安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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9月29日17時、福島県の地震について

2010-09-30 23:11:27 | 気象・地震
福島地方気象台プレス(速報)

福島地方気象台プレス(現地調査後の概要報告)

この地震については、最大震度4と中規模の地震で、発震機構解(地震のメカニズム)などの発表も行われていない(通常、震度5弱以上で発表)ことから、当ブログでは取り扱わない予定だったが、当ブログからきわめて震源が近いうえ、発表震度よりかなり揺れが大きな地点もいくつかあったことがわかってきた。そういう事情なので、若干コメントしておきたい。

震央の位置から見てプレート境界型地震の可能性はきわめて低いと考えられる。通常の活断層型地震(正断層型/逆断層型/横ずれ断層型のいずれか)だろう。

この地震が発生したとき、当ブログ管理人は通常通り会社で勤務中だったが、揺れる直前にゴォーッという地鳴りのような音が響き、だんだん近づいてくるのがわかった。管理人の会社の近くには自衛隊の演習場があるため、たまに戦闘機の轟音が響くことがあるが、それとは明らかに異なる音で、雷とも違う異様な音だった。机の上の資料に目を通していた課長が思わず顔を上げ「ん? なんだ?」と口走るほど大きな音だった。

その後、下から突き上げるような揺れが来た。地鳴りが聞こえ始めてから揺れ始めるまで10秒くらいだっただろうか。これまで、地震も多く経験してきたが、地鳴りが聞こえ、近づいてくるという体験をしたのは初めてだ。

M5.8(速報値)というのは、地震国・日本では1~2ヶ月に1回程度はどこかで起きている中規模のもので、それほど驚くには当たらない。問題は震源深さが20kmと浅く、しかも直下型地震であることだ。阪神大震災と比べてMで2程度小さいから、地震のエネルギーとしては阪神大震災の1000分の1程度に過ぎないが、これほど震源が浅く、震央にも近いのに、最大震度が4というのはいかにも小さすぎるように思うのだ。

2本目のリンクで示した福島地方気象台の概要報告によれば、震央に近かった天栄村の一部地区では震度5弱に相当する揺れがあったと推定されるという。もしこの近くに観測点があれば、震度5弱が観測されていたかもしれない。気象庁は比較的のんきに構えているようだが、地震発生後1日足らずのうちに有感だけで16回の余震があったことを考えても、この地震のエネルギーは大きいといえるのである。

さて、気になる今後だが、気象庁は今後、最大で震度4程度の余震がありうるものの、次第に余震回数は減ると予測しているようだ。だが、当ブログ管理人はもう少し推移を見る必要があるように思う。今後2~3日で余震回数が加速度的に減少していくようであれば、この地震は終わりと見てよいだろう。だが、阪神大震災のときは、2週間ほど前に中規模の地震が発生後、余震が収束せず、そのまま震災につながっていった。今後1週間程度推移を見て、余震が減らないようなら、新たな大地震の予兆である可能性もある。震央から近かった地域、揺れが大きかった地域では、あと1週間程度は余震の回数、規模、そしてそれら余震が減少に向かっているかどうかに細心の注意を払ってほしい。

とりあえず、我が家では非常持ち出し品や家具の固定状態の再確認などを実施して万一に備えることにした。

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鉄道・運輸機構の剰余金1.2兆円を鉄道・交通政策に!

2010-09-24 23:46:49 | 鉄道・公共交通/交通政策
<鉄道建設機構>余裕1.2兆円も 検査院が国庫納付求める(毎日新聞)

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 独立行政法人「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」の利益剰余金から将来に必要な費用を差し引いても、1兆2000億円もの余裕があることが会計検査院の調査で分かった。検査院は24日、余裕のある資金を国庫に納付するよう国土交通省に求めた。1兆2000億円もの指摘金額は過去最高。検査院が昨年指摘した不適切な経理や無駄遣いは計717件総額約2364億円で、その5倍になる。

 対象となるのは国鉄清算業務の利益剰余金。検査院が08年に多額の剰余金が存在することを公表し、今年4月の行政刷新会議の事業仕分けで取り上げられ、国庫に納めるよう求められた。検査院は09年度末で1兆4534億円に上る利益剰余金のうち、いくら国庫に戻せるか分析した。

 国鉄清算業務では、JR東日本、西日本、東海の3社の株式や旧国鉄用地の売却益などで得た収入を、旧国鉄職員の年金や業務災害の補償費などに使い、余りを積み立てている。検査院が年金を含め将来必要となる経費を試算したところ、年金受給者の数が減る一方、JR3社に売却した新幹線施設の代金が今後も分割され収入として入ることから、積立金を2500億円ほど残せば事業を安定して継続できると判断。差額の1兆2000億円は必要ないとした。清算業務には現在、利益剰余金を国庫に納めるための法律の規定がないため、法改正も必要となる。

 剰余金を国庫に返納することについて、JR各社は今年7月、「JR北海道や貨物など経営がまだ自立していない社もあり、剰余金は返納ではなく、経営基盤強化などに充ててほしい」との要望書を国交省に出している。

 国交省鉄道局財務課は「政府に加え国会での議論も必要になる。機構の剰余金を国庫に納めるか、鉄道政策に使うか、行政だけでは決められない」としている。【桐野耕一】
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「鉄道・運輸機構は、巨額の剰余金を国庫返納すべし」という会計検査院の指摘は、筋論としては理解できる。この剰余金は、元を質せば国有財産だからである。

旧国鉄は、1949年の日本国有鉄道法施行に伴い、旧運輸省鉄道総局が行っていた官営鉄道事業が公共企業体として分離され発足した。国鉄の資産は、このとき政府が国鉄に出資(現物出資・現金出資)したものである。その後、「分割民営化」により国鉄資産はJR各社と国鉄清算事業団に引き継がれた。このうち、国鉄清算事業団が保有する現金資産(JR株式の売却益を含む)がこの剰余金の正体である。元々国有財産だったのだから、国に返納せよ、というのはその通りだし、会計検査院としてそれを指摘するのは職責でもあろう。

一方、1986年、国鉄分割民営化のための関連法案が審議されていた参議院国鉄改革に関する特別委員会で、法案可決に当たって行われた付帯決議(参考資料:国会会議録)の二として「各旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社の輸送の安全の確保及び災害の防止のための施設の整備・維持、水害・雪害等による災害復旧に必要な資金の確保について特別の配慮を行うこと」が掲げられている。

これは、国鉄の解体によって、大規模な自然災害の際の復旧工事費や安全投資のための資金拠出が困難になることが予想されたため、政府にそのための財政措置を講ずるよう求めたものだが、結果的に、この付帯決議は実行されなかった。災害によって鉄道の復旧が必要となった際に、鉄道会社からの申請でその都度、復旧費を手当てするという場当たり的な対応が続けられ、鉄道会社が災害復旧のため、いつでも引き出して使えるような恒久的財源としての災害復旧基金は、ついに創設されることなく今日まで来てしまったのである。

その結果、旧国鉄特定地方交通線転換第三セクター鉄道の中にも、高千穂鉄道のように災害からの復旧ができないまま廃止に追い込まれるものが出始めた。そして何より、災害復旧費の政府からの拠出がほぼ受けられないJRでは、ローカル線が災害で不通となるたびに、復旧に数年もかかるような事態が現実のものとなったのである。

当ブログ管理人が記憶する限りでも、1990年の豊肥本線の水害では復旧に2年半近くを要したほか、95年に発生した大糸線の水害では2年以上、最近のものに限っても、越美北線は2年以上、高山本線はほぼ3年近くかかっている。

公共交通である鉄道で、これほど長い期間不通が続くことが地域社会に与えるダメージは決して小さくない。復旧に時間を要する路線は地理的条件の厳しい地方の山間部であることが多く、JRの鉄道が唯一の生命線という地域がほとんどであるからだ。

国鉄解体から23年が経過し、今、JRの多くの地方交通線は、地方の衰退と人口減少により、当時の特定地方交通線と同程度かそれ以下の営業成績に落ち込んでいる。こんな話はしたくないが、もし、国鉄再建法の特定地方交通線選定基準(輸送密度~1日1キロメートルあたり輸送人員~4000人未満)を現在のJR線に当てはめて「特定地方交通線の第2次選定」を行うとしたら、JRの地方交通線の半分は消えかねないというところまで追いつめられている。今年7月から土砂崩れで不通が続いている岩泉線(岩手県)に至っては、2005年度の輸送密度がたったの85人に過ぎないのだ。この数字は、鉄道はおろか、マイクロバスでさえ輸送力を持て余すような恐るべき数字である。岩泉線をもし廃止して代替交通に転換するとしたら、恐らくタクシーでも間に合うだろう。

こんなローカル線を全国のあちこちに抱えながら、JR各社は「特定地方交通線の廃止や三セク引き継ぎで身軽になった」という理由で補助金の支給対象から外され、ローカル線の復旧も原則として自前で資金調達して行わなければならない。私たち市民がそれを「公共交通なのだから当然」のひとことで片付けることは簡単だが、この状態で災害復旧のための資金をいったいどこから出せというのだろうか。

鉄道・運輸機構に1兆円もの財源があるというのは、ある意味奇跡だし、千載一遇のチャンスである。民主党政権ごときに1兆円くれてやっても、どうせロクなことに使わないのは目に見えている。この剰余金を全国の鉄道事業者が安全を向上させ、あるいは自然災害からの鉄道の復旧を図るために引き出して使える基金に改組することこそ、鉄道の未来を見据えた真の交通政策といえよう。

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今こそ特捜解体を!

2010-09-23 21:45:03 | その他社会・時事
「最悪の事態」危機感にじませる検察幹部ら(読売新聞) - goo ニュース

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 「最悪の事態」「組織の危機だ」。捜査を指揮する大阪地検特捜部の主任検事が、押収した証拠物を改ざんしたとの報に検察幹部らは一様に表情をこわばらせ、危機感をにじませた。

 大阪高検の柳俊夫・検事長は、大阪市福島区の合同庁舎で21日午前11時から会見。「最高検が今後、刑事罰も視野に徹底的に捜査して厳正に対処すると聞いている。大阪高検としても全面的に協力したい」と厳しい表情で話した。

 大阪市内にある小林敬・大阪地検検事正の自宅にはこの日朝、報道陣が殺到。小林検事正は約10分間取材に応じたが、核心部分については「調査を始めたばかりで答えられません」などと繰り返し、迎えの車に乗り込んだ。

 最高検幹部は「事実とすれば、我々の組織にとって最悪の事態」と顔をこわばらせた。前田恒彦検事(43)が以前在籍した東京地検幹部は、「特捜部の危機だ。証明すべきことを証明できなくするなんて、検事としてあってはならない行為。捜査にかかわった全員が辞表を出すぐらいじゃないと、検察は持たないのではないか」と危惧した。
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検察を舞台とした証拠改ざん事件は、この国を悪くしてきた「政治検察」に大ダメージを与えるスキャンダルの様相を見せ始めた。その規模、悪質さ、治安機関に対する国民からの信頼失墜の度合い、その他の社会的影響を総合すれば、筆者は、1986年に発覚した神奈川県警警備部(公安)による緒方靖夫・日本共産党国際部長(当時)宅電話盗聴事件に匹敵する一大スキャンダルだと考えている。違法な捜査・調査活動そのものが犯罪の要件を構成し、治安権力機関に対する国民の不信を決定的なまでに高めたからである。この事件を契機として、公安当局の非合法活動の実態が国民の広く知るところとなり、公安警察は一時、ガタガタになった。

緒方部長宅盗聴事件では、「警察の捜査ではかえって不信を招く」として、東京地検特捜部が捜査に乗り出し、関係者から事情聴取を行うなどした。結果的に関係者は全員が不起訴となり、誰一人として罪を問われなかったが、今回の事件も、検察の捜査で真相究明などできるはずがない。検察は捜査から外れ、警察など他の捜査機関が捜査に当たるべきではないか。

その上で、憲法違反が明確な治安権力機関は解体を目指すべきである。特捜部も、解体を含めた再検討が必要だろう。

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検察庁「証拠ねつ造事件」を読む~トカゲのシッポ切りを許すな!

2010-09-22 21:43:14 | その他社会・時事
主任検事を逮捕=郵便不正事件データ改ざん-証拠隠滅容疑、自宅を捜索・最高検(時事通信) - goo ニュース

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 障害者割引郵便制度の悪用に絡む厚生労働省の偽証明書発行事件で、大阪地検特捜部が押収したフロッピーディスク(FD)内の文書データを改ざんしたとして、最高検は21日、証拠隠滅容疑で、同事件の主任検事前田恒彦容疑者(43)を逮捕し、大阪府枚方市の自宅を家宅捜索した。

 村木厚子同省元局長(54)への無罪判決で、特捜捜査の問題点が指摘された事件は、検察そのものの信頼を揺るがす事態に発展した。

 大阪地検は同日、村木元局長について控訴を断念して上訴権を放棄、元局長の無罪が確定した。

 前田容疑者の逮捕容疑は、昨年7月中旬ごろ、捜査で押収した厚労省元係長上村勉被告(41)=公判中=のFDに記録された文書データを改ざんし、証拠を隠滅した疑い。

 捜査関係者によると、前田容疑者は21日までの大阪地検の事情聴取に改ざんを認めたが、「誤ってやった」などと故意を否定する説明をしているという。

 最高検は同日に捜査を開始し、証明書事件の捜査にかかわった検事や当時の上司らを一斉聴取。上村被告の弁護側からFDの任意提出を受けていた。

 FDは昨年5月26日、特捜部が上村被告宅から押収。同被告が自称障害者団体「凛(りん)の会」に発行したとされる偽の証明書のデータが保存されていた。押収されたFDが返却されたのは同年7月16日で、改ざんは3日前の同13日だった。

 公判で証拠採用された捜査報告書によると、データの最終更新日時は2004年6月1日だったが、返却されたFDに残された記録では同月8日となっていた。

 検察側は公判で、村木元局長が同月上旬、上村被告に偽証明書発行を指示したと主張。更新日時はこの主張と矛盾しないよう変更されていた。
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村木厚子・厚労省元局長が無罪となった障害者郵便不正事件で、最高検が、地検特捜部の主任検事を証拠隠滅容疑で逮捕するという前代未聞の事態となった。検察庁法では、「検察官は、いかなる犯罪についても捜査をすることができる」(第6条)とされており、最高検だから捜査をしてはならないなどということはない。しかし、最高検は高検・地検を指揮する上級庁として、通常、みずから捜査に従事することはない。

商業メディアは「それだけ最高検が“検察崩壊”に対する強い危機感を持っていることの現れ」と報じているが、それはすなわち「組織防衛」と同義でもある。身内である「検察ムラ」同士の捜査で、果たしてどこまで真相を究明できるか。むしろ最高検は、ダメージが組織全体に及ばないよう、前田容疑者の個人犯罪にしようとしているようにしか見えない。

とりあえず、当ブログは2つの重要なことを指摘しておかなければならない。

第1に、前田容疑者の「誤ってやった」という説明は、全くのでたらめであるということだ。彼に対する証拠隠滅容疑は、押収したFDに記録されているファイルの「プロパティ」の更新日時を、検察の描いたストーリーに合うよう書き換えたというものだが、読者の皆さんが今、パソコンでこのブログにアクセスしているのであれば、何でもいいからパソコンに入っているワードなどのファイルを右クリックし、「プロパティ」を選択してみるといい。「プロパティ」のなかに作成日時、更新日時の表示があること、そしてその表示が、手動では書き換えられないようになっていることに気づくだろう。

この作成日時、更新日時は、パソコンに内蔵の時計に連動して、パソコンが自動的に記録するようになっている。だからこそパソコンの内蔵時計が正確であれば、それは高い証拠能力を持つことになる。前田容疑者は、そこに目を付けたに違いない。

逆に言えば、ファイル「プロパティ」に記録されている作成日時や更新日時を、自分たちの描いたストーリーに沿うよう、後からさかのぼって改ざんしようとすれば、その方法は2つしかない。

1.パソコン内蔵時計のローカル時刻を変更後、ファイルを上書き保存する。
2.更新日時を書き換えられる特殊なソフトを使用する。

実は、1の内蔵時計巻き戻しは意外に簡単にできる。みんなが真似をし始めるといろいろな社会混乱が起きそうなのでここでは紹介しないが、数分もあれば充分だろう。2はおそらく、そのための特殊なソフトがあるはずだ。

時計を巻き戻したり、特殊なソフトを使わない限り、ファイルプロパティの日時改ざんはできないようになっている。誤って書き換わってしまうようなことは、万に一つもあり得ないだろう。もし、前田容疑者が、そのことを知らずにそんな供述をしているとすれば、検事のITスキルなどその程度ということを示している。

もうひとつ指摘しておかなければならないのは、この犯罪は前田容疑者の個人犯罪などでは決してないということだ。

検事は「独任制官庁」とされている。これは、1人1人の検事が独立して職務を執行できるという意味であり、検事1人1人が独立官庁といわれるゆえんである。そうであれば、この事件は前田容疑者の個人犯罪であるようにも思える。しかし、事はそう単純ではなく、検事が独任制官庁といわれる一方、検察庁には「検察一体の法則」がある。ジャーナリスト・久保博司は、独任制官庁の仕組みについて『検察庁は行政機関の一つであるが、普通の行政機関とは違って検事一人一人が独立の官庁である。したがって、たとえば起訴するときでも、普通の官庁のように担当官から最高責任者までズラッと印鑑を押すわけではなく、公式的には、担当検事の印鑑だけですむ』(『日本の検察』久保博司・著、講談社文庫、1989年)と指摘したうえで、検察一体の法則および実際の起訴手続きについて、次のように続ける。

『「しかし、そうはいっても、国全体の検察権行使のあり方が、あまりバラバラであっては困るわけですね。いくら識見はあっても個人差は出ますからね。また若いうちは未熟な面もありますし、公平な扱いができるようにチェックする必要があるのです」(大堀最高検次長検事)
 というわけで、検察庁には検察一体の原則があり、上命下従という制度がきっちりと守られている』(前掲書、132ページ)

『「身柄を拘束するかどうか、起訴するかどうかに関しては上司の決裁を受けます。上司のところに行き、決裁をお願いします、と言って事件の内容を言い、自分の意見を述べると、上司はいくつか質問してきます。その質問にキチンと答えられると、よろしい、ということになりますね」
 この場合、上司というのは東京地検では指導官、副部長、および刑事部長である。そして特別な場合は次席検事の決裁を仰ぐこともある。その他の地検では指導官、部長、次席検事、検事正と4段階のハードルをくぐるのが普通だという』(前掲書、133ページ)

『検察庁ではこの決裁制度のほかに、国会議員、大臣、自治体の首長など社会的に影響の大きな人物に手をつけるときには事前に上部に報告する処分請訓という制度がある。「訓」を求める相手は高検検事長、検事総長、法務大臣の三者である』(前掲書、134ページ)

これが検察の逮捕、起訴手続きの実際である。前田検事個人の犯罪に矮小化などできないということが見えてくる。

逮捕時、村木さんは厚生労働省の局長だった。中央省庁の局長クラスの人事は、各省庁の官房人事課などが案を作成後、警視庁公安部が対象者の身元調査(過去に犯罪歴がないか等)を行い、問題がなければ閣議了解を経て発令されるという。発令に閣議了解を必要とするほどの大物に手をつけるのに、処分請訓が行われなかったとはまず考えられない。

いずれにしても、これは明確な組織犯罪である。この事件の責任は前田容疑者個人にあるのではない。決裁書に印を押した彼の当時の上司、処分請訓を受けて了承を与えた当時の検事総長、さらに逮捕当時の自民党政権の法務大臣に至るまで、関係者全員の責任は免れないといえよう。

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遅い夏休みを利用して、秋田内陸線・津軽線へ(3)

2010-09-21 22:00:24 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
いよいよ旅も最終日。この日も朝6時半に起床し、まず朝風呂へ。残念なことに、機械の定期点検のためせっかくの露天風呂が休止となっていた。内湯に浸かり、寝汗を洗い流す。世間的には今日は平日。連休後半に備えて今のうちに機械のメンテということであればやむを得ない。

この日はやや遅めの9時頃、ホテルを出発。美術好きの妻の希望で棟方志功記念館を見た後、車を青森駅駐車場に停め、いよいよJR津軽線乗車だ。

青森11時19分発「スーパー白鳥1号」で出発、蟹田で下車後、11時58分発、三厩行き331Dに乗り換える。331Dはキハ40・48の2両編成だが、なんと非冷房! 今年の異常な猛暑のせいか、9月下旬の、しかも青森だというのに現在の気温は24度。午後からさらに気温が上がれば、9月下旬の青森で夏日という信じられない事態が現実のものになる。誰か助けて、マジ地球おかしいよ。

定刻になり、331Dは蟹田を発車した。しばらく複線電化の海峡線と併走した後、海峡線を右に分けて2両編成の気動車はトコトコ進む。津軽二股駅に着くと、別れたはずの海峡線が再び現れ、しかも津軽今別駅と事実上同一駅で乗り換えもできる。同じ場所に駅があるなら、なぜ同じ駅名にしなかったのだろうか?

詳しい事情はわからないが、乗換可能駅だと知れることに不都合でもあったのだろうか。そういえば、新岩国(山陽新幹線)と御庄(錦川鉄道~旧国鉄岩日線)もほとんど同一駅のようなものだが別駅扱いだ。ここの場合、JRと第三セクター鉄道で、接続駅扱いにしたくなかったという事情は理解できる。だが、JR同士で同一場所にあるのに別駅扱いというのはどうにも解せない。

この場所は、北海道新幹線開業時、「奥津軽」駅(仮称)が開業する予定になっているようだが、「奥津軽」開業時には、津軽二股・津軽今別含め、同一駅としてきちんと整理してほしい。

大平~津軽二股間で長大トンネルを通過した際、開け放たれた窓から冷たい風が入り込み、一気に車内は涼しくなった。その冷気を積んだまま、331Dは12時37分、三厩に到着。津軽線完乗を果たした。

三厩の「厩」は「うまや」と読む。競馬に詳しい人なら厩舎(馬の畜舎)を想像するかもしれない。厩が3つで三厩。昔、厩舎が3棟、この近辺にあったのだろうか。

青森駅で調達した駅弁で昼食を摂りながら、折り返し列車の発車を待つ。車両・編成はそのままに、336Dとなった列車は12時53分、三厩発。13時34分、蟹田着。338Mに乗り換えて、13時47分、蟹田発。北海道に渡る貨物列車と交換などしながら、14時26分、青森に到着した。

青森到着後は、車で5時間半のドライブで帰宅。今年の異常な猛暑のせいか、途中のサービスエリアでは、9月下旬だというのにソフトクリームが延長販売されていた。

今年の猛暑は、いったいいつまで続くのか。

【完乗達成】津軽線

これにより、いよいよJR東日本の未乗車区間は、大湊線と中央本線岡谷~塩尻(みどり湖経由)のみとなった。

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遅い夏休みを利用して、秋田内陸線・津軽線へ(2)

2010-09-20 23:27:14 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
この日は朝6時に起床。ホテル側の都合で一方的に朝食時間が指定(6時40分から)されてしまったので、私としてはきわめて変則的だが朝食を摂った後、朝風呂へ。

8時にチェックアウトし、車で今日のメインである、不老不死温泉に向かう(当ブログ管理人が2005年に訪れたときは、まだ露天風呂内撮影禁止の看板は出されていなかったが、あまりに撮影する人が多いのか、今回、撮影禁止となっていた)。

11時前、温泉に着く。上がったところでちょうど昼になったが、この先、訪問予定の弘前までロクな食事場所はないだろうと判断し、不老不死温泉内の食堂でサザエ丼を食す(サザエ丼がどのようなものか興味のある方は、上記リンク先に写真を掲載している)。

食事後は車で弘前まで移動。とうとう青森までやってきた。弘前城を見る予定だったが、あいにくの天候だったので、ねぶた記念館を見る。ちょうど津軽三味線の生演奏が行われるところで、貴重な生演奏を聴くことができた。

この日の泊まりは、青森センターホテル。ここも温泉大浴場付きで、破格の値段だと思う。

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遅い夏休みを利用して、秋田内陸線・津軽線へ(1)

2010-09-19 23:02:58 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
アホくさい民主党政権への政治対応(謎)や家畜伝染病・口蹄疫対策などで私の職場では春先から異常事態が続いていた。今年の夏休みはもう取れないだろうと諦めかけていた頃、ようやく夏休み(と言うより秋休み)が巡ってきたので、妻と2人、未乗区間となっていた秋田内陸縦貫鉄道と津軽線に乗ることにした。

今回は、18日~20日までの予定で「スリーデーパス」を使う計画だったが、直前の追い込み仕事による疲労で18日は体力が持たず、静養。19日~21日に日程をずらしたため、結局「スリーデーパス」の恩恵を受けられず、また高速1,000円制度を使うことになってしまった。

朝、自宅を車で出発し、白河ICから東北道を走行、北上JCTから秋田自動車道へ。大曲ICで高速を降りて、秋田内陸縦貫鉄道の始発、角館駅へ。駅付近に無料駐車場があったので、そこに車を停める。

秋田内陸縦貫鉄道は、旧国鉄の特定地方交通線指定を受けた阿仁合線(鷹巣~比立内)と角館線(角館~松葉)を引き継いだ第三セクター鉄道である。もともと両線は1つにつながる予定だったが、1980年の国鉄再建法成立に伴い、両線とも盲腸線のまま工事が凍結となった。しかし、「国鉄以外の責任ある経営体」が経営を引き継ぐ場合に限り、凍結線の工事再開を認める運用が行われていたことから、秋田内陸縦貫鉄道の設立に伴い、両線の終端駅(比立内~松葉)を結ぶ新線の工事が再開となり、1989年、全線開通にこぎ着けた。

同じように、国鉄再建法制定に伴って工事が凍結されながら、第三セクターが経営を引き継ぐことが確定し、工事が再開となった路線としては、智頭急行、北越急行のほか、土佐くろしお鉄道宿毛線、阿佐海岸鉄道の例がある。秋田内陸縦貫鉄道は、旧国鉄からの承継線と新線が混在しているという意味で、土佐くろしお鉄道に似ているといえよう。

全線開業直後、路面電車を除けば全国初の女性運転士を急行「もりよし」に登用するなどして、全国的注目を集めたこともある。

12時10分、214Dで角館を出発、13時32分、阿仁合に着く。松葉~比立内間の新線区間は1989年開通だけに、軌道も線路もしっかりしていて心地よい。戸沢~阿仁マタギ間にサミットがあるが、山越えの苦しさをほとんど感じさせない。13時34分、阿仁合発14Dで14時29分、鷹巣着。全線を乗り通す。ちなみに、秋田内陸線の駅は「鷹巣」だが、JR奥羽本線の駅は「鷹ノ巣」と表記が異なるのが面白いところだ。

鷹巣では農協直営店が1店だけ営業しており、そこで昼食を調達する。駅前散策をしながら1時間半の待ち合わせ時間を過ごすが、あいにくの天気でだんだん風雨が強まってきたため、駅に引き返す。

鷹巣16時01分発、21Dで16時55分、阿仁合着。ここから17時10分発221Dで18時36分、角館着。角館~鷹巣間の片道運賃1,620円、往復3,240円のところ、休日限定の1日フリー切符(2,000円)のおかげで1,240円も浮いた。妻の分も合わせると、2,480円も得したことになる。

【動画】合川駅ですれ違った急行「もりよし3号」

その後は角館駅から車を運転して、ドーミーイン秋田に投宿。温泉大浴場と秋田名物、きりたんぽ鍋の朝食がここの最大のセールスポイントらしい。

【完乗達成】秋田内陸縦貫鉄道

旧国鉄時代からの路線名に従えば、完乗達成路線は阿仁合線、角館線、鷹角線(新線区間)の3線となるが、1989年の全線開業後は全線が秋田内陸線に改称されている。乗車記録の整理方法として、あくまで従来からの名称にこだわるか、秋田内陸線として整理するかは悩ましいところだが、当ブログ管理人は、乗車記録の整理をするときの路線名を、原則として「国鉄再建法施行令別表第一」によることとしているので、最終的には国鉄時代の路線名で整理する方向になると思う。

なお、秋田内陸縦貫鉄道の完乗達成により、国鉄地方交通線転換第三セクター鉄道は、乗車を達成しないうちに全線が廃止となった北海道ちほく高原鉄道を除くと、北近畿タンゴ鉄道が未乗車で残るのみとなった。

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御巣鷹事故25年~継承の夏・転機の夏

2010-09-18 17:03:58 | 鉄道・公共交通/安全問題
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 2010年の夏は暑かった。暑いというより熱いと表現すべきかもしれない。何しろ日本の気象台が観測を始めて以降の110年間で最も暑い夏だったというのだから。

 そう言えば、忌まわしい日本航空123便事故が起きた25年前の夏も熱かった。あれからもう四半世紀。事故以来ずっと御巣鷹の動きを見守り続けてきた筆者にとって、今年の夏はひとつの転機を感じさせるものとなった。

●国土交通大臣の初慰霊登山

 事故から25年目を迎えた2010年8月12日、前原誠司・国土交通大臣が初めて御巣鷹に登った。政権交代による意識の変化、閣僚の若返りが現職国土交通行政トップの慰霊登山を可能にしたといえるかもしれない。

 追悼慰霊式であいさつした前原国交相は、被害者の家族で作る「8・12連絡会」が要望していた公共交通機関などの事故被害者への支援について「仕組みやあり方を今年度中にまとめ、12年の通常国会での成立を目標に、法制度の整備に取り組む」と述べた。また、支援の具体的内容については「被害者への事故直後の混乱時の情報提供や長期のメンタルケア、加害者との間に入った補償や生活支援のあり方」などを挙げた。

 「責任を明らかにする捜査より、事故原因調査の優先を」という要望については「我が国に事故調査と犯罪捜査の優先関係を定めた規定はない」と述べたうえで「事故の原因をすべての段階で明らかにしていく事故調査の実現に向け、仕組みを検討し、結論を早急に得たい」と前向きな姿勢を示した。

 123便事故が起きた当時と現在とを比べてみると、大きく前進した点がある。国民の安全に対する要求が当時では考えられないほど高度化、多様化したことだ。安全は国民の最大の関心事になった。食の安全への要求も高まり、食品事故を起こした企業は市場から退出させられるのがむしろ当然という時代になった。公共交通を担う企業も、独占を許されていて市場からの退出こそさせられないが、国民・利用者の視線はかつてないほど厳しいものになってきている。その転換点になったのがこの事故であり、そして2005年のJR尼崎事故だ。

 「被害者への事故直後の混乱時の情報提供や長期のメンタルケア、加害者との間に入った補償や生活支援」が今ほど切実に求められているときはない。日航は123便事故の後しばらくの間、被害者に真摯な対応をとらず、むしろ事故を一刻も早く忘れ去りたいかのような姿勢で多くの批判にさらされた。JR西日本は今なお被害者への真剣な補償を行おうという意思にまったく欠けている。事故を起こした企業に対して、被害者への真剣な対応を強制させるようなシステムが検討されてもいいのではないか。もっとも、何が「真摯な対応」なのかが理解できていないJR西日本のような企業には、効果はないかもしれないが。

 警察と事故調査委員会の関係については、1972年、旧航空事故調査委員会設置の際に警察庁と運輸省の間で締結された覚書が未だに有効なものとして運用されている。表向きは捜査機関と事故調査機関の対等性を強調した内容になっているが、実際には警察が先に証拠物件を押さえてしまい、事故調査委員会の調査に支障を来すことが少なくなかった。

 大規模な公共交通の事故に当たって大切なことは処罰よりも原因究明と再発防止にある。関係者の処罰はあくまで原因究明に付随するものでなければならない。そのためには、この覚書にとらわれるのではなく、むしろ事故調査機関の調査を優先できるような新しい制度設計を進める必要がある。

●事故被害の継承へ

 御巣鷹の風景に大きな変化が起きつつある。今年の特徴をひとことで表現するなら「追悼から継承へ」となるだろう。25年の歳月が経過し、高齢化によって慰霊登山を断念する遺族が現れる一方、子ども・孫などが遺族に代わって慰霊登山を行うことによって、遺族の思いと事故を継承していく新たな動きが顕著になったからである。

 さいたま市中央区の小林準也さん(20)は、亡くなったおじ、加藤博幸さん=当時(21)=の慰霊登山に一家で訪れた。小林さんは就職先に、同じ公共交通であるJR東海を選んだという。入社1年目、社会人として初めての慰霊登山で、亡きおじの墓標に「安全を守る仕事に就きました。安全を受け継いでいきます」と報告した。

 昨年の8月12日にはJR尼崎事故遺族が御巣鷹に登ったが、今年は東京都港区のエレベーター事故(2006年6月)で息子を亡くした市川正子さん(58)も1カ月半かけて自ら折った千羽鶴を持って慰霊登山に訪れた。市川さんは、事故遺族という共通の立場から御巣鷹事故の遺族と連絡を取り合うようになった。「御巣鷹は、いろいろな事故の遺族にとってのシンボル。こういう形でみんなが安全を願う場所はほかにない」と、ある事故遺族は語った。

 様々な事故の遺族がバラバラに闘うのではなく、結集して企業犯罪に立ち向かおうとしている。こうしたしなやかでしたたかな闘いが、国土交通大臣の御巣鷹登山や、JR西日本歴代4社長の起訴などを引き出す力となっている。

 筆者は、改めて520名、そして名前も付けられることがないまま墜落の衝撃で母親から引き剥がされて亡くなった胎児ひとりに哀悼の意を表する。そして、ありもしない急減圧があったとうそぶき、ウソでウソを塗り固めた恥知らずの事故報告書を公表した旧運輸省、事故調の責任をこれからも問い続けてゆく。

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「粛清人事」に民主党政権の終わりを見た!

2010-09-17 22:52:31 | その他社会・時事
菅改造内閣閣僚名簿

民主党代表選を「勝ち抜いて」、再選された菅首相が断行した改造人事。

だが、その顔ぶれを見た瞬間、私は民主党政権に終わりが近いことをはっきりと悟った。

この露骨な論功行賞、自分に投票しなかった小沢グループに対する「粛清」とも言うべき抹殺人事。

自民党政権末期にも、安倍、麻生内閣は「お友達内閣」などと言われたが、それすらもなんだか可愛げがあって懐かしく思えるほどの酷さだ。安倍、麻生内閣は、お友達で政権中枢を固めながらも、まだ党内融和に配慮するだけの度量はあったと思う。

民主党が、衆参両院で法案を通せるだけの圧倒的多数を確保していれば、この内閣でもよいのかもしれない。しかし、こんな「お友達軽量内閣」でいったいどうやって法案を通すつもりだろうか。

当然ながら、小沢グループは新内閣に対し、徹底的に非協力を貫くだろう。国会で政府提出法案が成立しない事態になっても、小沢前幹事長初め小沢グループは手も差し伸べず、菅内閣の自壊をじっと待つに違いない。

2009年夏の政権交代時、当ブログ管理人は別の場所で「自民党に代わって保守包括政党の地位を得た民主党政権は長期化する」と予測したが、今、その政治的不見識、予測力のなさを恥じねばならないときが来たようだ。民主党政権は遠からず別の形態の政権にその席を譲る。その時期は、早くて来年早々、遅くとも来年の春にはやってくる。

民主党は、政権を獲得したことによって、政界再編のための過渡的政党としての性格をかえって強めることになった。政治的に分裂し、基本政策での大きな対立に加え、冷遇された不満分子をも抱え込んだ民主党・菅政権は、今後しばらく分裂の危機をはらみながら進行していく。当面は小沢グループの分裂への動きも抑え込めると思われるが、ねじれ国会で菅政権が立ち往生するときが来たら、一気に分裂への動きが強まるだろう。

日本の政界は、民主・自民の二大政党ともに、極右・新自由主義者から社会民主主義者まで幅広い政治勢力を包含しており、政党間より各政党内のほうが政治的乖離が大きい状態にある。このことが、「どの政党を選んでも同じ」「政権交代しても誰が何を行おうとしているのかさっぱりわからない」という政治不信につながっている。

この政治的閉塞状況を打開する道は、もはや政界再編しかないのではないか。そして、来るべき政界再編において、「右からの再編」を通じて保守勢力が焼け太りするだけでは国民本位の政治への転換は不可能だろう。大企業本位から労働者本位へ、軍事優先から福祉・平和・人権・環境を優先する政治に転換するには、「左からの再編」を大きく展望しなければならない。

さしあたり、小選挙区制を廃止して中選挙区制・比例代表制など民意をかなり正確に反映できる選挙制度とした上で、社民・共産両党が選挙協力を行う等、できる限りの勢力拡大に努めなければ、日本の将来は危ういと思う。

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「墜ちた検察」トップの暗い過去が見えてきた!

2010-09-12 23:55:13 | その他社会・時事
(当記事は、当ブログ管理人がインターネットサイト向けに執筆した原稿をそのまま掲載したものです。)


 厚生労働省を舞台にした障害者郵便の不正利用事件で、同省の女性キャリア(国家公務員Ⅰ種試験~旧上級職試験採用者)の星とまで言われた村木厚子・元局長に対し、大阪地裁は9月10日、無罪の判決を言い渡した。

 公判では、検察側が申請した証拠のすべてが採用されず、検察官は裁判官から取り調べのメモさえ取っていないことを問い詰められた。検察官の質問に対して傍聴席から失笑が上がる場面すらあったという。そこには、「有罪率99%」「泣く子も黙る」とされ、「逮捕されれば無罪では戻ってこられない」とまで言われた昔日の検察の権威などみじんもない。

 証拠を却下され、丸裸にされた特捜。傍聴席から失笑をもって迎えられた検事たち。粉々に打ち砕かれた「日本最強の捜査機関」の権威――。

 2010年9月10日は、日本の犯罪捜査史上、長く記憶にとどめられるに違いない1日となった。それはまさに特捜が墜ちた日、検察の全面敗北の日とでも呼ぶべきものである。

 検察が、「犯罪の事実を立証し、逮捕すべき者を逮捕する捜査機関」ではなく、「犯罪の事実を“創作”し、逮捕したい者を逮捕する捜査機関」であるという事実は、今、多くの日本国民の知るところとなった。

 暴走する最強の国家権力はこの先どこに向かうのか。それを知るためには、検察庁と検事たちの人事、そして生態にスポットを当てるのが一番手っ取り早いだろう。そこで、当コラムは今回、現職の検事総長にスポットを当てることにする。そこから見えてきたものは、秘密警察まがいの動きで反対勢力の「思想調査」をしながら権力の階段を上り詰めた男の「暗い過去」だった――。

●「政治検察」のエキスパート
 
 検事総長。それは全国の検察権力のトップに君臨する最高検察庁の長にして、全国検察のトップである。検察庁は法務省に設置された「特別の機関」として、法務大臣の指揮監督を受けるとされている。しかし実際には、法務省の事務方トップである事務次官の地位は、検事総長、東京高検検事長、大阪高検検事長、最高検次長検事に次ぐとされる。他省庁では事務方トップである事務次官は、法務省ではナンバー5に過ぎないのだ。実際には下部機関であるはずの検察庁が法務省を支配下に置き、法務行政を取り仕切ってきた。

 2010年6月、検事総長に就いたのが大林宏である。2008年7月に札幌高検検事長から東京高検検事長に「栄転」した時点で、この人物の検事総長就任は既定路線となっていた。しかしこの人物こそ法務・検察のエースであると同時に、一貫して公安畑を歩いてきた「政治検察のエキスパート」というべき人物なのだ。

●元共産党員に「転向」迫るため送り込まれた大林

 1980年、中国で27年間にわたって消息不明となっていた伊藤律・元日本共産党政治局員が中国政府から秘密監禁を解かれ、電撃帰国するという出来事があった。伊藤は、戦前に転向歴がありながらも敗戦直後に再建された日本共産党内で徳田球一書記長に重用され、政治局員(現在の常任幹部会員)にまで駆け上がったが、その後、ゾルゲ事件〔注〕への関与を疑われて失脚した人物である。時折しも、共産主義者への弾圧を強めるGHQ当局の「逆コース」政策のなかで、弾圧を受けた指導部が極秘裏に出国し、海外から日本の革命運動を指導するために地下指導部を作った時期に当たる。実際には、彼らの渡航先は社会主義革命後の中国であり、北京に潜伏した彼らが作った地下指導部は「北京機関」と俗称された。伊藤の失脚は渡航後のことだったから、失脚後、伊藤の消息は中国でプッツリと途絶えてしまった。

 その後の伊藤の消息については、スターリン時代のソ連で、同志であったはずの山本懸蔵氏を「密告」し、処刑という運命に陥れていた野坂参三・元日本共産党名誉議長(後に解任・除名)によって死亡説が流されていた。大部分の日本人は野坂による言説をそのまま受け止めていたから、伊藤の帰国は日本中に大きな衝撃を与えたのである。

 ところで、GHQ当局から逮捕命令が出ていた当時の日本共産党幹部らにとって、正式な手続きを経て出国することはもとより不可能な状況にあったが、そうした事情を考慮しても、正規の手続きを経ない極秘渡航は出入国管理令(現在の出入国管理及び難民認定法)に違反しており、伊藤がそのまま帰国すれば逮捕されるおそれがあった(伊藤は海外にいたのだから時効は進行していなかった)。法務・検察側にも、社会主義日本の創建をめざした日本共産党の大幹部、ただで帰すものかという緊迫した空気がみなぎっていた。こうした政治状況のなかで、1980年、帰国する伊藤を出入国管理令違反容疑で取り調べるため、法務・検察が満を持して送り込んだ公安検事こそ、大林だったのである。

●「もう話してくださいよ」

 『午後三時過ぎに迎賓館に着いた。…(中略)日本大使館の当局者はすでに来ていた。大使代理(?)の一等書記官大林宏、一等書記官渡辺、二等書記官某の三人。質問は大林が行い、渡辺が筆記して私に示し、答えさせる。…(中略)大林は威圧的で、時には旧特高式の睨みをきかせ、時には日本料理を食べないかとか、日本のえらい医師に私の病気をみさせようとか硬軟両方の手を使う。少しでも多く喋らせようとの魂胆がありありだ。帰国後に判明したのだが、大林は法務省刑事局の幹部検察官で、当時「外務省出仕」となっていたのである。つまり本物の公安検察官だったのだ』

 『私はいっさい黙秘した。大林は隔離査問の場所が不明では帰国許可に必要な経歴書が成立しないと恫喝し、さらに「あなたは党から除名されたのだから、今さら党に義理を尽くさなくてもいいでしょう。もう話してくださいよ」と言った』

 『この日はなぜか大林ら三人は定刻より少し遅れてやって来た。では経歴書に取りかかろうと切り出した時、大林は目玉を剥いて私を睨みつけた。まるで昔の思想検事そっくりで、これで大林は外交官ではないとはっきりわかった。…(中略)とにかく中国に来てからの経歴書を書け、と大林は命じた。その態度は昔特高が手記を書かせたのと同じやり方である。私の胸に憤怒が湧き、目が悪いので書けないと拒否した』

 『私はなるべく早く帰国手続きをして旅券を出してほしいと要求したが、大林は、大使館としてできるだけ努力するが、何分本国政府の決定を待たねば、と言外に威嚇を含めた言い方をした。そして、そのあと言葉を改めて、現在は共産党をどう思っているかと訊ねてきた。いよいよ切り出してきたなと感じた。帰国許可を餌に「転向」を表明させようとする謀略にちがいない』

 これらは、伊藤が日本帰国後、記憶を頼りに執筆した『伊藤律 回想録~北京幽閉二七年』からの引用である。大林が狡猾なやり方で伊藤に踏み絵を踏ませ、「二度目の転向」を図らせようとした様子が生々しいやりとりとともに克明に記されている。伊藤にはいくつかの記憶違いもあるが、概して記述は正確であり、その記憶力は驚異的である。戦前の転向のハンディを乗り越え、政治局員まで一気に昇進した伊藤の高い能力の一端がうかがえる。

●「共謀罪」推進のため暗躍した大林

 検察からいったん法務省に移り、法務官僚となってからも大林は「共謀罪」法案提出に向けて暗躍した。犯罪の予備を行っただけで「予防拘禁」が可能になる共謀罪法案は治安維持法の再来と言われ、労働運動や市民運動への弾圧につながる可能性の高い危険な法案だった。その共謀罪法案の国会審議の過程で、政府参考人として法案の説明を行ったのが、当時、法務省刑事局長の大林だった。彼は「労働組合、市民団体には共謀罪は適用しない」と答弁してなんとか野党の追及をかわそうとしたが、共謀罪が「目配せだけでも成立する」と答弁してしまったのである。共謀罪法案が「治安弾圧立法」であることが、図らずも露呈した瞬間だった。

 共謀罪は、2007年夏の参議院選挙で当時の自公与党が大敗し、政権交代もあって法案成立のメドが立たなくなったため導入は一時お預けになっているが、大林ら法務・検察幹部による導入への模索は今も続いている。

●今こそ「暴走する権力」の監視を

 地検が起訴・不起訴の判断に迷ったときや、刑事裁判で敗訴し、控訴・上告するかどうかの判断に迷ったときは「上級庁」と相談して決める。その「上級庁」のトップがこんな男なのである。法務・検察がおかしくなるのも当然だろう。

 私たちは、治安機関である法務・検察への監視を強めることを真剣に考えなければならない。鈴木宗男・新党大地代表のように、保守層のなかにも「国策捜査」に異議を唱える人はたくさんいる。彼らとも連携しながら、暴走する権力をストップさせることが、いま求められている。

〔注〕ゾルゲ事件  戦前から戦時中にかけて日本を舞台とした国際スパイ事件。ナチス党員とソ連共産党員という二重の顔を持つ国際スパイ、リヒアルト・ゾルゲがドイツの新聞記者を装いながら、日本の軍事機密をソ連に通報していたとされる。ゾルゲは1944年11月、治安維持法違反容疑で逮捕・処刑されるが、伊藤律が特高に逮捕された際の自白から北林トモが逮捕され、北林の自白により沖縄出身の画家・宮城与徳が逮捕。さらに宮城の自白からゾルゲらの摘発に至った、という「伊藤律スパイ説」が信じられてきた。戦後になり、野坂参三らがこれを利用して伊藤を失脚させることに成功、伊藤は秘密監禁に追い込まれたが、ゾルゲらの摘発準備は伊藤の自白とは関係なく、特高によって伊藤逮捕前から始まっていたことが現在までの研究で明らかにされている。

<参考文献>
「日本の検察」(久保博司・著、講談社文庫、1989年)
「回想録~北京幽閉二七年」(伊藤律・著、文藝春秋社、1993年)

(文中敬称略)

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