いま「ネトウヨ」と呼ばれる男の過酷人生

パナソニックと闘った「ハケンの男」の壮絶すぎる半生

いずれも現代ビジネスの記事ですが、ここに登場する「今年、46歳となる岡田正雄(仮名)」なる人物を当ブログ管理人は知っています。「岡田」氏がパナソニックプラズマディスプレイ社との間で起こした争議を、支援する立場にあったからです。

「岡田」氏は「賃金を支払う者と業務指示を出す者が異なる派遣労働という働き方はおかしい」として派遣労働制度の廃止と直接雇用を求め、パナソニックプラズマディスプレイ社を相手に、最高裁まで闘いましたが敗れました。

しかし、彼の闘いは2つの大きな成果を生みました。ひとつは偽装請負問題の存在を明るみに出したこと。例えば、A社がB社との間で請負契約を結び、B社から労働者を供給してもらっているとき、B社労働者に対してA社は直接業務指示をできません(業務指示をできるのはB社という「企業」に対してだけ)が、実際には請負契約でありながらB社の「労働者」に直接業務指示をする「偽装請負」が蔓延していました。「岡田」氏はこれを明るみに出したのです。

結果的に、「岡田」氏の闘いは、同一の企業で5年間継続して働いた派遣労働者には正社員申し込み権が発生する、とした労働契約法の改正につながりました。これが2つめの成果です。

「岡田」氏はもともと思想的には保守的な人物で、当時、彼を支援していた労働運動・労働組合関係者もそれを知りながら受け入れたという経緯があります。したがって当ブログ管理人は、彼の保守的な思想について今さら問題にする気はありません。「岡田」氏は個性的ですが思われているほど悪人ではありません。いわゆる「地頭の良い」タイプで、仕事の飲み込みは早く、手先が器用で、機械関係は彼の天職と思います。『岡田が「ネトウヨ」と呼ばれるほど、排外的な思想を持ち合わせているとは筆者は思わない』とするこの記事のライター、藤岡雅さんの見解にも当ブログ管理人は同意します。

彼の消息はまったく知れませんでしたが、今回、都内で非正規労働者の立場ながらもきちんと働き、収入を得て自活していることが確認できたのはよかったと思います。かつて「岡田」氏を支援してきた者のひとりとして、彼の今後の人生に幸多くあることを願っています。

では、今年も当ブログと安全問題研究会をよろしくお願いいたします。

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