安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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【鉄ちゃんのつぶや記 第7号】冷夏から見えるニッポン

2003-08-29 22:30:01 | その他社会・時事
 天候不順のことしの夏。日照不足と低温の影響が最も深刻な東北の太平洋側や北海道では、すでに「平成の大凶作」「100年に1度」「おじいちゃん、おばあちゃんも知らないほどの冷害」といわれた1993年の気象データさえ塗り替えられるものが出ているというからただ事ではない。震度6強の地震に見舞われた宮城では、被災者の避難場所にストーブが焚かれる日もあったという。実際、私自身、コミケ(同人誌即売会のことで、私の趣味のひとつ)参加のため東京入りしたお盆の3日間、明け方は震えるほど寒く、街では長袖やカーディガン姿の女性を大勢見た。食料調達のため訪れたコンビニでも売れているのはアイスクリームではなくおでん、清涼飲料水ではなくホット缶コーヒーだった。お盆明け後こそ気候は持ち直し、暑さも戻ってきたが、こうなるともはや冷夏を通り越して「寒夏」というべきかもしれない。

 10回以上も「やませ」が吹いた東北の太平洋側では当然のごとく農作物に影響が出ている。やませとは、山を背にして吹く風の意味であり、オホーツク海から流れ込む湿った冷たい空気である。しばしば深刻な冷害に苦しんできた東北の農民は、飢餓風、凶作風などと呼び、恐れてきた。

 稲の生育にとって最も重要なのは、穂が成長する2週間である。「穂ばらみ期」と呼ばれるこの2週間が、稲の生育を決定的に左右する。この期間に日照と高温に恵まれれば、あとは少々天候不順でも構わない。逆にこの期間に日照不足と低温に襲われれば、その後天候が持ち直し、稲の背丈は伸びても穂がつかず、あるいは穂がついても中身は空っぽという状態になることも多い。かくして「実るほど頭を垂れる稲穂」はすっくと立ったまま農民を見下ろし続けることになり、農家に実りの秋は訪れない。

 穂ばらみ期は地域によっても違うし、品種によっても違う。第一「今がわたしの穂ばらみ期です」などと稲が教えてくれるわけもないから、結局各々の農家が経験から判断することになるが、概ね7月下旬から8月中旬あたりの時期であることが多い。今年の夏は、ちょうどこの時期に日照不足、異常低温、そして台風のトリプルパンチに襲われたため、不安が大きくなっているのだ。

 ところで、農家、とりわけ北国の農家にとって冷害は日常茶飯事である。農民たちはいつも為す術を持たず、手を拱いていたわけでは決してなく、むしろ知恵を絞って冷害回避に努めてきたのだ。私が今の職場に入ったとき、労働組合の新入組合員セミナーなる行事で田んぼに入る体験をしたことがあるが、田んぼの水は暖かい。冷たいやませが吹いていても、田んぼの水は別世界のように暖かいのである。農家に充分な人手があった昔なら、冷たい風から稲を守るため、稲が頭まですっぽり覆われるほどに田んぼに暖かい水を引く、きめ細かな水管理をしていたものだ。ところが今はどうか? 農業生産額の対GDP比は3%を割り込み、今やパチンコ産業の総生産額よりも低いという有様である。全国に300万人いる農家のうち200万人が65歳以上で、さすがに70歳になれば続々と引退を迎えるだろう。日本の農業がジイちゃん、バアちゃん、カアちゃんの「3ちゃん農業」と揶揄された時代さえ遠い過去となり、農家は人手不足によって稲をやませから守るための水管理も充分にできなくなりつつある。東京・練馬で野菜を栽培しているある農民は、中学生当時、家業を継ぐために農業高校(東京都内に今でも5校ある)に進学したいと担任の教師に申し出たら、何も「そんなところ」に行かなくても…と言われ絶句したという。「戦後の日本は国を挙げて農業を辱めてきたのだ」と彼は語っている。

 今、私は1993年の大冷害は単なる天災ではなかったと確信している。近年の温暖化傾向に慢心して、冷害に弱く倒伏しやすいササニシキを勧めた関係者にも被害を大きくした責任がある。そこには日本の農業の構造的欠陥に加え、誤った営農指導という人災の側面もかいま見える。それでも、都会に働き手を奪われる中で田舎に残り、「国を挙げての陵辱」に歯を食いしばって耐えてきた篤農こそが日本の米を守ってきたのだ!

 農業の新卒採用に当たる「新規学卒就農者」は今、毎年2000人程度でしかない。統計学上は誤差の範囲として切り捨てられそうな弱々しい数字である。無慈悲なリストラに明け暮れる日本企業によって、切り捨てられるどころか初めから一顧だにされない若い労働力が行き場もなくさまよっているにもかかわらず、農業に就きたいと考える若者は皆無に等しい。それは、「国を挙げての陵辱」と決して無関係ではないだろう。

 社会的に意義のある仕事がしたいと思っている若者諸君!「人はパンのみにて生きるにあらず」と偉い神様はおっしゃった。でも人はパンがなければ生きられないことも事実である。それに、あらゆる産業にとって最も大きな財産は「ひと」つまり人材である。その「ひと」が生きるための食料を作りながら環境保全の役割を果たす農業が、社会的に意義のない仕事だなどということがどうしてあるだろうか? 命を懸け、すべてを犠牲にして会社に尽くしたサラリーマンが、最後はリストラの名の下にごみのようにうち捨てられているそのときに、農村では果実さえ得られるのだ。カネのためにではなく、自らの喜びのために働く。これこそすべての鎖から解放された労働者階級の真の姿なのだ。だから若者諸君、農業に来ないか? もちろんここでも困難は多い。でも、困難に打ち勝って入った企業でリストラと賃下げに苦しむくらいなら、果実の得られる農村で大自然と一緒に仕事をしてみないか?

 農村は、きっと君たちを待っている。

(2003/8/29・特急たから)

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【鉄ちゃんのつぶや記 第6号】「敵来れば、我引く」

2003-08-23 22:28:16 | その他社会・時事
 「敵来れば、我引く」…これは、確か毛沢東の言葉だったと思う。当時はまだ一介の共産ゲリラにしか過ぎなかった人民解放軍を率いて、毛沢東は侵略者・日本軍と闘っていた。ある日、彼は中国の広大な国土を利用して、日本軍を中国大陸の奥地に引き込み、消耗した頃合いを見計らってゲリラ攻撃を仕掛けるということを考えついた。この計略にまんまとはまった日本軍は、戦意を喪失した中国軍が退却(当時の日本流にいうなら「転進」)していると思いこみ追跡。結果、ゲリラ戦を仕掛けられて敗北したのである。

 最近のイラクを見ていて、ふとこのことを思い出した。バグダッド空港での米軍機に対するロケット砲攻撃。ヨルダン大使館に対する攻撃。そして、とうとう国連施設まで爆破され、現地国連代表が死亡する惨事が起きた。これらの全てが「バース党の残党」の仕業なのかは解らないが、少なくとも旧イラク軍が壊滅的打撃を受けてフセイン政権が崩壊したのであれば、こうした驚くべき攻撃力が残存しているということは通常あり得ないはずではないか?

 思えばフセイン政権はあっと言う間に崩壊した。米軍がバグダッド市内に入るや、組織だった抵抗もなく米軍はやすやすと市内中心部に入り、支配は成功するかに見えた。その一連の出来事を、マスコミは「イラク国民の心が独裁者からとっくに離反していたことが理由だ」と誇らしげに報じたものである。しかし、米軍と比較すれば物量で圧倒的に劣っているとはいえ、ものの本によれば世界第6位の軍事大国ともいわれたイラクにしては、その崩壊があまりにもあっけなさ過ぎる。私はイラク反戦運動に身を投じながらも、何かこのできすぎた政権崩壊劇に釈然としない気持ちでいっぱいだった。

 これはもしかすると、「敵来れば、我引く」戦術の一環だったのではないだろうか? 米軍を消耗させ、散り散りになった兵士を一般市民に紛れて各個撃破するための計略だったのではないだろうか? 最近の出来事を見ているとそうとしか思えない。政権について以来四半世紀、ずっと戦争の繰り返しで権謀術数には長けたフセインのことだ。もともと国民のことなんか考えてもいないのだから、戦略として政権を故意に崩壊させるくらい、本気になればどうということはないであろう。影で息を潜めてゲリラ部隊を率いる「闇司令官」サダム・フセインの高笑いが聞こえるような気がする。

 もし仮にそうだとすれば、「私もサハフ情報相だけはファンだった」と記者会見で述べ、彼を手配者リストから外したりしているノーテンキなブッシュに勝ち目などない。かくして「勝った、勝った」の大本営発表にうつつを抜かしているうちに全ては旧バース党政権残党たちの思惑通りになり、米軍は撤退。いち早く支持表明した小泉だけがいい面の皮として世界中から笑いものになる日がきっと来る。

 早くその化けの皮がはがれる日を見てみたいと思う。

 私は、ほんの少しだけそのお手伝いができれば、それでいい。

(2003/8/23・特急たから)

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【鉄ちゃんのつぶや記 第5号】ゆいレールとえちぜん鉄道

2003-08-11 22:26:28 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
 今日は、嬉しい出来事が2つあった。沖縄県で戦後初の「電車」となる沖縄モノレール(通称「ゆいレール」)が開業、また福井県では、2年前の正面衝突事故以来運休となっていた京福電鉄の三国芦原線が「えちぜん鉄道」に装いを改め全面復活したのである。えちぜん鉄道の方は、ゆいレールの陰に隠れる形で全国レベルのマスコミの扱いもほとんどなく気の毒な感じもする。

 ゆいレールは首里から那覇空港までの12.9kmを27分、運賃290円で結ぶ。沖縄県営鉄道が大戦末期の沖縄地上戦で破壊されて以来、沖縄には「電車」がなかった。だから約60年ぶりのことになる。沖縄の交通渋滞は本土の人間の予想する以上に激しいらしく、バスはなかなか定時運転ができないというから地元の人たちにとっては喜びもひとしおではないだろうか。

 ところで、このゆいレール開通により、…一般の人たちにとっては気にすることではないかもしれないけれど…当然のことながら「日本最南端駅」に変更が生じた。これまで「日本最南端」だったJR九州・指宿枕崎線の西大山駅に代わり、今日からはゆいレールの赤嶺駅が日本最南端になったのである。西大山駅の地元の役場では、駅前に建っている「日本最南端の駅」の看板を、わざわざ「本土最南端の駅」に建て替えたそうである。

 こんなことを話題にすると、マニアではない一般の人たちにとって、日本の東西南北の最果てはどこの駅なのだろう? という疑問が湧くかもしれない。最北端の駅は稚内、最東端は根室…と思いきやその隣の東根室のほうが東にあるのでここが最東端となる。この2つはどんな基準で測っても決してトップの座を譲ることがない、完全な最果て駅である。

 しかし、最西端となると話は少し違ってくる。松浦鉄道(旧国鉄松浦線)の「たびら平戸口」駅が日本で最西端の駅だが、「JR線の駅に限る」という条件を付ければ、第三セクター鉄道である松浦鉄道の駅は外れ、代わって最西端になるのは同じ長崎県の佐世保駅である。

 そして、冒頭にも少しご紹介した最南端。沖縄県だから赤嶺駅の地位は揺るぎないように見える。だが、ゆいレールは「軌道法」の適用を受ける軌道線扱いだから、「鉄道線の駅に限る」と言う条件を付けるなら、最南端は依然として西大山でよいことになる。看板を建て替える前に私に相談してくれたら、「本土最南端」よりも通りが良さそうな「日本最南端の“鉄道”駅」にするようアドバイスもできたのに、残念である(笑)。

 ちなみに、鉄道と軌道とはどう違うのかについても触れておく。旧国鉄時代、国鉄の路線は「国有鉄道法」を、また私鉄は「地方鉄道法」を根拠としていた。国鉄分割民営化時に、これらの法律が廃止され、JRを含む全ての鉄道を「鉄道事業法」に一本化したわけである。そして、軌道法は国鉄時代から、主に路面電車を規律する法律として存在しており、モノレールや地下鉄には軌道法の適用を受けるものが多い。つまり路面電車の仲間である。だがそれも全てがそう言うわけではなく、たとえば東京モノレール(浜松町~羽田空港)は鉄道事業法の適用を受けている。鉄道の仲間だ。地下鉄やモノレールのうちどんなものが鉄道事業法(鉄道)でどんなものが軌道法(軌道)なのかについては明確な規定がないが、道路に付随して建設されるものは路面電車に準じて軌道とし、そうでないものを鉄道とするのがこれまでの慣例だった。道路の付随施設である軌道が建設省の所管で、そうでない鉄道は運輸省の所管だったのもそうしたことを踏まえた結果である(それも今は両方とも国土交通省になってしまったけれど)。東京モノレールが鉄道になっているのも、ほとんど道路と並行せずに走っているからだろう。逆に言えば、それが鉄道扱いか軌道扱いかを調べることで、道路に沿って走っているのかそうでないのかの見当がつけられると言うことであり、ゆいレールの場合は道路に沿って走っているのだろうということが、現地に行かなくても想像できてしまうので面白い、いや面白くない。

 そして、えちぜん鉄道に話題を移す。2000年冬と2001年6月に相次いで衝突事故を起こし、運輸局から運行停止命令を受けていた京福電鉄が第三セクターに装いを改めての復活である。地方私鉄の第三セクター化なんて前例ないよなぁ…と一瞬思ったが、宮城県の栗原電鉄が第三セクター「くりはら田園鉄道」になった実例があるから2例目と言うことになる。ここは私、京福時代に一度乗りに行ったことがあり、愛着も持っている。ATS過信はもちろん戒めなければならないが、ATSを装備したことにより安全性は格段に向上しているはずである。とはいえ2年間のブランクはあまりに長すぎ、地元では「客が戻るのか」と心配する声もあるとのことだが、福井市内も道路事情が悪く、バスは定時運行ができない状態だと言うから、じきにいくらかは戻ってくると信じている。

 この「ゆいレール」と「えちぜん鉄道」、経営的にはどちらも苦しむのは目に見えてい
るから、この文章を読んだ皆さんも折に触れて利用していただけるとファンとしてはとても嬉しい。沖縄はともかくえちぜん鉄道は近いから、私は多分年内くらいには行くことになるかもしれない。

(2003/8/11・特急たから)

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【鉄ちゃんのつぶや記 第4号】映画「スパイ・ゾルゲ」を観て

2003-08-02 22:23:43 | その他社会・時事
 今回の「つぶや記」は、第1号「日本を愛したスパイのお話」の続編である。第1号と照らし合わせながら読んでいただきたいと思う。

 篠田正浩監督最後の作品といわれる映画「スパイ・ゾルゲ」を観た。戦前コミンテルンの密命を帯びて日本に侵入し、スパイ活動に従事。特高警察に逮捕されたときも「もう日本には盗むべき機密は何もない」と言い放ち、傲然としていたその卓越した能力。その一方で、酒と女性をこよなく愛する、どこか人間臭い男、リヒアルト・ゾルゲを描いた映画である。(以下ネタバレ注意)

 映画は、「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になる」との有名な文句(「故郷」/魯迅)で始まり、「イマジン」の伴奏に乗せて歌詞の日本語訳が画面に流れるところで終わる印象的な作品である。

 そこでは、ゾルゲが「ジョンソン」という変名で諜報活動をしていたこと、尾崎秀実が、当時特高をして「札付きの左翼」と言わしめた女性、アグネス・スメドレーの著作の翻訳を通じて彼女と親しくなり、自らが上海で見聞きしたことも含めて社会変革への希望を持ったこと、また無線技師クラウゼンと密会するゾルゲらの息詰まるような諜報活動なども描かれている。

 私が最も印象的だったシーンは2つ。

 ひとつは「君は何か隠しているのではないか?」と問いかける友人に対し、尾崎秀実が「僕は、何も隠していない。日本の国に背くことはあっても、日本国民に背くことは決してしないよ」と答えるシーン、もうひとつは、逮捕後、特高の取り調べでついにスパイ活動を自白したゾルゲが「私の人生は無駄だった」と吐き捨てるように言ったのに対し、エリート特高警察官が「君の人生は無駄ではなかった。君の行動が、ソビエトを救ったのだ。だから君の人生は無駄ではなかった」と答えるシーンである。

 前者からは、国会の意思と「民意」がかけ離れたところで動いていく、ということが現代民主主義体制下においてすら頻繁にある中で(ちなみに現在もそう)、自由のない厳しい時代を生きながら自分の良心に従う「市民」としての尾崎の姿が伺えるし、後者からは、悲劇的な最後であってもひとつの思想、その思想を体現したひとつの国家のために死力を尽くした「共産主義者の生き様」としてのゾルゲを読みとることができるのである。尾崎も、ゾルゲも単なるスパイではなく、スパイを超えた共産主義者としての行動が随所に見られた、とするゾルゲ事件研究者らの見方は全く正しいと私は思っている。その意味で、彼らは野坂参三のような「共産主義者の顔をしたスパイ」とは対極にある。「手先」と「同志」は全然違うのだ。野坂が手先であるのに対し、彼らは同志だったといえるだろう。

 ゾルゲに「君の人生は無駄ではなかった」と言った特高警察官のようなエリート臭のプンプンするタイプは、私が人間として好きになれないタイプであるが、それでもこのシーンには好感が持てた。ゾルゲと尾崎が処刑場の露と消えたのは、1944年11月7日…ロシア革命記念日だった。そしてこの日はまた、ゾルゲが命をかけて尽くした「労働者の王国」でスターリンが「大祖国戦争」(独ソ戦)の勝利宣言を行った日でもあった。

 なぜ処刑が11月7日に行われたのかははっきり解明されていない。だが私は、「思想は違っても、ソ連のために尽くした2人に敬意を払い、当局がこの日に決定したのだろう」とする俗説が、なぜか最も信頼性があるように思えるのである。20世紀の社会は、今の社会とは違っていた。その時代、人々は対象こそ違え、何かしらの思想を信じ、信ずるもののために犠牲的精神で生きていたのだ。篠田監督が最初に記者会見したとき配られた資料の中にあったフレーズ…「夢があるから生きられる、理想があるから死ねる」は、疑いなくこの時代の支配的な死生観だったと私は理解している。だから、たとえ創作だったとしても、特高警察官のこの台詞は、当時の時代の空気を映すキーワードとしては悪くないと思う。

 ところで、この映画「スパイ・ゾルゲ」は、特に「左」側からは教条的とも言える批判にさらされているそうである。聞き及ぶところによれば、「(2・26事件は自分の首を真綿で絞めるようなものだ、と青年将校らを批判する昭和天皇の描かれ方に関し)天皇はもっと反動的に描かなければならない」とか「(ベルリンの壁崩壊とレーニン像引き倒しシーンをエンディングに持ってきたことに対し)ゾルゲが命をかけて尽くしてきた国際共産主義運動の理念を歪めるものだ」と言ったような批判が出ているらしい。

 しかし、私にはそうした批判はあまりにも皮相的で、教条主義的に見える。ソ連が健在だった頃、「社会主義芸術はすべからく階級的でなければならない」として政治性のない作品を作った文化人を攻撃する「おきまりの保守派」が党内に必ずいたものだが、まるでその時代の念仏を聞いているような気がしてくる。

 「じゃあ何のために篠田はあのシーンをラストに持ってきたのか」…彼らは私に問うだろう。私はこう答える。「理想から出発しながら人間に対する抑圧の体制として人間の上にのしかかっていた“ソ連型社会主義”を批判するためにそうしたのだ」と…。
 私がここで言うソ連型社会主義とは、「スターリン主義」とほぼ同じ意味だと考えていただいて構わない。スターリン主義とは聞き慣れない言葉だが、以下にご紹介する言葉を読めばお分かりいただけるだろう。

 『私たちはみな、舞台裏では荒々しい党派闘争が続いていることを知っている。にもかかわらず、党の統一という見かけは、どんな代価を払ってでも保たれねばならない。本当はだれも支配的なイデオロギーなど信じていない。だれもがそこからシニカルな距離を保ち、また、そのイデオロギーをだれも信じていないということをだれもが知っている。それでもなお、人民が情熱的に社会主義を建設し、党を支持し、云々という見かけは、何が何でも維持されなければならないのだ』(「イデオロギーの崇高な対象」/スラヴォイ・ジジェク)

 ジジェクは、この作品で「それゆえ、スターリニズムは大文字の他者の存在を示す存在論的な証拠として価値がある」と述べているが私はそのような立場に立つことはできない。映画では、ゾルゲのソ連における「師」であった赤軍のベルジン大将が、スターリンの監獄に閉じこめられ、「なぜだ!」と叫ぶシーンが出てくる。ナチス・ドイツの攻撃にただ怯えるだけだったスターリンをしり目に英雄的な働きをしたのは赤軍であったのに、その功労者のベルジンがなぜ囚われなければならないのか? ブハーリンは、トロツキーは、ルイコフやジノヴィエフら、最も革命に貢献した古参党員らはなぜ「労働者の王国」で処刑されなければならなかったのか? すべてはこの「党の統一という見かけ」のためだったのではないのか?

 私は、篠田監督の批判の矛先が向けられているのは社会主義そのものではなく、この「党の統一という見かけ」のためには人命さえ平然と犠牲にするスターリン主義であったと思う。

 そして、もうひとつ、スターリン主義がソ連という国家を通じて犯してきた重大な罪がある。それは、人類に理想を持つことがばかげたことであるという誤ったメッセージを発信してしまったことである。ソ連が崩壊した「あの日」以来、人類は理想を持てなくなった。理想について考えることさえ忌避する風潮をつくり出した。「それは理想論だね」という言葉は決して褒め言葉ではない。それが、机上の空論ばかりで現実を見ない者に対する侮蔑の言葉であるように、人類はいつしか、理想を唱える人間を忌避し、厄介者扱いし、ただ現実に流れる人間だけを礼賛する風潮につながっていったのではないだろうか?

 ブッシュや小泉は、そうした「理想なき時代」が生み出した象徴的な指導者であるように思う。初めから理想を持たない指導者が唱える「改革」が中身を持たずカラッポなのは当然ではないか!

 ベルリンの壁も、レーニン像の引き倒しも、全てこのスターリン主義を批判するために持ち出されたのだ。

 篠田監督はこの映画の構想を10年近くかけて練ってきたと述べている。ソ連崩壊から現在に至るまでの世界史的な流れや思想的潮流まで視野に入れながらこの作品に深みを持たせようと奮闘してきた跡を、私ですら随所に見て取ることができるというのに、何年、いや何十年も活動家としてやってきた人から空虚な批判の声が出ていると聞くと、そのような皮相的なものの見方しかできないのかと私には残念に思えてくる。

 繰り返しになるが、篠田監督は理想を否定などしていない。彼が、小泉首相のように「理想なんてどうでもいい。常識論で、強い者にシッポ振っていれば日本は安泰なのだからそうしていればいい」という思考の持ち主であるなら、どうして最後に「イマジン」など流すものか。「イマジン」は、究極の理想主義者のための歌である。その歌が「最後」に流れたところに意味がある。篠田監督は訴えたかったのだ。「今も昔も変わらぬ理想(別の言葉で言えば「普遍的価値」)というものがある。人類よ、理想を再興せよ」と…。

 今年はイラク戦争という悲しい出来事があった。戦争は究極の人間否定であり、人間破壊の行為である。その行為が、何の理由も、何の証拠も、何の道義的根拠もなく行われ、全人類が指をくわえて眺めるしかなかったのはまさに悲劇というしかない。もしも「理想」というものを信じる社会的空気が少しでも人類社会にあったなら、こんなばかげた戦争は起こらなかったに違いない。人類社会における「理想不在」の影響はそれほどまでに深刻であり、だからこそ人類が理想を持てなくする原因を作った「ソ連型社会主義=スターリン主義」は徹底的な批判を受けなければならないのである。

 しかし、イラク戦争開戦前夜から開戦初期にかけて、うち捨てられてきた理想を再興しようとする胎動が若者たちから始まった。多くの若者が街頭に出て反戦を叫び、歌った。それは、ひとりひとりが尊い存在である人間を殺すな、という当たり前の欲求であり、本来、理想でも何でもない。でもそれを理想の再興に向けた胎動と捉えなければならないほど、人類の道徳的退廃は深刻な状況を迎えているのである。

 そんな時期に、夢のために生き、理想のために死んだ人間の生き様、死に様を見せる映画が公開されたのは極めて時宜にかなったものであると思う。劇場公開は大半が終わってしまったが、東宝という大手がバックについているだけにこの映画のビデオ化、DVD化は早いだろう。ぜひ皆さんにもこの映画を見て大いに考えていただきたいと思う。少なくとも何かの参考にはきっとなる映画であると思う。

 この映画を見終わった後、私はたまたま東京にいるついでに、多磨霊園にあるゾルゲの墓にお参りをした。単身日本に渡り、ひとりで処刑されたゾルゲの遺骨は引き取り手もなく、無縁仏として埋葬されたが、後に有志の手によって立派な墓石が建てられている。

 ゾルゲの墓は、なぜか外人墓地ではなく、日本人墓地の区画の一角にひっそりと立っていた。墓石にはロシア語でゾルゲの名とともに「ソ連邦英雄」と刻まれていた。

 「ソ連邦英雄」は、本来軍人にしか与えられない名誉ある勲章である。

 一度はスターリンによって「ラムゼイ機関」(ゾルゲたちの諜報グループの暗号名)ごと切り捨てられたゾルゲの、見事なまでの名誉回復だった。

(2003/8/2・特急たから)

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