安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

公共交通と原発を中心に社会を幅広く考える。連帯を求めて孤立を恐れず、理想に近づくため毎日をより良く生きる。

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核のない未来を願って 松井英介遺稿・追悼集(緑風出版)

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●安全問題研究会政策ビラ・パンフレット
こんなにおかしい!ニッポンの鉄道政策
私たちは根室線をなくしてはならないと考えます
国は今こそ貨物列車迂回対策を!

本日の放射能測定値

2012-03-29 23:28:39 | 福島原発事故に伴う放射能測定値
・計測年月日、時間
 2012年3月29日 午後7時05分~7時15分

・計測場所
 福島県 JR新白河駅西口(高原口)

・計測時の気象条件(晴/曇/雨/雪の別及び風向、風速)
 天気:晴
 風向・風速:南南西 5m

・計測結果(単位:マイクロシーベルト/時)
(1)新白河駅西口バス停横の土壌地
  大気中(高さ100cm)   0.58
  土壌(高さ10cm)    0.64

(2)新白河駅西口駐車場
  大気中(高さ100cm)   0.41
  舗装路面(高さ10cm)  0.43

<放射線量測定に関するお知らせ>
次の定期測定は、2012年4月5日(木)に実施します。

なお、次回からは、上記の場所に加え、当ブログ管理人の自宅室内(鉄筋コンクリート造、4階建ての1階)の放射能測定値も併せて発表します。これまでは、自宅室内でも測定は行っていましたが、当ブログでの発表は行っていませんでした。

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泉北高速鉄道、南海高師浜線に乗る

2012-03-25 23:35:48 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
24~25日に所用で大阪に出かけたので、未乗路線だった泉北高速鉄道、南海高師浜線に乗ってきた。

昼前に新大阪に着き、宿泊予定の桜ノ宮駅前のホテルに荷物を預ける。環状線で天王寺へ行き、地下鉄御堂筋線に乗り換える。なかもずで降りると、いよいよ泉北高速鉄道だ。

この泉北高速鉄道、大阪府都市開発という第三セクターが経営しているが、運転形態としては南海と駅を共用、相互直通運転しており密接な関係がある。南海と相互直通運転をしている関係上当然と言えば当然だが、関西私鉄では珍しく1067mm軌間である。和泉中央まで全線を乗り通す。和泉中央駅は、いかにもニュータウンという雰囲気だ。

再び泉北高速鉄道で折り返す。中百舌鳥から南海高野線~本線で天下茶屋へ。南海本線を折り返し羽衣下車。未乗区間である高師浜線を2230系電車(写真)で高師浜まで乗り通す。

再び高師浜線で羽衣駅に戻ったところでちょうどラピート(サムネイル写真)がやってきた。撮影後、羽衣駅を出てJR東羽衣駅から阪和線乗車。阪和線は未だに103系が走っており、国鉄時代にタイムスリップしたかのようだ。

紀州路快速をやり過ごしながらのんびりと天王寺まで103系に乗る。強い日差しが差したかと思うと急に強い雨が降る。クルクルと変わり、安定しない天気だった。

【完乗達成】泉北高速鉄道、南海高師浜線、(仙台市営地下鉄南北線)

去る3月16日、バンダジェフスキー氏講演会で仙台市に行った際、全線乗り通した仙台市営地下鉄南北線もここでまとめて完乗達成路線として掲げておく。2012年の新規完乗達成路線はすでに6線。早くも新年目標に掲げた私鉄5線区を達成してしまった。

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自宅のプリンターを複合機に買い換える

2012-03-22 21:35:14 | IT・PC・インターネット
自宅で使用してきたプリンター、キヤノンIP-4300がご臨終となった。電源ボタンを押しても電源が投入できなくなったのである。かなり以前から電源ボタンの反応が鈍く、危険は感じていたが、とうとう、今日電源を投入しようとして電源ボタンを強く押したところ…ボタンが壊れ、死亡確認…

このプリンターは名古屋時代に買ったもので、もう6年以上も使ってきた。十分元は取ったと思う。

買い換えついでに今度は複合機、それも自動原稿送り装置付きのものを選ぶことにした。結果、選んだのがBrother MFC-J825N。現在では必須の有線・無線LANに加え、Wi-Fiにも対応。私のスマートフォン、IS-03はWi-Fiを備えているので、Wi-Fi経由で写真の印刷もできる(まだ試していないが)。

改めて6年間の技術の凄まじい進歩を感じる。

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本日の放射能測定値

2012-03-21 21:38:43 | 福島原発事故に伴う放射能測定値
・計測年月日、時間
 2012年3月21日 午後6時35分~6時45分

・計測場所
 福島県 JR新白河駅西口(高原口)

・計測時の気象条件(晴/曇/雨/雪の別及び風向、風速)
 天気:晴
 風向・風速:西北西 9m

・計測結果(単位:マイクロシーベルト/時)
(1)新白河駅西口バス停横の土壌地
  大気中(高さ100cm)   0.61
  土壌(高さ10cm)    0.61

(2)新白河駅西口駐車場
  大気中(高さ100cm)   0.44
  舗装路面(高さ10cm)  0.45

<放射線量測定に関するお知らせ>
次の定期測定は、2012年3月29日(木)に実施する。

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【報告】3/16バンダジェフスキー博士講演会in仙台

2012-03-20 22:14:08 | 原発問題/一般
報告が遅くなってしまったが、3月16日(金)に仙台で開催されたユーリー・バンダジェフスキー博士の講演会に行ってきた。

バンダジェフスキー氏は、チェルノブイリ事故後、最も汚染の激しい地域であるベラルーシ共和国・ゴメリ州で、被曝した子どもたちの治療に当たるため、医科大学を設立した人物である。内部被曝について深く研究し過ぎたため、ベラルーシ共和国当局による逮捕も経験している。

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2012.3.16 バンダジェフスキー博士講演会
13:00~15:30
仙台市・長町駅前 「太白市民ホール」

1.木下黄太氏あいさつ
 仙台講演会は、最も汚染されたエリアに近い大都市の住民に対し、自分が経験してきたことを伝えたいというバンダジェフスキー博士の強い希望により実現した。

2.バンダジェフスキー氏略歴 別添PDF参照

3.講演
 私は、チェルノブイリ原発事故後の1999年、最も汚染の激しかったベラルーシ共和国・ゴメリ市に医大設立のため赴任した。仙台入りは今日が初めてだが、初めてチェルノブイリの汚染地域に入ったときと似た空気を感じる〔博士は、この空気の具体的中身には触れなかった〕。今日、皆さんにお話しするのは苦い真実、辛い真実になると思うが、皆さんは真実が知りたくてこの会場に来ていると思う。その皆さんを前に、真実を隠すことは私にはできない。「時が解決してくれる」とか「たいしたことはない、大丈夫だ」と時々皆さんに言う人がいると思うが、そうした人々は健康を皆さんから奪う人々である。今日は、(チェルノブイリ以降に限らず)汚染地域で1960年代以降に発生した顕著な症例について話をしたい〔ベラルーシでは、1960年代からすでに深刻な放射能汚染があったという。旧ソ連は情報統制が激しく、放射能汚染の事実は隠されてきたため、博士はその原因についてわからないとしながらも、可能性の高い要因として大気圏内核実験を挙げた〕。

 ゴメリ州では、特に牛乳の放射能汚染が激しく、37,000Bq/kgというセシウム汚染も見られた。こうした汚染はしばらくの間隠されていたが、チェルノブイリ事故の汚染被害を調べる過程で明るみに出た。チェルノブイリ事故の際、放射能雲がモスクワに流れないようにするため、放射能雲がモギリョフ上空に来たときに人工雨が降らされた〔この人工雨については諸説あり、広河隆一などは否定的な立場〕。

 ベラルーシでは、それ以前は出生率が死亡率を上回っていたが、1992~93年に並び、その後は逆転。以降は人口減少を続けている。チェルノブイリから30kmの距離にあるイワンコフ(ウクライナ)では、人口1000人あたり30人が死亡。(1000人あたり16人死亡の)キエフ(ウクライナ首都)の倍。その52.7%が心血管疾患である。次いで多いのはガンである。心血管疾患の人口あたり発症率は、多い方からベラルーシ、ロシア、エストニア、リトアニア、ウクライナ、ポーランド、イギリス、ドイツ、スウェーデンの順である。チェルノブイリ事故の発生を最初に公表したスウェーデンが最も発症率が低く、グラスノスチ(情報公開)を謳うゴルバチョフ政権下でありながら事故を1週間隠した旧ソ連諸国で軒並み発症率が高い、という事実にご注目いただきたい〔事故や放射能汚染に関する情報の公開度が高い国ほど発症率が低く、情報公開度の低い国ほど発症率が高い、ということ〕。ベラルーシではガンが増え続けており、都市部・農村部の違いは見られない。大人より子どもの臓器のほうがセシウム137の蓄積が高く、特に甲状腺とは親和性が高い〔よく蓄積する〕。セシウムが心筋に蓄積するという事実は、原発推進派に買収された国家機関の「公式見解」には書かれていないが、因果関係は明らかである。

 体内に取り込まれたセシウムは、ミトコンドリアに入る。ミトコンドリアの異常は45Bq/kgでも見られる。クレアチンホスホキナーゼ〔筋肉の収縮の際のエネルギー代謝に関与する酵素〕の生成が半分になり体力が落ちる。

 心電図に異常のない子どもの割合は、セシウム137の内部被曝が(1)0~5Bq/kgの場合、80%(2)12~26Bq/kgの場合、40%(3)27~37Bq/kgの場合、35%(4)38~74Bq/kgの場合、20%(5)74~100Bq/kgの場合、15%と、内部被曝が多いほど下がってゆく。不整脈に関しては、元々あった遺伝的因子がセシウムで拡大する。30Bq/kg以上になると代謝異常が起こってくる。内部被曝が45.5Bq/kgしかないのに心疾患で突然死した43歳男性の例もあった。

 (心臓以外の臓器異常としては)腎不全が特徴的。腎臓障害により次第にセシウムが尿として排出されなくなり、ホルモン異常に結びついてゆく。同時に複数の臓器が障害となり、子どもを中心に突然死することが多い。25Bq/kgから病変が出て、50Bq/kgでは深刻な障害が発生する。

4.質疑応答
Q.放射能の体外への排出にペクチンがいいと言われている。ペクチンの効果は。
A.ペクチンは、利用できるとしても短期間であり効果的ではない。それよりも汚染されていない食品を摂ることの方が大切である。私がペクチンに期待できないと考える理由は、(排出にばかりとらわれて、)安全な食品を摂るという最も大切な基本に触れない解決方法に見えるからである。

Q.すべての食品にベクレル表示をすることに意義はあると考えるか。また、適切な基準はどのくらいか。
A.ベラルーシの規制値は甘過ぎる。蓄積するセシウムは少量でも危険であり、ベクレル表示をすることは、しないよりは有意義であると思うものの、汚染された食品を流通させないことのほうが大切である。

Q.安全にしきい値がないことはわかるが、そのことを理解した上で「必要悪」として基準値を設けるとすればどのくらいまで認められるか。
A.いくらまで安全と言うことは自分の信念に反する。できるだけ減らすように、としかいえない。近々、汚染地域に住む人々に役立ててもらうため、本を出版する予定だ。

Q.セシウムで白内障が増えると聞いたが、眼への影響は。
A.子どもの場合、50Bq/kgで白内障が30%増えるというデータが得られている。特徴的なのは、白内障の子どもには(眼以外にも)様々な老化現象が見られることだ。通常はお年寄りにしか見られない現象が子どもに見られる。私が1996~97年に1000人規模で子どもの調査を行ったゴメリ州ヴェトカ地区では、調査対象の児童はほとんど死亡してしまい、15年後の今日、生存者は数名のみ。以前、調査対象だった児童に成人後会ったが、「私のクラスで生き残ったのは男子は自分ひとり、女子も2~3人です」と言っていた。地元の医師は誰ひとりとしてこの数字を認めようとしない。あまりに衝撃的すぎるからだ。

Q.甲状腺ガンが発生するまでの間、典型的に見られる症状があったら教えてほしい。
A.はっきり「これが放射能と関係がある」というのは難しい。3ヶ月に1回程度、検査、特に甲状腺超音波検査を受けるのがよい。今後、セシウムは体に入れないようにしてほしい。汚染食品を流通させない運動が日本ではすでに市民レベルで始まっていると聞いているが、そのような社会運動を続けてほしい。

Q.東京からの避難者の子どもからも20mm程度の甲状腺のしこりが見つかった例が報告されている。日本政府は「この程度のしこりは問題がない」と言っているが。
A.大きさで判断はできない。小さくても悪性になることもあるし、その逆もある。私は、自分がこの仕事をするために妻と子どもを連れてゴメリに赴任した。結果として妻はガンの手術を受け、子どもも危険にさらすことになったが、皆さんはそのようなことをしてはならない。ガンになってから手術するのではなく、そこに至るまでに適切な治療をすることが大切。福島にそのための診療所を作る必要がある。チェルノブイリでも、イタリアの市民団体が(診療所作りに)協力した。遠慮せず、国際的協力を受け入れる方がよい。

Q.この状態で今後も仙台市内、宮城県内に住み続けてよいか。
A.安全な食品だけを摂り続けることができるならギリギリ残ってもよいと思われるが、地元産の食品しか食べられないならかなり危険な水準だ。妊婦、子どもについては〔たとえばそれが自分の家族や友人の場合〕私なら危険は冒さない〔避難させる、という意味〕。とはいえ、これだけの規模を持つ都市を全避難させることはかなり非現実的であり、行政は避難になど踏み切れないだろう。最後は皆さんひとりひとりで住み続けるか、他の汚染されていない地へ移るか決めてほしい。

Q.最後に、日本の皆さんにメッセージを。
A.大切なのは汚染されている食品を摂らないこと。1人で動くのではなく、みんなで団結して行動し、国や自治体に汚染食品の流通を禁止する措置をとらせることが必要である。

5.バンダジェフスキー氏、退場。以降、木下黄太氏が補足説明
 仙台市内は、「放射能防御プロジェクト」による土壌調査の結果、平均で500Bq/kg程度の汚染。宮城県内は平均で1000Bq/kg程度〔この数値には、宮城県内で最も汚染が激しい県南部(丸森町など)を含んでおらず、県南部を含めればもっと高くなる可能性が高い〕の汚染である。仙台市内だけ他の宮城県内より汚染の度合いが低い理由は、放射能流出が激しかった昨年3月15~21日の間に仙台市内だけ雨、雪が降らなかったためである。山形県内は、土壌調査に協力してくれる人がなかなか見つからず、調査は2~3か所しかやっていないが、その少ない調査結果からいえることは、山形市や米沢市の汚染は仙台市内よりひどいということである〔意外な結果に会場からどよめき〕。

 東北では秋田が汚染が少なく、避難先としてはひとつの有力な選択肢ではないか。岩手は、県南部(一関市など)と県北部(盛岡以北)のの両端がやられ、県中央(花巻市など)が汚染が少ない。東京から西では、浜松あたりまで行けば大丈夫。西日本は汚染されておらず、ヨーロッパよりもきれいなくらい。これが土壌調査の結果から見えてきたことである。

6.講演を聞いて(感想)
 今回、講演会の予約受付がインターネットのみだったせいか、会場は若い人が多かった。他の会場を見ていないのでこれが仙台特有の傾向か全体的なものかはわからないが、全体の半分は若い人、その3分の2は女性という感じで希望が持てる。若い人だけに限っていえば、東京よりも仙台のほうが危機感を持っている感じがした。

 バンダジェフスキー氏は、「ベラルーシでは1960年代以降の汚染と、チェルノブイリでの汚染が重なってこれだけ健康被害が出た。日本ではこれほどの健康被害にはならないのではないか」と楽観的な見通しだったが、大気圏内核実験の影響は地球全体に及んでおり、ベラルーシでの健康被害が大気圏内核実験+原発事故の相乗効果であるとすれば、核実験の影響を受けている日本でも楽観は決してできないというのが率直な感想である〔バンダジェフスキー氏は初来日であり日本の事情に疎いまま発言している部分もある〕。

 いずれにしても、「外部被曝より内部被曝が重要」「日本の食品基準値は容認できない」「食品を測定し、汚染を明らかにし、汚染のひどい食品を摂ることを可能な限り避けること」を目標として活動してきた日本の市民運動、反原発運動の方向性が全く正しいことが明らかになった。

 興味深いのは、心血管疾患の人口あたり発症率が、ベラルーシ、ロシア、エストニア、リトアニア、ウクライナ、ポーランド、イギリス、ドイツ、スウェーデンの順に多いこと、すなわち事故や放射能汚染に関する情報の公開度が高い国ほど発症率が低く、情報公開度の低い国ほど発症率が高い、という事実が明らかにされたことである。この点でいえば、政府・原子力村から正しい情報が何ひとつ出てこない日本は、このまま推移すればベラルーシ並みの悪夢を招きかねない。情報をしっかり公開させること、出てこないのであれば市民がみずから調査して正しい情報を発信していくことが今後の最重要課題であると考えられる。

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福島で「原発事故告訴団」結成集会

2012-03-19 23:09:04 | 原発問題/一般
福島第1原発事故 国や東電告訴団結成--いわきで80人/福島(毎日)

上記報道の通り、福島で国や東電の責任を問い、告訴するための結成集会が開催された。なお、結成集会の模様は告訴団のサイトで見ることができる。

なお、「福島原発事故の責任をただす!告訴宣言」の宣言文は、主催者団体からの依頼を受けて、当ブログ管理人が起草した。リンク先からも読むことができるが、以下に全文を示す。

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「福島原発事故の責任をただす! 告訴宣言」

 福島原発事故から1年を過ぎた今なお、事故は全く収束せず被害は拡大の一途をたどっています。美しい自然と豊かな生命をたたえたふるさと、何ものにも代え難い共同体を失った私たちは、地域社会の分断という重荷を背負い、いつ終わるともしれない苦難の中にいます。

福島原発事故は、すでに日本の歴史上最大の企業犯罪となり、福島をはじめとする人々の生命・健康・財産に重大な被害を及ぼしました。原発に近い浜通りでは、原発事故のため救出活動ができないまま津波で亡くなった人、病院や福祉施設から避難する途中で亡くなった人、農業が壊滅し、悲観してみずから命を絶った農民がいます。

 このような事態を招いた責任は、「政・官・財・学・報」によって構成された腐敗と無責任の構造の中にあります。とりわけ、原発の危険を訴える市民の声を黙殺し、安全対策を全くしないまま、未曾有の事故が起きてなお「想定外の津波」のせいにして責任を逃れようとする東京電力、形だけのおざなりな「安全」審査で電力会社の無責任体制に加担してきた政府、そして住民の苦悩にまともに向き合わずに健康被害を過小評価し、被害者の自己責任に転嫁しようと動いている学者たちの責任は重大です。それにもかかわらず、政府も東京電力も、根拠なく「安全」を吹聴した学者たちも誰一人処罰されるどころか捜査すら始まる気配がありません。日本が本当に法治国家かどうか、多くの人々が疑いを抱いています。

生命や財産、日常生活、そして「健康で文化的な最低限度の生活」さえ奪われた今、すべての人々がそれを奪った者への怒りを込めて、彼らの責任を追及し、その罪を認めさせなければなりません。そのために、最も深刻な被害を受けている福島でまず私たちが立ち上がり、行動しなければなりません。告訴団を結成した理由もここにあります。

 私たちは、彼らに対する告訴を福島地検で行うことを決めました。自分たちも放射能汚染の中で被曝を強要されながら存在しなければならない矛盾、逃れられない厳しい現実を背負う福島の検察官こそ、被害者のひとりとして、子どもを持つ親として、この事故に真摯に向き合うべきだと考えるからです。

 私たちは、自分たちのためだけにこの闘いに踏み出すのではありません。日本政府は、あらゆる戦争、あらゆる公害、あらゆる事故や企業犯罪で、ことごとく加害者・企業の側に立ち、最も苦しめられている被害者を切り捨てるための役割を果たしてきました。私たちの目標は、政府が弱者を守らず切り捨てていくあり方そのものを根源から問うこと、住民を守らない政府や自治体は高い代償を支払わなければならないという前例を作り出すことにあります。そのために私たちは、政府や企業の犯罪に苦しんでいるすべての人たちと連帯し、ともに闘っていきたいと思います。

 この国に生きるひとりひとりが尊敬され、大切にされる新しい価値観を若い人々や子どもたちに残せるように、手を取り合い、立ち向かっていきましょう。

 2012.3.16
 福島原発告訴団結成集会参加者一同

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東日本大震災から1年~あのとき、職場で何が起こっていたか?

2012-03-18 12:49:46 | 鉄道・公共交通/交通政策
以下の投稿は、東日本大震災から1年を迎えるに当たり、ある東京メトロ職員から私に寄せられたものです。公共交通であると同時に、災害時には重要な社会資本、復旧活動の拠点として機能しなければならないはずの地下鉄で何が起きているのかがよくわかるので、ご本人の承諾を得て掲載します。

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去る3月11日、東日本大震災から1年を迎えました。1年経っても一向に進まない東北現地の復旧、復興の糸口すら見えないことに苛立ちを覚えます。

震災当日、私は職場にいました。その時の報告を交えながら、少し意見を附したいと思います。

私の勤務しております東京都交通局は石原慎太郎都政誕生から今日までの4期16年+α、行政改革の名のもとに行政改「悪」を強行してきました。今なお進行中です。また、一時期には「行革110番」なる都議会一人会派があり、石原都政を影で支え、交通局だけではなく、総務局、水道局、旧清掃局(環境局)、当該の都議会などにもメスが及びました。

確かに、私が入局した1988年当時、私が職場を見渡しただけでも無駄なモノや無駄なコトはたくさんあったように思います。それは、モータリゼーションの発達で路面電車が撤去されたことにより、職場を追われた電車運転手や電車車掌が国鉄の分割・民営化と同じように「余剰人員」とされ、都の現業職は勿論、特別区などへ配転させられたり、同じ車へんとは云え全く畑違いの地下鉄への職種転換を強いられてきたことによります。

当時はこの膨れあがった職員が、自然淘汰(「大量退職」)されるのを当局もただ黙って待っていると云う状態でした。

私の配属された駅の当時の一日の平均乗降客数は乗車、降車ともに2万人弱、両方でおよそ4万人、現在もさほど変わっていません。なお、現在は他駅への異動を経て、再び最初に配属された駅で勤務しています。

入局した当時、駅全体で20名ほどの人員が配置されていたように記憶していますが、その中で20歳の私を含め、青年部員は僅か6名しかいませんでした。このため、宿泊勤務のときにはなかなか他の青年部員とは一緒になれず、いつも50を過ぎた先輩方の中にポツンと置かれていました。でも、先輩方には自らの子供のように接して可愛がって貰っていたことを今も懐かしく思い出します。

今(本メール作成中)は休憩時間中ですが、ホーム(ラッシュ時間帯のみ)及び改札を担当する係員は二人しか配置されていませんので、一人は改札で執務していますし、助役は駅長事務室にて待機しています。よって、休憩室には私しかいません。休憩と云っても、責任者の助役を含め、たった三人しかいませんから非常時には飛び出して行けるように、いつも待機を強いられます。

私が入局した当時は東京のどこの鉄道会社の改札口も自動化されておらず、パチパチと切符に挟みを入れていたため、それなりの人数を要し、よって常に複数の者が休憩や待機をしていました。誰もがのんびりとした時間を過ごしていたように思えます。

傍から見ると待機者が多い=効率が悪い、仕事をしていないと思われがちです。石原も橋下もそれが無駄だと言ってきましたし、今でも言っています。それがとんでもないと切り捨て、切り詰めています。

私が入局した24年前の1988年当時、職場の1日の出勤者は始発担当助役1、終車担当助役1、始発担当係員1、食事当番係員1、終車担当係員2の計6名が宿泊勤務(24時間)、加えて朝ラッシュ対応係員1、夕ラッシュ対応係員1の計2名が日勤勤務の総員8名が執務にあたっていました。

ところが、現在では人減らし合理化が進み、終車担当助役1、終車及び始発担当再任用助役1(夜10時~朝6時半、仮眠僅か2時間半で1人あたり月10回勤務=身体ボロボロ、現職死亡当駅だけで2名)、始発担当係員1、終車担当係員1の総員僅か4名(深夜時間帯以外は3名)体制です。現在での改札での執務内容は、改札機、券売機、定期券発行兼用機、ICチャージ機、精算機の監視に加えて、窓口での旅客対応、更にエレベータ・エスカレータへの応対(緊急停止などがあった場合の再起動などの対処やインターホンでのやりとり)などをラッシュ時間帯を含め全時間帯を1人でみると云う超多能工化しています。

このため、一度、事故が起これば総出(と言っても3人、4人しかいませんが)で処理にあたり、休憩なしの3時間、4時間ぶっ続けで喋りっぱなし、案内しっぱなしです。そんな折、「無駄」を切り捨てたことがどんなに安全・サービスを低下させる結果を招いたか、思い知らされる出来事が起きました。昨年の東日本大震災です。

震災当時、終車担当助役は収入金を納めるため駅務区へ行っていて不在でした。このため、改札には1名の係員が通常の勤務をこなし、私が駅長事務室で待機(電話番や車椅子の方の対応待ち)していました。

私はテレビの国会中継に見入っており、そんなとき突然、画面に「緊急地震速報」が入りました。(また東北で地震かぁ~)と思いつつ、他人事のように思っていたところ、左右に大きく揺さぶられました。空かさずテーブルの下に潜ったのですが、加湿用にかけてあったヤカンが目に入り、火傷しないように慌ててヤカンを流しへ持って行き、再びテーブルの下に潜りました。あれからどのくらいの時間が過ぎたでしょうか。もの凄く長く感じていました。

幸い駅長事務室内の棚から物が落ちたり、家具類が倒れたりすることはありませんでした。列車は当駅停車中で難を逃れ無事。エレベータ、エスカレータは全て緊急停止したものの、3機あるエレベータ内には乗客がおらず、12機あるエスカレータからの転倒・転落等の事故もありませんでした。

その後は余震が続き、地下鉄は揺れが地上に較べて小さいと云われていますが、耐震基準が阪神淡路大震災並みのマグニチュード7.4までとなっていため、崩落の危険性があり、指令からの指示で全駅で乗客を駅外に避難(どうみても放り出しているようにしか思えませんでしたが)させました。

停車中の乗務員は列車から離れられないため、乗客の誘導は専ら駅係員の二人に託されました。たった二人で、乗客の避難誘導をしなければならない状態って皆さん想像できますか?私は構内放送で乗客に駅外退去を案内します。改札で執務している同僚は乗車券やICカードの処理、一時避難場所などの案内に逐われます。乗客に囲まれている状態です。アレもコレもやらなくてはならず、ヒッチャカメッチャカ、俗に云うお手上げ、もうそれ以上できないんです。やりたくてもやれないんです。物理的に。

改札から乗客がなかなか退去せず手に逐えないとの連絡を受け、二人で乗客の誘導・案内(実質的には追い出し)にあたりました。

あの時、もし列車が走行中で、駅間で緊急停止していたら、エレベータ内に人が閉じ込められていたなら、エスカレータで人が転落、転倒していたなら、車椅子に乗った方がいたならどうなっていたでしょうか?人命第一ですから2名しかいない係員のうち1名はその方に付きっきりにならざるを得ず、もう1名は…それに、負傷者が1名だけ、1箇所だけとは限りません。複数、別々の場所で起こり得ることも考えられす。

こんな少人数じゃ無理、ゼッタイに無理、無謀です。

震災直後、JRが早々と当日の運転取やめを決めシャッターを下ろした中、都営交通では終夜運転を実施しました。乗務員は少し仮眠を取りましたが、駅務員は一睡もせず、ただただ乗客への案内に翻弄させられました。

震災後、当局には御礼や激励のメールが200件以上寄せられたとのことです。後日、駅を統括管理している駅務管理所長(課長級)が、私と同僚の元へ労をねぎらいに訪れましたが、礼なんかいらない!人よこせ!って強く申し伝えました。組合も震災だからってしょうがないよねって言わんばかりで、形式的な要求はしたみたいですが、お茶を濁し、結局は震災の教訓「サービスに人は必要」が全く生かされることなく、配置が見直されることもなく、現在に至っています。

最近、東京直下地震が起こる危険性が指摘されていますが、どうなってしまうのでしょう?東日本大震災のときのように、起こったことはしょうがない、「想定外」を乱発して誤魔化すのでしょうか?

真に「地震に強い地下鉄」を創らなければ。災害が人災になる前に。

東京では都営地下鉄と東京メトロの一元化、大阪では市営地下鉄の民営化が声高に叫ばれています。石原も橋下も民意をバックにやりたい放題やっていますが、公共交通のあるべき姿って、一体何なんだろう?って思います。

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本日の放射能測定値

2012-03-16 22:53:15 | 福島原発事故に伴う放射能測定値
・計測年月日、時間
 2012年3月16日 午後10時10分~10時20分

・計測場所
 福島県 JR新白河駅西口(高原口)

・計測時の気象条件(晴/曇/雨/雪の別及び風向、風速)
 天気:快晴
 風向・風速:南 3m

・計測結果(単位:マイクロシーベルト/時)
(1)新白河駅西口バス停横の土壌地
  大気中(高さ100cm)   0.60
  土壌(高さ10cm)    0.81

(2)新白河駅西口駐車場
  大気中(高さ100cm)   0.46
  舗装路面(高さ10cm)  0.50

<放射線量測定に関するお知らせ>
次の定期測定は、2012年3月22日(木)に実施する。

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「原発いらない! 3・11福島県民大集会」での発言要旨

2012-03-15 21:08:58 | 原発問題/一般
以下は、3月11日、郡山市で開催された「原発いらない!3.11福島県民大集会」での福島県民の発言である。

当事者として、いずれも強く心を揺り動かされる貴重な証言である。特に、まだ高校生の鈴木美穂さんが発した「原発がなければ、津波の被害にあった人を助けに行くことができました。それを思うと怒り、悲しみでいっぱいです。人の命も守れないのに、電力とか経済とかいっている場合じゃないはずです」の訴えを、当ブログは強く支持する。

組織に闘いを代行してもらったり、有名人の名声にすがったりするより、最も理不尽な経験をしているひとりひとりの住民が、当事者として前に出る。どのような闘いでも、そこからしか始まらないのだ。

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*菅野智子さん

 私は小学生の2人の子どもを持つ母親です。3・11、原発事故を境に見には見えない放射能が降り注ぎ、自身や我が子が被ばくし、いずれ、影響が表れるのではないか、という不安がつきまとっていました。毎日、毎日、否応なく迫られる不安…、逃げる・逃げない・・・食べる・食べない、・・・洗濯物を外に干す、干さない・・・子どもにマスクをさせる・させない・・・など、さまざまな苦渋の選択をしなければなりませんでした。子どもたちは、前のように、自由に外遊びができません。学校の校庭で運動もできません。運動会も中止。

 そこで、私たち家族は山形県の米沢市に、同居していたお姑さんと子どもたちと私の4人で自主避難しました。現在は借り上げ住宅に住んでいますが、避難生活は経済的な負担があり、二重生活や住宅ローンが重くのしかかります。仕事の都合で家計を支える父親は福島県に仕事があり、週末だけ子どもたちに会いに来ます。私は精神障害者の施設でいろいろな支援の仕事をしていますので、米沢市から福島まで、毎日、通勤しています。

 子どもたちは2学期から米沢市の小学校に転校しました。「福島から来た子」と、いうことで、いじめに、あうのではないかと心配しましたが、一学期からすでに福島からの転校生もいたり、いじめの事実もなく、二学期からの転校生は十数名いました。学校の先生やお友達に温かく迎えられ、お友達も、あっと間にできて遊びにいったり、来たりしています。外で思いっきり遊ぶこともできます。米沢は雪も多く、生まれて初めての経験もありますが、「楽しい」と嬉しそうに話してくれます。中には学校や環境になじめず、福島に戻られた方もおります。

 子どもたちは不満も言わず、元気に過ごしていますが、原発が無ければ、福島から米沢に来ることも、転校も無かったし、福島の友達と遊べた、米沢は放射能から逃げることも無く、外で遊べる、でも、「福島の方が楽しかった」と時折、さびしそうな顔をします。私たちは福島第一原子力発電所の事故が無ければ福島を離れることはありませんでした。 

 子どもをまもりたいと米沢に来たこと、それでも福島が好きだ、ということ、その気持ちは変わりません。


*菅野正寿さん

 原発から約50キロの二本松で、専業農家をしています。原発事故から一年・・・とりわけ、自然循環と生態系を守り、健康な作物、健康な家畜を育んできた・・・何よりも、子どもたちの命と健康のために取り組んできた有機農業者への被害は深刻です。落ち葉は使えるのか? たい肥は使えるのか? 米ぬかは? 油粕は?・・・改めて、この福島の自然の大切さを感じています。自分の畑にさえ行くことができず、避難を余儀なくされている・・・私たちは、耕したくとも耕せません・・・

 私たちは自然と向き合い、耕し、種をまき、農業の営みを続けてきました。放射線は予想以上に(※有機)農産物への影響を低く抑えることができました。新潟大学の山田教授をはじめ、日本有機農業学会の検証により、粘土質と腐食土の有機的な土壌ほど、作物が健全化されるのが分かってきました。つまり、有機農業が、再生の光、であることが、見えてきました。農業総合センターに有機農業推進室がある、全国的に誇れる、有機農業ケースです。

 見えない放射能を測定して、見える化させることにより、「ああ、これが、孫に食べさせられる」と、どれだけ、農民が安心したか・・・夏の野菜も秋の野菜も、ほとんど0~30ベクレル・・・ただ、残念なことに福島県の特産である梅、柿、ゆず類は300ベクレル以上、キノコ類も菌糸が取り込みやすく、山の原木は、あと、何年、使えないのか・・・経営転換を迫られる農家、離農する農家も出ています。

 1月に農水省が発表した福島県の調査では、98.4%が50ベクレル以下です。500ベクレル以上出た、わずか0.3%が大きく報道されたことにより、どれだけ農民を苦しめているか・・・私たちは、まるで「福島県民が加害者」のような、マスコミの報道に怒りを持っています。マスコミが追及すべきは電力会社であり、原発を国策として押し進めてきた国ではないか?

 私たち人間は自然の中の一部です。太陽と土の恵みで作物が育つように、この自然に真っ向から対立するのが原発です。農業と原発、人間と原発は共存できません。

 戦前、郷土の農民は、農民兵士として戦地で命を落とし、戦後、高度経済成長の下、高速道路に新幹線に、ビルの工事に、私たちの親たちは出稼ぎとして労働力を奪われ、過密化した都市に工業に労働力を供給しました。その構造は持続可能な社会でしょうか?

 福島のきれいな海も約3500年も続いてきた黄金色の稲作業も、まさに林業も漁業も農民の血のにじむような営農の結果なのです。つまり、第一次産業を守ることが、原発の無い持続可能な社会をつくるのではないでしょうか? 

 私たちの親が、そのまた親たちが、30年後、50年後のために山に木を植え、田畑を耕してきたように、私たちもまた、子どもたちのために、この福島で、耕し続けていきたいと思うのです。そして、子どもたちの学校給食に、わたしたちの野菜を届けたい、孫たちに食べさせたい。そのために、しっかり除染をして、放射能を追い出して、耕すことが、福島の、私たち農民の復興ではないかと思っています。

 生産者と消費者を分断するのではなく、都市も農村も、共に力を合わせて、農業を護り、再生可能なエネルギーを作り出して、地場産業を住民主体で作り出していこうではありませんか。

原発を推進してきた、大企業中心の日本の在り方を、今、変えなくて、いつ変えるのでしょうか? 今、転換せずに、転換するのでしょうか? 「がんばろう、日本」ではなく「変えよう! 日本」、今日を、その転換点にしていこうではありませんか?


*佐藤美恵さん

 去年の3月11日、東北沿岸は巨大津波を受け、私の住む相馬町も甚大な被害を受けました。美しかった町の風情は跡かたもありません。私は相馬町で育った漁師の妻です。夫が所属している相馬双葉漁業協同組合は毎年、水揚げが年間70億円あり、沿岸漁業では全国有数の規模を誇っていました。私は、その市場で水揚げした魚をさばき、家に戻りました。その時、あの、地震が起こったのです。

 消防車が「津波が来るので避難してくださ~い」と、巡回していました。私は「本当に津波なんか、来るのかあ?」と半信半疑で遠くの海を眺めると、真っ黒な波がすご~く山のように見えたのです。「駄目だあ、逃げろ~」と息子は子どもを抱き抱え、私は夫と共にやっと高台へ逃げたのです。そこから見た光景はまるで地獄のようでした。その頃、弟は自分の船を護るために必死で船を沖へ出したのです。沖では仲間と励まし合い、津波が落ち付くのを待ち、やっと帰ってこれたのは、3日後でした。しかし、両親は逃げ遅れ、家ごと波にのまれて、帰らぬ人となりました。本当に残念でなりません。

 そして、船を津波から守った漁師たちは、9月になれば、何とか漁に出られると思い、失った漁具を一つ一つそろえ、頑張ってきました。しかし、放射能がそれを許しません。毎週サンプリングして「来月からは大丈夫だろう、船を出せる」と期待しては、だめだ、という暮らしでした。市場は変わり果てた姿のままです。

 元通りになるまでは、まだまだ時間がかかりますが、私たちは1日も早い漁業の復興を望んでいます。現在、漁業者は海の瓦礫清掃に出てています。しかし、夫たちはもう一度、漁師として働きたい、私は市場で夫の取ってきた魚を売る、活気ある仕事がしたいのです。そして、もう一度、あの美味しかった福島の魚を、全国の皆さんに送り届けたいのです。


*菅野哲さん

 私は今、飯館村から福島に避難しています。飯館村では高原野菜を作ってました。しかし、今回の、原発事故で全てを、失ってしまいました。飯館村の農家は、ほとんどが農地も、牛も、全てを、失って、涙を流して、廃業しました。もう、の飯館村で農業を営むことはできないのです。避難しても、何もすることが無いんです。農家は、農業をやることが仕事です。どうやって、生きろ、というのですか? 誰も教えてくれません。

 事故から1年がたちます。飯館村は、去年の3月16日の時点で、44、7マイクロシーベルトです。この高い放射線量の、中に、飯館村村民は、ほおっておかれたんです。被曝をさせられたんです・・・誰の責任ですか? さらには、水道水まで飲まされてきたのです。加えて、学者は・・・国の行政も「安全だ」といってきました。どこに安全があるんでしょうか? これを、どうしてくれるんですか? 答えてほしい。

 国民に、国も、学者も、政治家全てが、正しく教え、正しく道をひくべきであります。死の灰を撒き散らしておいて、「放射能は無主物だ」という(※裁判で東電が主張)・・・何事ですか? 原発事故は天災ではないのです。明らかに人災なのです。

 今は大手電力(会社)が双葉町、相馬町に入っています。「除染」、「除染」・・・歌の文句のようです。私たち暮らしについては、住民の希望は何一つ聞いていません。希望の持てる施策は無いのですか? こんなことで許せますか? 

 まだまだ、長生きでたはずの村の高齢者が、次から次と他界していきます。うちに帰れないで、悲しくも旅立ちます。早く・・・早く、放射能が心配がなくて、元のように美しい村として、安心して、安全で暮らすことができる・・そういう生活の場所を、新しい村を、私たちに建設してください。

 飯館村は放射能汚染です。そこでは暮らせません。新しい所を求めなければならないのです。国も行政も、子どもの健康と若者が未来に希望を持って暮らすことができる、そういう生活ができる、住民の意向を十分に反映した、そういう施策を要求します。

 この悲惨な原発事故を2度と起こしたくありませんし、この事態を風化させたくありません。国民は忘れてはならないんです。

福島県の皆さん、全国の皆さん、特に福島県の皆さん、県民が一丸となって、もっと、もっと、全国に訴えていきましょう!


*鈴木美穂さん

 わたしの地元は郡山ですが、サッカーをしたくて富岡高校に進学しました。寮生活をしながらサッカーに明け暮れ、仲間と切磋琢磨の、充実した生活でした。地震が起きたのは体育の授業中でした。

 避難している時、まさか、原発が爆発するなんて予想もできませんでした。私は、この、震災が起きるまで、原発のことは何も理解していませんでした。避難する時、自衛隊や消防車が次々と、すれ違って行く光景は、現実とは思えませんでした。小さな、黒い包みを配っている人たちがいました。それは、おそらく、安定ヨウソ剤だと思います。配っている様子は、とてもあわただしく、焦っているようで、私は、やっと、事態の深刻さが飲み込めました。

 1号機が爆発し、川口町も危なくなり、郡山まで避難することになりました。送ってくれた先生は泣いていました。先生には原発で働く知人がいるのです。原発事故を終わらせることができるのは、作業員の人たちだと思います。でも、その作業員は私の友人の両親や、誰かの大事な人だったりします。こうしている今も、危険な事故現場で働いている人がいます。そのことを考えると私は胸が痛みます。

 私は転校しましたが、すぐに、学校にもなじむことができました。でも、私は、被災者になりました。被災者ということで、様々なイベントに招待されもしましたが、正直、かえって自分が被災者であることを義務付けられるようで、それが一番、問題でした。「がんばれ」という言葉も嫌いでした。

 時がたつにつれ、原発事故の、人災ともいえる側面が明らかになってきています。原発がなければ、津波の被害にあった人を助けに行くことができました。それを思うと怒り、悲しみでいっぱいです。人の命も守れないのに、電力とか経済とかいっている場合じゃないはずです。

(※昨年)3月11日の朝、私は寝坊して急いで学校に行ったことを覚えています。天気は晴れていて、また、いつものような一日が始まろうとしていました。しかし、その日常に戻ることはできません。線量が高い郡山で、生活し続けることに不安を持っていますが、おじいちゃん、おばあちゃんを置いて移住することはできません。

 私は原発について、何も知りませんでしたが、今、ここに立っています。私たちの未来を一緒に考えていきましょう。


*橘柳子さん

 浪江町は原発の無い町、しかし、原発が隣接する町です。私は敗戦で引き上げて以来、浪江町に住んでいました。現在は本宮市の仮設住宅に入居中です。それまで9カ所の避難所を転々としました。あの原発事故の時の、被災者の多くは、百人いれば百人の、千人いれば千人の、苦しみと、悲しみの物語があります・・・語りたくとも語れない、泣きたくとも涙が出ない、辛い思いを、みんな、抱えています。

 津波で多くの人が亡くなったところは、原発から直線で7キロの距離です。でも、原発事故後の対応のために、外を捜索も出来ずに、消防団をはじめ、救助の人たちは諦めねばならなかったのです。3月11日は「津波による高台への避難指示」、3月12日は、「避難してください」のみの町内放送でした。「なぜ?」が、無かったのです。したがって、ほとんどの町民は2・3日したら帰れるだろう、と思って、着のみ着のまま、避難しました。そこから、そのまま長い避難生活になるとは、どれほどの人が考えたでしょうか・・・

 もっとも・・・町長へも・・・国からも東電からも避難指示の連絡は無かった、とのことです。町長は、「テレビに映ったのを見て初めて知りました」ということでした。なぜ、浪江にだけ、連絡が無かったのでしょう? どこからも連絡が無かったのでしょうか? 原発事故を知らせたくなかったのでしょうか? 疑問です。

 そのため、避難も、また悲劇的です。115号線という道路を避難したのですが、そこは放射線の最も高い所ばかりでした。最初の避難場所には3日間いました。16日に避難場所の変更、携帯電話は一切通じませんでしたから、誰とも連絡がとりようもなく、町の指示で動くしかありませんでした。12日と14日の太陽の光が、チクチクと肌を刺すようだったこのが、今でも忘れられません。

 12日の避難は、私にとって、戦争を連想しました。戦争終結後、中国大陸を徒歩で集結場所に向かいました。今度の事故の避難は徒歩が、車になっただけで、延々と続く車の列と、その数日間の生活は、あの苦しかった戦争そのものでした。そして、私は思いました。国家政策により、二度も棄民されてしまう恐怖です。いつの時も、国策で苦しみ、悲しむのは、罪のない弱い民衆なのです。

 脱原発の運動をした人にも、しなかった人にも、原発があった地域にも無かった地域にも、福島第一原発事故の被害は、くまなく覆いました。そして、不幸と再生の中で、差別と分断を、感じる時があります。見逃すことなく、注意していくことが、今後の課題ではないでしょうか?

「福島は・・・東北は、もっと声を、出すべきだ」と言われます。でも、喪失感のみ、心を覆っているのです。声も出せないのです。健康がすぐれない中で、原因や機構の追及は困難です。しかし、未来に生きる子どもたちのことを考え、脱原発、反原発の追求が生きていくことが唯一の希望かもしれません。

 先の戦争で、子どもたちが「おとうさんやお母さんは戦争に反対しなかった、と?」と、聞いたように、「お父さんお母さんは原発に反対しなかった、ど?」と言うでしょう。地震国に54基もの原発をつくった日本、そして事故により、日々、放射能に汚染され続ける国の子どもの当然の質問だと思います。

子どもたちの未来のために、人類とは共存できない核を使う原発は、いらない、との意思を示すこと、いったん、事故が起これば、放射能を出し続け、その放射能の被害と甚大さは福島原発事故で確認できたはずです。

 この苦しみ悲しみを、日本に限って言えば、他の県の人々には、特に子どもたちには体験させる必要もない。膨大なカネを原発に向けるのではなく、再生可能なエネルギーの開発に向けていくべきです。なぜ、今、原発稼働をするという考えはどこから来るのでしょうか? 他のことを考えることができないほど、原発の影は長―いというのでしょうか?

 でも、立ち止まって考えましょう。地震は止められないけど、原発は、人の意思で、人の力で、止められるはずです。

私たちは、ただ静かに、故郷で、過ごしたかっただけです。長―い間、いつくしんできた地域の歴史も、文化も、財産も我々を守ってきた優しい自然も、少しの豊かさでいい。子どもや自然を大事にした社会こそが望まれます。

 どうぞ、全国の皆さん、脱原発、反原発に関心を持ち、お心を寄せてください。ささやかでいい、確かな一歩を踏み出すために力をお寄せください。そして、もう少しの間、寄り添ってください。危機は、あまりにも深いのです。

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三陸沖、千葉県東方沖の地震について

2012-03-14 23:33:25 | 気象・地震
今日夕方から夜にかけ、三陸沖と千葉県東方沖を震源とする地震が立て続けに起き、それぞれ最大で震度4と5強を記録した。三陸沖の地震では、一時津波注意報も発表された。

どちらも気象庁の会見が行われ、報道発表も行われている。

●平成24年3月14日18時09分頃の三陸沖の地震について

地震の規模はM6.8。地震多発地帯の日本付近でも、3.11以前であれば年に数回レベルのかなり大きめの地震だ。震源深さは約10kmと浅く、発震機構(地震のメカニズム)は南北方向に張力軸を持つ正断層型である。

注目すべきなのは震源の場所が太平洋プレートと北米プレートの境界にきわめて近い点だ。東日本大震災(逆断層型)と発震機構が逆であり、3.11の揺り戻しと解釈することができる。気象庁は表向き、東日本大震災の関連地震とは見ていないようだが、広い意味では関連地震と見ていいだろう。

東日本大震災の揺り戻しである「アウターライズ地震」の発生を懸念するメディア(特に一部の週刊誌)があるが、将来、そのような地震が発生した際、「長い目で見て前兆のひとつだった」と総括されることになる地震かもしれない。その意味で、この地震が発生したことに対しては、少しばかり注意を喚起しておきたい。

●「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」について(第64報)-平成24年3月14日21時05分頃の千葉県東方沖の地震について-

こちらの地震に関しては、報道発表のタイトルが示すとおり、気象庁は明確に東日本大震災の関連地震と位置づけている。地震の規模はM6.3、震源深さは約15kmとこちらも浅いが、この地震のほうが震源が陸に近い分だけ大きく揺れた。発震機構(地震のメカニズム)は「西北西-東南東方向に張力軸を持つ型」とだけあり、正断層型/逆断層型/横ずれ断層型の別を示していないが、「張力軸」という表現が使われていることから考えると、少なくとも逆断層型ではない(逆断層型の場合は「圧力軸」という表現が使われる)。

この地震自体は、プレート境界よりかなり陸側の北米プレート内部を震源としているが、千葉県東方沖は東日本大震災でもほとんどプレート境界が動かなかった海域である。昨年夏頃からプレートの移動に伴う「ゆっくり滑り」が断続的に観測されていることと併せて考えると、いま日本中、いや全世界でも最も地震の危険が高い場所と言ってよい。その地域での地震だけに、こちらも注意深く見守る必要があると思っている。

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