(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」に寄稿した原稿を掲載しています。なお、掲載に当たり、文字化けの恐れがある丸数字のみ、カッコつき数字に改めました。)
軍靴の足音が聞こえる――こんな言い方をすると、使い古された、カビ臭い反戦論のように聞こえるかもしれない。しかし実際、軍靴の足音は、かつてはよく耳を澄まさなければ聞こえなかったが、安倍政権が成立してからは耳をふさいでもやかましく聞こえるようになった。大震災と社会不安、治安維持法と秘密保護法、朝鮮人大虐殺を生んだ関東大震災時の自警団に対し、在特会が生み出したヘイトスピーチ……何もかもが歴史教科書でしか知らない「あの頃」に似すぎていて背筋が寒くなる。
だが逆に、あまりにも似すぎているからこそ、今、これからを生きなければならない私たちが、戦争と排外主義を止めるために、あの時代から何かを学ぶことができるのではないだろうか。
東日本大震災以降、誰の目にもはっきりわかるほど時代の分岐点に立った私たち。世界情勢もあのころのように混沌としてきた今だからこそ、かつてとは違う道を歩めるように、あの時代から教訓をくみ取りたいと思う。
●市民を入れ込むシステム
1981年生まれの若き社会評論家・荻上チキさんが主宰する「SYNODOS」に、今年2月、
歴史学者・成田龍一さん(日本女子大学教員)のインタビューが掲載された。(1)1925年の普通選挙制の実施により、政治システムの外にいた市民が政治システムに組み込まれた(2)市民の政治システムへの組み込みにより、政治が市民の意向を無視できなくなった(3)1931年の満州事変以降、国民の政治的要求が排外主義的になるのに伴い、政治も排外主義的性格を強めていった(4)従って、アジア侵略戦争は大正デモクラシーの「成果」であり、大正デモクラシーがあった「にもかかわらず」戦争を止められなかったのではなく、大正デモクラシーがあった「からこそ」戦争を止められなかったのである――というのが成田さんの主張の根幹である。
1925年は、普通選挙法と治安維持法が同時に成立したという意味で、まさに歴史の転換点になった年であったが、成田さんによれば、この2つの法律が同じ年に成立したのは決して偶然ではなく、両法は歴史的に見れば表裏一体のものだった。それまでの選挙制度は、一定以上の直接国税を納めた人に選挙権を限定する制限選挙だったが、1925年に初めて普通選挙となった。納めた税額にかかわらず、成人男子なら誰でも選挙権を持つこととなった一方、女性や植民地の人々は選挙権を与えられなかった。国民を「普通」の中に組み込む予定の人々(日本本土の成人男性)と「普通」から排除する人々(女性、植民地の人々)に分けた上で、前者には普通選挙法により権利を与え、後者、そして「普通」に甘んじることを潔しとしない人々を治安維持法により弾圧するという峻別政策だったと、成田さんは指摘する。
こうした社会政策は、戦争への地ならしとしては大きな効果を持った。特に「民衆の意見を吸い上げなければ回っていかない仕組み」「民衆を制度的に入れ込むシステム」を確立したことである。
●選民民主主義
成田さんは、「大正デモクラシーはなぜ戦争を止められなかったのか」とのインタビュアーの質問に対し、大正デモクラシーが天皇主権の大日本帝国憲法を基礎とした帝国のデモクラシーであったことを主因として挙げている。筆者はこの見解には疑問なく同意する。女性や植民地の人々を2級市民扱いし、1級市民のみで構成される「民主主義」が、奴隷制の存在を基礎とした古代ローマの「民主制」を超えるものになることはあり得なかった。
こうした社会体制の下、昭和に入り満州事変が起きると、大正時代に「民本主義」を唱えていた人々の多くは、雪崩を打つように排外主義に転ずる。成田さんは「無産政党の人々」までが侵略と排外主義に翼賛し変質していったと主張する。国民世論が先に排外主義化し、すべての勢力がその波に飲まれていった。差別の存在を当然の前提として、「普通」に組み込まれた人々だけで運営される「選民民主主義」がこうした事態に批判的見解を持ち、対処していくことはもとより不可能だった。
市民を制度的に入れ込んだシステムこそが、ファシズムの勃興を可能にし、戦争への地ならしとなった――自己矛盾に満ちた、一見不思議な説に思えるかもしれない。しかしこのことは、ドイツに目を転じてみれば明らかとなる。ナチスとヒトラーは、少なくとも政権獲得まではほとんど非合法的な手段を採らなかった。ユダヤ人排斥を「言論の自由」に基づいて主張し、粛々と選挙で勢力を拡大、最後は合法的に政権を獲得した。エーリッヒ・フロムは、民主主義的態度とは180度異なる権威主義的パーソナリティがファシズムを準備したと指摘する。権威ある者への絶対的服従と、自己より弱い者に対する攻撃的性格が共生、思考の柔軟性に欠けており、強い者や権威に従う単純な思考が目立ち、自分の意見や関心が社会でも常識だと誤解して捉える傾向が強い。外国人や少数民族を攻撃する傾向もよくある。このような社会的性格を持つ人々がファシズムを受け入れたとした。
大正デモクラシーが盛り上がりを見せた1920年代と、5.15事件や2.26事件などを通じて民主主義が暴力的に殺されていった1930年代を、多くの識者は「時代の断絶」として捉える。しかし成田さんは、前述した論理構成の上に20年代と30年代は連続していると捉える「連続説」を唱えている。
私は、このインタビューを大変興味深く読むと同時に、民主主義が、民主主義ゆえに招き寄せる戦争もあるのだということを改めて認識させられた。世論がメディアに率先して排外主義を煽り立て、メディアを包囲するかのような風潮が今また生まれている。
現在放送されているNHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」は、フィクションではあるが、当時の時代の空気をうまく捉えている。文学誌編集者兼翻訳家として頭角を現したヒロインの村岡花子、その女学校の友人の蓮子を軸に物語は展開する。花子が雑誌編集者時代に接点を持った嫌味な女流作家・宇田川光代は戦争の時代になると従軍記者として軍国主義の先兵となった。対照的に蓮子は、戦争に賛成しなければ非国民とされる時代の中にあっても反戦を貫く。両者の中間に位置するのがヒロインの花子だ。時代の流れに翻弄され、大局的には戦争へと向かう時流に抗うことを避けながらも静かに抵抗、ラジオの朗読の仕事をしながら子どもたちに夢を与えようとするが、「子どもが夢を持つためには、まず日本の国が強くならなければならない」と一蹴される。周囲がその言葉に喝采するのを見て、花子は「ついて行けない」とその場を後にする。戦争へと向かう時代に抗えなかった自分に負い目を感じながらも自分を失わず、戦後も社会的立場を維持する。
花子の人生に対し、ずるいという批判を持つ人もいるかもしれない。実際、花子が蓮子からずるいとなじられるシーンもある。花子の姿が、戦前戦後を連続して生きた日本人の大勢だったことに異論を持つ人はいないだろう。
アジア侵略への(形だけではあっても)反省と、「戦争の時代に抗えなかったみずからへの負い目」を軸に、戦後の反戦平和運動はともかくもここまで何とか命脈を保ってきた。戦争体験者もほとんど鬼籍に入ろうとする今、いよいよその命脈も尽きようとしているように見える。だが、成田さんが指摘したように、民主主義を政治的基盤としても戦争は成立しうる。先に触れたナチスの成立過程はもとより、戦後、米英など多くの「民主主義国」が主権者である国民の委任と支持により戦争を繰り返してきたことからも明らかである。少なくとも20世紀以降の戦争は国民の熱狂的な支持を基盤としなければ行うことはできず、戦争指導者はいつも国民の支持をどのように獲得し、つなぎとめるかに苦心してきた。プロパガンダを重視し、ヒトラーが腹心ゲッベルスを宣伝大臣に据えたのは、国民動員のための戦争を最も端的に象徴している。
●「朝日叩き」の先にあるもの
原発事故を巡り、福島第1原発所長として収束作業を指揮してきた吉田昌郎氏(2013年7月死去)の政府事故調査委員会における聴取録(いわゆる「吉田調書」)問題や大戦中の従軍慰安婦問題を巡り、ここに来て、朝日新聞の報道が相次いで「誤報」であったことが発覚、朝日新聞が対応に追われている。複数の情報源に接触して情報を客観的に検証せず、執筆した記事が結果的に適切さを欠いたと指摘されていることは、同社にとって失点には違いないが、今回の問題を巡って異様なのは、政府・自民党など支配層の側までが激しく朝日叩きを繰り広げていることだ。政府・自民党・官僚など社会の支配層は、20~30年前であれば、こうした事態に直面しても「メディアは批判するのが仕事で、我々は叩かれるのも仕事のうち」だと自覚して、よほどのことがなければ法的措置をとったり抗議したりすることはなかった。安倍政権は、NHK会長に「お友達」の籾井勝人氏を据え、政権に融和的な産経新聞だけに内閣改造人事のリークを通じて「点数稼ぎ」をさせるなど、かつてどの政権も行わなかったほどのメディア選別、介入を露骨に行っている。
こうしたメディアに対する露骨な選別と介入、そして在特会による「ヘイトスピーチ」の放置が日本社会の未来に何をもたらすかは、本稿をきちんと読み込んだ方には説明不要だろう。安倍政権は明らかに戦争への国民動員を狙っており、「民主主義」を基盤とする21世紀の日本社会に最も適した方法でそれを実行してきている。
現在の日本社会が、成田さんが指摘した大正期の日本社会と多くの共通点を持つことは指摘しておくべきだろう。在日外国人には参政権が与えられず、女性は選挙権こそ持つものの、政権みずから女性「活用」の旗を振らなければならないほどあらゆる点で社会参加の道が閉ざされている。このところ、本コラムで立て続けに指摘しているように、「世界経済フォーラム」(ダボス会議)が公表した「グローバル・ジェンダー・ギャップ」による女性の社会進出の度合いは世界105位。今年5月、母の日を前に国際人権NGO「セーブ・ザ・チルドレン」が発表した「母の日レポート~母親指標・お母さんにやさしい国ランキング~ (Mother’s Index)」によれば、日本の女性議員の比率は10.8%。女性議員の比率だけに絞ればランキング対象国中最下位のソマリアよりも低かった。在日外国人や女性を「2級市民」として排除しながら進む「民主主義」が、大正期の「民本主義」や古代ローマ「民主制」とどう違うのかと尋ねられたとき、明確な違いを説明することは筆者には難しい。その意味で現代日本社会もまた「選民民主主義」に過ぎないのではないだろうか。
エーリッヒ・フロムが指摘した「権威主義的パーソナリティ」も、日本人に関して言えばあの頃とほとんど変わっていない気がする。フロムら研究者は、権威主義的パーソナリティについて、権威者への盲従と少数者への蔑視、排外主義という偏った思考を持ちながら「自分の意見が社会でも常識だと思い込む」ことをその顕著な特徴として挙げている。実際、在特会などに集い、差別主義的デモを繰り返す参加者へのインタビュー動画をインターネットなどで見ていると、彼らの多くが自分自身を「普通の日本人」と繰り返すことに驚かされる――何が普通で、何がそうでないのかの検証もないままに。同じ社会で共に生活する人々を「普通」と「それ以外」、「われわれ」と「彼ら」に峻別し、「普通」「われわれ」でない者には何をやっても許される――そうした単純思考こそが今、ファシズムを準備しつつあるのだ。
朝日新聞に対する右翼・権力からの激しい攻撃は、朝日新聞が「普通と違う、われわれでない者」として攻撃対象に規定されたことを意味する。「花子とアン」の時代には「われわれ」と「彼ら」を規定していたのは軍部や特高、憲兵などの勢力であった。今は装いも新たに、自民党右派や在特会がその先頭に立っている。選民民主主義の中で、「アジア侵略への形だけの反省と、戦争の時代に抗えなかったみずからへの負い目」だけを根拠に平和を願っていた大多数の「花子」的日本人が、今、彼らが主導する大波に、さしたる抵抗もなく再び身を委ねようとしているように見えるのだ。
だとすれば、今、私たちに求められるものは何か――大正時代の日本社会に関する考察は私たちに多くの解を与えてくれる。「普通」の人々の熱狂的支持があって初めて戦争が可能となる民主主義の時代には、「普通」でない人々が増えることが戦争への抑止力となる。「普通」が持つ欺瞞性、排他性を批判し、「普通」でない自分に誇りを持つこと。自分の頭で考え、少数者を尊重し、多様性を大事にすることである。時代の変わり目の今、私たちが再び進む道を誤らないために。
(2014.9.21 黒鉄好)