安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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核のない未来を願って 松井英介遺稿・追悼集(緑風出版)

●安全問題研究会が、JRグループ再国有化をめざし日本鉄道公団法案を決定!

●安全問題研究会政策ビラ・パンフレット
こんなにおかしい!ニッポンの鉄道政策
私たちは根室線をなくしてはならないと考えます
国は今こそ貨物列車迂回対策を!

「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」の旅/こぼれ話

2022-10-29 22:03:55 | 日記
10月21日夕方から、24日まで3泊4日に及んだ「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」の旅。道中、いろいろなことがあるのが旅の醍醐味だが、今回の旅で経験した鉄道以外の出来事の中から、印象に残ったことをまとめておこう。

<2日目(10/22)>
上田電鉄別所線の完乗を終え、折り返し、上田駅に戻ってきたときのこと。改札口に向かっていると、前方を歩いている女性2人組が大きな声で話しているのが聞こえた(マスクをしているので別に迷惑とは感じないが)。年齢は30代後半か40歳代前半という感じ。

女性Aさん「私、この前○○くんとケンカしちゃって、今、思い出してもものすごくきつい言い方しちゃった。○○くん、落ち込んでないかなぁ」
女性Bさん「ああ見えても彼、昔から強い女子に囲まれてやってきてるから、大丈夫だと思うよ」

根拠なく言い切るBさんもすごいが、それですっかり根拠なく励まされているAさんもすごいと思う。というより、個人的には○○くんがどんなきつい言い方をAさんにされたのか、そちらの方が気になった。世の中を見渡すと、意外とこういうカップルのほうが夫婦になったらうまくいっている例が多いので、○○くんとAさんに幸あれと思う。

<3日目(10/23)~4日目(10/25)>
京急蒲田駅前のホテルのフロント、4日目にお世話になった東京駅八重洲口8階のパスタ店の従業員が外国人だったことに改めて驚かされた。観光業、旅行業界はコロナ禍で大量に従業員を解雇したが、その後、コロナからの急激な回復で人手不足に見舞われ、かつての従業員を呼び戻そうにも、他業界に転職してしまって呼び戻しもかなわず……というパターンが多いのだと思う。

当ブログは、すでに2015年10月24日付記事「急速に変貌するTOKYOに思うこと」で一度、この問題を取り上げている。すでにこの時点で飲食店やコンビニなどの業界では外国人労働者なくして営業ができないほどの事態になっており、意思疎通もろくにできない日本人のだらしない若い男性を雇うなら、外国人労働者のほうが雇用主にとっても優良な働き手である場合もある、との状況も報告した。働き手、雇用主、顧客いずれにも「三方良し」であるなら、別に外国人労働者でもまったくかまわないのである。

こういう事態を招いている背景には、不安定雇用の従業員を、雇用の調整弁としてコマのように扱ってきたことがある。賃金が上がらず、原材料費が高騰しても価格転嫁もできない「安いニッポン」も政府・自民党・財界に責任がある。金儲けのため、人をコストとみなして削ることしか頭にない彼らには、せいぜい反省してもらいたい。

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かつてない哀しみの中で迎えた鉄道150年 再生か衰亡か? 今岐路に

2022-10-25 22:46:03 | 鉄道・公共交通/交通政策
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2022年11月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 ●「災害がなくてもすでにズタズタ」技術も散逸し……

 「汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり」……鉄道唱歌にも歌われている日本初の鉄道が、新橋~横浜間に開業してから今年10月14日で150年になる。だが、日本各地に祝賀ムードは全くない。毎年、10月のこの時期になるとイベントを開催していた鉄道会社も、災害多発による業績悪化に加え、「非常識鉄道ファンの暴走」ばかりの現状に嫌気がさしたのか、ここ5年ほどはほとんどイベントも開催されなくなった。

 かくいう筆者も、国鉄分割民営化の時点で鉄道、特にローカル線の衰退は予想していたものの、このメモリアルイヤーをこれほどまでの哀しみをもって迎えなければならないとは正直、予想を超えていた。もしも今、国鉄がそのまま残っていれば、国鉄主催で様々なイベントが企画されたであろうし、「鉄道150周年記念国鉄全線10日間フリーきっぷ(1セット10万円)」発売くらいのことは行われ、全国の駅は利用客でごった返していたに違いないと想像すると、35年前に行われた「改革」とやらの罪深さが改めて浮き彫りになる。

 国鉄「改革」を今でも成功だと思っている人たちは、今の鉄道危機は会社分割のせいではないと主張するに違いない。この点について、アジア各国の鉄道を乗り歩き、レポートしている自称「アジアン鉄道ライター」高木聡さんはこう鋭く指摘する。『(国鉄改革の結果)国土の骨格たる鉄路を守ることができなかった。地域ごとに鉄路は分断され、整備新幹線開業による並行在来線化でそれはますます顕著になっている。災害が起きずとも、既に日本の鉄道はズタズタだ。一見、線路はつながっているように見えても、JR各社のみならず、最近は路線ごとに別々の信号やオペレーションのシステムを有し、国鉄型車両が減少し、各社独自設計のものが増えた結果、各線を相互に乗り入れることも難しくなりつつある』。1990年代以降、日本製鉄道車両の海外輸出が減り、ここ10年くらいは海外鉄道への車両輸出をめぐる入札でも日本企業は連戦連敗を続けている。これも『国としての技術が各社に散逸』した結果であり『少なからず国鉄解体も絡んでいる』と高木さんは断言する(注1)。

 実際、日本では1990年代から2000年代初めにかけ、国鉄再建法の成立で工事凍結となっていた建設予定線の「凍結解除」に伴うローカル新線開業が続いた時期もあった(秋田内陸縦貫鉄道、智頭急行、阿佐海岸鉄道、土佐くろしお鉄道の延伸など)が、この時期を例外としてローカル線は縮小の一途をたどった。ローカル線向け鉄道車両メーカーはどんどん撤退し、新潟鐵工のように倒産してしまった企業さえある。日本の車両メーカーは新幹線と大都市圏の電車に得意分野が偏っており、海外の鉄道会社が求める需要にマッチしていないため、思うように売り込みができないでいる。

 こうした事態は国鉄分割民営化が議論された1980年代からある程度予想されていた。研究開発・安全管理部門と鉄道の現場部門が同じ国鉄の組織内にあるからこそ、日常の鉄道運行で得た知見、事故の経験や教訓が研究開発部門や安全管理部門にも共有され、安全対策の向上や「さらなる高み」を目指した研究開発に生かされる。現場部門がJR各社、技術開発部門が鉄道総合技術研究所(JR総研)に分割されることで、こうした情報共有ができなくなるのではないかと危惧された。

 つい最近も、フリーゲージトレイン(注2)の開発に失敗した結果、博多~長崎間全面開通のめども立たないまま、西九州新幹線が武雄温泉~長崎間だけの「孤島」の形で開業せざるを得なかった。新幹線のような時速200kmを超える高速度でのフリーゲージトレインの実用化例は世界的に見ても存在せず、できないことをできると強弁して開発を強行しているのではないかと危ぶむ識者の声も当初からあった。こうした事態は現場部門と技術開発部門が連携していれば防げた可能性もあり、筆者はこの失敗も国鉄のままなら考えられなかったと思う。JR総研自体、研究発表をやめたわけではないものの、一般メディアで話題に上る姿ももう何十年も見ていない(これには、科学リテラシーを持つ記者がほとんどいないというメディア側の問題も大きい)。

 ●一気に騒がしくなったローカル線

 ローカル線に関しても『コロナ禍を機に、日本国内の鉄道はさらに「見直し」が進んでいるが、鉄道会社任せ、地方自治体任せで国の積極的な介入が見られない。それどころか、線路を剥ぐこと、細分化していくことしか考えていないように見える』と高木さんは指摘する。これは大半の市民が感じていることでもある。

 最近の鉄道や公共交通に関する議論を見ていると、公共交通が市民に頼りにされておらず、特に地方鉄道は移動手段として選択肢の1つにすらなっていないように感じられる。鉄道は「SLやイベント列車が走るときに乗りに行くもの」「外国人観光客が乗るもの」になってしまっており、地元住民の日常移動はすべて車。ひどい人になると、自宅の前にバス停があることすら知らなかったというケースも珍しくない。

 筆者は、2006年にヨーロッパ数カ国を回ったが、地域の拠点駅や公共施設の周辺には自動車乗り入れを禁止している都市も多い。公共交通をどんなに便利にしても「ドアツードア」の自動車には勝てないのだから、これからのまちづくりはヨーロッパのようにあえて「車を不便にする」方向に切り替えるべきである。

 『各旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社の輸送の安全の確保及び災害の防止のための施設の整備・維持、水害・雪害等による災害復旧に必要な資金の確保について特別の配慮を行うこと』――1987年11月、国鉄改革関連8法案が参院で可決・成立した際の附帯決議にこのような1項目がある。「鉄道ジャーナル」11月号に、地方の人から「鉄道は雨や風ですぐ止まり、大事な用事では使えない」と言われる、と鉄道の現状を憂える株式会社ライトレール・阿部等社長のコメントが掲載されている。こうした事態を招いたのは附帯決議を政府が放置したからだ。自民党にとって道路は票になるが鉄道はならないからだと、この間、多くの人に聞かされた。国民が切実に存続を願っている社会インフラを朽ち果てるまで放置しながら、票と金のためなら悪魔やインチキカルト宗教とも平然と手を組んで恥じない自民党。この際、国鉄のように自民党も「分割・民営化」し、従わない者は「自民党清算事業団」にでも送った方が日本のためになる。

 前述した高木聡さんの論考でも明らかなように、鉄道を知悉する人材が分割民営化によって育たなくなった。鉄道を再建しようにも、そのための人材が払底していることを筆者は最近痛感する。150年前の鉄道黎明期、多くの人材がヨーロッパ諸国に学んだように、今こそ鉄道再建に成功している海外の知見に率直に学ぶときだと考える。

 情けないのはJRの労働組合や鉄道ファンも同じである。鉄道縮小は労働組合にとっては職場が縮小すること、鉄道ファンにとっては趣味活動の対象が縮小することを意味しているのに、全く鉄道再建を求める声が上がらない。報道されるのは内輪の論理に汲々とする労働組合、非常識な「撮り鉄」の話題ばかりで嫌になる。

 鉄道150年。メモリアルイヤーを通じて見えてきたのは、鉄道衰退から再建へ向け道筋を描く困難さである。狭い列島に小さな鉄道会社ばかりがひしめき、技術・人材から列車運行に至るまで何もかもバラバラの現状。ほとんどが問題意識も持てないJR労組、趣味活動に逃げ込み非常識な行動を繰り返すだけの「マニア」、動こうとしない政治・行政、鉄道なんて自分は乗らないからどうでもいい一般市民……「複合的要因」が重なり合う鉄道衰退の困難な背景が見えたからだ。それだけに「こうすれば再建できる」という特効薬もありそうになく、苦悩だけが深まっている。

 ローカル線見直しの動きは続いている。JR西日本に続いて、7月28日にはついにJR東日本までが赤字線区を公表。翌29日、朝日・毎日・読売の全国主要3紙の1面トップをローカル線問題が飾った。これに先立つ7月25日には、国交省「鉄道事業者と地域の協働による地域モビリティの刷新に関する検討会」によるローカル線問題に関する提言も公表され、ローカル線周辺が一気に騒がしくなってきた。

 全国に先駆けて、2016年11月に北海道で「自社単独では維持困難」10路線13線区が公表されてから早くも5年半。北海道の「地域問題」に押し込められ、道外ではどんなに訴えても理解してもらえなかったローカル線問題がようやく全国課題になるのだと思うと、身が引き締まる思いがする。北海道ではローカル線維持を求める闘いはすでに終局ムードだが、全国レベルで言えば、ようやくスタートラインに立つのだ。

 ●「鉄道40年周期説」

 ところで、日本の鉄道の歴史を紐解いていくと「ある法則」が見えてくる。

 今年は1872年に日本初の鉄道が開業してからちょうど150年に当たる。新橋(現・汐留)~横浜で開業したのは官設鉄道だったが、その後は民間による鉄道建設を政府が認めたことによって、現在の全国鉄道網を形作る主要幹線の多くが民間の手によって建設された。

 日露戦争で日本はなんとか勝つには勝ったが、鉄道会社の境界駅で貨物が何日も運ばれないまま放置されるという事態が頻繁に起きた。この事態を重く見た軍部が、バラバラに別れていた鉄道会社の統合を強く主張する。1906年3月27日、第22回帝国議会衆院本会議は、西園寺公望内閣提出の鉄道国有法案を強行採決で成立させた。「鉄道時報」は裁決時の衆院本会議場の様子を「怒号叫喚」と報じている。

 次の変化は敗戦後に訪れる。侵略戦争遂行に官営鉄道が果たした役割を問題視したGHQ(連合国軍総司令部)が、鉄道の意思決定を政府から切り離すよう要求した。当時、官営でなければ民間企業の形態しか知らなかった日本政府は民営化を計画するが、敗戦後の経済混乱で全国民がその日暮らしの状況の中、金のかかる鉄道の経営に乗り出す民間企業など現れるはずもない。結局、米国で採用されていた公共企業体方式の導入をGHQに提案された日本政府は、他に妙案があるわけでもなくこれを受け入れる。1949年6月1日、日本国有鉄道発足式では、当時の運輸大臣が職員に対し、諸君はこれから運輸省の役人ではなく「パブリック・コーポレーション」の社員として職務に当たるよう訓示している。

 そして、本誌の大方の読者が記憶している次の大変革は1987年4月1日の国鉄分割民営化である。1872年の鉄道開業から1906年の全面国有化まで34年、ここから1949年の公共企業体発足まで43年。公共企業体が再度分割民営化される1987年までが38年。日本の鉄道は、おおむね40年周期で経営形態を大きく変えてきたことがわかる。私はこれを「鉄道40年周期説」と名付けたいと思う。

 日本全体で見ても、明治維新のどん底(1868年)から日露戦争勝利(1905年)まで37年。太平洋戦争敗戦(1945年)でどん底に落ちた日本は1985年に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われる頂点に立つ。山から次の山まで、谷から次の谷までが80年であることから、歴史家の半藤一利さんは生前これを「日本80年周期説」と呼んだ。しかし、山と谷を40年周期で繰り返している点では鉄道と同じ40年周期であるとの評価もできる。要するに鉄道の経営形態の変革は、日本社会全体の山と谷による40年周期を数年遅れで追っているのである。

 1985年を頂点とする半藤説に従うと、日本社会が迎える次のどん底は2025年となる。原発事故、コロナ、ウクライナ戦争と苦難が続く中、日本人の人心荒廃と劣化を目の当たりにすることが増え、確かにここ数年は閉塞感、終末感がかつてなく強まっている。なぜ80年周期なのかについて、半藤さんは多くを語らないまま旅立ったが「人間は、……与えられた、過去から受け継いだ事情のもとで(歴史を)つくる」(「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」マルクス)という歴史書の記述を意識するなら、人生80年といわれる今日、ちょうどその長さに匹敵する時間を単位として歴史が次の局面に移行するのだと考えてもそれほど大きくは外れていないだろう。

 鉄道に話を戻すと、もうひとつ重要な点がある。民営鉄道から国有化へは、会社境界駅での滞貨に業を煮やした軍部主導で変化した。官設鉄道から公共企業体への変化は、国家意思と軍事輸送を分離するよう求めるGHQの意向が大きかった。国鉄分割民営化は、モータリゼーションの進行によって鉄道貨物の地位が急低下する中、財界主導で起きた。過去、40年周期で3回起きた鉄道の経営形態の変化からは、いずれも(1)旅客ではなく貨物輸送の行きづまりを直接の契機としている、(2)軍部、GHQ、財界など、その時代において鉄道当局が抗うことのできない絶対権力者からの「天の声」によって行われる一方、鉄道当局みずからは受け身で一度も主導的役割を果たしていない――という2点が見える。

 もし歴史が繰り返すなら、鉄道40年周期説における「次」の節目、すなわち2027年頃を目標として、JRグループの「次」をめざす動きがよりはっきりしてくるだろう。本稿で取り上げた一連の出来事も「次」への予兆と見て間違いない。今回も事態は旅客輸送よりも貨物輸送、鉄道当局自身よりも外的要因によって動くだろう。

 このように分析すると「次」がどのような形を取って私たちの前に現れるかが見えてくる。旅客輸送は上下一体、貨物だけが上下分離という変則的な分割形態の是正が「次」の主要テーマになる。上下一体を維持するか「下」のみにとどまるかは別として、地域6社分割の弊害を是正する方向での変化となるであろう。主導権を誰が握るかはまだ見えないが、少なくとも国交省やJRグループ自身でないことだけは確かだ。これ以上の廃線を避けたい地方、災害で鉄道が運休するたびに荷物が停滞して被害を受けている物流業界、脱炭素を求める「外圧」、ウクライナ戦争を受け鉄道による軍事輸送のオプションを残したい防衛省などの意向が複雑に絡み合い、事態は進行していくと予想する。

 ●元国労闘争団員も「路線存続をあきらめない」

 こうした中、筆者は、9月22日18時から北海道新得町で開催された「根室本線の災害復旧と存続求める意見交換会」(主催―根室本線の災害復旧と存続を求める会)に参加した。根室本線は、2016年の台風災害以来、東鹿越(ひがししかごえ)~新得で今もバス代行が続き、この区間を含む富良野~新得の廃線が提起されている。

 意見交換会は、コロナ禍による中断を挟みながら年1~2回開催されている。地元住民の廃線反対の意思を確認する重要な場だ。

 会の事務局長を務める佐野周二さんは、国鉄分割民営化の際JRに採用されなかった元国労帯広闘争団員。被解雇者が雇用・年金・解決金を求め、国鉄の法的後継法人、日本鉄道建設公団を提訴した「鉄建公団訴訟」の原告だった。佐野さんにとって根室本線の廃線提起は、自分の雇用を奪うことで発足したJR北海道が今度は地元の足を奪おうとする「第2の攻撃」だ。

 意見交換会では、平(ひら)良則代表が「JRは復旧のため何もせず、私たちが諦めるのを待っているだけ。彼らが諦めるのを待っているなら私たちは諦めない」と決意表明した。

 労組動員もなかったが、参加者は50人近くに上り、前回を上回った。貨物輸送や観光輸送に鉄路を役立てようとの意欲的「対案」も参加者から出された。

 JRが2016年11月に廃線提起した5線区のうち廃止届が出されていないのはここだけ。「住民と行政が連携しないと本当に廃線になる」(参加者)との危機感は強い。一方、他の4線区がすべて盲腸線(行き止まり路線)だったのに対し、この区間の廃線はつながっている線路を断ち切って直通できなくするもので影響は比較にならない。

 意見交換会に先立つ22日14時半から、北海道十勝総合振興局(帯広市)に根室本線存続と災害復旧を求める要請行動を行った。JR同様に何もしていない道庁の眠りを覚ますため、要請書には「JRを指導することは道の基本的責務」と書き込んだ。40分近くに及んだ要請。振興局は神妙な面持ちで「道庁本庁に上申する」と約束した。

 国鉄闘争終結から10年。元支援者(筆者)と鉄建公団訴訟原告が再び連帯する闘いの形を作った。

 意見交換会では安倍国葬反対署名が28筆集まった。根室本線は10・5億円あれば復旧できるのに、安倍国葬に16億も使う政府。地元の怒りは噴出して当然だ。

注1)「日本の鉄道」はもはや途上国レベル? 国鉄解体の功罪、鉄路・技術も分断され インフラ輸出の前途も暗い現実(Merkmal)

注2)フリーゲージトレインとは、軌間可変式電車;標準軌(新幹線や一部私鉄に採用されている1485mm軌間)と、狭軌(JR在来線に採用されている1067mm軌間)を直通できる車両のこと。

(2022年10月22日)

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「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」の旅(第4日目/最終日)

2022-10-24 23:05:08 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
朝。地元では名門である「下田聚楽ホテル」にせっかく泊まっているのに、素泊まりプランしか確保できなかったこともあり、朝食を摂りに外に出る。前日決めていたとおり、すき家で朝食。

下田聚楽ホテルのエレベーターは昭和感が満載。未だにこんなエレベーター、残っているんだ……


下田聚楽ホテルの外観。さすがは老舗。


これまでは結構、ハードスケジュールだったこともあり、今日は伊豆急下田10:06発「踊り子4号」で出発と、かなり遅めにしている。朝食後、大浴場で朝風呂。温泉地での当ブログ管理人の楽しみが、この朝風呂である。

下田聚楽ホテルを9:30過ぎにチェックアウトし、ホテルの送迎バスで伊豆急下田駅に向かう。乗客は私1人だった。もう一度、9:50頃にホテルを出て駅に向かう運行があるようだが、それでは「踊り子4号」に乗るにしてはギリギリすぎる。みんなのんびりしているなぁと思いつつ、早めに駅に着く。

おいしいかどうかわからないが、ご当地モノとして「金目鯛かるせん」をお土産に買い、「踊り子4号」に乗る。この列車は全席指定なので、「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」の指定席枠の3回目をここで使う。

出発を待つ「踊り子4号」E257系(伊豆急下田駅)


旧国鉄時代、特急・急行列車の愛称名は走行する地域にちなんでつけられることが多く、山の名前(「富士」「あさま」など)、川の名前(「しなの」「しまんと」など)、海の名前(「宇和海」「オホーツク」など)のようにほとんどが自然に由来していた。人間に関するものは列車愛称に採用しにくいためあまり例がなかったが、「踊り子」は人間にちなんだ珍しい愛称名として、国鉄時代からの古い鉄道ファンには有名な存在だった。私鉄でもこのような例はほとんどなく、全国的にも珍しいのではないだろうか。

ちなみに、1957(昭和32)年、「踊子」(歌:三浦洸一)という曲がヒットしている。

踊子(昭和32年)


定刻に伊豆急下田を出た「踊り子4号」は伊豆急~伊東線内をゆっくり走る。途中、海の見える区間もあるがそれほど多くない(海だけなら、五能線や山陰本線など、もっと見える路線はたくさんある)。だが、熱海から東海道本線に入ると一気に速度を上げる。常時、100~120km/h程度は体感的にも出ている感じだった。

この区間を特急列車で通るのは、GWの「サンライズ出雲・瀬戸」以来だが、わずか5ヶ月半前なので最近の感覚だ。12:49、定刻通り東京着。ここで昼食とする。結構な込みようで、八重洲口8階のパスタ屋が唯一、待たずに入れそうな店だった。食後にコーヒーを摂り、ゆっくり目の昼食とする。

夕食時間はちょうど新函館北斗あたりになるが、ここに何もないのは初日に痛い目に遭って調査済みなので、夕食も八重洲口の「大丸」地下食品街で弁当を調達しておくことにした。これで夕食の心配はなくなったが、本当にこれでいいのだろうか……と思わざるを得なかった。

北海道にいると「東京一極集中で地方は寂れ、衰退するばかり」という声を毎月のように聞くが、新函館北斗駅前に気軽に入れる飲食店の1、2軒でもあるなら本当は私だってこんなことはしたくない。北海道内で食べる夕食まで東京で調達せざるを得ないのは、北海道内にまともな店がないからである。一極集中が悪いとよく言うけれど、地方に金を落としたくても、それができないようにしているのは地方自身ではないのか? そんな矛盾も見えた3泊4日の旅も、そろそろ終わりが近づいている。

東京から14:20発、東北~北海道新幹線「はやぶさ27号」を待つ。差額を支払ってでも「グランクラス」に乗りたいところだが「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」はグランクラスには使えないルールだ。全席指定なので、指定席枠最後の4回目をここで使う。

【字幕解説付き】2022.10.24 東北~北海道新幹線はやぶさ27号 新青森~新函館北斗 ノーカット


「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」は有効エリアが新青森まで。新青森~新函館北斗は事前に「えきねっと」で購入しておいたe-チケット情報をSuicaに記録している。東京~新函館北斗を通して同じ席に座り続けられるよう、同じ席を通しで押さえているものの、ここで疑問がわく。

本来、えきねっとで購入したe-チケットは、乗車駅で自動改札を通れば、下車駅でも自動改札を通れるが、今回は「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」との併用で、東京~新函館北斗を通しで乗車するため新青森の自動改札は通りたくても通れない。このまま新函館北斗で自動改札を通って下車できるのだろうか?

乗車前に東京駅のみどりの窓口で確認したところ、「乗車記録がないので新函館北斗駅で自動改札は通れません。「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」と、e-チケット情報が記録されているSuicaの両方を有人改札で提示して下車してください」とのこと。この回答は予想通りである。

18:29、定刻に新函館北斗着。有人改札で下車し、新函館北斗駅の待合室で弁当を食べる。札幌方面への最終列車となる「北斗21号」(新函館北斗19:05発)に乗り換える。定刻通り、南千歳22:05着。3泊4日の長い旅が終わった。

新青森~新函館北斗の通常運賃に特急券の乗継割引を受ける場合と、「えきねっと」で40%引きとなる「トクだ値」運賃・料金を「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」に合算した場合とで事前に比較してみたが、40%引き「トクだ値」のほうが安かった。結局、乗継割引は運賃には適用されず、特急券の在来線部分が半額になるだけなのに対し、「トクだ値」は運賃にも40%引きが適用されるのだから、比較にもならないだろう。

国鉄時代に制度設計された特急券の乗継割引制度は、もともと新幹線と在来線を乗り継ぐ場合は在来線側が、本州と北海道・四国を乗り継ぐ場合は北海道・四国側の特急料金に半額割引を適用するというものだった。全国1社の国鉄時代は問題にならなかったが、どちらにしても北海道・四国側に不利になる国鉄時代の制度が、分割されたJR6社にそのまま引き継がれた。一般の人にはなかなか気づかれにくいが、こうした細かい制度設計もJRグループの中で北海道・四国の経営だけが特に苦境に陥った原因として、指摘しておく必要がある。

本州と北海道を乗り継ぐ場合に、在来線の特急料金部分だけ半額割引を適用する制度しかなかったところに、かなり時代が後になってからえきねっと「トクだ値」システムができたのは、割引部分をJR北海道が負担する制度からJR東日本が負担する制度に変更することによって、JR北海道を救済するという営業政策上の理由もあるものと、当ブログは考えている。

「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」は、その名称・性格から今年だけの限定発売で終わらせるつもりなのだろう。だが、この切符がなければ他の交通手段(飛行機・高速バス等)を使っていたであろう層を、この切符が新たに掘り起こしたことは紛れもない事実である。今回、この切符を使って旅をしているらしい旅行客をそれなりに見かけた(普通列車ですむような短区間でわざわざ新幹線に乗ったり、「乗り放題なので○○にも行こう」などと話していたから、すぐにわかる)。コロナ禍で乗客が減り、ガリバー・JR東日本とはいえ経営は楽でないことは事実だろう。だが、できることなら名称は変えてもいいので、この切符の発売は今後ともぜひ続けていただきたいと思っている。

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「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」の旅(第3日目)

2022-10-23 21:59:25 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
「アイホテル京急蒲田駅前」を出て、京急で品川へ。品川から横須賀・総武線に乗り換え、錦糸町へ。総武緩行線に乗り換える。当然ながら「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」のエリア内なので、JR線はこれで乗れる。亀戸から東武亀戸線を1駅だけ乗り、亀戸水神で下車。亀戸中央公園に向かう。今回の上京の目的である「団結まつり」に参加するためだ。

この団結まつり、元々は国鉄分割民営化時の被解雇者を支援するためのまつりとして始まったのがきっかけだ。JR不採用問題は10年前に「解決」してしまったが、このまつりだけは争議の内容を変えながら現在も続いている。

コロナ禍のため、亀戸中央公園など屋外公園でのイベントが東京都の方針で禁止され、過去2年、屋内会場での開催を余儀なくされた団結まつりが、行動制限がなくなり、3年ぶりに亀戸中央公園に戻れたのは喜ばしい限りだ。JR不採用問題の「解決」以降、最大の争議がJALであることも変わらない。2010年の大晦日、165名が解雇された争議はいまなお続いている。

以前は当ブログ、安全問題研究会でも取り上げてきたJAL争議。どのようになっているのかと心配な諸氏もいるかもしれないが、実は、今このJAL争議は重大局面を迎えている。12月上旬には、当ブログでも概要をお知らせしたいと考えている。

東京での団結まつりに参加するのは5年ぶりになるだろうか。参加目的は、当ブログ管理人が執筆に加わっている「地域における鉄道の復権─持続可能な社会への展望」と月刊誌「住民と自治」2022年8月号~「住民の足を守ろう―権利としての地域公共交通」を販売するためだ。前者は5冊、後者は15冊持ち込んだが、もともとこの問題に関心の高い人々が集まる場だけに、昼過ぎには完売。もっと持ち込んでおけば良かったと思うほどの売れ行きだった。

今回、久しぶりの団結まつり参加ということで、こちらも久しぶりに内容を刷新した「国鉄車両記号及び特殊表記符号一覧表」も5部限定で持ち込んだが、こちらも完売した。

売るものがなくなり、昼からは他のブースやステージ企画などを見る。沖縄からわざわざ基地問題の報告をするため上京した三上智恵さんの報告内容にはすさまじいものがあった。台湾有事は沖縄が消し飛ぶくらいで東京や「本土」に火の粉なんて飛んでこないと思っているとしたらとんだ間違いだ。

ウクライナ戦争がこのままエスカレートすれば、当ブログ管理人が子どもの頃に放送され、世界を震撼させた映画「THE DAY AFTER」がいずれ現実になりかねない。こんな世界の終末と引き換えにしてまで貫かなければならない「正義」など存在しない。欧米諸国が世界全滅と引き換えにしてでも守り抜かなければならない「自由」とは大企業本位の資本主義にすぎない。その程度の「正義」とやらにいちいち付き合っていたら命はいくつあっても足りない。無益な戦争は終わらせなければならない。

15時にまつりが終了後、ブースを畳んで15:30には撤収。本来なら明日の月曜は通常勤務の当ブログ管理人はここで帰宅の途につくところだが、「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」の有効期間はまだ丸1日残っている(初日の南千歳~新青森は経路外のため、有効期間はこの旅2日目から)。フル活用しなければ、こんなチャンスは二度とないかもしれないと思い、明日は休暇を取っている。

朝、ホテルを出るとき室内に置き忘れてしまったビデオカメラを回収するため、再び「アイホテル京急蒲田駅前」に向かう。無事回収、保管してくれていたフロントにお礼を述べ、今夜の宿泊地である静岡・下田市のホテルに向かうため、Suicaで蒲田から京急に乗り、横浜へ。

【激走】2022.10.23京急エアポート快特 京急川崎~横浜


横浜からは16:44発、東海道本線1585Eで伊東に向かう。さすがに2時間近くロングシートの普通車は体力的にきついと思ったので、ここだけはグリーン車にする。「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」の「ご案内」に普通・快速列車のグリーン車については何も記載されておらず、乗れると判断。横浜駅の券売機でSuicaにグリーン券情報を記録して乗車する。車内で3本目の原稿を執筆、完成させる。これでようやく楽になった。

上野東京ラインが開業してから首都圏の列車は運転距離が長くなった。この列車も始発の宇都宮から伊東まで231.0kmも走る。伊東には定刻、18:31に着く。「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」はJR東日本エリアの一部大手私鉄もカバーしており、伊豆急行線も乗れるのはありがたい。伊豆急行線は当ブログ管理人にとって未乗車なので、これを機会に乗っておきたいと、わざわざ行き先に下田市を選んだ。

同一ホームで伊豆急下田行きに乗り換える。わずか4分の乗り継ぎ時間で、18:35伊東発の伊豆急行701列車はゆっくりとホームを滑り出した。すでに外は真っ暗で、車窓風景はまったく見えない。

1時間18分、各駅停車の行程で19:53、終点・伊豆急下田に定時到着。ホテルの客室にビデオカメラを置き忘れ、回収に行くというハプニングもあったが、団結まつり会場を予定より30分早く撤収できたため、結果的には当初計画通り東海道本線1585Eに乗車できた。新橋から乗車予定だったところ、このハプニングで横浜乗車に変わってしまったが……。鉄道側のトラブルによる遅延等は一切なく、夕食に菓子パンしか食べられなかった初日を除けば順調に来ている。

ただ、伊豆急下田駅到着後、宿泊予定の「下田聚楽ホテル」までの足をどうするかは決めていなかった。駅からホテルまでは1.7kmもあり、すっかり夜の帳が降りたこの時間になって歩くには遠い。昔のように自分も若くないことは、GWの四国で思い知らされた。駅前のバス停で時刻を調べたが、ホテル方面へ向かうバスはすでに終わっていた。「下田聚楽ホテル」の送迎バスも、この時間は稼働していないため、ここだけはやむなくタクシーを利用することにした。

残念だったのは、ここも行楽シーズンで素泊まりプランしか予約が取れなかったことだ。チェックイン時にフロントで飲食店情報を得ようとしたが、地元資本の飲食店を「日曜のこの時間から探すのは、ちょっと難しいと思いますね。すき家さんなら開いていると思いますが、時間が時間だけに、電話して確かめてから行かれた方がいいと思います」(フロントの女性係員)。

チェックインして部屋に入り、荷物を置いて外に出る。タクシーで来る途中、目についたジョナサンとすき家に賭けるしかなさそうだった。どちらもホテル前の国道を徒歩ですぐなので、直接行って確かめる。ジョナサンは23:30までの営業、すき家は24時間営業(さすが、ワンオペのすき家だけのことはある!)でどちらも開いている。考えた結果、すき家は明日の朝食に回すことにし、ジョナサンを選ぶ。まともな食事ができたのは幸いだった。

ホテルに戻り、プロ野球日本シリーズを見る。3-3で引き分けのまま、第2戦はヤクルト、オリックスいずれも譲らず、延長12回、規定により引き分け。試合終了はなんと23時8分だった。

ようやく温泉に入る。さすがは一流温泉地だけあって、申し分なくいいお湯だった。

<完乗達成>伊豆急行

ここまで、今回の旅で達成した完乗路線は奪還含め5路線。2022年はすでにGWに5路線、8月にも5路線を完乗しており、これで15路線となった。完乗がこんなに進んだ年は、近年ちょっと記憶にない。少なくとも、原発問題に忙殺されるようになった2011年の福島第1原発事故後では初めてである。鉄道開業150年のメモリアルイヤーにふさわしい成績にはなった。

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「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」の旅(第2日目)

2022-10-22 22:59:25 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
午前6時に起床。直ちにホテルを出る。滞在時間はわずか6時間半だ。睡眠も6時間未満だったが快眠できた。菓子パンサービスへのお礼を述べ、チェックアウト。徒歩で駅に向かう。

だが、昨夜とは違うルートのためか、思いのほか時間がかかり、着いたのは6時半頃。632M発車まで数分しかない。「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」を発券している暇もない。やむを得ずSuicaで自動改札を抜け、632Mへ。6:40、新青森着。

ここから6:49発「はやぶさ8号」に乗車するが、乗換時間はわずか9分! 発券のため、いったん改札外に出ていたらとても間に合いそうにない。当初の予定では発券などとっくに済んでいるはずだったから、余裕時間をまったく見ていなかった。新幹線乗換改札口に行くと、マルス端末がちらりと見える。ここなら何とかなるかもしれないと思った私は、えきねっとの購入記録を係員に見せ、ここまでの事情を説明。「ここで何とか発券できませんか」とお願いしたら、発券してもらえた。ようやく切符を手にし、「はやぶさ8号」へ。

実は、この週末が締切の原稿執筆依頼を3つも抱えている。車内で落ち着く間もなく、移動しながら1本目の原稿(原発政策に関するもの)に着手。何とか完成させ、送信。東北を走りながら原発政策に関する原稿とは因果を感じる。

仙台(8:56着)で下車。朝食後、仙石東北ライン特快5521Dに乗車。仙石東北ラインは路線名ではなく運転系統名だが、2015年に営業開始した塩釜~高城町の連絡線区間は未乗車のまま。ここに乗ることも今回の目的のひとつである。仙台~石巻はすべて電化区間だが、東北本線は交流区間、仙石線は直流区間。常磐線用の特急車両以外、仙台地区には交直流車の配置がないため電車は直通できず、ハイブリッド気動車HB-E210系で運行されている。列車番号も気動車列車を表す「D」だ。

塩釜駅を出た5521Dは東北本線を快調に飛ばす。塩釜発車後、右から徐々に仙石線が接近。下り線から上り線に入った5521Dは、東北・仙石両線の線路が最も近づいたところに新しく設置された渡り線を使ってするすると仙石線に入る。単線となった仙石線では、さすがに東北本線に比べ速度は落ちるが、停車駅を矢本だけに絞り、快調に走る。10:14、石巻着。渡り線区間わずか0.3kmとはいえ、新規に線路が敷かれ、そこに営業キロが設定された場合には、営業線の新規開業として乗らなければならないのが当サイト(汽車旅と温泉を愛する会)の全線完乗ルールだ。我ながら厳しいルールだとは思う。

<写真>石巻駅で、折り返し仙台向け発車を待つHB-E210系


石巻からは、石巻線1631D(10:35発)で女川を目指す。東日本大震災による津波で線路が流され、付け替えられた結果、陸前大塚~陸前小野、浦宿~女川の2区間は営業キロが変更となった。「線路付け替えで営業キロが変更となった場合は、乗り直し」が当サイトの全線完乗ルールだ。決めた当時はそれほど厳しいルールとは思わなかったが、東日本大震災という数百年に一度レベルの災害によって、自分の決めたルールがこんな形で自分の首を絞めることになるとは予想もしていなかった。

付け替え区間(陸前大塚~陸前小野)の途中にある野蒜付近は、都市部でもないのに線路がわざわざ高架化されていた。今後、何度も津波が襲ってくるとの判断だろう。

石巻線には「渡波」(わたのは)という駅がある。過去、何度も津波に襲われた歴史がこの地名に込められている。地名を見ただけで、素人でも津波常襲地帯だと理解できるのに、こんな場所に女川原発を建て「非常用発電機が高台だったから福島第1のようにならなくて良かった」などと呑気にほざいて反省もしない原子力ムラは100回くらい死ぬべきだと思う。


女川でいったん降り、すぐ同じ列車に乗り直す。11:08発1632Dと番号を変えた列車で慌ただしく折り返す。11:34、石巻着。DD200型牽引の貨物列車を見かけた。北海道生活が今年で10年目となる当ブログ管理人は、DD200の実車を今回、初めて見た。

<写真>石巻駅で見かけた石巻線貨物列車


石巻11:55発、仙石東北ライン快速558Dで仙台を目指す。再び「架線下DC」ならぬ「架線下ハイブリッド車」HB-E210系だ。特快は仙石線内の停車駅が矢本だけなのに対し、快速はそれ以外にも停車する点が異なる。12:51、仙台着。

仙台駅では、鉄道150年記念で鉄道模型展が開催され、走行イベントが行われている。駅前に手頃な食堂を見つけたので、ここで昼食とする。

新幹線含め、3日間乗り放題の「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」をフルに生かすには、やはり新幹線で距離を稼がなければならない。全線完乗を進める上で、手頃な未乗車路線を事前に探したところ、上田電鉄別所線が未乗車だった。ここなら話題性もある(後述)。13:45発「やまびこ142号」で大宮に向かう。始発駅からの乗車なので、自由席でも座れると見て、ここは指定券を取らなかった。「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」では、3日間の有効期間中、指定席券発行を受けられるのは4回まで。すでに「はやぶさ」で1回使い、今後、全席指定の列車も控えているのに、こんなところで無駄遣いできない。少し早めにホームに行くと、行列はそれほどでもない。予想通り、自由席を確保。

途中、福島では、「やまびこ142号」の後部に「つばさ142号」が併結される。鉄道ファンなら当然見るべきだ。ホームに降り立ち、併結作業を見る。福島駅に来たのは、福島勤務時代の2012年以来、10年ぶりだ。

2022.10.22 やまびこ142号・つばさ142号併結シーン(福島駅)


ふたたび「やまびこ142号」に乗る。定刻通り福島を発車した「やまびこ142号・つばさ142号」で大宮へ移動中、2本目の原稿(こちら)を書き上げる。せっかく列車に乗ったのに、車窓さえ楽しむ暇がない。やれやれ。

大宮には定刻の15:23着。北陸新幹線「あさま617号」(15:29発)まで乗り換え時間はわずか6分だが、そこは勝手を知っている大宮駅。難なく乗り継ぐ。今回は途中駅からの乗り継ぎで、自由席に座れない可能性があると見て、ここで指定席枠2回目を使う。原稿はまだ1本、残っているが、上田まではわずか1時間。速筆に自信のある当ブログ管理人でも、さすがにこれでは完成は無理で、ここでの執筆はせず、初めて車窓をまじめに見た。上田、16:36着。北陸新幹線に乗ったのはいつ以来だろうか。思い出せないほど昔だが、記憶をたどると、2000年代初頭に、某サイトの鉄道研究会オフ会で長野の温泉を訪れた際に乗っているはずである。

上田からは、いよいよ上田電鉄別所線に初の乗車である。新幹線、しなの鉄道、上田電鉄は同一駅舎内で乗り継ぎは楽だった(しなの鉄道は元JRなのだから当然だが)。別所線といえば、まだ忘れもしない2019年、千曲川にかかる鉄橋が大雨で流され、最近復旧したばかり。経営体力のない地方私鉄だけに一時は廃線も選択肢に上ったが、鉄橋部分の線路だけ所有者を上田電鉄から上田市に変更する「上下分離」を実施。復旧費のうち97.5%が国費負担となることで、復旧にこぎ着けた。

その熱気が冷めないうちに、話題の鉄橋を見ておきたかった。上田発車後、すぐに現れた。地元の人の言葉通り、穏やかな川で、荒れ狂う姿は想像もできなかった。

日本一の長さを誇る信濃川は、長野県内では千曲川と呼ばれ、信濃川とは呼ばれない。信濃川と呼ぶのは新潟県側だ。「下流側の地域が、豊かな水の恵みを与えてくれる上流地域に対する謝意を込めて、上流地域の地域名を当てて信濃川と呼ぶ」(根津東六・元新潟県十日町市議会議員)のだと教えられた。

その話を直接、根津さんから聞いたのは、もう10年も前に開催された「千曲川・信濃川エコツアー」(報告記事)でのことだった。このツアー参加中に、根津さんらとともに参加した新潟県津南町でのシンポジウム「3・11以後の地域づくりの課題―自然との包括的な関係を築くために―」で、20代の若手ながら物怖じせず熱弁を振るっていたパネリストの1人、桑原悠さんが、今、津南町長2期目を務めている。桑原さんの初当選のニュースも、当ブログ2018年7月9日付記事で取り上げている。大半の読者はもうお忘れかもしれないので、再度、述べておきたい。

夜の帳が降りる頃、列車は別所温泉に到着(17:34)。温泉地にベストの時間に着き、もちろんここで1泊……としたかったのだが、観光シーズンまっただ中の土曜日のためか、この日、残念ながら別所温泉の旅館・ホテルはまったく取れなかった。明日、都内で迎える「本来の所要」の準備もあり、仕方なく確保している都内のホテルに戻ることにする。

別所温泉駅は、温泉観光地の玄関口となる駅だけに、歴史を感じさせる木造ながらもきちんと手入れが行き届き、暖かみが感じられた。このあたりが、災害でも復旧する鉄道と、廃線になってしまう鉄道の違いなのではないだろうか。

<写真>別所温泉駅


宿泊がかなわなかった魅惑の温泉地、別所温泉を後ろ髪引かれる思いで後にする。駅舎撮影後、17:39別所温泉発の列車で慌ただしく折り返す。18:08、定刻に上田着。

本来ならここで夕食とする予定だったが、駅前はいわゆる典型的な「飲み屋」ばかり。病気をきっかけに断酒した自分には合わないと思ったので、19:20上田発の「あさま630号」に乗る予定だったのを、急遽、18:35上田発「はくたか572号」に変更する。「あさま630号」に乗る予定で、自由席でもまぁ座れるだろうと想い、ここで指定席の発券はしていなかったが、「はくたか」は金沢発で乗車率が高い。通路側の自由席に何とか座れた。

東京に20時ちょうどに着く。東京駅地下街で購入した駅弁「八ヶ岳高原の鶏めし」を夕食とする。それでも菓子パンしか食べられなかった昨夜と比べれば恵まれている。京急蒲田駅前の「アイホテル京急蒲田駅前」に投宿。



<完乗達成>仙石東北ライン(東北本線)松島~高城町、仙石線〔奪還〕、石巻線〔奪還〕、上田電鉄別所線

奪還とは、過去に一度、全線完乗した路線に延長や線路付け替え等の理由で再び未乗車区間が発生した場合に、当該未乗車区間の全部に乗車し、全線完乗の記録を取り戻すことを指す当ブログ独特の表現である。前述の通り、仙石線・陸前大塚~陸前小野、石巻線・浦宿~女川は震災からの復旧過程で線路が付け替えられ、営業キロが変更となったため、乗り直しの必要が生じていた。

上田電鉄別所線は、廃線にならず復旧でき、本当に良かったと思う。この上下分離による災害復旧が、今後しばらくは災害復旧のモデルケースになるに違いない。

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「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」の旅(第1日目)

2022-10-21 23:53:48 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
一般人はもちろん、鉄道ファンもほとんどの人は、北海道から東京への移動は通常、飛行機を使っていることだろう。当ブログ管理人もご多分に漏れず普段はそうしているが、10月23日、都内での所用だけは「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」が発売されるとのリリースがあり、これを使って陸路で行こうと思う。

何しろ、3日間、東日本エリア全線で新幹線を含む自由席が22,150円で乗り放題という格安ぶりだ。通用期間は2022年10月14~27日のうち3日間ということで、都内で所用のある日が含まれる。これは使わない手はない。フリー区間の入口となる新青森までは別に切符を買う必要があるが、これを含めても飛行機往復よりかなり安くなる。

えきねっと限定発売ということで、早々と指定席券(有効期間内で4列車まで)を含め押さえたものの、問題は東日本エリアでしか発券できないこと。道内の駅で知らずに発券しようとしたがかなわず、発券は新青森到着までお預けである。

乗り放題型きっぷをフル活用するには、通用開始初日の朝一番からフリーエリア内で動いたほうが得に決まっている。そういうわけで、フリー区間の入口である新青森には今日のうちに向かうことにする。ただし、「鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷ」の通用期間は明日から開始とした関係で、今日は新青森までの移動で終わりである。

10月21日夕方、南千歳駅17:26発の「北斗40号」で出発。4日間の長旅の始まりで心がときめく。今年のGWに四国3泊4日の旅をしたばかりで、久しぶりというほどでもないのだが……

全国的にJRグループのサービスは低下の一途をたどり、車販は影も形もない。せめて出発前、千歳空港あたりで夕食を調達しておけば良かったと悔やんだが後の祭りだった。20:23、新函館北斗着。新幹線開業直後の2016年に来たとき、周辺に何もないことは調査済みだったが、さすがにそれから6年経ち、少しくらい変わって何かできているだろうと甘く考えていた。だがやはり現地に着いてみるとコンビニも徒歩圏にはない。夕食を考え、21:57新函館北斗発「はやて100号」まで1時間半も時間を作ったのに、手持ちぶさたに終わる。夕食も結局、摂れずじまいだ。

「はやて100号」で新青森に22:59着。23:07発奥羽本線4641Mでそのまま青森へ。コロナ禍もあり、当然、こんな時間まで営業している飲食店はない。まさか、初日から夕食抜きとは……

しかも、ここで鉄道開業150年記念東日本フリーきっぷの発券をする計画だったのに、みどりの窓口は22:00までで営業終了。指定席券売機すら23:00で取扱を終了している。明日は6:36青森発の奥羽本線632Mで出発予定だが、この調子だと早朝すぎて窓口も券売機もまだ営業開始前という可能性が頭をよぎる。

途方に暮れたが、切符を購入し、代金も払っている以上、自分には乗車する権利がある。こんなこともあろうかと、えきねっとの発券記録を印刷した紙を持ってきて正解だったと思う。購入の事実はこれで証明できるので、もし明日の朝一番でも切符の発券が不可能な場合は、入場券で改札を通って「強行乗車」し、車内改札が来たら事情を説明、発券記録を見せて押し切る決意を固めた。

せっかくいい切符を発売しているのに発券できないのでは意味がない。JRはいったいどこまでサービスを下げれば気が済むのか。利用者・国民の気持ちが鉄道から離れた原因は、こんなところにもあると思う。鉄道開業150年というこの大切なメモリアルイヤーに、ローカル線がかつてない危機を迎えているのに、こんな調子では鉄道を助けようという国民意識も芽生えないだろう。やはり、利用者不在、国民不在のJRの企業体制は変えなければならないとの思いを強くする。

青森駅から15分ほど歩き、日付も変わる直前の23時半過ぎ、ようやく初日の宿泊先の「ホテルセレクトイン青森」に到着。チェックイン時に「菓子パンをサービスしております」とフロントから案内があり、ありがたくいただく。結局この菓子パンと、駅前のコンビニで何とか残っていたサンドイッチがこの日唯一の夕食となった。当ブログ管理人は長く全線乗車活動を続けているが、ホテルのフロントで宿泊客に菓子パンのサービスというのは初めてだ。もともとこの地域の特性もあり、さらにコロナ禍も加わって、私のように夕食を食べられないままやってくる宿泊客が多いのかもしれない。

正直、このサービスはありがたかった。地元メーカーが製造している普通の菓子パンだが、空腹でのチェックイン直後で、おいしく感じられた。

明日は早いので、早々に入浴し、床に入る。今回の旅も初日からこんな調子では、半年前の四国と同様、先行き波乱は必至だ。果たして、予定通りこの旅を終えることができるのだろうか……?

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<地方交通に未来を(7)>かつてない哀しみの中で迎えた鉄道150年

2022-10-13 22:30:04 | 鉄道・公共交通/交通政策
(この記事は、当ブログ管理人が長野県大鹿村のリニア建設反対住民団体「大鹿の十年先を変える会」会報「越路」に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 「汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり」……鉄道唱歌にも歌われている日本初の鉄道が、新橋~横浜間に開業してから今年10月14日で150年になる。だが、日本各地に祝賀ムードは全くない。毎年、10月のこの時期になるとイベントを開催していた鉄道会社も、災害多発による業績悪化に加え、「非常識鉄道ファンの暴走」ばかりの現状に嫌気がさしたのか、ここ5年ほどはほとんどイベントも開催されなくなった。

 かくいう筆者も、国鉄分割民営化の時点で鉄道、特にローカル線の衰退は予想していたものの、このメモリアルイヤーをこれほどまでの哀しみをもって迎えなければならないとは正直、予想を超えていた。もしも今、国鉄がそのまま残っていれば、国鉄主催で様々なイベントが企画されたであろうし、「鉄道150周年記念国鉄全線10日間フリーきっぷ(1セット10万円)」発売くらいのことは行われ、全国の駅は利用客でごった返していたに違いないと想像すると、35年前に行われた「改革」とやらの罪深さが改めて浮き彫りになる。

 国鉄「改革」を今でも成功だと思っている人たちは、今の鉄道危機は会社分割のせいではないと主張するに違いない。この点について、アジア各国の鉄道を乗り歩き、レポートしている自称「アジアン鉄道ライター」高木聡さんはこう鋭く指摘する。『(国鉄改革の結果)国土の骨格たる鉄路を守ることができなかった。地域ごとに鉄路は分断され、整備新幹線開業による並行在来線化でそれはますます顕著になっている。災害が起きずとも、既に日本の鉄道はズタズタだ。一見、線路はつながっているように見えても、JR各社のみならず、最近は路線ごとに別々の信号やオペレーションのシステムを有し、国鉄型車両が減少し、各社独自設計のものが増えた結果、各線を相互に乗り入れることも難しくなりつつある』。1990年代以降、日本製鉄道車両の海外輸出が減り、ここ10年くらいは海外鉄道への車両輸出をめぐる入札でも日本企業は連戦連敗を続けている。これも『国としての技術が各社に散逸』した結果であり『少なからず国鉄解体も絡んでいる』と高木さんは断言する(注)。

 実際、日本では1990年代から2000年代初めにかけ、国鉄再建法の成立で工事凍結となっていた建設予定線の「凍結解除」に伴うローカル新線開業が続いた時期もあった(秋田内陸縦貫鉄道、智頭急行、阿佐海岸鉄道、土佐くろしお鉄道の延伸など)が、この時期を例外としてローカル線は縮小の一途をたどった。ローカル線向け鉄道車両メーカーはどんどん撤退し、路面電車メーカー・新潟鐵工のように倒産してしまった企業さえある。日本の車両メーカーは新幹線と大都市圏の電車に得意分野が偏っており、海外の鉄道会社が求める需要にマッチしていないため、思うように売り込みができないでいる。

 ローカル線に関しても『コロナ禍を機に、日本国内の鉄道はさらに「見直し」が進んでいるが、鉄道会社任せ、地方自治体任せで国の積極的な介入が見られない。それどころか、線路を剥ぐこと、細分化していくことしか考えていないように見える』と高木さんは指摘する。これは大半の市民が感じていることでもある。

 最近の鉄道や公共交通に関する議論を見ていると、公共交通が市民に頼りにされておらず、特に地方鉄道は移動手段として選択肢の1つにすらなっていないように感じられる。鉄道は「SLやイベント列車が走るときに乗りに行くもの」「外国人観光客が乗るもの」になってしまっており、地元住民の日常移動はすべて車。ひどい人になると、自宅の前にバス停があることすら知らなかったというケースも珍しくない。

 筆者は、2006年にヨーロッパ数カ国を回ったが、地域の拠点駅や公共施設の周辺には自動車乗り入れを禁止している都市も多い。公共交通をどんなに便利にしても「ドアツードア」の自動車には勝てないのだから、これからのまちづくりはヨーロッパのようにあえて「車を不便にする」方向に切り替えるべきである。

 『各旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社の輸送の安全の確保及び災害の防止のための施設の整備・維持、水害・雪害等による災害復旧に必要な資金の確保について特別の配慮を行うこと』――1987年11月、国鉄改革関連8法案が参院で可決・成立した際の附帯決議にこのような1項目がある。「鉄道ジャーナル」11月号に、地方の人から「鉄道は雨や風ですぐ止まり、大事な用事では使えない」と言われる、と鉄道の現状を憂える株式会社ライトレール・阿部等社長のコメントが掲載されている。こうした事態を招いたのは附帯決議を政府が放置したからだ。自民党にとって道路は票になるが鉄道はならないからだと、この間、多くの人に聞かされた。国民が切実に存続を願っている社会インフラを朽ち果てるまで放置しながら、票と金のためなら悪魔やインチキカルト宗教とも平然と手を組んで恥じない自民党。この際、国鉄のように自民党も「分割・民営化」し、従わない者は「自民党清算事業団」にでも送った方が日本のためになる。

 前述した高木聡さんの論考でも明らかなように、鉄道を知悉する人材が分割民営化によって育たなくなった。鉄道再建の人材が払底していることを筆者は最近痛感する。150年前の鉄道黎明期、多くの人材が英国やプロイセン(ドイツ)に学んだように、今こそ鉄道再建に成功している海外の知見に率直に学ぶときだと考える。

 情けないのはJRの労働組合や鉄道ファンも同じである。鉄道縮小は労働組合にとっては職場が縮小すること、鉄道ファンにとっては趣味活動の対象が縮小することを意味しているのに、全く鉄道再建を求める声が上がらない。報道されるのは内輪の論理に汲々とする労働組合、非常識な「撮り鉄」の話題ばかりで嫌になる。

 鉄道150年。メモリアルイヤーを通じて見えてきたのは、鉄道衰退から再建へ向け道筋を描く困難さである。狭い列島に小さな鉄道会社ばかりがひしめき、技術・人材から列車運行に至るまで何もかもバラバラの現状。ほとんどが問題意識も持てないJR労組、趣味活動に逃げ込み非常識な行動を繰り返すだけの「マニア」、動こうとしない政治・行政、鉄道なんて自分は乗らないからどうでもいい一般市民……「複合的要因」が重なり合う鉄道衰退の困難な背景が見えたからだ。それだけに「こうすれば再建できる」という特効薬もありそうになく、苦悩だけが深まっている。

注)「日本の鉄道」はもはや途上国レベル? 国鉄解体の功罪、鉄路・技術も分断され インフラ輸出の前途も暗い現実(Merkmal)

 (2022年10月10日)

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【転載記事】【原発事故と国内避難民】「〝自主避難者〟含め全員が『国内避難民』だ」 国連特別報告者・ダマリーさんが都内で会見 〝追い出し裁判〟には「国際法違反」ときっぱり

2022-10-09 22:30:28 | 原発問題/一般
原文=「民の声新聞」2022.10.8付け記事より転載。写真を含めた記事全体をご覧になりたい方は、リンク先へ飛んでください。

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9月26日から訪日調査を続けてきた国内避難民の人権に関する国連特別報告者セシリア・ヒメネス・ダマリーさんが7日午後、日本記者クラブで記者会見。「強制避難か自主避難かを問わず全員が国内避難民だ」、「特に脆弱な人々には住宅支援と基本支援を継続すべき」などと強調した。区域外避難者への〝追い出し裁判〟を続ける福島県知事には「国際法違反」、「国内避難民に対する明確な嫌がらせ」とも。訪日要請から4年を経て、ようやく実現した訪日調査。様々な権利侵害を目の当たりにしたダマリーさんは今日にも離日。来年6月に最終報告書を公表する予定だ。

【「政策決定に参加させるべき」】

 予想した以上の明快な表現だった。

 記者会見で配られた「調査終了報告書」。最後に「あくまで現時点での、とりあえずの考察」としたうえで、原発避難者について次のようにまとめられている。

 「強制避難か自主避難かを問わず全員がIDPs(国内避難民)であり、他の日本国民と同等の権利権限を有する」
 「支援や援助を受ける上での強制避難や自主避難の区別は取り除くべきである」
 「避難を継続する人々へは、特に脆弱な人々には住宅支援と基本支援を継続すべきである」

 報告書でダマリーさんは、原発事故による被曝リスクから逃れようと避難した人々について、「『強制避難者』と呼ばれる人々または強制避難命令の影響で避難を余儀なくされた人々、並びに『自主避難者』と呼ばれる人々または避難命令はないものの避難を余儀なくされた人々は、国際法の基では全てIDPs(国内避難民)と定義されており、災害により避難をする権利は移動の自由に基づく人権である」と明確に述べている。

 そのうえで、原発避難当時者から聴き取った結果として、原発避難者には①安心・安全と住宅に関する権利②家族生活に関する権利(母子避難問題)③暮らしの権利(就労問題)④健康に関する権利(被曝問題)⑤教育に関する権利⑥参加する権利(意思決定プロセス問題)─の6つの権利があり、政府の避難指示有無にかかわらず、等しく扱われるべきだとしている。

 特に⑥の「参加する権利」については、会見でこう強調した。

 「すべての権利を実施するにあたっては、避難者自身に影響を及ぼし得る決定に参加する条件が与えられなければならない。避難当事者の意見が反映されるような権利を堅持しなければならない。意思決定プロセスにおいて、何がどのような動機で決められるのかについて意見を述べる権利も保障されなければならない」

 これは、避難当事者たちが事故発生後、一貫して求めて来たことだ。しかし、福島県の内堀雅雄知事は一度たりとも避難当事者たちとの話し合いに応じていない。

 あくまでも現時点でのものだが、ダマリーさんは初期考察のなかで「強制避難か自主避難かを問わず全員が国内避難民である」、「強制避難や自主避難の区別は取り除くべき」と綴った。最終報告書は来年6月に公表されるという。

【「追い出し裁判は嫌がらせ」】

 現時点での報告書のなかで、原発避難者の住宅問題について、ダマリーさんはこう述べている。

 「残念ながら住宅支援の多くは打ち切られ、暮らしの見通しが立っていない貧困層や高齢者、障害者にとって大きな打撃となった。支援住宅に残る避難民は立ち退き訴訟に直面している。政府は、特に脆弱な立場にある避難民に対して移住先を問わず住宅支援策を再開することが推奨される」

 福島県の内堀知事は、中通りなど政府の避難指示が出されていない区域から県外に避難した区域外避難者(いわゆる〝自主避難者〟)に対する住宅無償提供を2017年3月末で打ち切り。2年間の家賃補助制度を設けたうえで、避難者に「自立」を求めた。2020年3月には、都内の国家公務員宿舎「東雲住宅」への入居を継続している区域外避難者4世帯を「不法占拠者」として福島地裁に提訴。被災県が、避難民に退去と家賃支払いを求めて〝追い出し訴訟〟を起こすという異常事態になった。裁判所は避難当事者も福島県知事も尋問せずに審理を終結。これまでに2世帯について「退去と長期分割支払い」での和解が成立している。

 しかし、そもそも国際法では〝追い出し裁判〟など誤りではないか。質疑でダマリーさんに質すと、こう答えた。

 「どのような試みであれ、人の移動の自由を制限しようということは国際法違反だ。たとえ国内法に基づいたとしても国際法違反となる」

 会見終了後、ダマリーさんと直接、話をした。彼女は「質問してくれてありがとう」と笑顔を見せた。もう一度、内堀知事の非情な権利侵害(〝追い出し裁判〟)について尋ねた。ダマリーさんははっきりと「イエス」と答えた。

 「今回の報告書には字数制限もあって細かく書けませんでした。より詳しくは来年6月の最終報告書に書きますが〝追い出し裁判〟など受け入れられません。国内避難民に対する明確な嫌がらせです。記事に書いて構わないか?もちろんよ。ぜひ書いて下さい」

 明確な国際法違反を続ける福島県知事。それを(一部を除いて)ほとんど追及しない地元メディア。司法も〝追い出し〟に加担している。これが原発避難者を取り巻く現実なのだ。

【4年も要した訪日調査】

 ダマリーさんは2018年8月30日、日本政府に訪日を要請。その後2020年1月と2021年6月にも念押しや督促を意味する「リマインダー」を出している。しかし、日本政府は新型コロナウイルスの感染拡大などを理由に〝放置〟してきた。

 昨年8月には、原発避難者などでつくる「国内避難民の人権に関する国連特別報告者による訪日調査を実現する会」など83団体が外務省に要望書を提出。次のように求めている。

 「国内避難に関する指導原則は、国内避難民である自主的避難者に対する基本的な避難所及び住宅の提供を求めていますから、住宅の無償提供打ち切りをそのまま放置するかのような状況が続くことは、指導原則の趣旨に反するのではないかという懸念を生じさせます。住宅の無償提供打ち切りでは複数の自死者が出ており、緊急かつ重要な問題であると私たちは考えています」

 「それだけではなく、国内避難民の安全、健康の確保、教育の保障、家族の離散防止、差別の防止など、さまざまな問題で人としての尊厳、身体的、精神的、道徳的に健全である権利が尊重されているとは言えません」としたうえで「日本政府としてすみやかにダマリー特別報告者の訪日調査の受入の意思表明を行い、ダマリー特別報告者に連絡をとった上、年内に同氏が訪日した折りには同氏が必要な調査を行うことについて協力をしていただきたい」

 日本政府の〝放置〟は国会でも問題となり、特に立憲民主党の山崎誠代議士は何度も訪日要請を受け入れるよう政府に求めて来た。

 「どうしてこれは受入れが進んでいないのか、お答えいただけますか。どうしてここまで先延ばしになっているんですか」(4月13日の衆議院経済産業委員会)

 「いつまで調整をしているのか、検討しているのか。私もこれは早く決着をつけたいんですが、いつまでたっても変わらない。2018年から続けていますので、もういいかげんに、ダマリーさんの任期も迫ってきているということですので、今日、結論を出していただきたい」(4月27日の同委員会)

 そしてようやく、小田原潔外務副大臣(当時)が今年5月11日の同委員会で訪日実現に向けて踏み込んだ答弁をしたのだった。

 「現地昨5月10日、ジュネーブの日本政府代表部から国連人権高等弁務官事務所に対し、ダマリー国内避難民特別報告者が希望する9月の最終週から10月中旬にかけての訪日を打診する旨、口上書により伝達をしたところであります」

 実に4年も要して実現した訪日調査だった。

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国連「国内避難民の人権に関する特別報告者」セシリア・ヒメネス=ダマリーさん(UN expert Cecilia Jimenez-Damary)会見 2022.10.07

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