安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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続・ポスト・コロナの新世界を展望する 変わり始めた世界、変われない日本、そして希望

2020-05-25 22:13:49 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2020年6月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 新型コロナウィルスの世界的大流行が始まって、3か月以上が経過した。この間のめまぐるしい世界の動きを追い切れなくなり、疲れ果てて「情報収集戦線」から離脱気味の読者諸氏も多いと思うが、それは当然のことである。人間は無限に情報処理能力を上げられるコンピューターではないからだ。こんなときに有効なのは、あえて情報を遮断し、様々な人や組織の検証もされていない言説や細部の動きからは距離を置くこと、地球儀を少し離れた場所から眺めるくらいの俯瞰的な視点で世界を展望しながら、思索にふけることである。

 「家を出て、人に会って、仕事をするという普通の生活の形が壊れてしまった」――筆者の地元紙・北海道新聞(2020年4月21日付)に作家・池澤夏樹さんが寄せた論考である。池澤さんは続ける――「子供の頃、悪いことをすると押し入れに閉じ込められた。今、監禁が刑罰として効果があることを世界中の人々が実感している」。

 日本には禁固刑が今でも存在しているし、世界にも類似の刑罰がある。犯した罪に対する償いとして、一定期間、行動の自由を差し出す禁固や懲役などの刑罰は、法律学の世界では自由刑と呼ばれる。原発事故を起こした日本やCO2の大量排出を長期間にわたって続け、反省のそぶりも見えない世界の100億人類に対し、地球が監禁の刑罰を与えた。今回のコロナウィルス禍をそのように読み解くことも、科学の世界ではともかく哲学や宗教の世界では十分可能だろう。

 ●世界は「禁固刑」に疲れ、自由を渇望

 人間同士を会わせないようにするために、ロックダウン(罰則を伴う強制的な都市封鎖)を続けてきた欧米各国、強制力の伴わない「自粛」要請を続けてきた日本、いずれにおいても人々は長引く「禁固刑」に疲れてきている。「刑」を解き、自由にするよう求める人々の意思は、5月に入って以降、以前のような日常に向かって世界を急速に逆流させ始めたかに見える。この疫病が、感染者の致死率50%という数字とともに世界を震撼させたエボラ出血熱と異なり、震撼するほどのものではないという認識が広がってきたことも「自由への渇望」の背景として見逃すことができない。

 一方、世界的変化への希望が後退するにつれ、本誌前号の記事の冒頭で述べた筆者の「異様な高揚感」は急速にしぼみつつある。「思ったほど世界というのは変わらないものなのだ」「もしこれほどの危機でも世界が変われないとすれば、世界を変えるためにはどれだけ巨大なエネルギーを必要とするのだろう」という思いが急速に強くなっているのである。

 すでに世界で100万人単位の死者数を出しているこの疫病を決して軽視できないことはもちろんだが、実際、前述したエボラ出血熱など破局的な死亡率の疫病に比べると、新型コロナウィルスの感染者に占める死亡率はそれほど高いわけではない。WHO(世界保健機関)が公表している国・地域別の感染者数・死者数データを基に、筆者が感染者数に占める死者数の割合を算出した結果、表の通りとなった。



 ●感染者数、死亡率データから見える「社会のかたち」

 この表から見えてくるのは、欧州諸国だけが15~20%近い死亡率で突出しており、それ以外の国においてはおおむね4~6%の範囲に集中しているということである。国民の20人に1人、学校の1クラスで1~2人が死亡する程度の率ということになる。欧州以外の各国政府にとってはいわゆる社会的マイノリティ(少数派)対策に注入する程度の予算と政治的エネルギーで十分対処できる事態であり、それだけにこれら各国市民は「対策に割く政治的、社会的、経済的リソースがない」という言い訳を自国政府に許してはならないというべきである。

 この結果を額面通りに受け取ることはもちろんできない。衛生状態、人口密度、貧富の格差をはじめとする経済情勢などさまざまな要素を加味しなければならないし、そもそも非民主主義国、情報公開が十分でない国も含まれている。一部の国に関しては、WHOに提出している資料・データが正確かどうか再検討の余地もあろう。

 欧州諸国に関しては、民主主義とともに、検査や治療などの医療体制、医療保険制度などの国民福祉体制にも長い歴史がある。手厚い検査や治療、正確な情報公開が行われているがゆえの高死亡率だとすれば、悪いことだとする評価はむしろ誤りとして排除しなければならない。一方、欧州諸国以外と同じ「低死亡率」グループに属している米国には国民皆保険制度がない。貧困層のほとんどが医療費を払えず、通院もできない現状で多くの貧困層が「コロナによる死亡」とされないまま統計がまとめられている可能性を否定できないと考えられる。ロシアやサウジアラビアに至っては、地域による偏りをなくすためデータを掲載したものの、両国の医療水準やプーチン独裁、絶対王政という政治的非成熟性を考えると、1%に満たない死亡率というデータ自体の信頼性を疑わざるを得ない。

 日本に関しても事情は同じといえる。「37.5度以上の発熱が4日以上継続」という検査の要件を満たすのにPCR検査がほとんど行われず、「接触者・帰国者センター」へのアクセスもできない状況では最も基本的なデータである正確な感染者数すらつかみようがない。実際、新型コロナに感染しながら、検査もされないまま軽症で自然治癒していった人も多いとみられる。政府の打ち出す対策が「アベノマスク」のようにことごとくピント外れなものばかりの状況の中で、この程度の死亡率に抑えられているとすれば、一般市民の高い防疫意識に基づいた自主的で積極的な感染拡大対策(手洗いの励行など)の賜物だろう。

 東日本大震災のときにも見られた現象だが、日本人の「ガバナビリティ」(被統治能力と訳されることが多いが、筆者はあえて「奴隷化能力」という新たな訳語を提起したい)はこのような危機的状況のときに極大化される。政府が頼んでもいないのに、元から地域社会を支配していた相互監視体制と同調圧力が自然強化され、大多数の国民が向かうべきと規定した路線から逸脱した者は徹底的に叩かれる。「元のレールに戻る」よう警告を受け、従わなければ抹殺される。市民社会の論理というより、どちらかといえば「ムラ社会」の論理に近い日本社会のありようが、死亡率を最小限にとどめたというのが筆者の現在の推論である。だが一方で、このありようこそが日本社会を息苦しくさせ、技術革新を停滞させ、社会そのものの変化の芽も摘んでいる元凶にほかならないのである。

 ●リモートワークとエッセンシャル・ワーカー、対照的な風景の中で

 とはいえ、急激に人類を襲ったコロナ禍は、日本社会の本当の危機をまたも浮かび上がらせた。9年前の東日本大震災でも日本社会の危機が浮かび上がったが、見えた風景はまったく異なる。9年前は、巨大地震、津波、相次ぐ原発の爆発により、破局的事態が一気に訪れたものの、そうした事態は東日本という一部地域に限定され、北海道や西日本はほぼ無傷で残った。それに対し、今回は破局的事態ではあるものの、そのピークがいつになるかの予測が難しく、また全世界が一気に危機的状況を迎え、地球上のどこにも逃げる場所がないという意味で、9年前とはまったく様相が異なるのである。

 9年前も、日本での原発事故を見て、脱原発に舵を切る国がいくつか現れた。立法院(国会)で電気事業法を改正し脱原発を方針化した台湾、2022年までの原発からの撤退を決めたドイツ。韓国も文在寅政権発足以降、脱原発の方針を決めている。察しのいい読者諸氏はすでにお気づきかもしれない。韓国、台湾、ドイツ――福島原発事故を受けて直ちに脱原発の方針を決めたこれらの国々こそ、今まさに新型コロナ対策でも最も成功しているグループなのである。

 一方で、9年前と今回の危機には共通点もある。人口が密集する大都市のあり方、エッセンシャル・ワーカー(9年前にはこの言葉は今以上に知られていなかった)の重要性などが再び浮上した点である。このうち前者に関しては、9年前を上回る規模で世界に変革を迫る原動力になりつつある。準備もないまま、人間同士の接触を減らすため、なかば強制的に移行を余儀なくされたテレワークなどのリモートワーク(オンラインでつながりながら離れた場所で仕事をする働き方)が、試行錯誤を経ながらも、事務職など一部職種の人々にとって、すし詰めの通勤電車や無駄な会議の連続といった非効率を排除できるとわかった点は大きい。これらは今後、「禁固刑」が解かれ社会が日常を取り戻したあとも続けるべき改革であろう。全員が事務所に集まって仕事をする形態でなくなると、研修や業務評価といった点をどうするか懸念されているが、全面リモートワークではなく希望者限定、あるいは業務の一部のみリモートワークに移すなどの中間的形態であれば弊害も少ない。ただその場合、単に大都市の通勤電車の混雑率が若干下がる程度にとどまり、リモートワークによる改革が目指した効果のほとんどは失われることになる。大半の労働者が月のほとんどを結局、事務所に出勤しなければならないのであれば、最大の改革になるはずだった企業の地方移転に向けたインセンティブは働かず、東京一極集中が今後も続くことになるからである。感染の危険が下がれば「全員事務所に出勤せよ」となり、リモートワークはまたも壮大な実験のままで終わる危険性がある。日本はこの道を進みそうな悪い予感がしている。

 対照的に、対人サービス業、接客業を中心に、リモートワークなどそもそもしたくてもできない業種も多い。医療、福祉、公共交通、運送・物流、生活必需品を扱う販売店の従業員などである。どんなに感染が怖くても、生活必需品・必需サービスを取り扱っているために閉店も休業もできず、接客も続けざるを得ない人々である。今回、エッセンシャル・ワーカー(直訳すれば「必要不可欠な労働者」)という英語から直輸入された単語とともに、これらの業種の人々に少しだけ光が当たるとともに、彼らに対する差別も行われるなど功罪両面が明るみになった。従来、これらの業種の労働者は、社会的に必要不可欠な仕事をしているにもかかわらず、日本でも世界でも低賃金・長時間重労働に苦しめられてきた。やや極端な表現をすれば、使命感だけが彼ら彼女らを支えており、それをいいことに政府も自治体も消費者も、全員が彼ら彼女らに甘え、「使命感搾取」という状態に置き続けてきたのである。これらエッセンシャル・ワーカーに対して必要なのは、その仕事の重要性に見合う待遇を保障することであり、気休めに過ぎない「頑張れ」横断幕やライトアップなどでは決してない。そのような小手先のごまかし自体が、彼ら彼女らの新たな怒りを引き起こしつつあることに、私たちの社会はもっと敏感でなければならない。

 ●大打撃を受けたサービス業、飲食店はどうなるか

 ロックアウトや外出自粛によって最も打撃を受けたのは、人の移動自体を商売にしている観光、ホテル、交通、飲食店といったサービス業である。このうち観光、ホテル、交通に関しては外出自粛が解かれない限りいかんともしがたいが、若干様相が異なるのが飲食業界である。

 仮にこの新型コロナの感染拡大がなかったとしても、飲食業界は曲がり角にあり、早晩、大幅な改革は避けられない運命にあった。「すき家」などのチェーン店で5年ほど前から顕在化した極端な人手不足、相次ぐ24時間営業の打ち切りなどに見られるように、高度成長期からデフレ時代に築いた経営手法が行き詰まり、壁につき当たっていた。牛丼一杯が300円~500円あれば食べられる吉野家は日本の安売りの象徴といわれ、長く続いたデフレと人余り時代の寵児としてもてはやされた時期もあった。賢明な本誌読者のみなさんには説明不要かもしれないが、労働者を店舗に24時間拘束し続け、賃金も光熱費も24時間、365日分ずっと支払い続けながら顧客に提供される牛丼と、1日8時間だけ労働者を拘束して、その分だけの賃金を支払い、光熱費も8時間分だけ支払いをすればすんでしまう工場で製造され、スーパーやコンビニに並べられる弁当が、ほとんど同じ価格であること自体がそもそもおかしいのである。

 日本の飲食店の異常な安さを指摘する海外からの訪日客の声を幾度となく筆者は耳にした。海外では麺類などの軽食であっても、食べ物を注文すれば2000~3000円程度かかることがほとんどだが、人件費などのコストを考慮すれば海外のほうが適正価格であることは言うまでもない。ただでさえ低賃金、長時間重労働という労働者の犠牲の上に薄氷の上で踊っていた日本の飲食業界は、コロナという未曾有の危機の前に脆くも瓦解した。たとえ今後、外出自粛が解かれ、飲食店に客足が戻り始めるとしても、こうしたばかげた業界構造まで「すべて元通り」でいいわけがない。日本の飲食業界は、コストの適正な価格への転嫁をはじめ、これまでの悪慣行を見直し、ゼロベースであり方そのものを見直すくらいのことをしないと、コロナ後もおそらく生き残れないであろう。

 ●「先見の明」あった先月号予測~あらゆるメディアが「新自由主義の死」を予測

 最後に、新型コロナ禍をきっかけに大きく変わった重要な点がある。多くの有識者・メディア・政治家など、社会の支配層を占める人々によって「新自由主義の死」が公然と語られ始めたことである。

 みずからも新型コロナに感染し、長期の入院を経て生還したボリス・ジョンソン英首相は、NHS(国民皆保険制度)の下で献身的な治療を尽くしてくれた病院スタッフの個人名をひとりひとり挙げた上で、謝意を表明。「確かに社会というものはあるのです」と述べた。かつて新自由主義の時代の幕開けを告げたマーガレット・サッチャー英首相(当時)は「社会など存在しない。あるのは自立した個人だけ」だと言い放ち、自己責任と自助努力による「英国病」克服を訴えたが、同じ保守党出身のジョンソン首相がやんわりとそれを否定してみせたのである。もしかすると後の時代、英国における新自由主義への「死亡宣告」として振り返られることになるかもしれない重要な転換点だろう。

 水道民営化にかねてから反対してきた岸本聡子さん(在オランダNGO「トランスナショナル研究所」研究員)は、ヨーロッパの実例を基にこう警告する。「(水道が民営化された国々・地域では)企業が利潤を獲得するだけ、水道料金は高くなる。料金の支払いができない世帯は、それを禁止する法律がなければ水道を止められる。感染症予防のために手洗いは必須だが、手洗いのできない世帯が先進国でも増えている」。感染症予防と衛生対策のための最も基本的な社会資本である水道が民営化で企業に売られたことが新型コロナ禍の拡大につながっている可能性を示唆する注目すべき指摘である。世界で最も水道民営化が徹底し、先行していたのはフランスだ(なお、首都パリは高い代償を払い、すでに水道を再公有化している)。なるほど、フランスの感染者数に対する死者数の割合は世界一で、感染者の5人に1人が死亡しているのだ!

 疫病は確かに人類共通の敵ではあるが、人々を平等には襲わない。富者よりも貧者、資本家よりも労働者、テレワークのできる恵まれた知識労働者よりも逃げ場のないエッセンシャル・ワーカー、強健な若者よりも病弱な高齢者、指導的立場にいる白人よりも被支配的立場を強いられている有色人種などのマイノリティに集中的に襲いかかる。それゆえ、感染症との戦いは疫学的対処ももちろん必要だが、それ以上に人々の平等と「生活水準の全体的な底上げ」が重要なのである。

 人間は弱い生物であり、自分ひとりで解決できることには限りがあり、それには「社会」と連帯、助け合いを必要とする。新型コロナが明らかにしたのは、そんな当たり前の現実だ。貧困家庭に生まれたこと、不慮の事故に遭い障害を背負ったこと、社会の支配的な人たちと異なる皮膚の色や性別に生まれてきたことが、果たして自己責任だろうか。新自由主義を信奉してきた人々は、今こそ思い知るときだろう。今日は成功を謳歌しているあなたが明日も成功者で居続けられる保障などどこにもないのだ。多くの新自由主義者が自分の誤った考えを捨て、「社会」と連帯、助け合いの輪に加わるなら、世界をよりよい明日へとつなぐことができる。新型コロナがピークを過ぎつつある現在、見えてきたおそらく唯一の、そして最大の「希望」といえる。

(2020年5月24日)

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【悲報】アベノマスクがついに届いてしまいました

2020-05-20 23:47:43 | その他社会・時事
アベノマスクがついに届いてしまいました。腹立たしいので写真を晒しあげておきます。gooブログサービスがこのままずっと続いていれば、私の死後も安倍政権の世紀の愚策として燦然と輝き続けるはずです。

このマスクの配布にかかった経費は466億円、JR北海道が先日公表した2020年3月期決算での赤字額が426億円です。アベノマスクにかかった経費でJR北海道の1年分の赤字を埋めることができます。

正直、当ブログとしては、アベノマスクのようなクソつまらないことに使うカネがあったらJR北海道を救済してほしい、とだけ言っておきます。

なお、北海道では連合札幌が要らないアベノマスクを回収し、必要な人に再配布する事業を始めました。しかし、なぜ政権の失政の尻拭いを労働組合がやらなければならないのか、まったくわかりません。

このまま使われずに埋もれるよりはいいので、明日回収箱に入れに行きます。欲しい人がいるかどうか、というツッコミはなしの方向で。1か月後くらいに「引き取り手がなくて困っている(連合札幌コメント)」なんて記事が北海道新聞紙面を飾らないか心配ではあります。

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不要な「アベノマスク」寄付を 地下鉄さっぽろ駅と大通駅に回収ポスト 連合札幌、18日から(北海道新聞)

 連合札幌は18日、新型コロナウイルス感染防止対策として、政府が全世帯に配布する布マスクについて、不要な人からマスクを回収する「寄付ポスト」を、札幌市営地下鉄のさっぽろ駅と大通駅に設置する。布マスクは子どもや高齢者の施設・団体に配る。

 連合北海道が6月末まで道内各地で行う取り組み。市内では18日午前10時にさっぽろ駅2番出口付近、大通駅8番出口付近にそれぞれポストを設置し、6月末まで募る。

 対象は政府からのマスクのほか、市販の未利用、未開封のマスクとなる。手作りマスクや使用済みマスクは対象外となる。連合札幌は「本当に必要とする人に届けたい」としている。(久保吉史)

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黒川弘務・東京高検検事長の定年延長問題の背景~市民を見下し、管理統制しようとしてきた「戦後検察暗黒史」

2020-05-17 23:47:35 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」に発表した記事をそのまま掲載しています。)

 2020年の年明けに通常国会が開会してから4か月。BC(ビフォー・コロナ;コロナ前)には政治的無関心層にはまったく届いていなかった検察庁法「改正」問題が、広範な国民の注目を集め始めている。新型コロナウィルス感染拡大の影響で多くの人を集めての集会・デモなど既存の運動手法の多くが使えず、再考を迫られる中で、ネットを使った新しい市民運動の形としても驚くべきできごとだ。ネットを活用した闘いは、これまでの運動手法では決して手の届かなかった新たな層を獲得できる「起爆剤」になるかもしれない。

 現在、日本社会を騒がせている、いわゆる「黒川検事長問題」とはなんなのか。本題に入る前に、これまでの経過を簡単に振り返っておこうと、筆者が検察庁法、国家公務員法の条文を詳細に調べた結果、いきなり衝撃的な事実が判明した。

 検察庁法では「検事総長は、年齢が六十五年に達した時に、その他の検察官は年齢が六十三年に達した時に退官する」(第22条)と定めており、これ以外の規定はない。シンプルでわかりやすい条文である。黒川弘務検事長は1957年2月8日生まれで、今年2月7日をもって63歳に達している(「年齢計算に関する法律」により、すべて日本国民は誕生日の前日をもってその年齢に達したものとみなされる)。検察庁法の規定に従えば、とっくに辞めていなければならない。

 しかし、さすが「朕こそ法律なり」の皇帝アベ3世は、これくらいのことでは動じない。すかさず国家公務員法の条文に目をつける。「職員は、法律に別段の定めのある場合を除き、定年に達したときは、定年に達した日以後における最初の三月三十一日又は第五十五条第一項に規定する任命権者若しくは法律で別に定められた任命権者があらかじめ指定する日のいずれか早い日(以下「定年退職日」という。)に退職する」(国家公務員法第81条の2)、「定年は、年齢六十年とする」(同法第81条の2第2項)と原則を定めつつ、「任命権者は、定年に達した職員が前条第一項の規定により退職すべきこととなる場合において、その職員の職務の特殊性又はその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分な理由があるときは、同項の規定にかかわらず、その職員に係る定年退職日の翌日から起算して一年を超えない範囲内で期限を定め、その職員を当該職務に従事させるため引き続いて勤務させることができる」とした同法第81条の3の規定を「活用」したのだ。黒川検事長の定年だけを、これによりさらに延長することにしたのである。しかも、法的根拠のない閣議決定で、だ。

 それでも、「法律に書いてあるならいいではないか」と思う人がいるかもしれない。しかし国家公務員法の条文をよく読み返してみてほしい。同法の定年規定は「法律に別段の定めのある場合を除き」適用されるのである。検察官には、検察庁法という「別段の定め」がある。国家公務員法の定年規定は適用の余地自体がなく、黒川氏の定年を規定するのはあくまで検察庁法第22条だけ、ということになる。

 閣議決定でいくら黒川氏の定年延長を決めたところで、法律を超えることなどできない。いずれにせよ、今年2月8日以降の黒川氏はなんの法的根拠もなく閣議決定だけで東京高検検事長に不法に居座っていることになる。労働裁判でよくある地位確認の逆、つまり黒川氏の「地位不確認」を求める訴訟を今、もし市民の誰かが起こしたら、司法はどんな判断を下すだろうか。

 検察官だけに検察庁法という「別段の定め」があるのはなぜなのか、不思議に思う人もいるかもしれない。検察官以外に、国家公務員法の枠組みと異なる「別段の定め」がされている国家公務員の例としては、警察法の規定がある警察官や、自衛隊法に規定がある自衛隊員らの例がある。これらに共通しているのは、いずれも逮捕、押収、拘禁などの権限を与えられた「暴力装置」であるという点だ。暴力装置に対しては、一般の国家公務員以上に厳しい市民による統制(シビリアン・コントロール)を必要とする。だからこそこれら暴力装置としての機能を持つ公務員に対し、「俺が気に入ったからお前だけ定年延長」なんてやり方は言語道断といわざるを得ない。このニュースを見た一般市民が「アベ3世に対して文句を垂れるだけで即逮捕、という専制政治に日本社会を変えたいのね」という懸念を持つのは当然である。

 ●武田良太行革担当相の「法務省に聞いてくれ」は正論だった!?

 先週、衆院内閣委員会での検察庁法改正問題の審議では、武田良太行革担当相の「本当は私の担当ではない」「法務省に聞いてもらったほうがいい」という答弁のために紛糾。森雅子法相の支離滅裂な答弁も加わり、与党が狙った先週中の衆院通過はいったんはお預けとなった。武田担当相のこの発言を聞いて、その無責任さに憤り、呆れた人も多いだろう。だが筆者にいわせれば、実はこの武田担当相の発言は「正論」であり、法律の所管省庁が違うはずの国家公務員法改正案と検察庁法改正案を、一括のいわゆる「束ね法案」としたことの問題点がまともに出た形である。

 そもそも、国家公務員法の改正案と検察庁法の改正案はまったくの別物である。前者は、少子高齢化を踏まえ、新規採用年齢に達する若者世代が毎年減っていき、従来の制度を維持したままでは国家公務員の数が減る一方となる事態を防ぐため、60歳に達した国家公務員が役職を降りることと引き替えに、本人が希望すれば一律に定年を65歳に延長できるようにしよう、というものである。一方の検察庁法は、極論すれば「官邸の覚えめでたい検察官に限って定年延長を例外的に認める」というものである。公務員「本人の意思」で「一律」に定年延長を認めるのと、「官邸の都合」で覚えめでたい検察官だけに「一本釣り」的に定年の延長を認めるのとではその性質がまったく異なることは、ほとんどの方にご理解いただけるだろう。

 検察庁は、法務省の外局であり、検察庁法も法務省所管の法律だから、本来、国会では法務委員会に付託されなければならない。一方、国家公務員法は、内閣直属でどの省庁にも属さず、「強い独立性を有する」とされる人事院が所管する法律だから、法案の付託先は内閣委員会となる。今回、アベ3世、もとい安倍首相は、検察官の定年も国家公務員法に基づいて決められている「ように見せかける」ため、意図的に両法案を束ね、一括して内閣委員会に付託するという暴挙に出たのである。

 武田担当相は、「本当は法務省所管で審議も法務委員会のはずの法案(検察庁法改正案)までこっち(内閣委員会)に押しつけられ、迷惑きわまりない」と本音では思っていて、それが思わず口をついて出てきてしまったのだろう。

 ●GHQ「検察民主化改革」の衝撃的内容と検察の「暗闘」

 そもそも、戦前から戦時中にかけて、思想検事たちは特別高等警察(特高)と並んで治安維持法の下、市民の思想や社会運動の弾圧に関わった。太平洋戦争開戦の年、1941年に「改正」された新治安維持法の施行によって、思想検事たちは司法省刑事局に結集、反戦思想の取り締まりに徹底的に関わっていく。

 敗戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は特高警察や思想検察の解体に着手するが、作業は警察が先行した。特高警察を解体し、戦前の国家警察を自治体警察に移行させる警察改革をGHQはなんとか成功させた。だが思想検察の改革は、GHQ内部の意見対立と権限拡大を狙う司法省、内務省の思惑も絡まって難航を極め、日本国憲法施行に間に合わなかった。

 マッカーサーが1945年11月、幣原喜重郎内閣に示した「5大改革指令」で、刑事司法・検察改革は重要な柱の1つだった。マッカーサーは、「国民ヲ秘密ノ審問ノ濫用ニ依(よ)リ絶エズ恐怖ヲ与フル組織ヲ撤廃」することを掲げたが、その中でGHQが示した検察改革案は、「天皇の官吏」としての官制(公務員制度)しか経験していなかった当時の日本側にとって衝撃的な内容だった。国民が直接選挙で検事を選出する「検察官公選制」と、国民の中から選ばれた陪審員が起訴・不起訴を最終決定する「起訴陪審制度」が盛り込まれていたのだ。このうち検察官公選制については、「検事は各都道府県及北海道の四地域毎に其の地域の住民によって議会の制定した選挙法に準拠して選挙される」という先進的かつ画期的なものであった。

 この2つが実現すれば、公訴権を独占してきた従来の日本の検察制度は根底から覆される。GHQによる公職追放令によって、市民弾圧に関わった特高警察や思想検事の多くは追放されたが、幹部ではない中堅以下にはパージされずに残った者も多かった。このラディカルな改革案を見て、当時の検察関係者がどれだけ震え上がったかは想像に難くない。危機感を露わにした司法省・検察当局一体となった、猛烈な骨抜き・巻き返し工作が始まった。

 ●市民を見下していた検察 「我が国民意識の現段階」では無理と言い放った司法省

 結論からいうと、公職追放によってパージされた者も、パージを免れ検察内部に残った者も、一般市民に対する認識には大きな違いがなかった。当時、パージを免れ検察官公選制と起訴陪審制度に猛烈に抵抗した検察幹部が、一般市民をどのように捉えていたかを示す貴重な資料がある。

 GHQの提案に慌てた司法省~法務省は、検察官公選制と起訴陪審制度を葬り去るために策動を始める。鈴木義男・司法大臣が1946年8月、GHQに提出した独自改革案「司法省の改組と司法手続の改革」は、検察官公選制はもとより、市民から選ばれた委員たちが、検事に起訴・不起訴についての勧告を行う、とした「検察委員会」制度についても「わが国民意識の現段階では弊害を免れない」として、これを拒否する姿勢を明確にしたのである。それどころかこの独自改革案は、マッカーサーが地方自治制度の創設に伴って、地方自治体への移管を考えていた警察までをも司法省の下部組織としてしまう「検察・警察一体化」をうたっていた。身の毛もよだつような恐ろしい内容だ。

 マッカーサーはこの提案に激怒。「司法省の手のなかに、逮捕、取調、裁判、量刑、判決、収監に至るまでの、国民に対する権力の過度の集中がもたらされる」としてこれを一蹴。「そのようなことはルイ14世の統治に等しい」とまで言い放ち、検討に値しないとの姿勢を明確にした。

 事務方で検察制度改革に当たっていた佐藤藤佐・司法次官に対しても「現在司令部内において、検事も選挙によって任命す可(べ)しとする意見が強い」とするGHQ内部の意向が伝えられた。日本側がこれを避けたいならば「何等(ら)かの形で検事に対する国民のコントロールを考える必要がある。検事が起訴す可き事件を起訴しなかった時、検事をして起訴せしめる強制力を与える」ための「国民の代表による委員会の如きもの」を制度として創設するよう求める通告だった。しかしこれに関しても佐藤司法次官は「一般日本人をして委員会の委員たらしめる事は、大陪審制度と同様、現在の日本においては無理である」として否定。GHQは、検察に対するシビリアン・コンロトールの導入が「司令部として動かすことの出来ぬ政策」であり、検察委員会が「国民の代表により構成されること」を必要条件として重ねて伝えたが、佐藤次官はまたも「此のやうな実質上大陪審の如き制度を採用することは時期尚早」として、改革をあくまで拒む姿勢を崩さなかったのである。

 結局、GHQは日本側の激しい抵抗を制しきれず、「委員を選挙人名簿より選ぶ」ことを条件に、諮問機関としてその決定に拘束力を与えない形で「検察審査会」を設けるとした日本案を飲まざるを得なかった。検察官公選制、起訴陪審制という先進的でラディカルなGHQによる検察改革案は、結局「拘束力のない不起訴不当の決定によって検察に不起訴の再考を求める委員会を作るだけ」のところまで後退させられてしまった。実質、改革は骨抜きにされたといってよい。

 戦後日本は新憲法を制定し、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を基本方針に再出発した。皇国臣民として、軍国主義的な価値観をすり込まれた「少国民」が日本人の大半を占めているという時代の制約は確かにあったのかもしれない。しかし、そうした時代的・社会的制約があることを知りつつ、それでもGHQは、今は「少国民」に過ぎない日本人もいずれ成長し、平和・人権・民主主義を担う主権者としての自律的思考力と行動力を備えた近代市民社会の主人公となるであろうことに期待をかけて、日本国憲法を送り出した。日本の司法官僚たちにもGHQと同じように、将来の日本人の成長を信じ、近代的な民主主義に基づく統制にみずから服する意思を示して新しい検察と司法制度を世に送り出す道もあったはずである。だがGHQによって再三求められたその道を彼らは徹底的に拒否した。「有罪率99%」「取調中の弁護士の立ち会いも許されない人質司法」「中世以下」といわれる日本の非民主主義的検察制度のほとんどは、日本の市民の将来の可能性を信じず、「わが国民意識の現段階」では検察の民主的統制など無理と根拠もなく決めつける特権検事たちの抵抗の上に残された。黒川問題もこうした「非民主主義的検察」の延長線上に位置している。固く閉じられていた歴史の箱を開けるとき、私たちは、単なる1人の検事の定年延長というわずかばかりの特権でさえ、こうした連中には決して与えてはならないことに気づくはずである。

 ●市民の願いを無視して東電を免罪し、強制起訴訴訟でも東電を弁護する「ヤメ検」

 不起訴不当の決定をしても、検察が形ばかりの再捜査で再び不起訴にして終わりという冬の時代が長く続いた検察審査会は、2000年代に入って日本人自身が行った司法制度改革の中、思わぬ形で権限を与えられることになった。検察審査会が起訴相当の議決をした後、再度検察が不起訴とした事件でも、検察審査会が2回目の「起訴相当」の議決をすれば強制起訴になる「起訴議決」制度の導入である。

 この事件による強制起訴第1号となったのが、警察の警備上のミスにより、花見客が将棋倒しとなり死者を出した「明石歩道橋事故」であり、それに次ぐ第2号がJR福知山線脱線事故となった。国家権力や巨大国策企業による事故や不祥事のように、みずからも国家権力の一部である検察が不問に付したい事件事故の多くが強制起訴に持ち込まれたことは、市民が主役として事件を審査する制度の有効性を示している。実際、ある検察審査会が、2005~2007年にかけて行ったアンケート調査によれば、検察審査会委員に選ばれた人のうち、初めは「あまり気乗りがしなかった」「迷惑に感じた」と答えた人の割合が67%を占めていたが、審査員の任期を終えたときには「非常によかった」「よかった」が計96%にも上ったことにも示されている。検察審査会委員として関わった市民のほぼ全員が検察という巨大な暴力装置に対する「民主的統制」という仕事にやりがいを感じていることが見て取れる。

 この後、福島第1原発事故に関しても、勝俣恒久元会長ら東京電力元経営陣3人が業務上過失致死容疑で強制起訴された。昨年9月、1審では全員が無罪となったが、検察官役の指定弁護士が控訴し、今後は高裁で控訴審が行われる予定だ。

 この東電刑事裁判に関しては、重要な事実を指摘しておく必要がある。東電旧経営陣の弁護人として、有田知徳弁護士(元福岡高検検事長)、岸秀光弁護士(元名古屋地検特捜部長)、政木道夫弁護士(元東京地検特捜部検事)など、ヤメ検(元検事)がずらりと並んでいることである。筆者も加わる福島原発告訴団が、1万3千人を超える告訴人を集め、再三にわたって起訴を求める行動を続けてきたにもかかわらず東電を無罪放免にした検察は、強制起訴が決まると今度は元検事を弁護人に据えた。「市民のための検察」に徹底的に背を向け、市民に敵対を続ける検察の姿勢は、司法大臣みずから「我が国民意識の現段階」発言をした頃からほとんど変わっていないのだ!

 ●葬り去られた検察民主化をよみがえらせるために

 これまで、思想検察と特高検察が市民弾圧のために跋扈してきた戦前から、敗戦後のGHQによるラディカルな検察官公選制、起訴陪審制度の提案、そしてそれを断固として阻止しようと徹底抗戦し、ついにその阻止に成功した検察の歴史を見てきた。そこから浮かび上がったのは、民主主義的改革を受け入れようとせず、市民による民主的統制に服することも拒絶するばかりか、そこから逃れるためならどんな手を使うことも辞さない検察の「暗黒史」そのものである。

 こうした戦前戦後を通じた検察「暗黒史」に終止符を打つとともに、市民による統制に潔く服し、支配者のためではなく市民のために厭わず行動できる真の民主検察を打ち立てることができるか。さしあたり、その帰趨を占う上で「黒川問題」が重大な分岐点になるというのが筆者の現時点での認識である。筆者の見る限り、制度を少し改変したくらいでは民主的改革は困難なように見える。司法試験改革など多方面で同時並行的な改革を行わなければならないが、それには多くの時間もエネルギーもかかる。そこで、筆者からひとつの提案がある。

 ●再び「検察官公選制」の提案

 敗戦直後、GHQが導入を目指しながら、強い抵抗でとん挫した検察官公選制の導入を、再び本気で目指してみてはどうか。これが筆者からの提案である。これほどまでに検察当局が嫌がるということは、この改革案が本物であることを逆説的に証明している。かつて東京都中野区では教育長公選制が実施されていた。強い政治的中立性を求められる公職を選挙の対象にし、検察ももちろんそこに含める。時代の変化に対応しようとせず「暗黒史」の記録だけを続けようとするこの巨大な暴力装置に対し、検察審査会委員のほぼ全員が「やりがい」を感じるまでに成長し、日本国憲法を送り出したGHQの期待通りになった「我が国民意識の現段階」を見せつける。権力を弄ぶ皇帝アベ3世から検察という巨大な暴力装置を取り戻すには、もはやこれ以外にないのではないだろうか。

<参考文献>
 本稿執筆に当たっては、以下の2文献を参考とした。各執筆者に対し、最後に記してお礼を申し上げたい。

・「企画委員会シンポジウムII 市民の司法参加の歩みー検察審査会から裁判員制度へ 検察審査会法制定の経緯」(出口雄一/「法社会学」第72号所収)

・「もう一つの国民の刑事司法参加~検察審査会の議決が法的拘束力を持つまで~」(渡辺高/参議院法務委員会調査室編「立法と調査」299号(2009年12月号)所収)

(文責:黒鉄好)

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検察庁法改正問題/ついに検察OBが「反対」意見書を提出 意見書の全文紹介

2020-05-16 23:59:01 | その他社会・時事
黒川弘務・東京高検検事長の定年延長問題は、ついに検察庁OBが国に改正「反対」の意見書を提出する事態になった。国家公務員のOBから、国政に対にてこれだけ公然と反対の声が上がるのは極めて異例で、それだけこの法案が問題だらけであることを示している。

どこかにこの意見書の全文がないか探したら、東京新聞が全文を掲載している。以下、ご紹介する。

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検察庁法改正案 元検事総長ら反対意見書の全文 ルイ14世の「朕は国家」想起(東京新聞)

◆一

 東京高検の黒川弘務検事長は、本年二月八日に定年の六十三歳に達し退官の予定であったが、直前の一月三十一日、その定年を八月七日まで半年間延長する閣議決定が行われ、同氏は定年を過ぎて今なお現職にとどまっている。

 検察庁法によれば、定年は検事総長が六十五歳、その他の検察官は六十三歳とされており(同法二二条)、定年延長を可能とする規定はない。従って検察官の定年を延長するためには検察庁法を改正するしかない。しかるに内閣は同法改正の手続きを経ずに閣議決定のみで黒川氏の定年延長を決定した。これは内閣が現検事総長稲田伸夫氏の後任として黒川氏を予定しており、そのために稲田氏を遅くとも総長の通例の在職期間である二年が終了する八月初旬までに勇退させてその後任に黒川氏を充てるための措置だというのがもっぱらの観測である。一説によると、本年四月二十日に京都で開催される予定であった第四回国連犯罪防止刑事司法会議で開催国を代表して稲田氏が開会の演説を行うことを花道として稲田氏が勇退し黒川氏が引き継ぐという筋書きであったが、新型コロナウイルスの流行を理由に会議が中止されたためにこの筋書きは消えたとも言われている。

 いずれにせよ、この閣議決定による黒川氏の定年延長は検察庁法に基づかないものであり、黒川氏の留任には法的根拠はない。この点については、日弁連会長以下全国三十五を超える弁護士会の会長が反対声明を出したが、内閣はこの閣議決定を撤回せず、黒川氏の定年を超えての留任という異常な状態が現在も続いている。

◆二

 一般の国家公務員については、一定の要件の下に定年延長が認められており(国家公務員法八一条の三)、内閣はこれを根拠に黒川氏の定年延長を閣議決定したものであるが、検察庁法は国家公務員に対する通則である国家公務員法に対して特別法の関係にある。従って「特別法は一般法に優先する」との法理に従い、検察庁法に規定がないものについては通則としての国家公務員法が適用されるが、検察庁法に規定があるものについては同法が優先適用される。定年に関しては検察庁法に規定があるので、国家公務員法の定年関係規定は検察官には適用されない。これは従来の政府の見解でもあった。例えば一九八一年四月二十八日、衆院内閣委員会において所管の人事院事務総局任用局長は、「検察官には国家公務員法の定年延長規定は適用されない」旨明言しており、これに反する運用はこれまで一回も行われて来なかった。すなわちこの解釈と運用が国法上定着している。

 検察官は起訴不起訴の決定権すなわち公訴権を独占し、併せて捜査権も有する。捜査権の範囲は広く、政財界の不正事犯も当然捜査の対象となる。捜査権をもつ公訴官としてその責任は広く重い。時の政権の圧力によって起訴に値する事件が不起訴とされたり、起訴に値しないような事件が起訴されたりする事態が発生すれば日本の刑事司法は適正公平という基本理念を失って崩壊することになりかねない。検察官の責務は極めて重大であり、検察官は自ら捜査によって収集した証拠等の資料に基づいて起訴すべき事件か否かを判定する役割を担っている。その意味で検察官は準司法官とも言われ、司法の前衛たる役割を担っていると言える。

 こうした検察官の責任の特殊性、重大性から一般の国家公務員を対象とした国家公務員法とは別に検察庁法という特別法を制定し、例えば検察官は検察官適格審査会によらなければその意に反して罷免されない(検察庁法二三条)などの身分保障規定を設けている。検察官も一般の国家公務員であるから同法が適用されるというような皮相的な解釈は成り立たないのである。

◆三

 本年二月十三日衆院本会議で、安倍晋三首相は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王政を確立し君臨したルイ十四世の言葉として伝えられる「朕は国家である」との中世の亡霊のような言葉をほうふつとさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。

 時代背景は異なるが十七世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「政治二論」(岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。

 ところで仮に安倍首相の解釈のように国家公務員法による定年延長規定が検察官にも適用されると解釈しても、同法八一条の三に規定する「その職員の職務の特殊性またはその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分の理由があるとき」という定年延長の要件に該当しないことは明らかである。

 加えて人事院規則十一-八第七条には「勤務延長は、職員が定年退職をすべきこととなる場合において、次の各号の一に該当するときに行うことができる」として、(1)職務が高度の専門的な知識、熟練した技能または豊富な経験を必要とするものであるため後任を容易に得ることができないとき、(2)勤務環境その他の勤務条件に特殊性があるため、その職員の退職により生ずる欠員を容易に得ることができず、業務の遂行に重大な障害が生ずるとき、(3)業務の性質上、その職員の退職による担当者の交代が当該業務の継続的遂行に重大な障害を生ずるとき、という場合を定年延長の要件に挙げている。

 これは要するに、余人をもって代えがたいということであって、現在であれば新型コロナウイルス感染症の流行を収束させるために必死に調査研究を続けている専門家チームのリーダーで後継者がすぐには見つからないというような場合が想定される。

 現在、検察には黒川氏でなければ対応できないというほどの事案が係属しているのかどうか。引き合いに出される日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告逃亡事件についても黒川氏でなければ、言い換えれば後任の検事長では解決できないという特別な理由があるのであろうか。法律によって厳然と決められている役職定年を延長してまで検事長に留任させるべき法律上の要件に合致する理由は認め難い。

◆四

 四月十六日、国家公務員の定年を六十歳から六十五歳に段階的に引き上げる国家公務員法改正案と抱き合わせる形で検察官の定年も六十三歳から六十五歳に引き上げる検察庁法改正案が衆院本会議で審議入りした。翌十七日、野党側が前記閣議決定の撤回を求めたのに対し菅義偉官房長官は必要なしと突っぱねて既に閣議決定した黒川氏の定年延長を維持する方針を示した。こうして同氏の定年延長問題が決着しないまま検察庁法改正案の審議が開始されたのである。

 この改正案中重要な問題点は、検事長を含む上級検察官の役職定年延長に関する改正についてである。すなわち同改正案二三条(5)項には「内閣は(中略)年齢が六十三歳に達した次長検事または検事長について、当該次長検事または検事長の職務遂行上の特別な事情を勘案して、当該次長検事または検事長を検事に任命することにより公務の運営に著しい支障が生ずると認められる事由として内閣が定める事由があると認めるときは、当該次長検事または検事長が年齢六三年に達した日の翌日から起算して一年を超えない範囲内で期限を定め、引き続き当該次長検事または検事長が年齢六三年に達した日において占めていた官および職を占めたまま勤務をさせることができる(後略)」と記載されている。

 難解な条文であるが、要するに次長検事および検事長は六十三歳の職務定年に達しても内閣が必要と認める一定の理由があれば一年以内の範囲で定年延長ができるということである。

 注意すべきは、この規定は内閣の裁量で次長検事および検事長の定年延長が可能とする内容であり、前記の閣僚会議によって黒川氏の定年延長を決定した違法な決議を後追いで容認しようとするものである。これまで政界と検察との両者間には検察官の人事に政治は介入しないという確立した慣例があり、その慣例がきちんと守られてきた。これは「検察を政治の影響から切りはなすための知恵」とされている(元検事総長伊藤栄樹著「だまされる検事」)。検察庁法は、組織の長に事故があるときまたは欠けたときに備えて臨時職務代行の制度(同法一三条)を設けており、定年延長によって対応することはごうも想定していなかったし、これからも同様であろうと思われる。

 今回の法改正は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力をそぐことを意図していると考えられる。

◆五

 かつてロッキード世代と呼ばれる世代があったように思われる。ロッキード事件の捜査、公判に関与した検察官や検察事務官ばかりでなく、捜査、公判の推移に一喜一憂しつつ見守っていた多くの関係者、広くは国民大多数であった。

 振り返ると、七六年二月五日、某紙夕刊一面トップに「ロッキード社がワイロ商法 エアバスにからみ四十八億円 児玉誉士夫氏に二十一億円 日本政府にも流れる」との記事が掲載され、翌日から新聞もテレビもロッキード関連の報道一色に塗りつぶされて日本列島は興奮の渦に巻き込まれた。

 当時特捜部にいた若手検事の間では、この降って湧いたような事件に対して、特捜部として必ず捜査に着手するという積極派や、着手すると言っても贈賄の被疑者は国外在住のロッキード社の幹部が中心だし、証拠もほとんど海外にある、いくら特捜部でも手が届かないのではないかという懐疑派、苦労して捜査しても造船疑獄事件のように指揮権発動でおしまいだという悲観派が入り乱れていた。

 事件の第一報が掲載されてから十三日目の二月十八日検察首脳会議が開かれ、席上、当時の神谷尚男東京高検検事長が「いまこの事件の疑惑解明に着手しなければ検察は今後二十年間国民の信頼を失う」と発言したことが報道されるやロッキード世代は歓喜した。後日談だが事件終了後しばらくして若手検事何名かで神谷氏のご自宅におじゃましたときにこの発言をされた時の神谷氏の心境を聞いた。「(八方ふさがりの中で)進むも地獄、退くも地獄なら、進むしかないではないか」という答えであった。

 この神谷氏の国民信頼発言でロッキード事件の方針が決定し、あとは田中角栄氏ら政財界の大物逮捕に至るご存じの展開となった。時の検事総長は布施健氏、法務大臣は稲葉修氏、法務事務次官は塩野宜慶氏(後に最高裁判事)、内閣総理大臣は三木武夫氏であった。

 特捜部が造船疑獄事件の時のように指揮権発動におびえることなくのびのびと事件の解明に全力を傾注できたのは検察上層部の不退転の姿勢、それに国民の熱い支持と、捜査への政治的介入に抑制的な政治家たちの存在であった。

 国会で捜査の進展状況や疑惑を持たれている政治家の名前を明らかにせよと迫る国会議員に対して捜査の秘密を盾に断固拒否し続けた安原美穂刑事局長の姿が思い出される。

 しかし検察の歴史には、捜査幹部が押収資料を改ざんするという天を仰ぎたくなるような恥ずべき事件もあった。後輩たちがこの事件がトラウマとなって弱体化し、きちんと育っていないのではないかという思いもある。それが今回のように政治権力につけ込まれる隙を与えてしまったのではないかとの懸念もある。検察は強い権力を持つ組織としてあくまで謙虚でなくてはならない。

 しかしながら、検察が萎縮して人事権まで政権側に握られ、起訴・不起訴の決定など公訴権の行使にまで干渉を受けるようになったら検察は国民の信託に応えられない。

 正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。

 黒川氏の定年延長閣議決定、今回の検察庁法改正案提出と続く一連の動きは、検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動きであり、ロッキード世代として看過し得ないものである。関係者がこの検察庁法改正の問題を賢察され、内閣が潔くこの改正法案中、検察幹部の定年延長を認める規定は撤回することを期待し、あくまで維持するというのであれば、与党野党の境界を超えて多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出ることを期待してやまない。

 元仙台高検検事長平田胤明▽元法務省官房長堀田力▽元東京高検検事長村山弘義▽元大阪高検検事長杉原弘泰▽元最高検検事土屋守▽同清水勇男▽同久保裕▽同五十嵐紀男▽元検事総長松尾邦弘▽元最高検公判部長本江威憙▽元最高検検事町田幸雄▽同池田茂穂▽同加藤康栄▽同吉田博視

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ALPS(多核種除去装置)による「処理水」の海洋放出に関するパブリック・コメントに意見提出を! 当研究会も提出しました。

2020-05-10 23:18:36 | 原発問題/一般
新型コロナウィルス感染拡大の影響で、それ以外のニュースはすべて消し飛んでしまった感があるが、こうしている間にも、経産省は福島第1原発からの汚染水の海洋放出を狙い、手続きを進めている。

現在、この問題に関するパブリック・コメントの募集が行われている。締切(5/15まで)が迫っており、当研究会も本日、意見を提出した。

できる限り多くの人から「反対」意見を集中させることが必要である。当研究会のように長文である必要はない。「海を汚す汚染水の海洋放出をしないでください」「福島県民がこれまで続けてきた努力を無にしないでください」など短文でもかまわない。

なお、これまでの議論経過、経産省「小委員会」報告書、福島県内各団体の意見、ニュース報道、そして当研究会の意見をご紹介する。

<経産省意見聴取会各種資料>
多核種除去設備等処理水の取扱いに係る関係者の御意見を伺う場及び書面による御意見の募集について(経産省)

参考 多核種除去設備等処理水の取扱いに関する検討状況について(経産省)

参考 多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会報告書(経産省)

多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会報告書を受けた当社の検討素案について(東京電力の素案)

福島第1 原発ALPS処理水の取り扱いに関する福島県旅連提言書

多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会の取りまとめを受けた意見書(福島県漁業協同組合連合会)

<ニュース報道>
特集 トリチウム水処理の行方(前編) 県内団体の苦悩(TUF テレビユー福島)

特集 10年目のふくしま復興の現在地(3)後編 トリチウム水処理 風評懸念相次ぐ理由(TUF テレビユー福島)

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<当研究会が提出した意見>

1.「処理水」の呼称について
・多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会(以下「小委員会」)が海洋または大気中への放出による処分を相当とした「処理水」については、実態に即し「汚染水」と呼ぶべきである。


 そもそも多核種除去装置(以下「ALPS」)によってトリチウム以外の放射性物質が完全に除去できるかについて専門家の見解が分かれており、福島第1原発の敷地内に保管されている「処理水」の2017年の測定結果ではヨウ素129、ルテニウム106、テクネチウム99が検出されている。また、小委員会報告書においてもトリチウム以外の核種が完全に除去できず残されている水が全体の7割に及ぶ事実を認めている(小委員会報告書14ページ)。ALPSの性能は不完全であり、放射性物質を完全に除去できていない以上、これを安全であるかのように装い、ごまかす「処理水」の呼称はふさわしくない。あくまで「汚染水」と呼ぶべきであり、以下、本意見でもそのように呼ぶ。

2.小委員会における検討のあり方について
・初めに結論ありきの小委員会の「検討」方法に抗議する。


 4月13日に開催された2回目の聴取会で、菅野孝志・福島県農協中央会長が「海洋放出か大気放出かの二者択一の議論に反対」と述べた。いずれにしても環境中への放出を意味する選択肢2つだけというのは、市民の前に実質的に選択肢を示したことにならない。このような「初めに結論ありき」の小委員会での「検討」のあり方に強く抗議する。

3.処分方法について
・小委員会の結論である「海洋または大気中への放出による処分」に反対する。


 (1)トリチウムは水の同位体であり水にきわめて近い性質を持つ。そのため、細胞内に取り込まれ、DNAにも入り込んで弱いながらもDNAに直接放射線を発し、傷つけるとして健康被害の危険性を指摘する専門家も複数いる(崎山比早子・元国会福島第1原発事故調査委員会委員、西尾正道・北海道がんセンター名誉院長ほか)。沸騰水型原子炉と比べ、トリチウムの放出量が多い加圧水型原子炉を持つ原発の周辺地域で、白血病や新生児死亡率が高まるとした研究論文もある。健康被害の可能性が否定できない以上、環境中への放出は危険を招きかねない。また、トリチウムの半減期が約12.3年と放射性物質の中では比較的短いため、粘り強く保管を続ければ比較的早期に無害化が期待できる。健康被害の危険がある状態での早期放出より、粘り強く保管を継続し無害化を待つべきである。

 (2)汚染水タンクの設置場所について、小委員会は福島第1原発敷地内を適当とし、2022年に設置場所がなくなり、タンクも汚染水で一杯になると主張するが、福島第1原発周辺に広範な帰還困難区域が存在する現状に鑑みれば、土地所有者がいても利用のめどが立たない帰還困難区域を借り上げタンク設置場所とする方法も考えられる。いずれにしても、継続保管のためのタンク設置場所を確保することは国や電力会社の責任である。

 (3)小委員会の報告書では、トリチウムは自然界にも存在しており、摂取量が少量であれば人体に影響はないと主張するが(15ページ)、そもそも放射性物質に限らず、日本の汚染物質の排出基準には単位あたり濃度の規制があるだけで総量規制がない。このため、薄めさえすれば半永久的に汚染物質の排出を続けられる仕組みになっており、規制として実態がないと言わざるを得ない。このことは水俣病など過去の公害病においても示されている。海はゴミ捨て場ではなく、海洋放出、大気中放出いずれの方法でも必ず自然界のあらゆる生物に影響を及ぼす。

 (4)地上での継続保管やモルタル固化によるトリチウム保管などの方法が専門家から提案されたにもかかわらず、小委員会では技術的面からの検討すらされなかった。報告書は、トリチウム処理において「技術的には、実績のある水蒸気放出及び海洋放出が現実的な選択肢」としているが(40ページ)、高レベル放射性廃棄物について実績のある処分方法も確立しないまま原発を推進した国や電力会社が、事故後になって健康被害の可能性のある処分方法を「実績がある処分方法だから」という理由だけで提案しても、市民の納得を得られるとは思わない。

4.いわゆる「風評」対策について
 ・汚染水の拙速な放出は、真剣に努力してきた福島県内の農業者や事業者の努力を無にする暴挙である。


 農林水産省が事故後継続的に実施している「福島県産農産物流通等実態調査」によれば、流通業者が福島産食料品を取り扱わない理由として「他産地のもので間に合っている」「他産地を撤去してまで福島産に変える理由がない」が大勢を占めた。別の消費者庁の調査でも、放射性物質を理由に福島県産食料品の購入をためらう人は12・5%であり、いわゆる「風評」被害はまったく発生していないとは言えないものの、国や福島県が主張しているような大規模な形では発生していないと考えられる。

 一方、福島県内には、例えば「酪王牛乳」を製造・販売する酪王乳業のように、放射性セシウムの測定を実施、検出されないことを条件に出荷し、検査数値も公表するなどの真剣な努力を続けてきた事業者も多い。汚染水放出は、このような民間における努力を一瞬にして無にする暴挙であるといわざるを得ない。

 福島県産食料品の安全性については、放射性セシウム以外の核種の検査が十分でないことや、検査メッシュの粗さ等を理由としてなお議論の余地があるものの、多くの県内農業者・企業が血のにじむような努力を続け、不安を抱える消費者心理に向かい合ってきたことを指摘しておきたい。菅野孝志・福島県農協中央会長の汚染水放出への反対は、こうした県内農業者・企業の事故後多年にわたる努力を受けてのものである。その発言は重みがあり、これを無視することは許されない。

5.最後に~事故当時、福島県民だった1人として

 私は、福島第1原発事故当時、福島県西郷村に住み、事故を間近で経験したが、事故により引き起こされた問題で現在まで解決したものはまったくないと言わなければならない。健康への影響は多くの専門家が認めており、避難指示によるものと自主的なものとを問わず避難者の生活再建は、国がまともに向き合わないため困難に直面している。除染土など廃棄物の処理も困難を極めており、高レベル放射性廃棄物に至っては処分候補地さえ現れる気配がない。

 こうした事態は、小委員会をはじめ原発を推進してきた経産省・電力会社が情報を公開せず、隠ぺい・改ざんし、立地自治体との間で不透明な金銭を授受するなど、原発推進に当たって続けてきた姿勢・手法に対する市民の不信が極限にまで高まっていることが原因になっている。不透明で恣意的な金銭の授受は、市民と国・電力会社との信頼関係のみならず、事故後の福島県内では地域住民同士の信頼関係にまで回復不能な打撃を与えた。

 このような巨大な犠牲を払ってもなお電力はまったく不足しておらず、「日本原子力文化財団」の世論調査(2019年11月)でさえ6割の回答者が原発を「(即時または徐々に)廃止すべき」と回答している。危険で、巨大な被害を伴い、市民からの支持もない原発は即時廃止すべきであることを、事故当時の福島県民の1人として訴える。

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<安全問題研究会コメント>公共交通の未曾有の危機の中で迎えた福知山線脱線事故15年 風化許さぬ遺族・被害者と連帯し公共サービス再建の闘いを

2020-05-06 15:03:52 | 鉄道・公共交通/安全問題
1.乗客・運転士107名が死亡し、国鉄分割民営化以降では最悪となったJR福知山線脱線事故から4月25日で15年を迎えた。安全問題研究会は、公共交通の事故とその被害者をなくすことを目指して発足したみずからの原点を改めて確認するとともに、事故犠牲者、すべての被害者に改めて哀悼とお見舞いを申し上げる。

2.事故から15年の春を、被害者たちもまた異例の形で迎えることになった。節目であるとともに、JR西日本が毎年、事故日直前の土曜日に開催してきた慰霊の集いが、従来通りの開催であれば事故当日の4月25日に重なる今年は、単なる通過点の意味を超えた1日となるはずであった。だが新型コロナウィルス感染拡大で慰霊の集いを含む関連行事はほとんどが中止に追い込まれた。

3.関連行事が中止に追い込まれる中で、今年もほとんどのメディアが全国ニュースで報道を続けたことは、事故被害者にとって数少ない希望である。福島第1原発事故など、これより後に起きた出来事の多くが、責任追及を恐れる支配層の意を受ける形で全国ニュースから消し去られているが、この事故は1985年の日航機事故と並んで今なお全国ニュースでの報道が続く。

4.この背景に、遺族をはじめとする被害者たちの粘り強い闘いがあることはいくら強調してもしすぎることはない。JR西日本歴代3社長の刑事裁判は無罪となったが、被害者は事故企業に高額の罰金刑を科することができる組織罰制度の法制化を求めていまも取り組みを続けている。日航機事故の被害者団体である「8.12連絡会」は、その後に起きた大事故の被害者団体の多くが休眠状態となる中で、事故から35年目の今なお活動を続ける。事故被害者同士が互いの交流を通じて横の連帯を作り出し、先に起きた事故の被害者が後から発生した別の事故の被害者をケアする取り組みも広がる。事故被害者のケア、サポートに対する経験が市民社会に蓄積されてきている。

5.一方で、政府や加害企業の取り組み、意識改革は遅々として進んでいない。政府は被害者が強く求める組織罰法制化の願いを見捨てて顧みず、100年前に作られた個人中心の刑事罰制度を改める気配も見られない。2017年12月の新幹線「のぞみ」台車亀裂事故に関しては、直ちに列車の運行を中止しなかったJR西日本において「列車の走行に支障がないとありがたい」という心理状態(確証バイアス)が作用していたことが事故の原因とする運輸安全委員会の調査報告書がまとめられた。「何が起きているのかが分からない場合や判断に迷う場合は、列車を停止させて安全の確認を行う」(報告書)という当たり前のことを運輸安全委が改めて求めなければならない事態が続いている。

6.事故から15年を迎えた今年、JR西日本の労働者のうち事故後に入社した人が初めて過半数となった。同社労働組合が事故15年に当たり、社内327職場を対象に実施したアンケート調査でも、会社による事故風化防止対策が「十分できている」との回答は80職場(全体の24%)にとどまる。現場労働者を納得させることもできない会社が一般市民・利用客を納得させることはできない。

7.ローカル線問題に関しても、JR四国が路線維持を目指して努力を続け、JR北海道も「自社単独で維持困難」10路線13線区公表後も地元との協議を続ける中、両社に比べて圧倒的に経営体力のあるJR西日本が、2019年に三江線廃止に踏み切ったことは、地域公共交通を担う事業者としての責任を放棄するものと言わざるを得ない。

8.一方、新型コロナウィルスの感染拡大を防止するため人の移動が控えられた結果、経営規模を問わず公共交通を担う企業に大きな打撃となりつつある。海外の航空会社にはすでに経営破たんの例も出ている。JR北海道や航空会社は労働者の一時帰休に追い込まれた。通学、通院などの生活輸送を持たない航空会社に対して救済を求める声が一部で上がり始めているが、地方で人々の生活の足を担う鉄道やバス事業者こそ真っ先に救済すべきである。

9.新型コロナウィルスが先行してまん延した東アジアでは、すでに制圧に成功しつつある国や地域も見られる。日本だけいつまでも感染拡大を止められないのは、中曽根政権以来本格化し、30年以上途切れることなく続けられてきた新自由主義政策により、医療、教育、福祉などの公共サービスが徹底的に破壊されたからである。当研究会は内外すべての新自由主義者に対し、過去の自分たちの罪を悔い改め、誤った考えを捨てるようこの機会に強く警告する。

10.自民党と安倍政権は、新自由主義的「財政再建」路線に固執し、市民への支援はおろか、みずからの支持基盤であるはずの中小自営業者さえ「補償なき自粛」によって切り捨てている。100年に一度の危機は市民社会の連帯、そして健康や生活など「人間」に予算を振り向ける「大きく優しい政府」によってしか打開できない。その意味を理解せず、ピント外れの政策を場当たり的に打ち出すだけの自民党はすでに歴史的使命を終えた。日本の市民は今こそ新たな情勢認識の下、分断を超えて連帯し、新自由主義を悔い改めない自民党と安倍政権を歴史のゴミ箱に投げ捨てなければならない。

11.当研究会は、公共交通や医療、教育、福祉などすべての公共サービスの切り捨て、民営化に反対し、その公有化とともに人員と予算を大幅に増やすよう求める。1人でも多くの市民を危機から救い、新自由主義を完全かつ最終的に葬り去るため、今まで以上の決意をもって最後まで闘い抜く。

 2020年5月6日
 安全問題研究会

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