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統一地方選雑感~「世襲・多選」と「女性躍進」 二極化する地域

2023-05-29 23:42:25 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2023年6月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。なお、執筆に当たっては当ブログ4月24日付記事「統一地方選 雑感」及び5月1日付記事「世界に冠たる(?)世襲制国家・日本」に加筆・再構成しています。)

 統一地方選が終わった。全体としては、私たち市民派にとって自民党以上に「好ましからざる勢力」の日本維新の会が、目標としていた首長・議員600人を上回る774人もの当選者を出したことは懸念材料である。好ましい面としては、与野党、左右、老若問わず女性が躍進したことである。

 投票率が右肩下がりを続ける一方、昨年の安倍元首相殺害事件に続き、またも選挙期間中に岸田首相襲撃事件が起きたことを私は偶然とは思わない。選挙に絶望し、棄権(=選挙というシステムに対する事実上の不支持表明)する人が増えるにつれ、合法・非合法を問わず、選挙以外に解決策を求めようとする人々が増えていることは表裏一体の現象というべきだろう。

 自民党を中心に、「テロリストの心情など理解しようとしてはならない」と、テロリストへの「無理解増進」を訴える声が上がっているが言語道断だ。選挙を無力化し、国民・有権者が選択――とりわけ政権政党の選択――をしたくてもできない状況を目的意識的に追求し、作り出してきた張本人こそ自民党だからである。2012年に自民党が政権復帰して以降、選挙は自民党に対する事実上の信任投票になっており、自民党を信任したくない有権者は「信任投票」それ自体から降りるという選択肢しかない。このような状況の下で、投票率は低下しないほうがおかしい。

 ●「10年後に滅びるマチ」が見えた

 統一地方選全体を通じて、地域・自治体の「二極化」が進んでいることがはっきりと示された。左右、上下、貧富といった昔のようなわかりやすい階層・イデオロギーによる分断でなく、①世襲、高齢、多選批判をものともせず、従来からの固い支持基盤に支えられて世襲、高齢、多選政治家ほど楽々当選する自治体、②世襲、高齢、多選に対する強い批判で女性、若者が躍進する自治体――の二極化だ。詳しく分析したわけではないが、もともと①に属していた地域・自治体では世襲、高齢、多選がさらに進む一方、もともと②の傾向があった地域・自治体では、女性、若者の躍進がさらに進む――という形で、「①世襲・高齢・多選の町」「②女性・若者躍進の町」の二極化が鮮明になったと思う。

 10年くらい前までは、①②のほぼ中間領域に位置し、どちらにも分類できない地域・自治体が多くあった。しかし、ここ数年で過密・過疎がさらに進んだ結果、中間領域に属していた地域・自治体が次第に①②のどちらかに収斂している。

 ②の典型例は、手厚い子育て支援と、その裏腹の相次ぐ「暴言」で有名になった泉房穂・前市長の後継指名を受けた女性が当選した兵庫県明石市や、女性議員が半数を超えた兵庫県宝塚市議会、東京都杉並区議会などである。特に杉並区は、女性を中心に新人が一気に12人も当選。女性区長(岸本聡子さん)に、半数以上が女性の区議会が対峙するという、日本では歴史上あまり例がない事態を迎えることになる。

 逆に、①に属する自治体は全国至る所にある。地方議員の「なり手不足」が言われているところはたいていこのパターンに当たる。閉鎖的・排他的な「マチの空気」に嫌気がさした女性・若者が次々に地域から流出し、定着しないため、持続可能性に赤信号が灯っている。平たく言えば「10年後に滅びるマチ」だ。

 今回、読者諸氏にはご自分の住む町や周辺の町、また自分が関心や注目を寄せている町でどんな人たちが当選しているか観察してほしい。もし当選者が①のパターンになっているなら、そこは「10年後に滅びるマチ」である。

 難しいのは、①②のどちらにも共通した傾向がないことだ。地域的な偏りがあるようにも見えない。「議員のなり手がおらず、欠員を防ぐため議会の定数を減らしたが、それでも立候補者が定数を割り、欠員が生じたまま全員が無投票当選」という自治体のすぐ隣に、女性議員が3~4割の自治体があったりする。「このような特徴を備えた自治体が①(あるいは②)になる」というパターン化も現状では難しい。

 ●「自治体の適正規模」も見えた

 今回の統一地方選では、自治体の適正規模も見えてきた。②の典型例、つまり「女性・若者が躍進している町」の人口規模を見ると、明石市29万人、宝塚市22万人、杉並区56万人など、おおむね20~50万人規模の自治体に集中している。女性や若者の意見が取り入れられ、多様性も尊重された結果、民主主義が適切に機能する人口規模が見えてきた。

 これより人口が多いと(100万人以上)、住民ひとりひとりの顔が見えなくなり、きめ細かな住民サービスを行うことが難しくなる。一方で、これより人口が少ないと(20万人未満)、密室で町を取り仕切る「地域ボス」が生まれ、やはり民主主義は機能しなくなる。

 「地域ボス」に密室で町を仕切られないよう、多数による監視が働く程度に大きく、ひとりひとりの顔が見え、きめ細かな住民サービスが行き届く程度に小さい――これが民主主義が機能する条件であることが浮き彫りになった。市町村のうち「市」には政令指定都市(認定基準人口100万人)、中核市(同50万人)、特例市(同20万人)があるが、中核市・特例市クラスが民主主義の機能する自治体として最も適正な規模といえそうだ。

 ●組織政党の明らかな退潮

 一方で、今回の選挙では、自民・公明・共産のような、大勝もしない代わりに大敗もしない「安定の組織政党」が揃って退潮傾向を見せたことも大きな特徴だ。自民党・公明党は統一協会問題や物価高批判、共産党は党員除名問題が響いていると私は思っていた。だが、一般的には、投票率が下がっている今回のような選挙の場合、固定票を持っている組織型政党が有利のはずだ。こうした有利な条件があるにもかかわらず、組織型政党が揃って退潮していることの説明として、こうした理由だけでは十分ではないように思う。

 前回、2019年の統一地方選から今回のそれまでの4年間がほぼ丸々、コロナ禍だったという点を考慮すると、組織型政党が、通常は有利なはずの低投票率下の選挙で揃って退潮傾向を示した原因が見えてくる。これら組織型政党には、対面型の選挙運動を全面展開したときに最大のパワーを発揮するという特徴がある。どぶ板をこまめに踏み、手が筋肉痛になるまで有権者と握手し倒して1票1票、獲得していくのがこれら組織型政党の選挙運動だからである。コロナ禍で対面での運動が十分できなかったことが、組織型政党に不利に働いたという面を、こと今回の選挙に関しては見逃すことができない。

 今回がコロナ禍による「特殊事例」だったかどうかは、4年後の次の選挙で明らかになると思う。対面型選挙運動が通常通りにできるようになり、これら組織型政党が盛り返すのか、それとも退潮傾向が続くかによって、この先20~30年の大まかな流れが決まるのではないだろうか。

 ●世襲大好き日本人 政治家にだけ「世襲するな」は無理なのでは?

 今回の統一地方選と重ね合わせながら日本史を考察していると、興味深いことに気づいた。

 ①平安時代までの日本は「貴族制」で、当然、世襲制。典型的貴族であった藤原氏は平安時代に繁栄を謳歌する。戦前、首相になった近衛文麿は藤原氏の系譜である。

 ②鎌倉時代以降、歴史は「武家制」に移行する。戦国大名の中には、織田信長のように実力主義で家臣を登用した人もいたが、その多くは親から子へ、子から孫へ、世襲で家督を相続した。武家制は、徳川幕府が終わるまで続く。

 ③明治時代になると、「大政奉還」で主権が武家から天皇家に返還される。天皇家は当然、世襲であり、この体制が1945年、日本の敗戦まで続く。

 ④戦後になると、新憲法の下で国民主権に移行するが、現在に至るまで戦後のほとんどの期間、1党支配を続けている自民党は大半の議員が世襲である。

 こうしてみると、日本は「貴族制」時代も世襲、「武家制」時代も世襲、「天皇制」時代も世襲、「自民党」時代も世襲ということになる。世襲は日本人の底流を流れる通奏低音なのではないか。

 我が息子や娘が「ミュージシャンになりたい」とか「Youtuberになりたい」などと言ったら、なぜ「そんな仕事」を選ぶんだ、と烈火のごとく怒り出す人たちでも「家業を継ぐ」と言う若者に「何で家業を継ぐんだ!」などと怒り出す人はまずいない。たとえその家業がどんなに衰退確実な業態・業種であっても。「○○時代から○年も続く老舗・○○堂を今年、引き継いだ何代目」と言えば、マスコミはそれだけで美談扱いし取材が殺到する。優秀な社員を辞めさせないため、あの手この手で慰留する企業も、退職理由が「家業を継ぐため」だったら「仕方ない」でお咎めなしだ。

 日本人のこうした国民性が、政治家の世襲を助長しているのではないか。「政治家は世襲ばかり」だと嘆く前に、まず我々自身が「カエルの子はカエル」で当たり前だと思っていないだろうか。

 ●若者が「親ガチャ」というこの国で

 小銭をいくらか入れ、ダイヤルをガチャリと回すと、カプセル入りの小さなオモチャが出てくるという機械がゲームセンターにある。「ガチャ」「ガチャガチャ」など、地域によって呼び名は様々のようだが、私が子ども時代を過ごした地域ではガチャガチャと呼ばれていた。実際に出てくるまで中身が何かわからないという不確実性、自分自身ではコントロール不可能な射幸性が昔も今も変わらぬ人気の秘訣だ。読者諸氏も子ども時代、夢中になった記憶があるだろう。

 10年前くらいから使われ始め、今では若い世代の間で注釈なしで通じるほど一般的となった若者用語に「親ガチャ」がある。親を選んで生まれてくることはできない子どもの立場を、何が出てくるかを自分自身では一切選べないガチャになぞらえたものだ。

 子どもが親を選んで生まれてくることができないことは昔も今も変わらない。だが、少なくとも私の子ども時代にはそんなことをいう同級生はいなかったと記憶する。世は受験戦争といわれた大競争時代だったが、一方ではテストでライバルより1点でも多く取れば、境遇を逆転できるという公平性もあった。家が貧しくても「日比谷から東大へ」「灘高から東大へ」は庶民における立身出世の「物語」を提供していた。このルートで立身出世を果たした政官財界の要人は多いはずである。

 バブル崩壊後の失われた10年が、やがて20年、30年と長期化し、このままでは失われた40年になるのではないかという予測も出始めている。こうした停滞、衰退の長期化の背景にある要因として世襲の広がりを挙げておくことは間違いではなかろう。総理大臣からヤクザまで、ありとあらゆる業界に世襲がはびこる日本社会の固定化が新たな身分制社会、階級社会を生み出しつつある。好きな人がたまたま同性であっただけで結婚する自由もなく、異性と結婚した場合ですら、好きな姓を選択する自由も認めてもらえず、しかもそれが、選挙によっても変えることができず裁判所にも認めてもらえない。それなら、こんな腐った世の中、どんな手を使ってでもひっくり返してやりたい――こうした若い世代の絶望に、政治はもっと敏感になったほうがいい。

 ●せめぎ合う希望と絶望

 前述した兵庫県明石市など、手厚い子育て世代優遇政策を採る自治体には移住者が殺到している。日本全体の人口が減少基調を強める中で、これら自治体が継続して人口を増やしていることですでに答えは出ている。「世襲・高齢・多選の町」が10年後の滅亡を免れたいと願うなら、「地域ボス」を全役職から解任して直ちに蟄居を命じ、議員全員を女性・若者にするくらいのつもりで取り組まないと難しいだろう。そうした絶望的状況が明るみになった統一地方選といえるだろう。

 大手メディアは大阪維新の躍進だけを強調しているが、今回の統一地方選の最大の勝者は女性だったように思える。そうした展望・希望も同時にかいま見えた選挙だったことを改めて強調しておきたい。

(2023年5月21日)

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【転載記事】JR指定席「重複発売」顛末記

2023-05-25 23:52:36 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
「指定席に座っていたら後から乗ってきた男が『そこ僕の席なんですけど』。私は間違ってないのに、舌打ちまでされて...」(北海道・30代女性)(Jタウンネット)

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シリーズ読者投稿~あの時、あなたに出会えなければ~ 投稿者:Bさん(北海道・30代女性)

正しい席に座っていたのに、後から来た乗客に「そこは自分の席だ」と言われた――Bさんは大学時代、そんな体験をした。

しかし相手が間違っているわけでもないようで......。

<Bさんの体験談>

大学生だった時のことです。その日私は、実家のある函館から大学がある弘前に向かうためJRの特急列車に乗りました。

指定席に座っていると、途中から乗ってきた男性客がかなり機嫌悪そうに「そこ僕の席なんですけど」と言ってきて......。

乗車券を見せてもらうと...

乗車券を見せてもらったところ、私も男性も全く同じ席番号でした。

そう説明するも、彼は私の乗車券の番号を見ようともしません。私の勘違いと思い込んで舌打ちする始末です。

私が車掌さんに聞こうと立ち上がると、タイミングよく車掌さんが登場。「この度は大変失礼致しました」と言って、私に「こちらへどうぞ」と促しました。

私が席から離れると、男性客はすぐさま音を立てて着席。疲れていたのかもしれませんが、誤解とはいえ、余りにも尊大な態度に悲しい気持ちになりました。

しかし、それもつかの間。車掌さんはなんと私をグリーン車へ連れてきて下さったのです。しかも、案内されたのは他のお客さんから離れた静かな席でした。

人生で初めてのグリーン車ということもあり萎縮して「差額を支払います」と言ったのですが、

「全く必要ありません。この度は私どものミスで大変失礼いたしました。良い旅を」

と車掌さん。こちらが申し訳なるような過剰な謝罪をすることもなく、終始穏やかに、かつはきはきと対応して下さいました。

驚きすぎて車掌さんの名前を控えるのをうっかり忘れてしまったことを本当に後悔しています。

新幹線が開通して以降、函館~青森間の特急列車にはもう乗れなくなってしまったけれど、アラフォーになる今も、しがない学生の1人を丁寧に案内して下さったあの車掌さんへの感謝を忘れません。

あの時の車掌さんへ。大学で色々あり、精神的に荒んでいた時期に、あなたの立派な姿が心に沁みました。本当にありがとうございました。あなたがあれ以降もたくさんの一期一会の乗客の方々を笑顔にしていることを、北の大地から祈っています。
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Jタウンネットは、インターネット版タウン情報誌のようなもので、全国各地の「ちょっといい話」を紹介するコーナーがある。せっかくの鉄道ネタなので、少しコメントしておこうと思う。

「マルス(指定席発行機)が間違えるわけがない」などと、何も知らずにコメントしている人もいる。「バカほど口を出したくなる」はネットに限らず世の常だと思うが、恥ずかしいことこの上ない。確かにマルスは間違えないのだが……。

重複発売(指定席の二重発売)が起きる原因として最も多いのは、乗客の都合で出発前に払い戻された席を、駅係員がマルスに戻す際に誤って別の席を戻してしまう。その席が別の人に再び発売される。つまり人間のミス(ヒューマンエラー)が原因である。

一般論としては先着順なので、重複発売が起きてしまった際にその席を使う権利は先に座った人にある。だが、中にはこのような理不尽な態度を取る客もいる。車掌は、このような事態に備えて、窓口発売しない席(調整用席)を1~2席程度持っているとされる(お盆や年末年始などの最繁忙期には、その余裕さえないこともあるが……)。実際には、この例のように上の等級の席が割り当てられることもある。

この記事を読んで、なかなか粋な措置を執る車掌だと感心した人もいるかもしれない。だが、私の手元にある1979年版の古い「鉄道ジャーナル」の記事では、名古屋~博多間で当時、運転されていた寝台特急「金星」でやはりB寝台券(三段式の下段以外)の重複発売が起きてしまい、片方の乗客をB寝台(下段)に案内する様子が描かれている。このような調整は旧国鉄時代から行われており、いわば伝統芸でもある。

「金星」のケースも、先に寝台を使用中だった女性客に、後から乗車してきた男性客が席を替わるよう要求。車掌が女性客を空いていた下段に移動させたが、酒に酔った状態で乗車してきた男性客が、下段は満席だと説明する車掌に「本当に下段は空いてないのか、ウソじゃないだろうな」などと絡むシーンも描かれている。ただし、記事では下段以外の寝台から下段に移動させた女性客に、本人の同意を得て、寝台券の差額を払ってもらったと記されている。

(注:現在では、寝台特急が「サンライズ出雲・瀬戸」しかなく、三段式B寝台車も存在しないため、時刻表の記載を見てもわからなくなっているが、私の手元にある「JTB時刻表」2011年6月号の記載を見ると、寝台料金は、三段式の上・中段が5,250円、三段式の下段と二段式の上・下段が6,300円となっている。当時の三段式B寝台は、下段のみ二段式B寝台と同じ大きさで、上・中段は下段より寝台の幅が狭かったため、上・中段にのみ安い料金が設定されていた。

より厳密に言えば、乗車後にこのような変更をする場合は、旧国鉄が制定し、JR各社がほぼそのまま引き継いだ「旅客営業規則」のうち、第249条に規定する「区間変更」に該当する。249条第2項(2)で、料金券については「原乗車券類に対するすでに収受した料金と、実際の乗車区間の営業キロ又は同区間に対する料金とを比較し、不足額は収受し、過剰額は払いもどしをしない」と規定しており、差額を徴収した「金星」車掌の取り扱いが正しいが、これは乗客側から「席を替わりたい」との申出があった場合の規定であり、重複発売に関しては国鉄~JR側の責任で、本人のせいではないことから、しばしば差額を徴収しない取り扱いが行われてきた。)

この「金星」のケースでも、先に乗っていた女性客のほうに優先使用権があったと考えられるが、いずれのケースも先に乗車していた女性客のほうが移動の憂き目に遭っている。だが、不快な思いをさせた代償として、上級の座席・寝台を用意することで決着させている。どちらの乗客を移動させるかは規則に規定されていないため、車掌の裁量に委ねられるが、旧国鉄時代もJR化以降も鉄道はサービス業なので、鉄道会社から見てリピーターになってほしいと思う客、お行儀のいい客、分別のある客のほうに上級の座席・寝台が用意されていることがわかる。読者のみなさんも、仮に自分が車掌の立場だったらいかがだろうか。たぶん、この車掌と同じように行動するだろう。

国鉄~JRの指定券は、途中駅から乗車する乗客に対しては、その乗客が乗車する駅の発車時刻までは発売してよいことになっているので、始発駅を発車した後も、指定券は途中駅で売れ続けることになる。当然、どの席が売れているかは始発駅出発時点から変化しているが、「金星」の時代は通信手段が発達しておらず、車掌には、始発駅発車時点でどの席が売れているかを示すデータが出発前に紙で渡されるだけだったから、始発駅出発後の指定券発売状況の変化を車掌がリアルタイムで知る手段はなかった。

これも旧国鉄が制定し、JR各社がほぼそのまま引き継いだ「旅客営業取扱基準規程」(旅客営業規則の運用通達に当たる)第168条では、「(注)指定席特急券を所持する旅客が、その指定駅で使用の請求をしなかつた場合は、列車が当該指定駅を発車後、相当の時間をおいて、旅客が乗車しなかつた事実を確認後他の旅客に発売するように注意すること。」とする乗務員向けの注意書きがある。ただ、実際にこの(注)のとおりに運用できるのは、始発駅出発前に車掌が渡された紙のデータ上で「売れていることになっている席に、実際には誰も乗ってこない」というケースに限られていた。車掌の手元のデータで空席となっていても、実際には始発駅出発後に途中駅で売れている可能性があるため、乗務員がこのような「発車後の転売」措置を執ることはかなり困難だったといえる。

通信技術の進歩により、車掌が携帯している端末にマルスの情報が逐次反映されるようになったのは比較的最近のことだ。冒頭で紹介した「Jタウンネット」の記事に登場する、グリーン車を割り当てられたBさんの大学生時代といえば、少なくとも20年くらい前のことで、「金星」の時代と大して変わらなかったはずである。

当時、大学生だったBさんを、同じ等級である普通車指定席の空席に案内したとしても、その席が途中駅で売れていた場合、再び移動してもらわなければならない可能性がある。しかし、たとえばこの列車がすでに青森県内に入っている場合、弘前までのわずかな区間で、途中駅からわざわざグリーン車に乗ってくるような客はほとんどいないだろう。従って、現時点で誰も座っていないグリーン席なら、おそらく弘前まで空席のままの可能性が高く、重複発売の調整にはちょうどいい--Bさんをグリーン車に案内するに当たり、車掌はおそらくそんなふうに考えたのではないだろうか。

当ブログでは、かねてから鉄道は公共交通であり、公共財であると訴えてきた。だが鉄道には、それと同時に輸送サービス業としての側面も持つ。乗客に気持ちよく利用してもらい、リピーターになってもらえるよう配慮することは輸送サービス業である以上、当然のことである。最近のJRはコロナ禍で苦しい状況にあるが、こうしたきめ細かな配慮、サービスの積み重ねこそが鉄道の明日を切り開くということも、忘れてはならないと思う。

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コロナ「5類移行」で見えてきた風景に思う

2023-05-24 23:42:32 | その他社会・時事
日々の雑事が忙しすぎてご挨拶が遅れてしまったが、私はこの春も異動はなかった。2013年4月に異動で引っ越してきた北海道での生活は丸10年過ぎ、とうとう11年目に突入する。こんなに長くここで暮らすことになるとは思っていなかった。

生活していく上ではせっかくのいい環境なのに、この3年間はコロナ禍で思うような対面活動はできなかった。新型コロナウィルスの感染力、重症化率ともに通常のインフルエンザより依然として高いため、法的には新型コロナウィルス対策特別措置法に基づく2類伝染病扱いのままだったが、感染拡大当初(2020年春)、緊急事態宣言が出された頃と比べて弱毒化が明らかとなり、訪日客に対する水際対策が緩和されたあたりから、実質的には「個人の判断で勝手に5類化」といってもいい状態だったから、このGW明けの5類移行と聞いても「ふーん」という感想しかないのが正直なところだ。

実際、対面活動がほぼコロナ禍以前に戻ってきている実感もあるし、私の手帳のスケジュール欄を見ても、既に夏までスケジュールはびっしり埋まっており、1日が完全休養という日は片手で数えられるくらいしかない。

ステイホーム、行動変容といわれて人が我慢していられるのもせいぜい1~2年が限度だし、重症化度合いは若い世代ほど低く、高齢者ほど高いが高齢世代では個人の健康状態によるばらつきも大きいことを考慮すると、全員に対し一律に何らかの強制に近い制限を課する措置からは、そろそろ出口戦略を探る時期だったことは確かだろう。

問題は、この3年間から我々が何を得たのか。別の言い方をすれば、何を得て、何を失ったのかだと思う。通勤ラッシュ、コンサートやイベント、インバウンドに関しては「戻ってきた」感が強いが、子どもの頃の社会科の授業で、日本は「原材料を輸入して、製品を輸出する加工貿易の国」だと教わったのも遠い昔のことになりつつある。「サービスを輸出し、モノを輸入する」経済構造に今ではすっかり変わってしまった日本は、もう「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」とお金持ちの外国人にお辞儀する以外に食い扶持がなくなりつつあるのだから、こうした分野で「戻ってきた」感が出ているのは、いいことか悪いことかは別として、やむを得ない選択なのだろう。日本人の多くが気付かないか、不都合な真実として気付かないふりをしてきたこのような経済構造の変化が、コロナ禍で白日の下にさらされることになった。

(注:インバウンドによる日本国内での買い物が「輸出」に当たることに対しては、今ひとつピンと来ない方も多いと思うが、日本からモノを買い、代金を払ってそれを外国人が自国に持ち帰ることは、それが個人によって行われる点が違うだけで、日本企業が外国にモノを送り、代金を受け取る行為と変わらないから「輸出」に当たるし、財務省の貿易統計でもちゃんと「輸出」として扱われている。外国人観光客が体験型観光(いわゆる「コト消費」)をするのも、支出と引き替えに外国人が受け取るのが形のないサービスだというだけで、やはり「輸出」に当たることに変わりはない。)

日本経済が「原材料を輸入して、製品を輸出する」から「サービスを輸出し、モノを輸入する」に変わるにつれ、多くの日本人が「以前より貧しくなった」と実感しているとしたら、それは経済学的に正しい。一般的に、付加価値(=経済活動、生産活動によって新たに生み出される富)は、製造業では大きく、サービス業では小さくなるからだ。

機械のスイッチをポンと押せば、1時間当たり何百、何千もの製品が勝手に作り出される製造業と、「いらっしゃいませ~」と大声で呼び込みをしても、来店してもらえるかはお客さん次第のサービス業では、生産性は比べものにならない。サービス産業は製造業と違い、ほとんどの業務は機械化できないので、労働コストが高くつく上、お客さんが来るかどうかはふたを開けてみるまでわからないサービス業は当たり外れも大きいからだ。「あくせく働いているのに、成果に結びつかない」「拘束時間ばかり長い割に、成果が見合わない」と多くの日本人が感じているのは、サービス産業が持つこうした特性によるところが大きい。

賃金も、物価も、成長率も、すべてが「安いニッポン」になってしまった原因が誰にあるのか。経営者は「消費者が安物しか買ってくれないから儲けが出ず、賃金を上げたいのに上げられない」と主張し、労働者は「経営者が内部留保ばかりため込んで賃金を上げないから消費が増えないのだ」と主張する。どちらも「自分は悪くない。悪いのは相手のほうだ」と責任を押しつけ合っている。

先進国になるにつれ、経済は第3次産業(=サービス業、知識産業)が主流になっていくことを、米国の経営学者・ドラッカーが指摘したのはもうずいぶん昔のことだが、日本以外の先進国はサービス業が経済の中心になっても成長し、賃金も物価も上昇していることを考えると、日本経済低迷の原因はサービス産業化とは別のところにあるといわざるを得ない。

今までは、その原因がどこにあるのか私もつかみかねていたが、コロナ禍の3年間でそれが割とはっきり姿を現してきたように思う。日本人の経済活動が、純粋な意味で「無から有を生み出す」ものになっていないからではないかというのが私の推論である。

アメリカが経済成長を続けているのは、WINDOWSやFacebook、twitterなどのように、今まで人類の誰も見たことがなかったものを、新しく作り出す--つまり「無から有を生み出す」ことに成功しているからである。逆に、中国が成功したのは、日本では半世紀近くも前に整えられたような基本的な生活基盤も十分に整っていないような途上国であったために、先進国の真似をすることが「無から有を生み出す」ことにつながり、それが富を生み出してきたからである。

1990年代に「失われた30年」に突入して以降の日本人が怠けていたわけではない。むしろ世界的にも真面目な部類だったように思う。しかし不幸だったのは、日本より先を行っている国の真似をしていれば、それが「無から有を生み出す」ことに結びついていたキャッチアップ型経済ではなくなっていたにもかかわらず、アメリカのように「今まで人類の誰も見たことがなかったものを、新しく作り出す」型経済に移行できなかったことにある。

その日本の「ダメさ加減」を象徴していたのが、いま思い返せばデジタル分野だった。紙・カード式の健康保険証を廃止して、マイナ保険証に置き換えるようなものが、愚策の典型に思える。日本では、新しいものを作り出すのではなく、古いもの、それもアナログ時代に確立した、割と完成度の高いシステムをわざわざ壊して、ものになるかもわからない未知のデジタルシステムに置き換えようとするような政策ばかりだった。

「今まで人類の誰も見たことがなかったものを、新しく作り出す」経済活動は、社会の大多数に喜びをもって迎えられるが、日本では経済活動(特にデジタル化)の大部分が「既存システムの置き換え」だったために、古いシステムで食べている人たちの頑強な抵抗に遭い挫折する。ごくたまに上手くいくことがあっても、既存のシステムを壊したために経済にマイナスの影響も生じてしまい、せっかく新システムを導入しても差し引きゼロ。スクラップ・アンド・ビルドでは差し引きがプラスにはならないということに、そろそろ日本人は気付くべきだろう。

日本人はもともと既にあるもののカイゼンは得意でも無から有を生み出すイノベーションは大の苦手。おまけに「全社一丸」なんてスローガンだけは立派なものの、組織全体を統括できるリーダーがいないため、各部署がそれぞれ勝手に部分最適を追求した結果、部署ごとの足の引っ張り合いや衝突ばかり。ようやく長い時間をかけて社内調整が終わる頃には、世界は既に次のフェーズに移行している--なんて場面を何度も見てきた。やはり日本の場合、技術よりも組織運営の拙劣さが長い停滞を生んできたように思う。

そうした拙劣な組織運営のあり方を見直す。コロナ禍はその100年に一度のチャンスであるように私には思えた。このピンチではあるが同時にチャンスでもある局面を、日本は十分に生かし切っただろうか。私にはどうもそうは思えない。どうでもいい会社の飲み会に全員が「同調圧力という名の事実上の強制」によって参加させられ、いわれなくても女性は男性にお酌をするもの--そうした前時代的で差別的ですらある馬鹿げた風習、文化が「三密回避」の名目とともに廃れれば、今度こそ日本が変わるかもしれないという希望が芽生えた時期があった。だがそれも緊急事態宣言直後の一時期だけだったのだろうか。

コロナ禍で日本人が新たに手に入れたもののうち、今後も確実に残りそうなのは「オンライン会議の普及」だろう。Zoomによる会議、イベントの開催は一般的になった。市民団体の集会など、これまで遠方での開催のため参加を諦めていた人たちが参加できるようになった。コロナが弱毒化し、対面開催が復活してくるにつれ、リアル参加者のために会場設営もし、オンライン参加者のために配信機材の設置もしなければならないハイブリッド集会の開催は、成果は今まで通りで変わらないのに手間だけ2倍かかるので、多くの市民団体がオンライン配信をやめ、対面開催オンリーの形に戻したがっている。だが「せっかく遠方からでも参加できるようになったのに、やめるなんて酷い」といわれ、やめるにやめられないでいる。コロナ禍3年の既得権として、定着したまま進みそうだ。

もうひとつ、今後に資産として残りそうなのが「無駄な夜間活動の削減」だ。夜の飲食店、歓楽街が感染拡大の元凶と見なされ(本当にそうだったのかは結局判然としないが)、特に酒類提供が中心だった店の多くに以前の賑やかさは戻っていない。どうでもいい会社の飲み会や、差別的なお酌の強要などがなくなり、若い世代(特に理不尽が集中していた女性)は「せいせいしている」のが実態だろう。私の職場でも、異動や退職で職場を去る人には、送別会の代わりに記念品の贈呈が一般的になった。こうしたことは前向きな変化として今後に継承すべきだと思う。オヤジたちのどうでもいい武勇伝とか、時代は変わっているのに「俺たちの頃はそうだったんだ(=だからお前らもそうしろ、という無言の圧力)」なんて話を聞かされても、若い世代でこのブログを読んでいる人がいたら、それこそ「知らんけど」で片付けておけばいい。

先日も、日本経済新聞に「夜間経済の縮小」を憂う記事が載っていたが、日本の代表的経済紙がそんな古い感覚だからダメなのだ、と私は苦言を呈しておきたい。働き手もいないのに、CO2を吐き出すだけのコンビニの24時間営業など無駄の最たるもので、もう2度と復活しなくていい。お天道様が沈んだら寝て、上ったら起きる、でかまわないのだ。

 *   *   *

そんなわけで、北海道からの情報発信11年目に入るこのブログを、引き続きご愛顧のほど、よろしくお願いします。

なお、どうでもいいお知らせです。当ブログでは、管理人が自称する時の1人称として「当ブログ管理人は、~」という表現をしばしば使用してきましたが、今後は「私は、~」に原則、統一します。

最近、当ブログに先に書いた記事を、後日、再構成の上、紙媒体で発表し直すことが増えているためです。その際、「当ブログ管理人は、~」という表現のままで紙媒体に転載するわけにいかず、主語を「私」に書き直していたのですが、そうでなくても忙しいのに、そんなことに使う時間と労力がもったいないと考えるからです。

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「ペテン師たちの国鉄つぶし~分割・民営化のウソ・ホント」をアップしました。

2023-05-13 19:13:38 | 鉄道・公共交通/交通政策
管理人よりお知らせです。

国鉄「改革」法案が国会審議入りした1986年9月当時、分割民営化反対運動に関わった「国鉄分割・民営化に反対する北海道共闘会議」が50万部制作し、頒布した「ペテン師たちの国鉄つぶし~分割・民営化のウソ・ホント」というパンフレットがあります。今回、関係者と思われる方から、このパンフレットの提供を受けましたので、急きょ、掲載しました。安全問題研究会ホームページの「国鉄分割民営化・JRを検証する」コーナーから見ることができます。パンフレットに直接飛ぶ場合はこちらからどうぞ。

政府が「改革」と大宣伝した国鉄分割・民営化の正体がよくわかります。当時、国鉄分割・民営化に賛成だった人も反対だった人も、まずはご覧ください。現在のJRグループの下で、ここに書かれていることのほぼすべてが現実になっていることがわかると思います。このパンフレットの「予言」の正確さには身震いがするほどです。北海道の市民団体が分割・民営化の行く末をここまで正確に見通していた以上、政府・自民党には「想定外だった」「モータリゼーションや東京一極集中がここまで進むとは思わなかった」などという言い訳はしてもらいたくありません。

「ペテン師たちの国鉄つぶし~分割・民営化のウソ・ホント」から 


自民党は、当時、『国鉄があなたの鉄道になります』と題した意見広告を出し、分割民営化しても「会社間をまたがっても乗りかえもなく、不便になりません。運賃も高くなりません」「ブルートレインなど長距離列車もなくなりません。」「ローカル線(特定地方交通線以外)もなくなりません。」などとバラ色の未来予測を振りまきました。

36年後の今日、どちらの主張が正しかったかを改めて確認していただきたいと思います。

当時の自民党の意見広告から

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5月に入ってからの地震について

2023-05-11 22:15:44 | 気象・地震
令和5年5月5日14時42分頃の石川県能登地方の地震について
令和5年5月5日21時58分頃の石川県能登地方の地震について
令和5年5月11日04時16分頃の千葉県南部の地震について
(いずれも気象庁報道発表)

気象庁が報道発表を行うような大きな地震は、2022年11月9日の茨城県南部の地震以来、しばらく途絶えていたが、5月に入ってから、まるで新たな活動期を迎えたかのごとく大きめの地震が続いている。石川県能登地方の最初の地震はM6.3・震度6強、2回目の地震はM5.9・震度5弱を記録。今朝の千葉県南部地震でもM5.2・震度5強を記録した。

ここしばらく、当ブログでは気象庁が記者会見を開き、報道発表するような大きめの地震があっても、解説記事を書くことがなかった。最後に記事を書いたのは2022年3月16日の福島県沖地震だが、これは東日本大震災以降では最大の地震だった上、新幹線が1ヶ月近くも運休するなどきわめて社会的影響が大きかったからだ。これに対して、これ以降の地震は大きな特徴のないものが多かった上、そこから特段、差し迫った危険があるとも感じなかったからである。

今回の地震も解説記事は書かないつもりでいた。だが、能登地方の連続地震の分析をした結果、解説記事を書く必要があるのではないかと気が変わった。同じ5月5日に、わずか7時間間隔でM6級の地震が2度、立て続けに発生した上、震央をプレート図の上にプロットしてみると、かなりまずい状況にあるような気がしてきたからである。



能登地方の2回の地震と、今朝の千葉県南部地震の震央の位置を、プレート図の上にプロットしてみたら、上のとおりとなった。どちらもプレート境界にきわめて近い位置で発生している。能登地方の地震に至っては、プレート境界上で起きた地震と言ってもいい。

能登地方の連続地震は、震央が同じ位置であることに加えて、発震機構(地震のメカニズム)も同じで、北西―南東方向に圧力軸を持つ逆断層型である。能登地方では、2022年6月19日にも最大震度6弱を記録する地震が起きているが(気象庁報道発表)、このときの震央の位置、発震機構いずれも今回とまったく同じである。

震源の深さも、3回とも12~14kmのほぼ同じ深さで起きており、いずれもプレート境界とされる深さ30~50kmよりやや浅い場所で起きている。昨年6月の地震がM5.4、今回の連続地震がM6級で、今回のほうがワンランク大きくなっている。

注目されるのは、今朝の千葉県南部の地震も、発震機構が「北西―南東方向に張力軸を持つ型」で、方向に関しては能登地方の地震とまったく同じであることだ。地震には正断層型、逆断層型、横ずれ断層型の3タイプがあり、気象庁の報道発表ではいずれの型かは記載されていないが、「張力軸」を持つタイプは正断層型か横ずれ断層型のどちらかであり、少なくとも逆断層型ではない。

能登地方の連続地震が「逆断層型」である一方、千葉県南部地震は逆断層型以外ということになる。この地震の両方に関係している北米プレートを基準にしてみると、千葉県南部地震はプレートのやや内側、一方の能登地方の地震はほぼプレートの真上になるが、あえて内側か外側かで分けるのであれば、わずかに外側に出ているように見える。プレート内側の地震が「逆断層型」、一方で力の向きが逆になるプレート外側の地震が「正断層型」と、逆の型になっているのは整合性がとれている。

要するに、5月5日の能登地方連続地震と、今朝の千葉県南部地震は同じプレートの同じ動きによって引き起こされた「関連地震」かもしれないということである。

そして、さらにまずいのは、この両方がプレート境界のほぼ真上(能登地方地震)または境界にきわめて近い場所(千葉県南部地震)で起きていることである。特に、能登地方は昨年6月とまったく同じ震央の場所であり、3回連続、プレート境界のほぼ真上で起きたことになる。震源の深さもほぼ同じで、規模だけが昨年6月より1ランクアップしているというきわめてまずい状況だ。能登地方の地震は、どう考えてもプレートのひずみが限界に達しつつあることによって引き起こされているとみるしかなく、しかも地震発生のたびに規模が大きくなっていることは、プレートが沈降から「反転」する瞬間が差し迫っていることを示している。

以上の分析結果から、能登地方地震の震源域に近い地域に住んでいる人々(能登半島全域)に、当ブログは強く警告する。北米プレートとユーラシアプレートがぶつかっている能登地方の直下におけるプレートのひずみは限界に近づいており、2020年から続いている一連の地震は、プレートの反転に伴う海溝型巨大地震の発生が近いことを告げている。巨大地震の発生時期は、長くても5年以内だろう。プレート境界型地震なので、発生すればその規模は東日本大震災と同程度になる。今回の地震で自宅が倒壊して住めなくなった方は、建て直すくらいなら別の場所への移住を強くお勧めする。少なくとも、能登地方での自宅再建はとてもお勧めできない。

北陸電力志賀原発は、東日本大震災以降、止まったままだ。直下に活断層があるとする評価書の案を、原子力規制委員会がいったん決定し、廃炉不可避というところまで来ていたのに、あろうことか規制委は北陸電の主張を認め、いったん決めていた評価書案を撤回。志賀原発の直下にある断層は活断層に当たらないとして再稼働にゴーサインを出した。信じられないことだ。当ブログの分析が正しければ、5年以内に襲来するプレート境界型巨大地震により、志賀原発は福島第1原発と同じ運命をたどることになる。再稼働などあまりにふざけている。今すぐ廃炉にすべきだ。

もし、このまま志賀原発が再稼働し、その後に巨大地震で志賀原発が「第2の福島第1原発」になったら、当ブログは北陸電力だけでなく、規制委の責任も問う。規制委を、東京電力に対してしたのと同じように、刑事告発することになろう。規制委にその覚悟はあるのか。あるなら志賀原発の廃炉を直ちに決定すべきだ。ない場合は? 規制委は税金の無駄なので解散してよいと思う。

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【週刊 本の発見】『武器としての国際人権~日本の貧困・報道・差別』

2023-05-04 23:29:57 | 書評・本の紹介
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」の書評コーナー「週刊 本の発見」に寄稿した内容をそのまま転載したものです。)

人権後進国ニッポンの赤裸々な実態!~『武器としての国際人権~日本の貧困・報道・差別』(藤田早苗・著、集英社新書、1,100円+税、2022年12月)評者:黒鉄好

 日本が人権後進国と言われるようになって久しい。しかし本書を読むと、ニッポンの人権後進国ぶりはそんな生やさしいレベルではすまないことがわかる。

 レイバーネットを日常的に読んでいる人なら、人権は生まれながらにして誰もが持ち、それを保障する義務を政府が負っていると理解しているだろう。しかし日本人の大部分が人権を思いやりと同レベルで捉えていることに、藤田さんは警鐘を鳴らす。人権は国家と個人の関係だが、思いやりは私人同士の私的関係に過ぎないからだ。

 特定秘密保護法をめぐって、国連特別報告者デイビッド・ケイ氏による訪日調査が2016年に行われたが、この過程では日本政府が一度は日程まで決まった調査受け入れを直前でキャンセルするという暴挙に出た。「日程まで決まっていてキャンセルするのは独裁国家くらいだ」と聞かされた藤田さんは「日本はもう放っておけない大変な国になりつつある」(本書P.71)との国際社会の雰囲気を忖度なく伝えている。人権問題を審査する第三者機関や、人権侵害に関する通報制度も、先進国なら存在して当然だが日本だけ設置していないと聞けば、たいていの日本人は驚くに違いない。

 このような日本の残念な状態を改善するため、藤田さんは国際法をもっと使うよう読者に助言する。日本が批准した条約に政府を従わせるだけでなく、国連機関や特別報告者に働きかけて勧告や報告を出させるなど、有形無形の圧力をかけ、日本政府が国際社会の意思に従わざるを得なくなるよう包囲していくことの重要性を説いている。

 法を犯す者を物理的に従わせるため、国家は軍隊や警察などの「暴力装置」を持つ。だが国連はそうした物理的な力を持たないことから、ウクライナを侵略したロシアのような国際法違反の国家に対して「お気持ち表明」しかできない――国際法に対してはこうした否定的な声も多い。だが、「暴力装置」のない状態で国際間紛争を平和的に解決する事例を積み上げていくことは、国際紛争を解決する手段として武力の行使を永久に放棄し、またそのための戦力も持たないと定めた憲法9条を持つ日本にとって責務でもある。

 多国籍企業のビジネスに伴う人権侵害に対する国際社会の目も厳しさを増しており、2022年には日本企業に対策を促す経産省のガイドラインも策定されている。国際法がここ数年、急速に注目度を増してきたことは喜ばしいが、私には別の側面も見える。反人権的な自民党による単独政権が70年近く続いた結果、日本の国内法はあらかた改悪され尽くし、もはや市民にとって戦える国内法はほぼ残っていない。使えるのは自民党の手の届かないところで決められる国際法くらい――そのような経過をたどった上での「脚光」だとしたら、素直に喜んでばかりもいられないのではないだろうか。

 著者の藤田さんは、英エセックス大学修士課程在学中に国際法に触れたことがこの道に進むきっかけとなった。究極の人権侵害である戦争・戦場を連想させる「武器」という単語をタイトルに入れることに難色を示したが、インパクトのある単語を入れたほうが売れると主張する出版社側に押し切られたと聞く。本書のタイトルをめぐっても、ビジネスと人権との間で水面下の激しい攻防があったことは、付記しておきたい。

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世界に冠たる(?)世襲制国家・日本

2023-05-01 23:40:27 | その他社会・時事
(以下の文章は、ある知人にメールで書き送ったところ、「大変面白い、だが真剣に考えさせられる考察です。類似の言説を読んだことがありません」との感想をいただいたので、以下、転載します。)

日本の歴史を、今回の統一地方選と重ね合わせながら見ていると、興味深いことに気づきました。

・平安時代までの日本は「貴族制」で、当然、世襲制です。藤原氏がその典型で繁栄を謳歌します。戦前、首相になった近衛文麿は藤原氏の系譜です。

・鎌倉時代以降、歴史は「武家制」に移行します。戦国大名の中には、織田信長のように実力主義で家臣を起用した人もいましたが、その多くは親から子へ、子から孫へ、世襲で家督を相続しました。武家制は、徳川幕府が終わるまで続きます。

・明治時代になると、「大政奉還」で主権が武家から天皇家に返還されます。天皇家は当然、世襲で、この体制が1945年まで続きます。

・戦後になると、新憲法の下で国民主権に移行しますが、現在に至るまで戦後のほとんどの期間、1党支配を続けている自民党は大半の議員が世襲です。

「貴族制」時代も世襲、「武家制」時代も世襲、「天皇制」時代も世襲、「自民党」時代も世襲……。もしかして、日本人って、歴史上、世襲以外の権力を戴いたことがないのでは?

……この恐ろしい疑問に対する答えは、YESです。日本人は、世襲以外の権力を知らないまま、神武天皇生誕以来、皇紀2683年間を過ごしてきたのでした。

日本のすぐお隣には、統一協会に貢いでもらった資金で作った「花火」を、毎日のように日本の領海近くまで飛ばしてくれる世襲制国家があります。民主主義のかけらもないのに朝鮮「民主主義」人民共和国を名乗るこの国は、現在「偉大なる領袖」金正恩同志がトップを務めていますが、金正恩同志でさえ「まだ」3代目です。しかし自民党には3世がごろごろいて、中には4世議員もいます。こと世襲に関する限り、日本は「経済制裁に甘んじている1党独裁テロ国家」よりはるかに酷い状態です。

ついでに言えば、1党独裁なのは日本も同じです。北朝鮮は、選挙がないので国民が仕方なく朝鮮労働党の支配に服していますが、日本人は選挙があるのに野党を自分から進んで潰し、自分で1党独裁を選んでいるのですから、北朝鮮以下でもはや付ける薬もありません。

韓国は、李氏朝鮮までは世襲制国家でしたが、苛烈なる日帝支配36年を経て、戦後、独立してからは軍政時代も世襲ではありませんでした。民政移管後も世襲ではなく、定期的に政権交代もしています。

もう一度日本を振り返ってみて、どうでしょう。世襲大好き民族ですよね。我が息子や娘が「ミュージシャンになりたい」とか「Youtuberになりたい」などと言ったら、何で「そんな仕事」を選ぶんだ、と烈火のごとく怒り出す人たちでも、「家業を継ぐ」と言う若者に「何で家業を継ぐんだ!」などと怒り出す人はまずいません。たとえその家業がどんなに衰退確実な業態・業種であっても。

「○○時代から○年も続く老舗・○○堂を今年、引き継いだ何代目」と言えば、マスコミはそれだけで美談扱い、取材殺到です。優秀な社員を辞めさせないため、あの手この手で慰留する企業も、退職理由が「家業を継ぐため」だったら「まぁ仕方ないよね」でお咎めなしです。

日本人の底流を流れるこうした国民性が、政治家の世襲を助長しているのではないでしょうか。だとしたら、政治家は世襲ばかりだと嘆く前に、まず我々自身が「カエルの子はカエル」で当たり前だと思っていないか、点検が必要です。

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