安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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軍政系与党を下野させた市民の「底力」 歴史でたどるビルマ(ミャンマー)の過去、現在、そして未来

2016-01-25 21:10:44 | その他社会・時事
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2016年2月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 「国民は選挙結果についてすでに理解している」。歓声を上げる大勢の市民を前にして、長年、自宅軟禁の身であったアウンサンスーチー氏は高らかに勝利宣言した。スーチー氏率いるNLD(国民民主連盟)の別の幹部も「私たちは政権を担うことができる」と自信を示した。「私は大統領の上に立つ」という、いささか勇み足めいた発言もあり物議を醸したものの、この国の民主化のプロセスが止まることはないだろう。

 国際社会からの圧力の中で、2007年から民政移管の準備作業に当たってきたテインセイン大統領の与党、連邦団結発展党(USDP)は敗北を認めた。軍服を脱いだ元軍人が率いる非軍政政党による暫定政権から、民政移管を前提とした「自由選挙」により選ばれた政党による政権へ――長年の苦難を脱しつつあるこの国・ビルマの今後の展望を、本稿では歴史でたどりながら占ってみたいと思う。

注)本稿筆者は、NLDが圧勝した1990年総選挙の結果を認めず、不当な独裁で政権に居座り続けた軍政当局によるビルマからミャンマーへの国名変更を認めない立場を取っている。民政移管後の新政権による新しい決定があるまで、旧国名「ビルマ」と表記することをご了解いただきたい。

 ●ビルマを扱った2つの映画

 日本人の中でも映画ファンの人々は、ビルマと聞けば「戦場にかける橋」と「ビルマの竪琴」の2作品を真っ先に思い出すのではないだろうか。前者は太平洋戦争中、ビルマを支配していた日本軍が連合国軍の捕虜を使って建設した泰緬鉄道(タイ―ビルマ間の鉄道)を舞台とするものであり、米英合作映画として1957年に公開された。泰緬鉄道の建設では、日本軍によって連合国軍の捕虜が強制労働に駆り立てられ、おびただしい死者を出した。主題歌「クワイ河マーチ」は運動会など今なおいろいろな場面で使われているが、本来ならこのような場面で気安く使うような曲でないことはもちろんである。第30回アカデミー賞受賞作としても知られる。

 「ビルマの竪琴」は竹山道雄が児童向けに執筆した唯一の作品を、市川崑監督が1956年と85年の2回映画化している。日本への引き揚げを拒否し、戦没者の慰霊のため現地に残って竪琴の演奏を続ける日本兵・水島を、本稿筆者も観た85年版では中井貴一が演じている。

 この2作はいずれも戦争の悲劇を捕虜虐待の被害国(戦場にかける橋)、敗戦国(ビルマの竪琴)の側から描いたもので、いずれも視聴者の胸を打つ。だが、日本人のビルマに対する知識と言えばこの程度のもので、戦後のビルマは長らく謎のベールに包まれた国だったというのが実際のところではないだろうか。

 太平洋戦争中、日本軍の後押しでビルマの英国からの独立運動を指揮した人物の中に、スーチー氏の父であり、後に建国の父と称せられることになるアウンサン将軍がいた。アウンサン将軍は日本敗戦後の1947年、英国からの独立を前にして暗殺される。

 ●軍のクーデターからビルマ式社会主義へ

 その後、独立を達成したビルマは政党政治がうまく機能しないばかりか、中国の国共内戦など周辺諸国の戦乱の影響で政治的混乱と経済低迷が続いた。そうした中、政治的発言力を増した軍部が1958年、ネ・ウィン将軍をトップとする暫定政府を成立させる。1962年には軍部がクーデターにより全権を掌握。軍政の基盤となる「革命評議会」を設置した。

 初めは発展途上国では珍しくない、軍事力による強権を背景とした凡庸な軍事独裁政権と思われた。だが「革命評議会」はその後、国際社会が予想もしなかった意外な方向へ進み始める。

 『ビルマ連邦革命評議会は、この世に人間が人間を搾取して不当な利益を貪るような有害な経済制度が存在している限り、すべての人間を社会的不幸から永久に解放させることはできないと信じる。わがビルマ連邦においては、人間による人間の搾取をなくし、公正な社会主義経済制度を確立し得たときに初めて、すべての人民が民族、宗教の別なく、衣食住の心配を初めとするあらゆる社会的苦しみから解放され、心身ともに健康で楽しい豊かな新世界に到達し得るものと信じる』。

 これは、革命評議会を設立したビルマ軍の17人の将校たちが起草し、1962年4月2日に発表した綱領的文書「ビルマにおける社会主義の道」からの抜粋である。革命評議会の目指す方向性が明瞭に示されている。

 彼ら軍人たちは、1962年7月にビルマ社会主義計画党を組織。ネ・ウィンを議長とした。1963年1月にビルマ社会主義計画党が発表した文書「人間と環境との相関関係」では、同党の目指す道がより具体的に示されている。

 『新しい公正な社会主義社会では、人間による人間の搾取や弾圧、富の収奪などは存在しない。搾取するものがいない以上、階級間の対立や衝突もない。階級間の矛盾、衝突を解決する唯一の経済制度、それが社会主義経済制度である。社会主義経済制度では、生産活動はみんなの共同で行われる。みんなが共同で行う事業は、みんなで所有するというのが最も理にかなっている。ビルマ式社会主義とは、この社会主義経済制度を実践することにある。……社会主義社会の建設を担うのは、実際に働く労働者である』。

 日本におけるビルマ研究の第一人者、大野徹・大阪外語大名誉教授は、これらの文書に記載されている内容から、ビルマ式社会主義と標榜されていたものが「資本主義を否定し、生産手段を共有し、これを計画的に運用することによって、人間による人間の搾取がない平等な社会の実現を目指していると言う点で、まぎれもなく社会主義の概念を反映した考え方である」としている。ただ、ソ連など他の社会主義国家ではきちんと整理されていた党と国家の関係などは、ビルマではきちんと整理されているとは言いがたい面もあった。例えば、1974年に制定されたビルマ新憲法では、ビルマ社会主義計画党を「国家唯一の指導政党」であるとして、他の社会主義国同様、党の指導性原則を謳いながら、実際の同党は革命評議会によって運営されていた。党と国家のどちらが実質的なビルマ社会の頂点になっているのか判然としがたい、独特の外観を持つシステムだったといえよう。

 1962年以降、革命評議会が実行に移した政策は社会主義そのものであった。石油合弁企業の国による接収、全輸出入企業と米の買い上げ、配給制度の国有化、国内全銀行の接収(62年)など様々な企業の接収と国有化が続いた。その後も国内の全商店の国有化(64年)、繊維工場、石油採掘企業の接収(65年)と続く。製造業の国有化が行われる1968年に至り、主要産業の国有化がほぼ完了したのである。

 同時にこの国有化は、外国資本とりわけインド資本を国内から追放する役割も担っていた。当時のビルマ企業にはインド人所有のものが多く、これらを接収することはインド人の手からビルマ人の手に経済の主権を取り戻すことでもあった。この時代、相次いで社会主義革命を達成した中国、キューバ、ベトナムなどで、社会主義化が実質的に外国人を追い出し、自国民の手に経済を取り戻すための過程であったことを踏まえると、ビルマ式社会主義もまた、こうした時代に規定された「民族主義的社会主義」としての性格を強く持つものであった。

 ビルマ式社会主義は、国営企業部門において企業管理者となるべき有能な人材の不足によって、所期の効果を上げることはできなかったが、それでもビルマ経済にとって最大の桎梏となっていた小作制の全面廃止など大きな歴史的事業を成し遂げた。1963年から65年にかけての農地改革で、小作人の選定権を地主から取り上げ、村落農地委員会に移すとともに、小作料を撤廃することが決められたのだ。地主の個人所有物でなくなり、村落農地委員会に移った農民は、名称こそ小作人のままであっても実質的には共同農場で働く農民労働者という位置づけになる。1988年時点の統計でも労働総人口の62%が農業に従事していた農業国・ビルマにおいて、地主と小作制の廃止は文字通り新時代への入口を意味したのである。

 その後、1974年にビルマは国民投票で90%以上という圧倒的な賛成を得て新憲法を採択する。このときの憲法では「ビルマは、労働者国民が主権を有する自由な社会主義社会である」(第1条)、「国家の最終目標は、社会主義社会にある」(第5条)、「国家の経済制度は、社会主義制度である」(第6条)、「国家の体制は、社会民主主義に基づく」(第7条)とされた。国名もビルマ連邦からビルマ連邦社会主義共和国に変更された。憲法が規定するとおりの社会実態が伴っていたかについては議論の余地があるものの、少なくとも外形的には、社会主義憲法と呼ぶにふさわしいものであった。

 ビルマ政府も、この憲法の承認で、1962年クーデター以来の軍政から民政への移管を達成したと内外に宣伝した。だが実際には、ビルマ社会主義計画党の一党独裁、そしてネ・ウィン党議長を指導者とする基本的部分は変わらないままであった。

 ●ビルマ式社会主義破たんから社会主義なき軍政へ

 ビルマ式社会主義の下で経済は低迷を続けた。温暖で湿潤な気候に恵まれたビルマは稲作に適しており、国民の食料は十分確保されていたが、米の生産量が戦前の水準を超えたのはようやく80年代に入る頃であった。それでも米輸出は戦前の水準には回復せず、ビルマは米輸出の低迷から必要な物資の輸入が滞るようになった。国民経済は徐々に悪化、失業者の増大、インフレの進行で国民の不満が高まった結果、反政府運動が起きるようになった。学生から始まったデモ・集会は各地に飛び火、人権や自由選挙を要求し始めた。学生たちの行動は、1962年のクーデター以来、ビルマ社会主義計画党議長として君臨してきたネ・ウィン将軍による指導体制への明らかな拒絶であった。

 経済がボロボロになり、学生から議長退陣要求を突きつけられたビルマ社会主義計画党は、一党独裁制の放棄と複数政党制の容認、ネ・ウィン議長の辞任などで事態収拾を図ろうとした。だが、社会的尊敬を集めてきた大乗仏教の高僧たちまでが学生側に立って行動し始めたとあってはすでに手遅れに近かった。こうして、追い込まれたビルマ政府が初めて複数政党の参加を得て実施したのが1990年総選挙だった。

 この選挙ではNLDが大勝。誰の目にもスーチー氏とNLDによる新政権が樹立されるものと思われた。だが軍部が政権委譲を拒否。さらに、ソウ・マウン将軍らによって新たな軍政組織「国家法秩序回復評議会」(その後「国家平和発展評議会」に改称)が置かれ、民主化運動は徹底的に武力弾圧された。この民主化運動の過程で、軍部の凶弾に倒れた市民の数ははっきりしないが、3000人に上るとの説もある。スーチー氏もその後、15年以上の長期にわたって自宅軟禁下に置かれるなど、ビルマ民主化への希望は散っていった。

 長い冬の時代を経て、ビルマに転機が訪れたのは2000年代に入ってからである。スーチー氏がノーベル平和賞を受賞するなど、軍事独裁政権への国際社会の目は次第に厳しさを増していった。2007年、軍出身のテインセインの首相就任以降、様々な改革が始まる。2010年、スーチー氏の自宅軟禁を解除。2011年11月にはNLDの政党登録が認められるなど、民政移管に向けた準備も整えられていった。

 ●NLD新政権と今後の課題~そして日本は?

 小選挙区制で行われた総選挙で、NLDは改選全議席の3分の2以上を占める圧勝となった。テインセイン氏率いるUSDPは、この間、順調に経済再建を果たしてきたにもかかわらず、軍政の流れを汲んでいるという理由だけで実績はまったく評価されなかった。50年以上にわたって銃口で国民を支配してきた軍政への拒否反応が、ビルマ社会の隅々にまで浸透していたことを示している。

 スーチー氏を狙い撃ちするために旧政権が盛り込んだ憲法の規定により、外国人の家族を持つ者の大統領就任は禁じられた。英国籍の夫を持つスーチー氏は大統領に就任できず、別の人物を充てる必要がある。憲法を改正するためには国会で4分の3を超える賛成(4分の3「以上」ではない)が必要となる。憲法は軍部に4分の1の議席を非改選で与えることも規定しており、NLD新政権による改憲の道は事実上閉ざされている。

 国防相などの重要ポストも自動的に軍に割り当てられることになっている。軍との協調なしにはあらゆることが進まない難しい体制の中、新政権は新しい時代の舵取りを迫られる。戦前の日本では、陸軍大臣、海軍大臣は現役の制服組でなければならないとする「軍部大臣現役武官制」が導入された結果、軍部が気に入らない内閣から閣僚を引き揚げ、倒すなどして発言力を強めたことが、その後の軍事政権につながっていった。ビルマが導入している制度はこれと類似したシステムであり、文民統制の原則を否定するものだ。長期的には改憲により、こうした非民主主義的システムは改める必要がある。ただ当面は新政権安定のためにも、経済再建、少数民族対策、外交関係の再構築などが課題である。日本はNLD新政権にできるだけ助言と援助をしながら、民主化が後退しないよう見守ることが当面の対応の基本となるだろう。

 気になったのは、昨年11月の総選挙期間中、「半世紀にわたった軍事独裁政権の暗闇から、ビルマ国民がようやく脱した」的な、いかにもステレオタイプで「上から目線」の論評が日本のメディアで目についたことだ。確かにそれは事実に違いないが、本稿筆者はビルマに対し、そのような上から目線の論評をする資格が果たして本当に日本にあるのか問いたいと思う。1955年以降、60年もの長期にわたって自民1党支配をのさばらせ、いまだそこからの脱出の糸口もつかめない日本に対し、ビルマ市民は「わずか50年」でトンネルを脱したとの見方もできる。日本はいつ自民1党支配を脱するのか。政権交代可能な政治体制にいつ移行できるのか。ビルマや台湾に対して「上から目線」で論評を続けているうちに、このままでは日本が中国、北朝鮮と並んで「東アジア最後の1党支配国家群」の烙印を押されかねないところまで来ている。問われているのは、案外私たち日本のほうなのではないか――戦争法廃止のための野党共闘が叫ばれながら、遅々として進まない日本の現状を見るたびに、そんな思いにとらわれる。

<参考資料・文献>
 本稿執筆に当たっては、『ビルマ――破綻した「ビルマ式社会主義」』(大野徹)を参考にした。

(黒鉄好・2016年1月17日)

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長野バス事故の原因とその背景 このままでは事故はまた繰り返される

2016-01-17 13:03:46 | 鉄道・公共交通/安全問題
長野県・碓氷バイパスで起きたスキーツアーバス事故は、若者を中心に14人(乗客12名・運転手2名)が死亡する惨事となった。自然災害などバス事業者の責任でない事故を除けば、1985年1月の犀川スキーバス事故(死者25人)以来の悲劇だ。未来ある若者の犠牲が日本社会に与えた損失は計り知れないほど大きい。

ツアーを企画した旅行会社「キースツアー」と運行を請け負ったバス会社「イーエスピー」社のずさんな管理体制については、メディアで報道されているとおりだろう。キースツアーに関していえば、事故前から利用者のインターネット上での評価もさんざんだ。バス以外にも、同社が手配したホテルについて「部屋にバスタオルや歯ブラシすらない」「ホテルというより合宿所」「怒りを通り越し、もはやネタ(笑わせるための過剰な演出を意味する若者用語)としか思えない」などという手厳しい評価が並ぶ。「安かろう悪かろう」の典型例と言ってよい。

運転手に対する採用時健康診断の未実施(労働安全衛生法違反)、運行前に「無事到着」の書類を作成し押印(有印私文書偽造)、運行前点呼の未実施(道路運送法違反)など唖然とする実態があり、両社が責任を免れないのは当然だ。とりわけ、「無事到着」の書類を事前に作成していたことは、行政への虚偽報告に当たることから、捜査、調査の経過によっては、今後、送検~起訴などの事態も予想される。

事前の運行計画では高速道路を通行することになっているにもかかわらず、真冬の夜間に急峻な山道を含む一般道(国道18号碓氷バイパス)に承諾なくルートを変更したのはなぜなのか、解明すべき謎も多く残る。

一方で、この手の事故が起きるたびに思うことがある。悪質業者の責任を問うだけでよいのか、監督行政の責任はないのかということだ。安全問題研究会として指摘しておかなければならないのは、7人の死者を出した関越道バス事故(2012年)の後、国土交通省が遅まきながらも「バス事業のあり方検討会」を設け、高速ツアーバスの業態を廃止。団体ツアーバスにも道路運送法を適用、バス停を利用させるとともに、運転手ひとりあたりの連続運行距離を従来の670キロメートルから400キロメートル(夜間)に制限する規制強化を行ったにもかかわらず、再び大事故を招いたという点だ。

『(バス事業のあり方検討会の報告を受けて発足した新たなバス事業制度は)規制強化にはなりません。なぜかというと、ツアーバスが無くなってすべてがこれに移るならマシかなとは思いますが、要するに傭車を認めているわけですから、……事故が発生した場合、傭車では誰が一体責任を取るのか』『ツアーバスはバス会社がお客さんと契約することはほとんどなくて、旅行業者がする。そして「新高速バス」はその旅行会社に何台か(バス車両を)保有させて運行させる。路線行為を行わせた上で、その時の需給によって他社のバスを使えるようにする。……すると今のツアーバスはそのまま委託すれば走れるわけですから、基本的なものは変わっていません』『高速ツアーバスが始まった当初はディズニーランドのチケットをセットで販売していましたが、これと同じように観光チケットや宿泊などをセットにすれば従前のツアー旅行になりますので、「新高速バス」に移行しなくても違法にはなりません』(『高速ツアーバス乗務員は語る 規制緩和と過酷な労働実態 家族は乗せたくない』(2012年、自交総連、日本機関紙出版センター)より抜粋)

こんな重大証言をするのは、自交総連大阪地連書記次長の松下末宏さんだ。格安だけが売り物だったツアーバス会社の4割を廃業に追い込み、鳴り物入りで発足したように見える「新高速バス制度」も抜け道だらけ、穴だらけで規制強化の体を成していないというのだ。結局のところ、「旅行業者は格安でツアーを募集、バス会社に対する強い発言力を利用して無理な運行条件を押しつけ」「旅行者はバス運行現場の実態を知ることもなく、乗客に対する責任も負えない」というツアーバスの最も本質的な部分に国交省は何ら手をつけず、事実上放置したのだ。

しかも、監査や行政処分も中途半端で大甘だった。国交省は、イーエスピー社が運転手の採用時健康診断を怠っていたとの理由で、事故2日前に同社に行政処分を下したが、その内容は同社が7台保有するバス車両のうち1台だけを使用停止にするというものだった。全車使用停止の処分にしていれば、結果は違ったものになった可能性がある(松下さんが指摘する「傭車」という抜け道がある限り、仮に全車使用停止の行政処分が下ったとしても、キースツアー社は他社に運行委託すればよいだけであり、行政処分に実質的意味もない。だが、外国人観光客の急増による最近のバス需要の逼迫により、全車使用停止の処分が下っていれば、急な傭車の手配ができず、事故につながる危険なツアーを中止に追い込むことができた可能性はある)。このように考えると、目先だけの制度変更でお茶を濁しながら、危険な格安ツアーバスの本質的部分には何ら手をつけず、悪質業者に対しても、ないよりマシとさえ言えないような大甘の行政処分で済ませていた国土交通省の責任を、当研究会としてはやはり問わざるを得ないと考える。

バス事業のあり方検討会を受けて新高速バス制度が発足した直後の2013年8月4日付で、安全問題研究会はコメントを発表。新高速バス制度への移行を基本的には歓迎しながらも、このように指摘した。

『過当競争の中、バス事業者は間断のないコスト削減圧力にさらされている。この機会に、当研究会は国交省に対し、バス事業者に対する不断の検査、チェックの徹底を期するよう改めて求める。もしこの検査、チェックが有効に実施されなければ、今回のせっかくの規制強化も画餅に終わるであろう』

すでに報道で指摘されているように、規制強化後もバス業界は運転手の人手不足、過当競争に苦しんでいる。今回の事故は、2年前、当研究会が新高速バス制度への不安を感じて発した警告が最悪の形で現実になったことを示した。事故再発の危険性を感じながら止められなかったことは、当研究会としても痛恨の極みである。

「バス事業のあり方検討会」の議論には、バスファン向けの趣味雑誌「バスラマ・インターナショナル」編集長の和田由貴夫さんも有識者委員のひとりとして参加した。報告書がとりまとめられるに当たり、和田さんは「バス事業のあり方検討会」事務局に宛てて意見書を提出している。「今こそ、バスのあり方の検討を」と題された意見書では、次のような傾聴に値する提言が行われている。単なる趣味雑誌編集長としての域を超えた、このような大局的な考え方こそ、今後のバス事業にとって最も必要なことだと当研究会は考える。

『公共性が高いバス事業に関しては規制緩和という前提条件の正否も議論の俎上に上げるべきではないだろうか。……バスの安全は制度が保障するものではなく、最終的にはドライバーに委ねられているという事実は、安全教育に厳しい事業者や現場には共通した認識である。本委員会にも労組の代表が参加し有益なご意見を述べられたが、近年は大手事業者が非採算部門を子会社に委託する例が多く、そこで働くドライバーには組合がない例が多い。その人々は津波で防潮堤が破壊された沿岸部で仕事をしているようなものである。……利用者にとってのバスは、よりよい生活の道具になることが求められている。それには「健康で持続可能=ロハス」が前提だが、日本のバス業界は、残念ながら現場のドライバーを含めて歯を食いしばって懸命に維持している実情にある。「年始も祝日も勤務があり、休暇が取りにくい。拘束時間が長いが賃金は安い」という産業が「健康で持続可能」といえるのだろうか』

国土交通省とバス業界は、今こそ、この和田さんの意見に真剣に耳を傾けるべきだ。そうでないと、悲劇はまた繰り返されると、改めて当研究会は警告する。

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久しぶりの緊急地震速報……来ました

2016-01-14 23:56:20 | 気象・地震
平成28年1月14日12時25分頃の浦河沖の地震について(気象庁報道発表)

新年早々、三八上北での地震に驚いたのも束の間。久しぶりに……緊急地震速報を聞いた。

報道発表を見ると、M6.7(速報値)で、年に数回レベルの大きな地震だった。11日の三八上北の地震(M4.6)と比べ、Mが2つ大きかったから、地震のエネルギーはその1000倍もあったことになる。震源地も陸地に近く、最大震度がよく5弱で済んだな、という印象だ。

発震機構は西北西―東南東方向に圧力軸を持つ逆断層型。一部地震学者の間にはプレート境界での地震との見解もあるが、北米プレートと太平洋プレートの境界は今回の震源よりもう少し南の沖合と考えられ、北米プレート内部での地震と見てよいだろう。

11日の地震の記事でも述べたが、東日本大震災を挟んで、ここ5年ほど、北・東日本での地震は圧力軸の方向が西北西―東南東方向のものが圧倒的に多く、その意味では今日の地震のほうがここ5年ほどの地震と共通点がある。

報道発表の6ページ、周辺の過去の地震活動を見ると、今回の震源地付近では、1982年3月にM7.1の十勝沖地震が起きて以降、M7を超える地震は30年以上起きていない。1968年5月の「十勝沖地震」の余震域全体に広げても、M7以上はこの82年の地震1回だけだ。プレート境界に近い地域なのに、半世紀近くの間にM7以上が1回というのはあまりに少なすぎる。この地域での地殻のストレスは限界に達していると考えられ、そろそろ大地震が起きてもおかしくない状況に入ったと言える。

気象庁では、「1週間程度、震度4程度の余震に注意」するよう呼びかけている。もちろん注意は必要だが、この状況では「今思えば、あの地震が前震だったよね」といわれるような、さらに大きな地震がこの後発生する可能性がないとも言えない。

とはいえ、東日本大震災では本震の数日前から、阪神大震災では半月ほど前から、微弱地震が頻繁に起きるなどの明らかな予兆があった。東日本大震災や阪神大震災クラスの大地震が、何の前兆もなくいきなり襲来することは考えにくい。前兆を正しくつかみ、落ち着いて対処すれば身を守ることは十分可能だ。当ブログは、この地域での余震活動の状況をしばらくの間注視し、警告が必要と判断した場合には、臆せず適切に対処したいと思っている。いざというとき、行政ほどアテにならないものはない――それが、当ブログの得た東日本大震災最大の教訓だからだ。

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正月気分突き破る久しぶりの大地震

2016-01-11 18:45:20 | 気象・地震
平成28年1月11日15時26分頃の青森県三八上北地方の地震について(気象庁報道発表)

新年も10日以上過ぎ、もうおとそ気分でもない方が大半と思うが、そんな気分を突き破るかのような地震だった。3連休最終日の休日、しかも11日。不思議なことに、気象庁が報道発表を行うような大地震は週末や祝日に多いような気がする。新潟県中越地震や岩手・宮城内陸地震は週末、阪神大震災は休み明けの月曜早朝、東日本大震災は休みに入る直前の金曜午後だ。11日というのも東日本大震災と同じで、若干薄気味悪くはある。

報道発表を見ると、地震規模はM4.6。震度が大きい割には小さいが、直下型であったこと、震源が浅い(約10km)ことによる。ただ、震源が浅かったせいか、揺れの伝わる範囲は狭かった。当ブログ管理人は道内の自宅にいたが、床が持ち上げられるような弱い揺れを一瞬だけ感じた。気のせいかと思っていたが、震度1にも満たない微弱な揺れは伝わったと思う。10kmという震源深さは東日本大震災と同じだが、震源が3.11の震源域から見てあまりに北に寄りすぎており、東日本大震災の余震、関連地震に位置づけるのは無理だろう。

過去の地震で、今回の地震と類似のものがないか探してみたが、当ブログ管理人がデータを保有している2007年以降の地震では見当たらなかった。東日本大震災を挟んで、過去、この区域で発生した地震は震源深さが50km程度か、これより深いものが多い。また発震機構(地震のメカニズム)はプレート境界より日本列島寄りの地震で一般的な逆断層型という点で過去の地震と共通しているが、圧力軸の方向はこれまで東南東―西北西方向に集中しており、今回の地震(東北東―西南西方向)とは微妙に異なっている。大震災から間もなく5年、そろそろこの区域での地震の起き方にも変化が出てくる頃だろう。

ここ数ヵ月間、奄美大島近海や鳥取県中部など、震度4以上を観測した地震は西日本に集中しており、西日本以外での震度4以上は昨年11月28日、根室半島東方沖地震(根室市で震度4)以来。東日本大震災での主要被災エリアを震源とするものに限れば昨年11月22日の茨城県沖を震源とする地震(日立市などで震度4)以来だった。震度5弱となると、昨年9月12日、東京湾を震源とする地震(調布市で震度5弱)以来となる。その意味では、久しぶりの大きな地震だったことになる。震源となった青森県三八上北地方では、しばらく余震に注意してほしい。

なお、今回、この記事を書きながら過去の地震データを調べているうちに、気になり始めたことがある。東京湾を震源とする地震が目立って増えている点だ。上で述べた昨年9月12日の震度5弱を皮切りに、昨年末の12月26日には連続5回の群発地震が起きた。過去の地震データを見ると、東日本大震災が起きた2011年は別として、それ以外の年は概ね年間5回以内に収まっていた東京湾を震源とする地震が、昨年は年9回と目立って多かった。普段、あまり震源となる場所ではないだけに、少しの増加でも非常に目立つという側面は否めないが(年明けからネットで話題になっている首都圏での「地鳴り」は、今のところこれを地震の前兆と判断することはできない)。

地震の規模などを見る限り、今のところ首都圏ですぐ何らかの緊急対策が必要とは思えない(緊急対策を必要と判断するには地震の規模が小さすぎ、また地震と地震の間隔も空きすぎている)。だが、大都市は地震に対し独特の脆弱さを抱えているばかりでなく、東京23区の大部分が海抜0m地帯であることを考えれば、これを機会に非常用品の点検などの対策をいま一度徹底するのにちょうどよいのではないか。過去の地震に学ぶことなく、これでもなお対策を取らないまま、のほほんと構えている人や組織には、いずれそれにふさわしい末路が訪れると、この機会に改めて警告を発しておきたい。

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2016年 新年目標

2016-01-09 08:41:02 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
例年通り、昨年(2015年)の目標達成度の点検と2016年の新年目標を発表します。まずは昨年の総括から。

1.鉄道
12月30日付記事のとおり、超過達成しました。

2.その他
(1)日航機事故30年にあたっての御巣鷹山慰霊登山については、予定通り8月に実施しました。

(2)ネット小説への再チャレンジについても、達成できました。

続いて2016年目標です。

1.鉄道
JR線に関しては、日帰り可能な範囲内に未乗区間はなくなりました。今年はJR線3線を含む5線以上を目標としますが、正直、達成はかなり厳しいと思います。

2.その他
ネット小説は、次回、第25話で第1部(中等部編)の前半を終え、26話からは後半戦に入ります。50話まで掲載することを目標にしますが、予定通り進むかどうか。

以上が2016年目標です。

余談ですが、年末にもお知らせしたとおり、今年は当ブログ開設10周年を迎えます。同時に、結婚10年でもあり、また現在の会社に出向となってからも10年です。2006年~2007年にかけて、私の生活は大きく変わったわけですが、ともかくもこのブログを10年続けてきました。

アクセス数は、一時、大幅に増えて1日あたりページビューが150~200で推移したものの、最近はまた以前に戻り、概ね100~150の範囲で落ち着いています。アクセス狙いの「炎上商法」を採らなかったことが、10年続けてこられた最大の理由だと思っています。

私への原発関係の原稿依頼は相変わらず続いているものの、昨年は、福島原発事故以降では初めて、私への原発問題での講演依頼が1件もありませんでした。世間での原発事故風化の傾向がはっきりしてきたと思います。

今年の当ブログは、以前と同じようにJR問題を中心に活動していくことになります。日高線問題を初めとするJR北海道問題、尼崎事故裁判、リニア建設問題などが中心になると思います。

原発問題の発信は、今年は思い切って減らします。特に、福島県民の避難・移住、保養といった話題は今年からは一切このブログでは扱いません。私自身、この問題への関わりが減ってきていることに加え、昨年、「福島県民を救え」的な記事をアップすると、必ず否定的なコメントが行われ、それがことごとく福島県内を発信元とするものだったからです。

新年早々、こんな言い方をするのもなんですが、みずから「復興の邪魔、余計なお世話」と主張している人たちを、引きずってまで福島県内から連れ出す義理も義務も当ブログにはありません。震災から5年を経過し、「風評」ではない実害や健康被害を心配する人、まともな感覚を持った人たちの大半は既に福島県内から出たと思います。いま県内に残っているのは、自分の将来の健康よりも優先順位の高い他の「何か」を抱えている人たちで、そうした人々への、いまこの段階での避難・移住の呼びかけは無意味であり、当ブログとしては不要と判断しました。当ブログを攻撃してきた人たちは、健康の心配などせず、せいぜい「復興」に励んでいただきたいと思います。

既に、そうした情報を必要とする人たちとのチャンネルを、当ブログ管理人はネット外で確立しており、今後はそうしたチャンネルを活かしながら、ネット外での運動として関わっていくことにします。当ブログが反原発の旗を降ろすことはありませんが、今後は原子力ムラの体質、核のごみ問題、もんじゅ問題、東電の責任追及など「福島」に限定しない全国的視点で原発問題を見ていくことにしたいと思います。

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2016年、明けましておめでとうございます

2016-01-03 21:56:34 | 日記
正月3が日も終わる頃になっての遅いご挨拶となりましたが、2016年、明けましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願いいたします。

ご挨拶が例年より遅れたのは、新年早々、原稿執筆依頼があったためです。1年の計は元旦にありと言われますが、新年早々からこの調子では、今年も原稿執筆に明け暮れる多忙な1年になるでしょう。

当ブログにとって、今年は開設10年の記念の年です。開設当初は、こんなに長くこのブログを続けることができるとは思っていませんでした。「気持ちが乗らないときは無理して書かない」「炎上、受けを狙ったり、奇をてらうことはしない」という緩い姿勢で運営したことが、逆に長続きできた秘訣かもしれないと思っています。

10周年に際し、特に記念イベント等は考えていませんし、昨今の当ブログ管理人を取り巻く状況を考えれば、そのような余裕もないと思います。「さらにその先」への通過点として、10周年は淡々と過ぎていくでしょう。

なお、今年の新年目標等は、改めて発表いたします。

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